千利休作の竹花入「尺八」は、小田原征伐の陣中で韮山竹から作られた。寸胴切で花窓がなく、一休和尚の禅の思想に由来する銘を持つ。秀吉との美意識の対立を象徴する。
千利休(1522-1591)が作したとされる竹花入「尺八」は、日本の茶道史、ひいては文化史において、単なる一個の器物を超えた象徴的な存在として語り継がれてきた。その名を巡っては、天下一の茶人であった利休が、天下人たる豊臣秀吉の小田原征伐に従軍した際、陣中にて伊豆韮山の竹を用いて作り、最も意に適ったものとして秀吉に献上したという由来が広く知られている 1 。さらに、この物語は、利休が秀吉の怒りを買い自害を命じられた後、秀吉自身の手によって「尺八」は怒りのあまり打ち壊された、という劇的な結末をもって語られることが多い。この逸話は、絢爛豪華を好む武将的価値観と、静謐な侘びを追求する芸術家的精神との間の、埋めがたい亀裂と悲劇的な破局を象徴する物語として、人々の心に深く刻み込まれてきた。
しかしながら、この「破壊説」は、後世に形成された伝説である可能性が極めて高い。現に、利休作と伝わる竹花入「尺八」は、今日、裏千家今日庵に大切に所蔵されているのである 2 。この事実を起点とするとき、我々は「尺八」という器物を、伝説の霧の中から解き放ち、その実像に迫る必要に駆られる。
本報告書は、この「破壊説」という伝説の検証を一つの軸としながら、竹花入「尺八」という一つの器物を、歴史的、造形的、思想的、そして政治的な文脈の中に位置づけ、多角的に分析することを目的とする。具体的には、第一章で「尺八」が誕生した歴史的背景、すなわち天正十八年の小田原征伐と、同じ竹から作られたとされる「園城寺」「よなが」との関係性を明らかにする。第二章では、「尺八」そのものの形状、意匠、そして銘の由来を徹底的に解剖し、そこに込められた利休の思想を読み解く。第三章では、より広い視野から、わび茶の美学における竹花入の革新性を論じ、利休の「見立て」と創造の精神を探る。第四章では、この花入が象徴する利休と秀吉の美意識の対立を、黄金の茶室や黒楽茶碗といった他の事例とも比較しながら、権力と芸術の相克という観点から深く考察する。そして結論として、「尺八」が後世の茶道文化に与えた影響と、その現代的意義について論じる。
本報告書を通じて、「尺八」は単なる歴史の遺物ではなく、戦国という激動の時代の精神性を映し出し、日本の美意識の根幹を問いかける、静かな、しかし力強いメッセージを放ち続ける存在であることが明らかになるであろう。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉は、関東に勢力を張る後北条氏を討伐するため、二十万を超える大軍を率いて小田原城を包囲した。この小田原征伐は、秀吉による天下統一事業の総仕上げともいえる大規模な軍事行動であり、その歴史的意義は極めて大きい 4 。この長きにわたる陣中に、秀吉は茶頭であった千利休を随行させた 1 。戦という極限状況下において、茶の湯は単なる慰みの域を超え、諸将とのコミュニケーションを円滑にし、士気を鼓舞するための重要な政治的・文化的装置として機能していたのである 6 。利休は、この殺伐とした戦陣のなかにあって、茶の湯の精神を体現する新たな創造活動を行った。それが、伊豆韮山の竹を用いた花入の制作であった。
この創作活動の舞台となったのが、後北条氏方の拠点の一つ、韮山城の周辺である。利休が花入の素材として見出したのは、この地に自生する「韮山竹」と呼ばれる真竹であった 7 。この竹は、当時韮山城にほど近い場所にあった江川家の邸内に生えていたと伝わる 7 。韮山竹の最も特筆すべき特徴は、数十本に一本という割合で、自然に縦の「割れ」が生じる点にある 7 。通常、竹製品を作る上では欠点と見なされるであろうこの「干割れ」あるいは「雪割れ」と呼ばれる亀裂を、利休はむしろ「景色」、すなわち器の個性と美を形成する重要な要素として積極的に評価した。この視点こそ、完璧さや華やかさではなく、不完全さや素朴さの中にこそ深い美を見出そうとする、わび茶の美学の核心を示すものである。利休は、戦の喧騒の中で、この自然が生んだ「傷」を持つ竹に、静謐なる美の世界を見出したのであった。
