『外療新明集』は鷹取秀次による戦国金瘡医術書。南蛮外科の影響を受け、刀傷治療法を集大成。秘伝から公開知識への転換を示し、当時の医療実態と西洋外科受容の黎明期を伝える。
本報告書は、鷹取秀次による医書『外療新明集』を、単なる一冊の医学書としてではなく、戦国という時代の暴力的現実、技術革新、そして文化交流を映し出す一級の歴史資料として総合的に分析するものである。絶え間ない合戦が日常であったこの時代、武士たちの生と死に直結した「金瘡医術」、すなわち刀傷や矢傷の治療技術は、極めて重要な実践知であった。『外療新明集』は、その最前線で培われた知見を集大成したものであり、本書を深く読み解くことは、戦場の凄惨な実態と、それを克服しようとした人々の知恵に迫ることに他ならない。
戦国時代の医療は、現代の視点から見れば、呪術的な祈祷と経験的な治療法が未分化のまま混在する世界であったとしばしば語られる。しかし、そのような概括的な理解に留まらず、個々の医書や流派を精査することで、より複雑で精緻な実像が浮かび上がる。本報告書が中心的な問いとして設定するのは、以下の二点である。第一に、『外療新明集』は、当時の医療水準の中でいかにして独自の合理性と体系性を獲得し、後世にまで伝えられる価値を持つに至ったのか。第二に、本書に垣間見えるとされる「南蛮外科」の影響とは具体的に何を指し、いかなる経路を経て受容され、日本の在来医術と融合したのであろうか。これらの問いを解き明かすことを通じて、戦国という乱世が生んだ外科医術の光と影を、余すところなく描き出すことを目的とする。
『外療新明集』という書物の来歴をたどることは、戦国から江戸へと至る時代の大きな変化、すなわち医学知識の社会的役割とその伝達様式の変容を理解する上で不可欠である。
国書総目録などの書誌情報によれば、『外療新明集』は複雑な背景を持つ書物であることがわかる 1 。
本書の成立年は天正九年(1581年)と記録されている 1 。これは織田信長が本能寺で倒れる前年であり、日本全土が統一へと向かう激しい陣痛の中にあった時期である。戦場で日々発生する刀傷や矢傷の治療法を集大成したこの実践的な医術書が、なぜ成立から87年もの歳月を経た後、徳川の治世が安定した泰平の世になってから初めて商業出版されたのか。この時間的な隔たりは、医学知識のあり方が根本的に変容したことを象徴している。
戦国時代において、金瘡術のような高度な専門技術は、特定の流派が独占する「秘伝」であった。知識は師から弟子へ、あるいは一族内でのみ口伝や秘書によって継承されるものであり、他流に漏れることは固く戒められた。この秘匿性こそが、流派の権威と存続を支える源泉だったのである。鷹取秀次が『外療新明集』を著した当初の目的も、自らが創始した鷹取流の技術を、一門の後継者のために記録し、体系化することにあったと考えるのが自然である。
しかし、1668年という刊行年が示す社会状況は全く異なる。徳川幕府による支配体制が確立し、大規模な内乱は終息した。武士が戦場で傷を負う機会は激減し、金瘡医術の需要は質的に変化した。一方で、城下町の発展に伴って都市人口が増加し、多様な医療ニーズに応える町医者の数が増えていった。このような状況下で、『外療新明集』の刊行は、かつて戦場で死活的な価値を持った「秘伝」が、平和な時代において、より広範な医師層を対象とした教育的な「商品」へとその性格を転換させたことを意味する。それは、鷹取流一門が独占していた知識が、金銭を支払えば誰でもアクセス可能な公開された知識体系へと移行した瞬間であった。この一点をもってしても、『外療新明集』の出版は、日本の出版文化と医学教育の発展史における、重要な一里塚と位置づけることができるのである。
鷹取秀次は、単に経験豊かな臨床医であっただけでなく、自らの知識を体系化し、後世に名を残す一流派を確立した人物であった。彼の出身地である播磨国という地理的条件が、その革新的な医術の形成に深く関わっている可能性が高い。
