宮王肩衝は、宋代の茶入で、能役者・宮王大夫に由来。朝倉氏、信長、秀吉、家康と天下人の手を渡り、大坂夏の陣の戦功で井伊直孝に下賜され、彦根城博物館に伝わる。
本報告書は、唐物肩衝茶入「宮王肩衝(みやおうかたつき)」について、単なる美術工芸品としての分析に留まらず、戦国時代から江戸時代初期にかけての日本の権力構造、文化、そして美意識を映し出す第一級の歴史的証人として多角的に解明するものである。一つの茶入が辿った流転の歴史は、そのまま時代の変遷の物語であり、その来歴を紐解くことは、歴史の深層を理解する上で極めて有意義である。
「宮王肩衝」の価値は、二つの異なる軸が複雑に絡み合うことで形成されてきた。一つは、その器物自体が持つ絶対的な美、すなわち均整の取れた造形と奇跡的な釉薬の景色である。そしてもう一つが、その来歴が紡ぎ出す物語性、すなわち誰が、いつ、どのような背景でこれを所持したかという歴史的価値である。特に、この茶入が最終的に大坂夏の陣における武功の恩賞として最高の価値を与えられたという事実は、戦国から徳川へと移行する時代の価値観を象徴している 1 。
本報告では、まず器物としての「宮王肩衝」の美的特質を詳細に分析し、次にその銘の由来となった謎多き人物、能役者・宮王大夫を探る。続いて、戦国武将たちの間を渡り歩いた激動の時代、そして徳川政権下で譜代筆頭の至宝としてその地位を確立した経緯を追い、最後に「天下三肩衝」との比較を通じてその独自のステータスを客観的に位置づける。この多角的な視点から、「宮王肩衝」の全貌を徹底的に明らかにしていく。
「宮王肩衝」が「大名物」として最高位に格付けされた根源は、その類稀なる器物としての魅力にある。中国・宋代に作られたとされるこの茶入は 1 、高さ約9.6cm、口径約4.6cm、胴径約6.4cmという小品でありながら、見る者を圧倒する力強さと気品を兼ね備えている 1 。
全体の姿は、肩が丸みを帯びて穏やかに張り、やや撫肩をなす優美な形状を特徴とする 4 。胴は自然な膨らみを持ちつつ、裾に向かって緩やかに絞り込まれ、低い段(円座風)を形成する 5 。この均整の取れた穏やかな造形は、器全体の「静」の印象を決定づけている。
細部を見ると、その作りは極めて精緻である。口造りは捻り返しが強く、その縁は両側から削がれたように鋭い刃先を思わせる 6 。頸(くび)はやや短く、肩に沈み込むような独特の緊張感を持つ 3 。肩際は僅かに面取りが施され、硬質な印象を和らげている 6 。さらに、胴の中央には一本の沈筋(彫り筋)が器の半分ほどを巡っており、これが全体の姿を引き締め、視覚的なアクセントとなっている 4 。底は平らな板起こしで、轆轤(ろくろ)から切り離した際の糸切りの跡が明瞭に残る 5 。
「宮王肩衝」の美しさを決定づける最大の要素は、その複雑で深みのある釉薬の表情、すなわち「景色」である。素地は淡い灰褐色の陶胎で、全体に薄紫を帯びた褐色の地釉が掛けられている 4 。その上から、艶やかな黒飴釉が流し掛けられており、この二重の釉薬が重なり合うことで、予測不可能な紋様を生み出している 4 。
特に賞賛される見所は、正面をなす「なだれ」と裾の「釉溜まり」である。なだれは、肩の下から流れ出した黒飴釉が胴紐の下あたりで一筋に合わさり、裾の近くで止まっている景色を指す 6 。この釉薬の流れは、器の静的なフォルムにダイナミックな「動」の要素を与えている。そして、裾近くの釉薬が厚く溜まった部分は、光の加減で神秘的な青瑠璃色に輝き、この茶入の最も美しい景色と称えられる 6 。
この器の美の本質は、均整の取れた穏やかな器形という「静」の要素と、黒飴釉のなだれや青瑠璃色の釉溜まりといった予測不能な釉薬の景色という「動」の要素が、一つの器の中で奇跡的な調和を保っている点にある。胴を巡る一本の沈筋は、この静と動の均衡を保つ地平線のような役割を果たしており、この絶妙なバランスこそが、数多の茶人や天下人を魅了した根源であったと考えられる。