江戸時代初期に成立した茶書『茶話指月集』をはじめとする複数の記録によれば、利休はこの小田原の陣中において、一本の韮山竹から三つの異なる花入を切り出したと伝えられている 11 。これらは「尺八(しゃくはち)」「園城寺(おんじょうじ)」、そして「音曲(おんぎょく)」(後世、「よなが」と同一視されることが多い)の名で知られ、「韮山三器」として茶道史にその名を刻んでいる。一本の竹という制約の中で、それぞれに全く異なる個性と形式を与えられたこれらの花入は、利休の卓越した創造性と、素材に対する深い洞察力を如実に物語っている。
三器の個性はそれぞれ際立っている。
これら三器の関係性を考察すると、利休の制作意図が一層明らかになる。彼は単に三つの花入を作ったのではない。一本の竹という素材に対し、異なる三つのアプローチを試み、それぞれを独立した美の世界として結晶させたのである。「園城寺」では竹の自然の「傷(割れ)」を物語性へと昇華させ、「よなが」では竹の「構造(節間の長さ)」を造形と銘の根拠とした。これに対し「尺八」は、竹の物理的特徴から一歩離れ、禅的な故事に由来する精神的な価値をその名に冠している。これは、利休が素材を、①物理的特性(園城寺)、②構造的特性(よなが)、そして③精神的・抽象的価値(尺八)という、三つの異なる次元で捉え、それぞれを一つの作品として提示したことを示唆している。この行為は、単なる制作活動ではなく、素材と向き合う深い哲学的探求であったといえよう。
以下の表は、これら「韮山三器」の情報を比較しまとめたものである。
項目 |
竹尺八花入(尺八) |
竹一重切花入 銘 園城寺 |
竹二重切花入 銘 よなが |
形状 |
寸切(ずんぎり) |
一重切(いちじゅうぎり) |
二重切(にじゅうぎり) |
所蔵 |
裏千家今日庵 2 |
東京国立博物館 3 |
藤田美術館 2 |
寸法(高さ) |
約26.2cm 3 |
約33.4-33.9cm 3 |
約45.4cm 3 |
特徴 |
逆竹、一節、花窓なし 1 |
正面に大きな干割れ 4 |
節と節の間が長い 3 |
銘の由来 |
一休和尚の尺八の頌の故事 3 |
園城寺の割れ鐘になぞらえる 4 |
節(よ)が長いこと、夜長 3 |
伝来 |
秀吉へ献上後、伊丹屋宗不所持説 12 |
少庵へ贈られる 4 |
伝承では兵士の竹枕から制作 5 |
三器の中でも、竹花入「尺八」は、その極限まで切り詰められた造形と、深遠な銘の由来によって、利休の美意識と思想を最も純粋な形で体現しているといえる。その簡素さゆえに、かえって豊かな解釈を誘うこの器物を、形状、銘、そして伝来の三つの側面から徹底的に分析する。
「尺八」の造形は、三つの重要な特徴によって定義される。「逆竹」「寸胴切」「一節」である。これらの要素は、単なるデザイン上の選択ではなく、利休の思想的表明と深く結びついている。
まず、「逆竹(さかさだけ)」とは、竹の生育する向きとは逆に、根に近い方を上、梢に近い方を下にして用いる手法である 1 。これは、自然の摂理や物事の常識的なあり方に従わず、それをあえて転倒させるという意志の表れである。利休の弟子であった山上宗二は、利休の茶の湯を「山を谷、西を東と言いなし、茶の湯の法度を破る」と評したが 17 、「逆竹」という手法は、まさにこの既成概念を覆す自由な精神を象徴している。
次に、「寸胴切(寸切)」であり「花窓なし」という点である。これは、竹筒の上下を切り放しただけで、他の多くの竹花入に見られるような、意匠を凝らした窓(花窓)を一切設けていないことを意味する 1 。この徹底した簡素化、装飾の完全なる放棄は、技巧や作為を誇示するのではなく、素材そのものが持つ力、竹という存在の本質をありのままに露わにしようとする意図の表れに他ならない。それは、禅の思想における「無一物」、すなわち何ものにもとらわれず、執着を捨て去った境地と深く通底するものである 18 。
