台車砲は機動性確保のため大砲を台車に載せたもの。和鉄の制約から鍛造大筒が発展し、家康が大坂の陣で活用。城郭建築も変化。
日本の戦国時代における「台車砲」という呼称は、特定の兵器モデルを指すものではなく、その運用形態に着目した機能的な分類名である。これは、大友宗麟が導入した舶来の「石火矢(いしびや)」や、国内で製造された「大筒(おおづつ)」といった大型火器を、木製の台車に搭載して戦場での機動性を確保した状態の総称と理解するのが最も的確である 1 。本報告書は、この広義の「台車砲」を軸に、その技術的系譜、戦術的運用、そして日本の戦争様式、特に城郭建築に与えた根源的な影響について、多角的に分析・考究するものである。
1543年の鉄砲伝来は、日本の軍事史における一大転換点であった 2 。火縄銃は瞬く間に全国へ普及し、その国産化も驚異的な速さで進展した 4 。この小火器の革命は、日本の武士階級に火器の威力と有効性を深く認識させ、より大型で破壊力の高い火器、すなわち大砲への関心を喚起する土壌を形成した。本稿で論じる「台車砲」の登場と発展は、この火器革命が個々の兵士が扱う小火器の次元から、攻城戦や海戦の帰趨を決する戦略兵器の次元へと深化していく過程そのものを象徴している。
日本における本格的な大砲の歴史は、1576年(天正4年)、九州のキリシタン大名であった大友宗麟が、ポルトガル人宣教師から複数の大砲を入手したことに始まる 6 。これは、宗麟が積極的に推進した南蛮貿易と、それに伴うキリスト教保護政策の直接的な産物であった。当時、宣教師たちは布教活動の傍ら、鉄砲やその火薬の原料となる硝石といった戦略物資の仲介も行っており、大砲もその一環として日本にもたらされたのである 8 。
この時導入された大砲は、一般に「フランキ砲(仏狼機砲)」と呼ばれる種類のものであった 7 。その構造は、砲身本体を青銅で鋳造し、砲尾の開口部から火薬と砲弾を詰めた「子砲(しほう)」と呼ばれる独立した薬室を挿入して発射する「後装式」を特徴とする 12 。あらかじめ複数の子砲を用意しておくことで、砲口から弾薬を装填する前装砲に比べて高い速射性を発揮できる利点があった。しかし、当時の技術では砲身と子砲の密閉が不完全で、発射ガスが漏洩しやすく、威力の減衰や、時には薬室が破裂する事故も頻発した 12 。この信頼性の低さから、16世紀のヨーロッパでは既に旧式化しつつあったが、火砲技術が未発達であった当時の日本においては、まさに驚異的な新兵器として受け止められた 13 。
宗麟はこのフランキ砲を「国崩し(くにくずし)」と命名し、自身の居城である豊後・臼杵城(丹生島城)の防衛兵器として配備した 7 。その真価が発揮されたのは、天正14年(1586年)に薩摩の島津軍が豊後に侵攻した際の籠城戦である。宗麟は「国崩し」を駆使して島津軍を砲撃し、その凄まじい轟音と破壊力は、攻め寄せる島津兵に甚大な心理的衝撃を与え、撃退に成功したと伝えられている 7 。この「国崩し」という名は、「一つの国をも崩壊させるほどの威力」を誇示するものであったが、一方で家臣の中には「自国を崩す」とも解釈できる不吉な名称として忌避する者もいたという逸話が残っている 13 。現在、この大友宗麟が用いたとされる「国崩し」の実物は靖国神社の遊就館に収蔵されており、臼杵城跡にはその複製が展示され、往時の威容を今に伝えている 7 。
フランキ砲の導入は、日本の大名や兵器職人に「大砲」という新たな兵器カテゴリーの存在とその絶大な威力を知らしめ、国産化への強い動機付けを与えた点で、画期的な出来事であった。しかし、その技術が直接的に日本の大砲開発の系譜に連なったわけではない。むしろ、それは日本の技術者たちに、自らが進むべきではない道を教え、独自の技術開発へと舵を切らせる「触媒」としての役割を果たしたと評価できる。
