安国寺肩衝は南宋時代の最高級茶入で、戦国期は政治的象徴。細川三斎が執着し、江戸期には飢饉救済で売却。現在は五島美術館所蔵の大名物。
本報告書は、大名物「安国寺肩衝」という一つの茶入を主題とし、その美術的価値と複雑な伝来の歴史を徹底的に解明することを目的とする。単なる器物の来歴追跡に留まらず、戦国時代の政治力学、武将たちの美意識、江戸時代の社会経済、そして近代における価値の再発見といった、各時代を映す鏡としてこの茶入を位置づけ、その多層的な意味を総合的に分析する。
「安国寺肩衝」は、その所有者の変遷自体が歴史のダイナミズムを物語る、極めて象徴的な文化遺産である。ある時は政治交渉の道具となり、ある時は民を救うための財源となったその軌跡は、茶道具が単なる趣味の品ではなく、権力、経済、そして思想と分かち難く結びついていたことを雄弁に物語る 1 。本稿では、この器物に付与された豊かな「物語性」こそが、その価値の核心をなすとの視座に立ち、その全貌を明らかにしていく。
「安国寺肩衝」がなぜこれほどまでに時代の権力者たちを魅了し、珍重されたのか。その根源的な価値を、まず美術史的な観点から解き明かす。
この茶入の価値を理解するためには、まずその分類と格を定義する必要がある。
「安国寺肩衝」は、「大名物・漢作唐物肩衝」と分類される 1 。これらの言葉は、茶道具の世界において特別な意味を持つ。
「安国寺肩衝」は、これらすべての条件を満たす、すなわち「中国・南宋時代に作られた、肩の張った形状を持つ、最高級の茶入」であり、その出自からして別格の品であったことがわかる。
「安国寺肩衝」の美しさは、その具体的な造形にこそ宿っている。
天下を自らの力で制御しようとした戦国武将たちが、人間の意図や力を完全に超えた「制御不能な美」の凝縮ともいえるこの茶入に、究極の価値を見出したことは想像に難くない。自らの権力をもってしても作り出せない唯一無二の存在を所有することこそが、彼らにとって最高の権威の証となったのであろう。
「安国寺肩衝」は、茶道具の格付けにおいて最高位である「大名物(おおめいぶつ)」に数えられる 1 。
「大名物」という格付けは、単なる美しさや古さを示すものではない。それは、足利将軍家や高名な茶人といった時の最高権威者たちの審美眼によって価値を保証され、日本の文化史の正統な系譜に連なるものであるという「文化的権威の証明システム」であった。この格付けこそが、「安国寺肩衝」が後世において高額で取引され、政治的な価値を持つに至った揺るぎない基盤となっているのである。
「安国寺肩衝」の価値を飛躍的に高めたのは、その数奇な伝来の歴史である。特に、権力と美意識が激しく交錯した戦国時代から安土桃山時代にかけての軌跡は、この茶入の物語の中核をなす。
本章で詳述する複雑な伝来の歴史を、以下の表にまとめる。
時代 |
所蔵者 |
名称/逸話 |
典拠/備考 |
戦国時代 |
細川幽斎 or 豊臣秀吉 |
有明の茶入 |
諸説あり。秀吉拝領説は『綿考輯録』 2 。当初の名称「有明」の由来は不明 2 。 |
↓ |
細川忠興(三斎) |
当初は好まず、千貫で安国寺恵瓊に売却 2 。 |
『綿考輯録』 |
↓ |
安国寺恵瓊 |
安国寺肩衝 |
本銘の由来 2 。恵瓊は茶の湯を外交に用いた 35 。 |
慶長5年 (1600) |
(徳川家康が没収) |
関ヶ原の戦い後、西軍の恵瓊は処刑され、遺品として没収 21 。 |
『寛政重修諸家譜』 34 |
↓ |
津田秀政 |
小山評定にて、戦功の暁にこの茶入を賜ることを家康に約束させた 2 。 |
『寛政重修諸家譜』、『実紀』 2 |
↓ |
細川忠興(三斎) |
津田の茶会で再会し、執着。強引に持ち帰り、後日金二百枚を贈る逸話 2 。 |
『茶湯古事談』等。小夜左文字の逸話との混同の可能性も指摘 2 。 |
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中山肩衝 |