茶入に冠された「宮王」という名は、この器の来歴に文化的な深みと一つの謎を与えている。この名は、戦国時代に活躍した能役者、宮王大夫が所持していたことに由来するとされるのが通説である 4 。
史料によれば、宮王大夫は和泉国堺を拠点とした人物で、能楽の一流派である金春(こんぱる)流の庶流に連なる役者であった 9 。金春岌蓮(ぎゅうれん)の門人であり、姓は竹田であったと伝えられている 9 。彼は単なる演者ではなく、自らも茶の湯を嗜む数寄者(すきしゃ)であり、高い審美眼を持った文化人であった 7 。
史料上では、「宮王大夫道三」 8 、「宮王三郎大夫」 1 、あるいは『古名物記』に見られる「前宮王大夫」 6 など、その名には若干の揺れが見られる。また、弟の所持であったとする説も存在するが 9 、いずれにせよ宮王姓の能役者がこの茶入の価値を世に知らしめた最初の人物であったことは確かと見られる。
この宮王大夫という人物の具体的な生涯や活動については、残念ながら詳細な記録が乏しい。『古名物記』は彼の所持を記すものの、人物像までは明らかにしていない 6 。また、この茶入が歴史の表舞台に登場するきっかけとなった天正五年(1577年)の松井友閑の茶会を記録した『津田宗及茶湯日記』にも、茶入の来歴として元の所有者である朝倉氏の名は記されているが、宮王大夫に関する言及はない 6 。
通常、名物茶道具には足利義政のような最高権力者や、村田珠光のような大茶人の名が冠されることが多い。その中で、一介の能役者の名が付けられたという事実は、極めて示唆に富む。これは、当時の文化的価値評価の多層性を物語っている。戦国時代の堺は、武士だけでなく豪商や文化人が経済的・文化的な中心を担う先進的な都市であった。その中で、能役者のような専門技能を持つ芸能者も、高い社会的地位と洗練された審美眼を持つ存在として尊敬されていた。
宮王大夫がこの茶入を所持したという事実は、この器が単なる舶来品ではなく、当代一流の文化人によってその真価を見出され、選び抜かれた「本物」であることの権威付けとなった。彼の審美眼そのものが、この茶入に武将の威光とは異なる、風雅で奥深い「物語」を付与したのである。これにより、「宮王肩衝」は武威の象徴であると同時に、幽玄の美を解する者の持ち物という二重の価値を持つに至ったと言えるだろう。
「宮王肩衝」が辿った運命は、戦国時代後期の権力闘争の歴史そのものである。その所有者の変遷を追うことは、そのまま時代の趨勢を追うことに他ならない。
多くの大名物と同様に、「宮王肩衝」も室町幕府八代将軍・足利義政が所有した「東山御物」の一つであったという伝承を持つ 1 。これはこの器の格の高さを物語る由緒であるが、一次史料による確証は難しい。より確実な史料として登場する最初の所有者は、越前の戦国大名・朝倉氏の一族である朝倉九郎左衛門尉景紀(あさくらくろうざえもんかげとし)である 4 。堺の茶人・津田宗及が記した『津田宗及茶湯日記』には、天正五年(1577年)の時点で、この茶入が「あさくら九郎左衛門之所持之壺也」と明確に記録されており、これが史料上の初出となる 7 。
天正元年(1573年)に朝倉氏が織田信長によって滅ぼされた後、この茶入は能役者・宮王大夫の手を経て、信長の側近である松井友閑(ゆうかん)の所有となった 1 。友閑は信長政権下で茶の湯の儀式を司り、名物茶器の蒐集(いわゆる「名物狩り」)を主導した重要人物である 1 。
『津田宗及茶湯日記』には、天正五年から十一年(1583年)にかけて、友閑が主催する茶会でこの「かたつき」が繰り返し披露された様子が克明に記されている 7 。白地の金襴で仕立てられた袋に収められ、四方盆に載せて床の間に飾られるなど、茶会の主役として極めて丁重に扱われていたことがわかる 7 。この時期、「宮王肩衝」は信長政権の文化的権威を演出する重要な道具として機能していた。