その理由は二つある。第一に、フランキ砲の主たる材質である青銅は、原料となる銅が国内では高価であり、量産には不向きであった 19 。第二に、より根本的な問題として、ガス漏れを防ぐほどの精密な鋳造技術や、後装式の複雑な機構を正確に模倣するだけの技術基盤が、当時の日本にはまだ十分に備わっていなかった 13 。
この結果、日本の職人たちはフランキ砲の完全な模倣という困難な道を選ぶのではなく、その「威力」という概念に衝撃を受けつつも、製造方法においては自らが最も習熟し、世界最高水準にあった技術、すなわち鉄砲製造で培われた「鉄の鍛造技術」を応用して大砲を大型化するという、全く異なるアプローチを選択することになる。したがって、「国崩し」の歴史的意義は、その技術が直接継承された点にあるのではなく、日本の兵器開発史に「大砲」という新たな目標を設定させ、結果的に独自の技術革新を促した点にこそ見出されるのである。
舶来のフランキ砲とは一線を画し、日本国内で独自に開発された大砲は「大筒」と呼ばれた。その最大の特徴は、ヨーロッパの鋳造砲とは異なり、火縄銃の製造技術をそのまま大型化する形で発展した点にある 20 。これは、銃身を鉄の板で作り、それを熱して叩き締める「鍛造」という、日本の職人が得意とした技法を基本としていた。
この国産大筒開発の先駆者と言えるのが、織田信長である。彼は宣教師との頻繁な会見を通じて西洋の軍事情報に精通しており、その重要性をいち早く見抜いていた 14 。記録によれば、信長は早くも1571年(元亀2年)には、鉄砲の一大生産地であった近江・国友の鉄砲鍛冶に対し、200匁(約750g)もの巨大な弾丸を発射する大筒の試作を命じている 14 。
この大筒生産を支えたのが、堺と国友という二大生産拠点であった。堺は鉄砲伝来直後からその製造に着手し、一大生産地として栄えた 22 。一方の国友も、時の権力者である信長、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、堺と並び称される鉄砲・大筒の供給地へと発展した 23 。これらの生産地では、銃身、銃床、カラクリ(撃鉄装置)など、各部品を専門の職人が分担して製造する「分業制」が確立されており、これが戦国時代の旺盛な需要に応える大量生産を可能にした 23 。国産大筒の開発と生産も、この高度な産業基盤の上に成り立っていたのである。
なぜ日本では、ヨーロッパのように比較的安価な鉄を用いた「鋳造」による大砲製造が主流とならなかったのか。その答えは、日本の伝統的な製鉄法である「たたら製鉄」で生み出される「和鉄」の材質的特性に求められる。和鉄はリンや硫黄といった不純物が極めて少なく、粘り強さに富むため、日本刀のように鍛え上げる「鍛造」には理想的な素材であった 19 。しかしその一方で、鋳造に必要なケイ素などの成分含有量が低いため、溶かして型に流し込む「鋳造」を行うと、冷却時に脆く、発射時の高圧に耐えられず破裂しやすいという致命的な欠点を持っていた 19 。
この材質的な制約が、日本の大砲開発を、世界的にも稀な「鍛造」の道へと決定づけた。それは、日本の刀剣が世界最高峰の切れ味を誇る理由と、まさに表裏一体の現象だったのである。
この困難な鍛造製法による国産大筒開発の頂点に立つのが、徳川家康の命によって生み出された「芝辻砲」である。大坂の陣を目前に控えた1609年(慶長14年)、家康は堺の名工・芝辻理右衛門に巨大な大筒の製造を命じた 20 。その製造法は、鉄の板を筒状に巻き付け、それを幾重にも重ねては赤熱させ、巨大な槌で叩き締めて一体化させる「鍛接(たんせつ)」という、まさに巨大な火縄銃の銃身を作るのと同じ、途方もない手間と熟練を要するものであった 19 。靖国神社に現存する芝辻砲を非破壊検査した結果、砲身が8層もの鉄板を重ねて作られていることが確認されている 18 。