三斎による再命名。西行の和歌「命なりけり佐夜の中山」に由来 2 。 |
寛永3年 (1626) |
細川忠利 |
領内(当時は豊前小倉藩)の旱魃による飢饉救済のため、金1800枚で売却 2 。 |
寛永期は実際に飢饉が頻発した時代 36 。 |
↓ |
酒井忠勝(庄内藩主) |
老中・土井利勝の周旋により購入 2 。 |
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慶安3年 (1650) |
徳川将軍家(柳営御物) |
忠勝没後、子の忠当が遺品として幕府に献上 2 。 |
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明暦3年 (1657) |
(明暦の大火で被災) |
江戸城内で被災するが、修復される 2 。 |
名物がいかに大切にされたかを示す事例。 |
江戸時代後期 |
松平伊賀守家(上田藩主) |
将軍家より下賜か。藤井松平家から形原松平家への伝来経緯は不明 2 。 |
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大正2年 (1913) |
益田英作(紅艶) |
松平家の売立てにて800円で落札 2 。 |
付属品がなく大名物と見抜けなかった逸話 2 。 |
現代 |
五島美術館 |
益田英作の兄・益田鈍翁のコレクション経由で五島慶太が入手か 2 。現在も同館所蔵 13 。 |
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この時代の茶道具の価値を語る上で、織田信長の政策は欠かせない。信長は、家臣への恩賞として土地や金銀の代わりに名物茶器を与え、さらに茶会の開催を許可制とすることで、茶の湯を政治支配の道具として巧みに利用した 38 。これは「御茶湯御政道」とも呼ばれ、これにより茶器は「一国一城」にも匹敵する価値を持つ、武将にとって最高の栄誉、すなわち権威の象徴へと昇華した 38 。豊臣秀吉もこの政策を継承・発展させ、北野大茶湯などを通じて茶の湯の政治的価値をさらに高めた 33 。この文脈において、「安国寺肩衝」の所有者の変遷は、単なる個人の財産移動ではなく、当時の政治的勢力図や人間関係を色濃く反映した、極めて重要な歴史的事件となるのである。
「安国寺肩衝」の最初の名は「有明の茶入」であったと伝わるが、その由来は不明である 2 。最初の所有者についても、当代きっての文化人であった細川幽斎(藤孝)とする説 2 と、豊臣秀吉が細川忠興(三斎)に下賜したとする説 2 が存在する。
後者の説は、肥後細川家の公式な家史である『綿考輯録』に記されている。それによれば、文禄4年(1595年)、豊臣秀次事件に連座したとの嫌疑をかけられた忠興が、秀吉に召し出された。最終的に疑いが晴れた際、その証として秀吉から「有明といふ御茶入」を拝領したという 2 。この記述は、秀吉が茶道具を政治的恩賞として活用した事実 40 とも符合し、具体的である。どちらの説が正しいか断定は困難だが、いずれにせよ、この茶入がその歴史の始まりから最高権力者と密接な関わりを持っていたことは間違いない。
「有明の茶入」は、その後、細川忠興の手から安国寺恵瓊へと渡る。この時、忠興はこの茶入を「心に不叶(かなわず)」として、代金千貫で恵瓊に売却したと伝わる 2 。