天正十一年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、信長の後継者としての地位を固めた羽柴(豊臣)秀吉の元へ、松井友閑からこの茶入が献上された 1 。この頃から「宮王かたつき」という名称が史料に現れ始め、秀吉が主催した「御道具そろえ」で他の名物と共に披露されている 7 。翌天正十二年(1584年)には、完成した大坂城の秀吉の座敷で台子に飾られており、完全に秀吉の所有物となっていたことが確認できる 7 。
秀吉にとって名物の蒐集は、単なる趣味ではなく、武力のみならず文化的にも天下の頂点に立つことを天下に示すための重要な政治戦略であった。「宮王肩衝」を所有することは、天下人たる資格証明の一つであり、その権威の象徴であった。
慶長二十年(元和元年、1615年)、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡する。炎上し、落城した大坂城から、徳川家康が戦利品としてこの「宮王肩衝」を入手した 1 。この出来事は、単に一つの茶入の所有者が変わったという以上の意味を持つ。それは、豊臣家が築き上げた文化的権威の象徴たる名物が、徳川家へと完全に移譲され、新たな時代の幕開けを告げる象徴的な事件であった。
「宮王肩衝」の所有者の変遷は、地方の有力大名(朝倉氏)が独自の文化圏を形成していた時代の終焉、中央集権化を進める信長政権下で文化が政治に深く組み込まれた実態(松井友閑)、そして天下人の文化的権威の確立(秀吉)、最後に徳川幕藩体制の完成(家康)という、戦国後期の権力の移行プロセスを見事に映し出している。
時代区分 |
年代(西暦) |
所有者/関連人物 |
関連する出来事・史料上の記述 |
典拠史料/出典 |
室町時代 |
不詳 |
足利義政(伝) |
東山御物であったとの伝承。 |
1 |
戦国時代 |
天正五年(1577)以前 |
朝倉九郎左衛門景紀 |
津田宗及が松井友閑の茶会で「朝倉九郎左衛門所持の壺」として拝見。 |
7 |
戦国時代 |
不詳 |
宮王大夫(道三/三郎大夫) |
朝倉家から宮王大夫へ伝来。「宮王」の銘の由来となる。 |
4 |
安土桃山時代 |
天正五年(1577) |
松井友閑 |
津田宗及が友閑の茶会で初めて拝見。 |
『津田宗及茶湯日記』 7 |
安土桃山時代 |
天正十一年(1583) |
豊臣秀吉 |
友閑から秀吉へ献上される。秀吉の道具揃えで「宮王かたつき」として披露。 |
1 |
江戸時代初期 |
元和元年(1615) |
徳川家康 |
大坂城落城の際に豊臣家から入手。 |
1 |
江戸時代初期 |
元和元年(1615)以降 |
井伊直孝 |
大坂夏の陣の戦功により、家康から拝領。 |
2 |
江戸~明治時代 |
- |
彦根藩井伊家 |
井伊家代々の家宝として伝来。 |
1 |
大正時代 |
大正十二年(1923) |
井伊家 |
関東大震災の火災を免れる。 |
11 |
現代 |
- |
彦根城博物館 |
井伊家から寄贈され、現在に至る。 |
1 |
徳川の世が到来すると、「宮王肩衝」は権力者の間を渡り歩く流転の運命に終止符を打ち、一つの大名家で永く守り伝えられる「至宝」へとその性格を変える。この変化は、徳川幕藩体制の安定を象徴する出来事であった。
大坂夏の陣において、徳川四天王・井伊直政の子である井伊直孝は、徳川方の主力として目覚ましい働きを見せた。特に元和元年(1615年)5月6日の八尾・若江の戦いでは、豊臣方の猛将・木村重成の部隊と激突し、これを打ち破るという多大な戦功を挙げた 2 。
戦後、大御所・徳川家康は直孝のこの功績を高く評価し、恩賞として名刀「左文字」と共に、大坂城で入手したばかりの「宮王」の茶入を下賜した 7 。当時、城一つにも匹敵するとされた大名物茶入が、武功に対する最高級の恩賞として機能したことを示す典型例であり 14 、「宮王肩衝」の価値が武勲と結びつけられた決定的な瞬間であった。