全長約3メートル、重量1.7トンにも及ぶこの巨大な鍛造砲は、日本の伝統的な職人技術の極致を示す象徴的な存在である 14 。しかし、その実用性については議論が残る。完成した砲の内部に歪みがあり、実戦での使用には耐えられなかった可能性も指摘されているのだ 19 。事実、家康は芝辻砲の製造と並行して、イギリスから高性能なカルバリン砲を輸入しており、国産大砲開発の困難さと、当時の最高性能を確保するための現実的な判断を窺い知ることができる 20 。
日本の「台車砲」開発史は、フランキ砲という外部からの刺激を受けながらも、和鉄の特性という国内の資源的・技術的制約によって、世界的に見ても特異な「鍛造大砲」という独自の進化、いわば一種の「技術的ガラパゴス化」を遂げたプロセスとして理解できる。
世界の軍事技術史において、大砲製造の主流は、量産性とコストパフォーマンスに優れる「鋳造」であった。日本はこの主流から、意図せずして外れることとなった。しかし、この「鋳造が困難」という制約こそが、日本の職人たちが持つ世界最高水準の「鍛造」技術を、大砲という新たな分野に応用させる原動力となったのである。葛飾北斎の浮世絵に、数人がかりで巨大な錨を鍛造する様子が描かれているように、日本には古来、巨大な鉄製品を鋳造ではなく鍛造で作り上げる文化と技術の蓄積があった 19 。
芝辻砲の製造は、合理性や費用対効果だけでは測れない、持てる技術のすべてを注ぎ込んで至難の課題を克服しようとする、日本の「職人魂」の結晶とも言える。その結果、日本の大砲はヨーロッパのそれとは全く異なる技術系統樹を形成した。これは単なる技術の遅れではなく、与えられた制約条件下での懸命な「適応進化」の記録であり、日本のものづくりの特性を象徴する好個の事例と言えよう。
名称 |
起源 |
種類(装填方式) |
主要材質 |
製造法 |
特徴・運用 |
長所 |
短所 |
フランキ砲(国崩し) |
16世紀ポルトガル |
後装式 |
青銅 |
鋳造 |
インドのゴア等で製造。子砲(薬室)を交換して装填。大友宗麟が導入。 |
複数の子砲を用意すれば速射が可能。 |
ガス漏れで威力が低く、暴発の危険。青銅は高価。 |
国産大筒(芝辻砲など) |
16世紀後半 日本 |
前装式 |
鉄(和鉄) |
鍛造 |
火縄銃の製造技術を応用。鉄板を巻き重ねて鍛接。堺、国友で生産。 |
国内の材料と技術で製造可能。 |
和鉄の性質上、鋳造できず製造に多大な手間とコストがかかる。品質にばらつき。 |
カルバリン砲 |
16世紀イギリス |
前装式 |
鉄または青銅 |
鋳造 |
長砲身で射程が長い。徳川家康が大坂の陣で使用。 |
高威力・長射程。当時の最高水準の性能。 |
国産化は不可能で、輸入に頼るしかなかった。非常に高価。 |
大筒は、その巨大さ故に数十貫から百貫を超える重量があり、発射時の反動も絶大であった。そのため、兵士が手で抱えて射撃することは事実上不可能であり、安定した射撃のためには専用の台に据え付けて運用する必要があった 20 。この「台」に車輪を取り付けたものが「台車」であり、大筒という兵器に機動性を付与し、戦場での迅速な移動と陣地設営を可能にするための必然的な工夫であった 1 。当時、鉄砲の弾を防ぐための竹束を台車に乗せた「車竹束」といった兵器も存在したことから、台車という運搬具自体は、戦国後期の戦場において広く活用されていたことがわかる 28 。