安国寺恵瓊は、毛利氏の外交僧として、織田・豊臣政権との間で重要な交渉を担った人物である 35 。彼は茶の湯にも深く通じており、堺の豪商・津田宗及が主催する茶会に招かれるなど、茶の湯を外交の舞台として積極的に活用していた 35 。彼が千貫という当時としては破格の大金でこの茶入を求めたのは、その美術的価値はもとより、大名物という格が持つ政治的価値を正確に理解していたからに他ならない。諸大名との交渉の席でこの茶入を披露することは、自らの、そして背後にいる毛利氏の格を示すための重要な戦略であったと考えられる 1 。この茶入が「安国寺肩衝」という銘を得たのは、この稀代の外交僧の手にあった時期に由来する。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に与した安国寺恵瓊は敗将となり、京の六条河原で処刑された 21 。彼の所持品はすべて徳川家康によって没収され、その中に「安国寺肩衝」もあった。この茶入は、戦いの勝者から、戦功のあった武将・津田秀政へと下賜されることになる。
その経緯は『寛政重修諸家譜』に劇的に記されている。関ヶ原の戦いの直前、徳川家康が下野国小山で諸将を集め軍議を開いた際(小山評定)、石田三成挙兵の報に家康の機嫌は極度に悪化し、誰もが押し黙っていた。その重苦しい空気の中、津田秀政が進み出て、「これから三成を平らげれば、安国寺恵瓊の道具は自ずと没収されましょう。その中にある肩衝の茶入を一つ私にお与えくだされば、それで茶会を開き、楽しみと致しましょう」と述べた。これを聞いた家康は「それはたやすい望みだ」と応じ、機嫌を直したという 34 。この逸話は、茶道具が戦勝後の恩賞として具体的に交渉の対象となっていた事実を生々しく伝える。また、一触即発の軍議の場で茶の湯の話題を出すことが、場の空気を和らげ、武将たちの心を繋ぐ潤滑油として機能した点も興味深く、茶の湯が彼らの精神世界にいかに深く根付いていたかを示している 38 。
一度はこの茶入を手放した細川忠興(三斎)であったが、運命の再会を果たす。
細川三斎は、千利休の高弟七人(利休七哲)の一人に数えられる、当代随一の教養人であり、気性の激しい武将であった 47 。父・幽斎から受け継いだ和歌や古典の素養に加え、師・利休から学んだ侘び茶の精神を深く体得し、後には武家茶道の一派「三斎流」を興すことになる 50 。
ある時、三斎は津田秀政の茶会に招かれ、そこでかつて自分が手放した「安国寺肩衝」と再会する。年を経て茶人として審美眼が成熟した三斎は、その茶入が持つ真の価値に気づき、手放したことを激しく後悔した 34 。そして、西行法師が詠んだ有名な和歌「年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山」を口ずさみ、その茶入を黙って懐に入れ、持ち帰ってしまったという、彼の激情家としての一面を示す逸話が伝わっている 2 。翌日、三斎は使者を送り、黄金二百枚と時服、酒肴を津田に届けて非礼を詫び、正式に譲渡の承諾を得たとされる 21 。この逸話にちなみ、三斎はこの茶入を「中山肩衝」と改名した 2 。
若き日に「心に不叶」とした同じ器に対し、後年、異常なまでの執着を見せた三斎の心変わりは、単なる気まぐれではない。それは、利休のもとで茶の湯の道を究め、数多の戦場と政治の駆け引きを経験した彼が、器物の表面的な好みを超え、その奥に宿る歴史や品格、すなわち「物語」を見抜く審美眼を獲得したことの証左である。この変化は、戦国武将が単なる武人から、深い教養と美意識を兼ね備えた文化人へと変貌していく過程の一つの縮図と見ることができるだろう。
興味深いことに、この「佐夜の中山」の逸話は、同じく細川家に伝来した名物短刀「小夜左文字」の逸話と酷似しており、混同された可能性が指摘されている 2 。これは単なる記憶違いや誤伝として片付けるべきではない。「小夜(佐夜)の中山」という歌枕は、西行法師という文化的巨人と結びつき、「命懸けの旅路」や「奇跡的な再会」を象徴する、極めて強力な物語的モチーフである。この強力な物語が、それにふさわしい格を持つ名物である「安国寺肩衝」に引き寄せられ、結びついたと解釈することもできる。つまり、器物の価値が物語を呼び、物語がさらに器物の価値を高めるという、共振的な価値創造のプロセスがここに見られるのである。