そして、「一節」の存在が、この無作為に見える筒に絶妙なリズムと緊張感を与えている。わずかに残されたこの一つの節は、単調になりがちな筒の形状に視覚的なアクセントを生み出し、全体のバランスを引き締める造形上の要となっている。利休が、自らプロデュースした茶杓において、竹の節を重要な「景色」として意図的に中央に配したこととも共通する美意識がここに見て取れる 20 。この節があることで、「尺八」は単なる竹の切れ端ではなく、一つの完結した造形作品としての品格を獲得しているのである。
「尺八」という銘は、一見すると和楽器の尺八に由来するように思われる。しかし、利休作のこの花入の高さは一尺(約30.3cm)にも満たない約26.2cmであり、標準的な楽器の尺八(一尺八寸、約54.5cm)とは寸法が大きく異なる 3 。したがって、その名称の由来は、より深い精神的な背景に求める必要がある。
伝承によれば、利休自身がこの銘の由来を問われた際、「一休和尚の楽器尺八の頌(しょう)の故事による」と答えたとされている 3 。ここで言及される一休宗純(1394-1481)は、室町時代の禅僧であり、奇行や辛辣な詩文で知られ、既成の仏教界の権威や形式主義に徹底して反抗した「風狂」の人であった 21 。
さらに、楽器としての尺八の歴史を紐解くと、その精神的な意味合いは一層明らかになる。尺八は、禅宗の一派である普化宗(ふけしゅう)において、虚無僧(こむそう)が吹禅、すなわち座禅の代わりに尺八を吹くことで悟りを目指すための法器(ほうき)として用いられた 22 。この法器は「虚鐸(きょたく)」と呼ばれ、その音色は、唐代の禅僧・普化が鳴らしたとされる鐸(たく、大きな鈴)の音を、虚ろな竹管で模したものと伝えられる 23 。つまり、尺八(虚鐸)を吹くという行為は、形あるもの(竹管)を通して、形なきもの(音、そして禅の境地)を体現しようとする、極めて精神的な営みだったのである。
これらの背景を統合して考察すると、「尺八」という銘に込められた利休の深遠な意図が浮かび上がってくる。この銘は、単なる名称ではなく、利休から秀吉へと投げかけられた一種の「公案(禅問答)」であったと解釈できる。利休は、大徳寺の古渓宗陳らに参禅し、禅の思想に深く帰依していた 25 。彼の茶の湯は、禅の精神と不可分のものであった。彼は、この何の変哲もない素朴な竹の筒に、世俗的な価値観や権威からの自由を象徴する一休や虚無僧と縁の深い「尺八」という名を冠することで、天下人秀吉にこう問いかけたのではないだろうか。「このただの竹筒に、あなた(秀吉)はどのような価値を見出すのか。絢爛豪華な黄金を絶対的な価値とするあなたの目で、この器の見た目の質素さの奥にある、禅的な境地、すなわち『虚』や『無』の価値を理解することができるか」と。それは、秀吉の美意識に対する、静かでありながら、最も根本的な挑戦であった。この花入は、それ自体が、見る者の精神性を試す装置として機能するよう意図されていたのである。
「尺八」の伝来については、複数の説が伝えられている。最も広く知られているのは、利休が最も意に適った作品として秀吉に献上したというものである 1 。また、江戸初期の茶書には、その後、利休の拠点であった堺の商人、伊丹屋宗不(いたみやそうふ)が所持し、利休自身が用いていた、との記述も見られる 16 。これらの伝承は、「尺八」が利休と秀吉という権力の中心と、利休の出自である堺の町衆文化との間を往還した可能性を示唆しており、興味深い。
そして、本報告書の冒頭で触れた「利休自害の際に秀吉に破壊された」という逸話である。この dramatic な物語は、利休と秀吉の対立を象徴するものとして広く流布しているが、現存する江戸時代の茶書などの一次資料において、この逸話を明確に裏付ける記述は見出すことができない。むしろ、利休作と伝わる「尺八」が、現在に至るまで裏千家今日庵に伝来しているという事実 2 は、この「破壊説」が史実ではないことを強く示唆している。