鷹取秀次は、『外療新明集』および、それから約20年後に成立した『外療細塹』(がいりょうさいざん、1606年~1610年頃成立) 3 を通じて、その医術を「鷹取流」と呼ばれる一つの流派として確立した 2 。鷹取流は、数ある金瘡医の流派の中でも、特にその先進性によって際立っている。後世の研究者からは、鷹取流の外科書が「多くのヨーロッパ的な影響を認めうる最初の外科書」の一つであると高く評価されているのである 5 。この南蛮外科からの影響こそが、他の伝統的な金瘡医流派と鷹取流とを画する最大の特徴であった。
鷹取秀次が、どのようにしてヨーロッパの医学知識に触れることができたのか。その鍵を握るのが、彼の活動拠点であった播磨国である。戦国時代の播磨は、京都と西国を結ぶ交通の要衝であり、織田、毛利、宇喜多といった諸勢力が激しく争奪を繰り広げた地であった。そして、この地を治めていたのが、黒田孝高(官兵衛、後の如水)であった 6 。
この事実の連鎖を追うことで、南蛮医学受容の蓋然的な経路が浮かび上がってくる。
したがって、『外療新明集』は、単にポルトガル人から教わった技術をそのまま記したものではない。一人の日本の外科医が、戦乱の現場で培った在来の技術を基礎としながら、主体的に外来の新しい知識を選択・吸収し、自らの医療体系を革新しようとした努力の結晶なのである。それは、日本人が西洋医学と本格的に向き合い、それを自らのものとして消化し始めた、まさにその黎明期を記録した貴重な事例と言えるだろう。
『外療新明集』は、観念的な議論に終始するのではなく、戦場で負った傷をいかにして治すかという、極めて具体的な方法論を提示する。その記述からは、当時の外科治療が、儀礼的な側面と合理的な処置とが不可分に結びついたものであったことが見て取れる。
戦傷者の治療は、「金創座敷」と呼ばれる特別に設えられた部屋で行われた。その最大の特徴は、部屋の周囲に注連縄(しめなわ)が巡らされたことである 11 。現代的な視点から見れば非科学的な迷信と断じられがちなこの行為も、当時の医療環境と世界観の中に置いてみれば、複数の機能を持つ合理的な実践であったと解釈できる。
注連縄が持つ機能は、多義的であった。
このように、金創座敷の注連縄は、単なる気休めではなく、心理的、衛生的、社会的な機能を併せ持つ、当時の医療環境における極めて合理的なシステムであったと言える。
金創座敷の中で行われた外科手技は、体内に残った矢を抜き(矢の出)、折れた骨や外れた関節を元の位置に戻し(骨折脱臼の整復)、開いた傷を合わせる(創傷合)といった、戦傷外科の基本からなっていた 11 。特に注目すべきは、創傷を閉鎖する方法である。
16世紀のヨーロッパの外科医が、傷口を針と糸で縫い合わせていたのに対し、当時の日本では全く異なる方法が主流であった。それは、「傷口に膠(にかわ)を塗った紙片を貼りつける」というものであった 14 。この違いは、単に日本が縫合技術を知らなかったという知識の欠如に起因するものではない。むしろ、日本の優れた物質文化を背景とした、積極的な技術選択の結果と捉えるべきである。
その背景には、以下の要因が考えられる。
したがって、膠と紙による創傷閉鎖術は、ヨーロッパの技術パラダイムとは異なる発展経路を辿った、日本独自の合理的かつ洗練された創傷治療法であった。『外療新明集』は、こうした在来技術の集大成としての側面を強く持っていたのである。
鷹取流をはじめとする金創医術の真骨頂は、局所的な傷の処置に留まらない。薬物を用いた全身状態の管理にこそ、その神髄があった。
『外療新明集』の記述によれば、戦傷者の治療において、まず最初に行われるべきは「気付血縛(きつけちばく)」「內藏(ないぞう)」といった興奮性の薬物を投与し、負傷者の生命力、すなわち体力を保持させることであった 11 。これは、近代医学における「外傷性ショック」の概念に先んずる、経験則に基づいた極めて合理的な救命措置であると評価できる。