徳川家康は、大砲を単に保有するだけでなく、その運用法の体系化にも注力した。関ヶ原の戦いに先立っては、国友に大砲を発注すると同時に、射角を精密に調整するための築山(つきやま)や井楼(せいろう)と呼ばれる櫓の設営、そして運搬を担う台車の整備までを一体として計画していた 14 。これは、大砲を単なる威嚇兵器としてではなく、射程や目標に応じて弾薬量を調整し、戦術的に運用しようという高度な意図の表れである。射撃の手順自体は、砲口から火薬と弾丸を装填し、火皿の口薬に火縄で点火するという火縄銃のそれを踏襲していたが、その作業規模は比較にならないほど大掛かりなものであった 29 。
大砲が攻城戦において限定的ながらも投入された初期の例として、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐が挙げられる。この戦いでは、秀吉の水軍が艦船に搭載した大砲を用い、伊豆沿岸の下田城などを海上から砲撃した記録が残っている 30 。しかし、秀吉自身は高松城の「水攻め」に代表されるように、兵糧攻めや調略を好む傾向があり、大砲の破壊力を前面に押し出した戦術を本格的に展開するには至らなかった 14 。
日本の合戦史において、大砲が戦局そのものを決定づけた画期的な戦いは、1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」である。この戦いで徳川家康は、イギリスから購入した最新鋭の長射程砲「カルバリン砲」 20 、そして国友や堺で製造させた国産大筒を含む、百門以上ともいわれる膨大な数の大砲を大坂城包囲網に投入した 14 。
家康はこれらの大砲を城の周囲に計画的に配置し、昼夜を問わず猛烈な砲撃を浴びせ続けた。特に、射程が約6.3kmにも達したと伝わるカルバリン砲は、大坂城からの反撃が届かない安全な距離から一方的に攻撃することを可能にした 20 。この絶え間ない砲撃は、難攻不落を誇った大坂城の天守や櫓を着実に破壊し、城内に立てこもる豊臣方の兵士はもちろん、淀殿をはじめとする女性たちにも深刻な心理的打撃を与えた。最終的に、天守に着弾した砲弾が淀殿の侍女を死傷させたことが直接のきっかけとなり、豊臣方は戦意を喪失し、和議の締結へと追い込まれたのである 20 。
大砲の活躍の場は、陸上の攻城戦に留まらなかった。戦国時代の大型軍船である「安宅船(あたけぶね)」は、船首部分に大筒一門を搭載することが標準的な仕様となっており、海戦における主要な打撃力とされた 34 。これにより、海戦は従来の敵船に乗り移っての白兵戦に加え、遠距離からの砲撃によって敵船の戦闘能力を削ぐという、新たな様相を呈するようになった。
特に、豊臣秀吉による朝鮮出兵「文禄・慶長の役」(1592-1598年)では、日本水軍と朝鮮・明の連合水軍との間で、大筒を含む火器の激しい応酬が繰り広げられた 36 。毛利水軍などが用いた「焙烙火矢(ほうろくひや)」のような陶器製の炸裂弾と共に、安宅船の大筒は海戦において重要な役割を果たした 38 。しかし、朝鮮水軍の亀甲船や、明軍が用いた火砲もまた強力であり、日本側が常に火砲の優位性を保っていたわけではなかったことも指摘しておく必要がある 40 。
徳川家康による大砲の活用は、単に強力な兵器を戦場に投入したという次元に留まらない。彼の真の革新性は、兵器の調達から兵站、陣地設営、戦術的運用、さらには心理的効果の利用までを含めた、一つの巨大な「兵器システム」として大砲を捉え、完成させた点にある。
織田信長は大砲の「可能性」に着目した先駆者であり、豊臣秀吉はそれを「威嚇」や「権威の象徴」として限定的に用いた。これに対し、家康は大坂の陣という具体的な目標達成のために、極めて合理的かつ体系的なアプローチを取った。