では、なぜこのような伝説が生まれ、語り継がれてきたのであろうか。その理由は、歴史的真実以上に、「物語的真実」として、この逸話が人々の心に強く響いたからに他ならない。利休と秀吉の価値観の対立と、その悲劇的な結末は、後世の人々にとって強烈な印象を残した 28 。「尺八」は、その対立を最も純粋な形で象徴する器物と見なされた。それゆえ、二人の関係の完全なる破局(利休の死)と、その象徴である「尺八」の物理的な破壊を結びつける物語は、必然的に生まれるべくして生まれたのである。それは、偉大な芸術や精神性が、絶対的な権力によって蹂躙されるという普遍的な悲劇のメタファーとして、この逸話が歴史の中で必要とされたことを意味している。伝説は、事実を語らずとも、真実を伝えることがある。この「破壊説」は、その好例と言えよう。
千利休による竹花入「尺八」の創造は、単独の事象ではなく、室町時代から続く茶の湯の大きな変革の流れの中に位置づけられる。それは、従来の価値観を覆し、新たな美の基準を打ち立てた、わび茶の美学の到達点の一つであった。本章では、「尺八」を生んだ思想的土壌と、その革新性について考察する。
中世の茶の湯は、足利将軍家などが主催する書院の茶を中心に展開し、中国大陸から渡来した豪華な美術工芸品、すなわち「唐物(からもの)」を鑑賞し、珍重することがその中心にあった。青磁の花入や天目茶碗といった唐物は、権威と富の象徴であり、茶の湯はそれらを披露する社交の場としての性格が強かった。
この流れに大きな転機をもたらしたのが、室町時代中期の茶人、村田珠光(1423-1502)である 30 。珠光は禅の思想を茶の湯に取り入れ、「侘び」という新たな美意識を提唱した。この思想は、珠光の孫弟子にあたる武野紹鴎(1502-1555)によってさらに深化され、紹鴎の弟子である千利休の代に至って「わび茶」として大成される 30 。わび茶の核心は、華美な唐物道具への偏重から離れ、信楽焼や備前焼といった、素朴で土の味わいを持つ国産の「和物(わもの)」や、ありふれた日用品の中にこそ真の美を見出そうとする価値観の転換にあった 33 。竹という、どこにでも手に入る安価な素材から作られた竹花入の登場は、この価値観の革命を決定づける、画期的な出来事であった 34 。それは、美が富や権威に由来するのではなく、作り手の精神性や見出す者の眼力によって立ち現れることを高らかに宣言するものであった。
利休の美学を語る上で欠かせないのが、「見立て」という手法である。これは、あるものを本来の用途とは異なる別のものとして捉え、新たな価値と機能を与える創造的な行為を指す。例えば、利休は桂川の漁師が使っていた魚籠(びく)を「桂籠(かつらかご)」と名付けて花入として用いたり 17 、巡礼者が水筒として腰に下げていた瓢箪(ひょうたん)を譲り受け、これを花入「顔回(がんかい)」とした逸話が知られている 17 。これらの行為は、既成の権威や価値観にとらわれず、自らの審美眼だけを頼りに、ありふれた日常の中に美を発見する、わび茶の精神そのものであった。
しかし、竹花入の制作は、この「見立て」の精神をさらに一歩推し進めたものであった。それは、既存の物の中から美を発見するだけでなく、利休自らが素材を選び、切り出し、新たな美の形を「創造」したという点で、より能動的な営為であった 17 。この点は、利休が瓦職人であった長次郎という人物に、自らの美意識を体現する茶碗として「楽茶碗」を焼かせた行為とも軌を一にする 36 。利休は、単なる茶人であるだけでなく、新たな美の形式を生み出す優れたプロデューサーでもあったのだ。
特に、竹という素材を選んだ点には、深い意味がある。竹は、高価な唐物とは対極にある、安価で誰もが手に入れられる素材である。利休は、このような素材を用いて、量産すら可能な花入の形式を確立した 34 。これは、茶の湯を一部の特権階級の独占物から解放し、より多くの人々に開かれたものにしようとする、ある種の民主的な思想の現れと見ることも可能であろう。