当時の医師たちは、大量の出血や激しい痛みによって負傷者が意識を失い、急激に衰弱して死に至る(血乱)という病態を、数多の経験から熟知していた 15 。この危機的状況を乗り切るために、彼らは薬物を用いた。特に、麝香(じゃこう)、人参(にんじん)、牛黄(ごおう)、沈香(じんこう)といった、強力な興奮作用や強心作用を持つ生薬から作られた「気付け薬」は、中枢神経を刺激し、心機能を高め、血圧を維持する効果があったと考えられる 16 。これは、まず生命の危機を脱し、その後に外科的な処置を行うという、現代の救急医療にも通じる包括的な治療思想が、既に戦国時代の金瘡医の間に確立していたことを示している。
全身管理と並行して、あるいは処置の後に用いられたのが、各流派が秘伝とした内服薬、すなわち「金瘡薬」である。これらの薬は、止血、鎮痛、化膿防止、組織再生促進など、複数の薬効を併せ持つ総合的な処方であった。戦国時代には、それぞれが独自の秘伝薬を看板とする、多様な金瘡医の流派が存在した 2 。
鷹取流もまた、独自の処方体系を持っていたと推測されるが、その詳細な内容は『外療新明集』の本文を精査する必要がある。彼らが活動した当時の医療界における競争環境を理解するため、主要な流派を比較すると以下のようになる。
表1:戦国期における主要金瘡医流派の比較
流派名 |
主要人物/拠点 |
代表的な内服薬 |
技術・思想的特徴 |
主要文献 |
鷹取流 |
鷹取秀次 (播磨) |
(本書に記載の処方) |
金瘡術の集大成。南蛮外科の影響が見られる。儀礼と実践の融合。 |
『外療新明集』 1 , 『外療細塹』 3 |
善鬼流 |
(不詳) |
白朝散 2 |
白朝散を総合的な処方として用いる。四物湯などが処方の基礎となっている 2 。 |
『金瘡秘書』など 15 |
伴越前流 |
(不詳) |
太白散 2 |
太白散の使用を特徴とする。 |
15 |
尼子流 |
(出雲・尼子氏伝来か) |
白朝散、太白散、安全愈傷散 2 |
複数の代表薬を持ち、折衷的な性格を持つ可能性がある。 |
15 |
この表が示すように、当時の金瘡医の世界では、各流派が「秘伝の薬」を自らの権威の源泉としていた。その中で鷹取流は、独自の薬物療法に加え、「南蛮外科」という新しい技術と思想を付加価値とすることで、他流派との差別化を図り、その独自性と先進性を打ち立てようとしたのである。
『外療新明集』の歴史的価値を正しく評価するためには、同時代の他の医療、特に当時の医学界の主流であった内科医術との比較、そして南蛮外科との関係性をより深く考察する必要がある。
鷹取秀次が戦場で外科医術の腕を振るっていたのとほぼ同時代、日本の医学界の頂点に君臨していたのが、内科医の曲直瀬道三(まなせ どうさん、1507年~1594年)であった 5 。彼の存在と鷹取秀次を対比させることで、戦国時代における医療の専門分化と、それに伴う社会的・学問的地位の明確な差異が浮き彫りになる。
曲直瀬道三は、足利将軍や織田信長、豊臣秀吉といった最高権力者の侍医を務め、当代随一の名医として絶大な権威を誇った 18 。彼は、当時最新の中国医学であった李朱医学を日本に導入した田代三喜に師事し、それを日本の実情に合わせて発展させた 20 。特に、患者を多角的に診察し、その結果に基づいて治療方針を決定するという診断体系「察証弁治(さっしょうべんち)」を確立した功績は大きい 19 。さらに、京都に医学校「啓迪院(けいてきいん)」を設立して数多くの門人を育成し、「日本医学中興の祖」と称されている 18 。
この二人の医師を比較すると、当時の医療界の二重構造が見えてくる。