戦乱の世が終わり、徳川幕府による泰平の時代が訪れると、茶道具の持つ価値もまた変容を遂げていく。「安国寺肩衝」の物語は、この時代の価値観の変化を象徴する新たな局面を迎える。
「中山肩衝」と名を変え、再び細川家の至宝となった茶入であったが、三斎の子・忠利の代に、三度その主を変えることとなる。
寛永3年(1626年)、当時、細川家が治めていた豊前小倉藩(現在の福岡県東部)の領内が、深刻な旱魃による飢饉に見舞われた 2 。寛永年間は、後に「寛永の大飢饉」として知られる天災が全国的に頻発した時代であり、多くの藩が財政難と領民の困窮に苦しんでいた 36 。藩主であった細川忠利は、飢えに苦しむ領民を救済するための資金を捻出するため、苦渋の決断を下す。それは、父・三斎があれほど執心したこの「中山肩衝」を売却することであった。
忠利は老中・土井利勝に周旋を依頼し、この茶入を庄内藩主・酒井忠勝に金1800枚という高値で売却。その代金をすべて領民の救済に充てたという 2 。この決断は、戦国時代とは異なる価値観の出現を象徴する、画期的な出来事であった。父・三斎にとって茶入は、自らの美意識と執着の対象であり、すなわち「個」の価値の極みであった。一方で、息子・忠利にとって茶入は、藩と領民という「公」を救うための代替可能な財産(アセット)となったのである。これは、武士の役割が、個人の武功や名誉を追求する戦人から、藩を安定的に統治し民を安んじる為政者へと移行したことを明確に示している。この茶入の価値は、三斎の「個人の執着」から、忠利の決断によって「公共の資産」へと転換し、さらに次の所有者のもとで「国家の権威」という新たな価値をまとうことになる。
庄内藩の酒井家に渡った「安国寺肩衝」は、その後、幕藩体制の頂点へと至る。
酒井忠勝の死後、子の忠当は慶安3年(1650年)、父の遺物としてこの茶入を徳川将軍家に献上した 2 。これにより、「安国寺肩衝」は将軍家所蔵の器物、すなわち「柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)」となり、その価値は個人の所有物を超え、幕府の権威を象徴する存在となった。これは、大名から将軍への忠誠を示す最高級の贈答品として、茶器が江戸時代においても重要な政治的役割を果たし続けたことを示している。
その数年後の明暦3年(1657年)、江戸市中の大半を焼き尽くした明暦の大火によって江戸城も炎上し、「安国寺肩衝」もこの災禍に巻き込まれ被災した。しかし、奇跡的に破片が拾い集められ、当時の最高技術を駆使して修復されたと記録されている 2 。天下三肩衝の「新田」や「楢柴」が火災後に執念深く修復された例 32 と同様に、この事実は大名物がたとえ物理的に破損してもその歴史的・文化的価値を失わず、国家的な事業として保護・継承されるべき対象であったことを物語っている。この火災からの「再生」は、単なる修理ではない。それは、この器物が持つ価値が物理的な形骸を超えて不滅であることを宣言する、一種の儀式的な行為であった。そして、その身に刻まれた傷や修復の跡は、明暦の大火という歴史的大事件を乗り越えた証として、その来歴に新たな深みを加え、価値をさらに高める結果となったのである。
その後、この茶入は将軍家から信州上田城主の松平伊賀守家へと伝わった 2 。功績のあった大名への下賜品として渡ったと考えられるが、その正確な経緯を示す史料は現存していない。
明治維新により封建体制が崩壊すると、多くの大名家は経済的に困窮し、伝来の宝物を手放さざるを得なくなった。「安国寺肩衝」もまた、新たな時代の価値観の奔流の中に身を投じることになる。
大正2年(1913年)、旧上田藩主であった子爵松平家の所蔵品売立てに、「安国寺肩衝」が出品された 2 。しかしこの時、その由緒を示す箱書きや、名物裂で仕立てられた仕覆(しふく)といった付属品はすべて失われ、茶入は「裸同然」の状態で出品された。そのため、居並ぶ目利きたちも、これがかの大名物「安国寺肩衝」であるとは誰一人として見抜けなかったという 2 。