利休の竹花入、特に「園城寺」に見られる大きな「割れ」は、わび茶の美学を理解する上で極めて重要な要素である 13 。利休は、この自然が生んだ亀裂や、韮山竹特有のひび割れといった「欠点」を、隠すべき瑕疵(かし)とは考えなかった。むしろ、それを器の個性であり、時間の経過や自然の力が刻み込んだ「景色」として積極的に愛でたのである 7 。これは、完全無欠なものよりも、むしろ不完全なもの、非対称なものの中にこそ、深い味わいや美が宿るという、わび茶の哲学の核心を示すものである 38 。
この美意識は、利休が深く帰依した禅の思想と強く共鳴している。禅では、「平常心是道(へいじょうしんこれどう)」という言葉が示すように、特別な状態ではなく、ありのままの日常的な心のあり方こそが悟りへの道であると説く 39 。また、「無一物(むいちもつ)」という概念は、あらゆる執着から解放された自由な境地を意味する 18 。不完全さを受け入れ、ありのままの姿を肯定する利休の美学は、これらの禅思想の具体的な現れであった。利休が茶会で、花を生けずに器にただ水をなみなみと張るだけで、それを究極の花としたという逸話 41 も、これと同根である。器や花という「物」そのものよりも、そこに宿る生命感や、それと向き合う人間の精神性をこそ重視する姿勢が、ここにはっきりと見て取れる。
利休の美学における「自然」観は、単なる自然礼賛ではない。それは、人間の作為と自然の摂理との間の、緊張感に満ちた対話の中から生まれる。利休は、竹という自然物をそのまま用いるのではない。「切る」という、鋭利で決定的な人間の作為を加える 17 。しかし、その切り方は、竹が本来持つ節や割れといった自然の特性を破壊するのではなく、むしろそれを最大限に生かし、引き立てる方向でなされる 20 。人間の研ぎ澄まされた美意識(作為)が、自然(無作為)の本質を切り出し、露わにする。この二つの要素の絶妙な均衡点に、利休の創造の秘密がある。「尺八」の、これ以上なく簡素な筒という形は、人間の作為を極限まで抑制することで、竹という自然の存在感を最大限に引き出した、その究極のバランスの上に成り立っているのである。
竹花入「尺八」は、単なる美の探求の結果として生まれただけではない。それは、戦国末期の絶対的権力者であった豊臣秀吉と、精神世界の指導者であった千利休との間の、複雑で緊張をはらんだ関係性を映し出す鏡でもあった。二人の価値観の対立は、茶室のあり方から道具一つに至るまで、あらゆる側面に現れていた。
二人の美意識の根本的な違いを最も象徴的に示すのが、彼らが理想とした茶室の対比である。秀吉は、自らの権威を天下に示すため、組み立て式で移動可能な「黄金の茶室」を利休に作らせた 43 。壁、天井、柱、そして茶道具に至るまで、すべてが黄金で設えられたこの茶室は、秀吉の富と権力を可視化する、絢爛豪華の極みであった 26 。
これに対し、利休がわび茶の精神を突き詰めた末に到達したのは、現存する妙喜庵の茶室「待庵」に代表される、わずか二畳の極小空間であった 25 。土壁、竹の天井、丸太の柱など、素朴な自然素材のみで構成されたこの空間は、あらゆる装飾を削ぎ落とし、亭主と客との精神的な交わりだけに集中するための装置であった。この両極端な茶室は、二人の価値観が、物質的な豊かさを誇示する方向と、精神的な深淵を追求する方向へと、全く逆のベクトルを向いていたことを物語っている 29 。
特に「待庵」に設けられた「にじり口」は、利休の思想を鮮明に表している 17 。高さも幅も極端に切り詰められたこの入口を通るには、いかなる身分の者も刀を外し、頭を下げて身をかがめなければならない 25 。それは、茶室という小宇宙の中では、世俗の身分や権威は意味をなさず、誰もが平等な一人の人間として向き合うべきであるという、ラディカルな思想の表明であった。この掟は、天下人である秀吉にとっても例外ではなかったのである。