この対比は、戦国時代において、学問を背景とする「内科医」と、実践技術を本分とする「外科医」との間に、明確な専門分化と社会的階層化が存在したことを示している。『外療新明集』は、まさに後者の立場から、現場のリアリティを伝えるために書かれた、極めて貴重な記録なのである。
本報告書で繰り返し指摘してきたように、鷹取流と『外療新明集』の最大の特徴は、南蛮外科からの影響である。では、その「ヨーロッパ的な影響」とは、具体的にどのようなものであったのか。
その影響は、特定の薬剤や珍しい器具の導入といった表層的なレベルに留まらなかった可能性が高い。むしろ、合理的な創傷管理の考え方、人体の構造に関する解剖学的な知識の断片、あるいは客観的な予後判定の試みなど、より根本的な医学思想のレベルにまで及んでいたと推測される。しかし、その知識伝播には大きな限界があったことも事実である。16世紀の日本には、南蛮外科の体系的な教科書が翻訳・紹介されたわけではない。知識は、主にイエズス会宣教師らの個人的な医療活動を通じて、断片的かつ実践的に伝えられた。
17世紀初頭に書かれた山本玄仙の『萬外集要』は、その状況をよく示している。この書物も南蛮外科について触れているが、その内容は断片的であり、著者自身が「南蛮人の外科術についてこの程度しか紹介できていない」と述べている。これは、キリシタン弾圧の強化によって日欧間の自由な文化交流が妨げられ、西洋医術の正確で体系的な理解が極めて困難になっていた当時の状況を物語っている 24 。
この事実を鑑みると、『外療新明集』が成立した天正九年(1581年)という時代が、いかに稀有なものであったかがわかる。それは、1549年のフランシスコ・ザビエル来日以降、キリスト教の禁教令が厳格化されるまでの、日本とヨーロッパの文化交流が比較的自由に行われた、束の間の「窓が開かれた時代」であった。鷹取秀次は、この好機を捉え、一人の日本人医師として外来の知識を主体的に消化・吸収し、自らの医療体系を革新しようと試みたのである。
『外療新明集』は、その創造的な試みの結晶であった。それは、後の出島オランダ商館を通じた「紅毛流外科」の導入や、さらに下って杉田玄白らによる本格的な「蘭学」へと繋がっていく、日本における西洋外科受容史の、まさに「黎明期」を照らし出す、かけがえのない歴史的ドキュメントなのである。
本報告書で行ってきた多角的な分析を通じて、鷹取秀次の『外療新明集』が、単なる戦国時代の外科マニュアルという枠を遥かに超えた、豊かな歴史的意味を持つ書物であることが明らかになった。
第一に、本書は、絶え間ない暴力が日常であった戦国の世において、人々の生命を救うために培われた実践的知恵の集大成である。金創座敷の儀礼に見られるように、神仏への祈りと合理的な処置が共存する当時の世界観を色濃く反映している。
第二に、本書は、日本と西洋という二つの異なる文明が本格的に出会った瞬間に生まれた、創造的融合の産物である。鷹取秀次は、在来の金瘡術を基礎としながら、南蛮からもたらされた新しい医学知識を恐れることなく取り入れ、自らの技術を革新した。その先進性は、同時代の他の医術流派と一線を画すものであった。
第三に、本書の成立と刊行の間に存在する87年間の歳月は、日本の社会と文化の劇的な変容を物語っている。戦場で価値を持った「秘伝」の技術が、平和な江戸時代において、誰もが学べる「公開された知識」へと姿を変えていく過程は、医学の社会史における重要な転換点を示している。
鷹取秀次は、一介の戦場外科医に留まらず、時代の変化を敏感に察知し、異文化の知識を主体的に受容した革新者であった。彼が体系化した鷹取流外科は、戦乱の時代を生き抜くための実践的な技術として数多の武士たちを救い、その精髄が込められた『外療新明集』は、後世に伝えられることで、江戸時代以降の日本の外科医学の発展に、確かな礎の一つを築いた。この書物を紐解くことは、戦国武士が負った傷の痛みと、それを癒そうと奮闘した一人の医師の情熱、そして時代の大きなうねりに触れることに他ならないのである。