この時、その素性の知れない茶入に非凡な「景色」と品格を見出したのが、実業家であり、当代随一の大茶人・益田鈍翁の弟である益田英作(号は紅艶)であった。彼は、その真価を見抜き、わずか800円という破格の値段でこの茶入を落札した 2 。さらに後日、奇跡的な逸話が伝わる。別の売立てで旧庄内藩主の酒井家から出品された仕覆三点が、偶然にもこの「安国寺肩衝」のものであることが判明し、数十年ぶりに本体と付属品が再会を果たしたという 2 。
この一連の出来事は、近代における価値評価の二面性を鮮やかに示している。一つは、由緒書や付属品といった「権威のラベリング」が失われると、物の本質的な価値が見過ごされてしまうという危うさ。そしてもう一つは、そうした外部情報に頼らず、器物そのものが持つ美しさや品格を自らの眼で見抜く「審美眼(眼力)」の重要性である。益田英作の落札は、旧来の武家階級に代わって日本の伝統文化の新たな担い手となった近代産業資本家たちの、鑑定眼の勝利を物語る象徴的なエピソードとして語り継がれている。このプロセスは、単なる物の移動ではなく、価値の担い手が旧権力者から新興の数寄者へと移行し、彼らによって日本の伝統文化の価値が「再発見」され、「再構築」されていく近代という時代の縮図であった。
益田英作の死後、そのコレクションの多くは兄の益田鈍翁の手に渡り、その後、東急グループの創設者であり、近代を代表するコレクターである五島慶太の所有となったと推測されている 2 。現在、「安国寺肩衝」は五島美術館(東京都世田谷区)の至宝の一つとして大切に所蔵・公開されている 13 。
これほどの由緒と美術的価値を持ちながら、「安国寺肩衝」は、現在の文化財保護法に基づく国宝や重要文化財には指定されていない 2 。その理由としては、明暦の大火による被災と大規模な修復が、文化財としての「健全性」の評価に影響した可能性や、所有者による申請の有無といった手続き上の問題などが考えられる。
しかし、この法的な指定の有無は、この茶入が持つ歴史的・美術史的な価値を何ら損なうものではない。国宝や重要文化財が、国という近代的システムによる公的な価値認定であるとすれば、「大名物」は、足利将軍家から連綿と続く茶の湯の歴史という、より伝統的で内的なコミュニティにおける権威の格付けである 26 。国の指定を受けていないという事実は、逆説的に、「安国寺肩衝」が近代国家の評価軸に完全には回収されない、独自の歴史的権威性を保持し続けていることの証左と見なすことができる。茶の湯の世界では、国の指定以上に「どの名物帳に記載されているか」「誰が所持したか」という来歴が重視される。その意味で、「安国寺肩衝」は、近代的な評価基準を超えた、生きた歴史の証人としての比類なき地位を保ち続けているのである。
「安国寺肩衝」の歴史は、一つの器物が辿った数奇な運命の記録であると同時に、日本の歴史そのものの縮図である。戦国の世では武将たちの権力闘争と美意識の狭間で翻弄され(有明、安国寺、中山)、江戸泰平の世では藩主の民を思う心によって救済の糧となり(忠利の決断)、幕府の権威の象徴(柳営御物)となった。そして近代には、新たな時代の数寄者によってその価値を再発見され、現代にまでその物語を伝え続けている。
本作品の核心的価値は、その優れた造形美や希少性だけに留まるものではない。細川三斎の激情と執心、安国寺恵瓊の老練な外交、津田秀政の機転、細川忠利の仁政、そして益田英作の慧眼といった、歴代所有者たちの人間ドラマと、彼らが生きた時代の社会状況が、この小さな器に深く刻み込まれている点にある。この豊潤な「物語性」こそが、「安国寺肩衝」を単なる古美術品から、時代を越えて人々の心を惹きつけてやまない不朽の文化遺産へと昇華させているのである。この茶入を掌にすることは、日本の歴史の激動と、そこに生きた人々の息遣いに、直接触れることに等しいと言えよう。