第一に、 調達 における合理性である。彼は、性能は未知数ながらも国内で生産可能な芝辻砲の開発を命じる一方で、性能が保証された最高級の輸入品であるカルバリン砲を並行して確保した 19 。これは、開発の失敗リスクをヘッジし、目的達成のために最適な兵器ポートフォリオを構築するという、現代にも通じる戦略的思考である。
第二に、 運用 における体系性である。前述の通り、彼は大砲というハードウェアだけでなく、それを十全に機能させるための台車というロジスティクス、築山というインフラ、そして射角調整というソフトウェア(運用ノウハウ)までを一体として整備した 14 。
第三に、 目的 における複眼性である。彼は大坂城の物理的破壊という直接的な軍事目標に加え、昼夜を問わぬ砲撃によって城内の人々の精神を消耗させるという、心理的な効果を明確に狙っていた 33 。
これらの要素を統合すると、家康が「台車砲」を単体の兵器としてではなく、調達から実戦投入、そして戦後処理(和議の条件設定)までを見据えた一つの巨大な軍事システムとして運用していたことが浮かび上がる。これこそが、彼の天下取りを決定づけた要因の一つであり、先行する信長や秀吉との決定的な違いであった。
大砲の出現と普及は、日本の城郭建築のあり方を根底から覆す、まさに「建築革命」を引き起こした。防御思想そのものが、大砲という新たな脅威への対抗を前提として再構築されたのである。
第一の変化は、 城の立地と基本構造の転換 である。大砲登場以前の城は、防御上有利な山頂に築かれる「山城」が主流であった。しかし、火器を用いた戦闘が一般化すると、政治・経済の中心地から離れた山城は不便であり、また大砲のような重量兵器の運搬も困難であった 42 。そのため、城は次第に都市に近い丘陵や平地に築かれる「平山城」「平城」へと移行していく。そして、従来の土塁では砲撃に耐えられないため、城の防御の要は、高く、分厚く、そして急勾配の「石垣」へと劇的に進化を遂げた。この流れを決定づけたのが、織田信長の安土城であった 42 。
第二の変化は、 城が「撃つための要塞」へと変貌 したことである。城壁には、内部から鉄砲や大筒で反撃するための「狭間(さま)」が無数に穿たれた。矢を射るための縦長の「矢狭間」に対し、鉄砲用の「鉄砲狭間」は、射手の自由度を高めるために円形、三角形、正方形といった多様な形状を持ち、用途に応じて使い分けられた 42 。数は少ないものの、大筒を据え付けるための大型の「大筒狭間」も存在した 44 。また、壁自体も砲弾の直撃に耐えられるよう、内部に小石や瓦を詰めて厚みを増すなどの工夫が凝らされた 45 。
第三の変化は、 より立体的で能動的な防御システムの構築 である。城の防御思想は、単に高い壁で敵の侵入を阻む「受動的防御」から、城郭の構造自体が積極的に攻撃を仕掛ける「能動的防御」へと転換した。城壁を意図的に屈曲させることで、壁に取り付いた敵兵の側面に十字砲火を浴びせる「横矢掛かり」という概念が発達した 46 。その思想を究極の形で具現化したのが「枡形虎口(ますがたこぐち)」である。これは、城門の内外を石垣で四角く囲み、侵入してきた敵兵を狭い空間に閉じ込めて、三方または四方からの一斉集中砲火で殲滅するための、巧妙に設計された殺戮空間(キルゾーン)であった 42 。
ヨーロッパにおいても、大砲への対抗策として、砲撃の死角をなくす幾何学的な「稜堡(りょうほ)」を持つ星形要塞が発達した 50 。日本の城郭は、それとは異なる「高石垣」と「横矢・枡形」という独自のアプローチで、大砲時代に適応していったのである。
戦国末期の三人の天下人は、それぞれ異なる思想で大砲という戦略兵器に向き合った。