こうして譜代大名筆頭である彦根藩井伊家の所有となった「宮王肩衝」は、以後、藩祖が将軍家から賜った家の誇りと忠誠の証として、別格の家宝として扱われることとなる 1 。初代彦根藩主となった直孝は、この茶入を取り出す際には必ず正装である袴を着用し、手を清めてから拝見したという逸話が、井伊家の公式記録である『井伊年譜』に伝えられている 7 。これは、茶入が単なる美術品ではなく、井伊家の権威と徳川家への忠義を体現する神聖なオブジェクトとして崇敬されていたことを示している。
江戸時代を通じて、火災などにより仕覆(しふく)や箱といった付属品は失われたものの、本体は歴代藩主によって大切に守り抜かれた 7 。しかし、最大の危機は近代に訪れる。大正十二年(1923年)9月1日に発生した関東大震災である。当時、井伊家の本邸があった東京麹町一帯は火災に見舞われ、邸内の土蔵に保管されていた膨大な美術品や古文書のほとんどが灰燼に帰してしまった。その未曾有の災禍の中、「宮王肩衝」は、後に国宝に指定される「彦根屏風」などごく僅かな宝物と共に、奇跡的に難を逃れたのである 11 。
この下賜を境に、「宮王肩衝」の持つ象徴的な意味合いは大きく変容した。所有者が目まぐるしく変わる戦国時代においては、下剋上と権力闘争のダイナミズム、すなわち「流転」の象徴であった。それが、幕藩体制を支える不動の大名家である井伊家に永く留まることで、徳川の世の安定と秩序、すなわち「永続」の象徴へとその価値を転換させた。そして、関東大震災という近代日本の大災害を生き延びたことは、この茶入に「奇跡の生存者」という新たな物語を付与し、その歴史にさらなる深みを与えた。現在、「宮王肩衝」は井伊家伝来の文化財を収蔵する彦根城博物館の至宝として、その輝きを伝えている 1 。
「宮王肩衝」の歴史的・美術的価値を客観的に評価するためには、同時代に最高峰とされた他の名物との比較が不可欠である。特に、大名物中の大名物とされ、「天下を取るよりも入手が難しい」とまで言われた「天下三肩衝(てんがさんかたつき)」との比較は、その独自のステータスを浮き彫りにする。
天下三肩衝とは、「初花(はつはな)」「新田(にった)」「楢柴(ならしば)」という三つの唐物肩衝茶入を指す 17 。
天下三肩衝が茶入界の「王道」のスターであるとすれば、「宮王肩衝」はそれに匹敵する実力を持ちながらも、独自の個性を持つ存在と言える。
第一に、その来歴、美しさ、格において三肩衝に肉薄する、紛れもない最高位グループの一員である。第二に、「無傷の伝来」という極めて高い価値を持つ点である。「新田」が被災し、「楢柴」が失われた中で、「初花」と共に戦国・江戸の動乱と近代の災禍をほぼ無傷で生き抜いた事実は、物理的な完全性だけでなく、所有者たちの並々ならぬ保護の歴史を物語っている。
そして第三に、「譜代筆頭の至宝」という他に類を見ない個性である。天下人の間を渡り歩いた後、徳川体制を象徴する譜代筆頭・井伊家の家宝としてその後の歴史を歩んだ来歴は、他の三肩衝にはない。それは、中央の権力闘争の象徴から、地方を治める大名の権威の源泉へとその役割を変えたことを意味し、「宮王肩衝」に特有の歴史的奥行きを与えているのである。
唐物肩衝茶入「宮王」は、室町将軍家のコレクションにその源流を持つとされ、戦国の群雄・朝倉氏、信長政権を支えた松井友閑、天下統一を果たした豊臣秀吉、そして江戸幕府を開いた徳川家康という、日本の歴史を動かした主役たちの手を渡り歩いた。その旅路は、一つの工芸品が経験しうる限り、最も劇的なものであったと言えよう。
その価値は、宋代の陶工が生み出した静と動が調和する造形美、能役者・宮王大夫の審美眼によって与えられた文化的な銘、戦国武将たちの欲望と権威の象徴としての役割、そして徳川の世の安定を支えた譜代筆頭大名家の誇りの結晶、さらには近代の大災害を乗り越えた奇跡の物語といった、幾重もの歴史の層から成り立っている。
今日、彦根城博物館に佇むこの小壺は、単なる古い茶入ではない。それは、戦国から現代に至る日本の歴史の激動をその身に刻み込み、後世に伝える「生きた証人」である。我々がこの「宮王肩衝」に見入る時、その黒飴釉の深い輝きの奥に、天下人たちの野望と、それを守り伝えた人々の三百年にわたる想いの軌跡を垣間見ることができるのである。