織田信長 は、その革新性をもって、誰よりも早く大砲の軍事的価値を見抜き、宣教師を通じて情報を収集し、国産化を試みた技術革新の先駆者であった 10 。
豊臣秀吉 は、大砲を攻城戦で限定的に使用しつつも、むしろその絶大な威力を背景に、朝鮮出兵に参加する大名へ下賜するなど、自らの権威を内外に示すための政治的・外交的ツールとして活用する側面に長けていた 14 。
そして 徳川家康 は、大砲を最も体系的かつ効果的に実戦で運用し、大坂の陣で豊臣家を滅亡に追い込む最終兵器として用いた。しかし、天下統一後は一転して、諸大名による大砲の保有や大船の建造を厳しく制限し、幕藩体制の軍事的安定を維持するための「軍備管理」の対象とした 14 。大砲は、家康にとって天下を獲るための武器であると同時に、泰平の世を維持するために封印すべき力でもあったのである。
戦国時代後期における城郭建築の劇的な進化は、大砲という新しい「矛」の出現に対し、城郭という「盾」が必死に適応し、その防御能力を高めていった結果に他ならない。両者は互いの能力を打ち消し、またそれを上回ろうとする、熾烈な「軍拡競争(アームズレース)」の関係にあった。
この競争のプロセスは以下のように整理できる。まず、大砲という強力な「矛」が登場し、従来の山城や土塁といった「盾」を無力化した 42 。これに対し、城郭側は高石垣や狭間、枡形虎口といった新たな防御技術を開発し、「盾」を強化した 42 。すると今度は、攻城側である徳川家康が、カルバリン砲のようなさらに強力な「矛」を導入し、強化された大坂城という「盾」をも打ち破った 20 。この大坂の陣における徳川方の勝利は、この軍拡競争において、一時的に「矛」が「盾」を凌駕した瞬間を象徴している。この一連のプロセスは、兵器技術の発展が防御施設の設計思想を根底から覆し、新たな建築様式を生み出すという、軍事史における普遍的な「矛と盾の共進化」の典型例として捉えることができる。
戦国時代における「台車砲」の歴史は、16世紀後半の日本が、グローバルな新技術(舶来の鋳造砲)に直面し、それを国内のローカルな技術的・資源的条件(和鉄の特性、高度な鍛造技術)と格闘させながら、いかにして独自の解決策、すなわち「鍛造大筒」を見出していったかの軌跡を示す、技術史の貴重な一断面である。
その存在は、戦国時代の合戦の様相を、個人の武勇や白兵戦が中心の段階から、組織的な火力と兵器システムが勝敗を決する、より近代的な戦争の萌芽へと移行させる上で決定的な役割を果たした。特に、徳川家康による大坂の陣での集中的な砲撃戦は、日本の戦術・戦略史における画期的な転換点であったと言える。
しかし、この熱狂的な開発競争は、豊臣家の滅亡と徳川幕府による「元和偃武(げんなえんぶ)」によって、唐突に終わりを告げる。260年以上にわたる泰平の世(パックス・トクガワーナ)の到来は、内戦という最大の需要を消滅させ、大砲技術を進化させる動機を奪い去った 14 。幕府は厳格な軍備管理政策によって諸大名の武力を統制し、かつて戦場の主役であった大砲とその製造技術は、事実上封印され、停滞の時代へと入っていく 14 。国友や堺の鉄砲鍛冶たちも、その高度な技術を維持・発展させることが困難となったのである 14 。
この長い「技術の眠り」こそが、19世紀半ば、ペリー率いる黒船がもたらした欧米の最新鋭大砲との間に、埋めがたいほどの圧倒的な技術格差を生み出す遠因となった。戦国時代に一度は世界水準に肉薄し、独自の進化さえ遂げた日本の火器技術は、なぜ断絶したのか。その答えは、「台車砲」の歴史の終焉にある。戦国「台車砲」を巡る激しい開発と、その後の静かな停滞は、日本の近世から近代への移行期における光と影を、雄弁に物語っている。