このような価値観の対立は、茶道具の選択においても顕著であった。利休が伊豆韮山の竹から作り出した、素朴極まりない竹花入「尺八」を、派手好みの秀吉に献上したとされる行為は、単なる趣味の違いを超えた、美の基準そのものをめぐる思想的な挑戦であったといえる 28 。黄金の価値を絶対視する秀吉に対し、利休はありふれた竹の筒を差し出し、その中にこそ真の美が宿ることを示そうとしたのである。
この対立構造は、茶碗をめぐる逸話にも見出すことができる。博多の商人・神屋宗湛が記した茶会記『宗湛日記』には、天正十八年(1590年)の茶会で、利休が秀吉が嫌うことで知られていた黒楽茶碗をあえて用い、客に対して「上様(秀吉)が黒い茶碗をお嫌いなので、このように(点てた後すぐに別の茶碗に)取り替えるのです」と語ったという、衝撃的な記述が残されている 45 。黒楽茶碗は、轆轤を使わず手捏ねで成形された、歪みを持つ非対称の器であり、わびの精神を色濃く反映した利休好みの茶碗であった。秀吉がこの黒を嫌い、華やかな赤楽茶碗を好んだとされることと合わせ考えると、この利休の行為は、秀吉の権威が、自らの美意識の世界にまでは及ばないという、強い自負心と抵抗の表明であった。竹花入「尺八」が投げかけた問いと、黒楽茶碗をめぐるこの逸話は、全く同根の問題なのである。
利休は、単なる一介の茶人ではなかった。織田信長、そして豊臣秀吉の茶頭として、茶の湯を政治的なコミュニケーションの場として演出し、大きな影響力を行使した 43 。天正十五年(1587年)に京都の北野天満宮で催された「北野大茶湯」では、身分を問わず万人が参加できるという前代未聞の大茶会を主管し、秀吉の権威と寛大さを天下に知らしめた 43 。
同時に、利休は名物道具の鑑定や斡旋を通じて、莫大な経済力と文化的権威をその手に収めていた 43 。利休が良いと認めた道具には法外な価値がつくという状況は、彼を茶の湯の世界における絶対的な権威者に押し上げた。しかし、この強大になりすぎた文化的・経済的権威は、やがて天下人秀吉の猜疑心を招くことになる。
大徳寺山門の金毛閣に自身の木像を設置したことが不敬とされた事件や、茶道具の売買で不当な利益を得ているという疑惑など、利休の死罪の直接的な原因とされる理由はいくつか挙げられている 28 。しかし、その根底にあったのは、単なる茶人の分を超え、一つの精神的な権威となった利休の存在そのものが、秀吉の絶対的な権力にとって許容しがたい脅威となったという、冷徹な政治的力学であった 43 。竹花入「尺八」に象徴される利休の美学は、秀吉の価値観と相容れないだけでなく、その権力基盤を精神的な側面から静かに揺るがしかねない、危険な思想をはらんでいたのである。天正十九年(1591年)、利休は秀吉から切腹を命じられ、その生涯に幕を下ろした。
千利休の死によって、彼と秀吉の間の緊張関係は終焉を迎えたが、利休が竹花入「尺八」を通じて提示した美意識は、消えることなく後世の茶道文化に深く、そして永続的な影響を与え続けた。
利休が「尺八」をはじめとする竹花入で示した、簡素な中に深遠な美を見出すという思想は、一つの揺るぎない規範として確立された 3 。利休以降の茶人たちは、この偉大な先達が打ち立てた美意識と対峙し、それを継承、あるいは乗り越えようと試みることで、自らの茶の湯を形成していった。例えば、利休七哲の一人である古田織部は、利休の思想を受け継ぎつつも、それをさらに発展させ、意図的な「歪み」や「破れ」といった、より大胆で動的な造形(織部焼など)を生み出した 49 。また、江戸時代初期の大名茶人である小堀遠州は、利休作の「尺八」に深く憧れ、それを手本としながらも、切り口に「節」を残すことで武士としての「節度」を表現したと評される、自身の代表作「深山木(みやまぎ)」を創り出した 17 。利休の竹花入は、後世の茶人たちが対話し、乗り越えるべき、偉大な規範となったのである。
そして、竹花入「尺八」は、単なる歴史的な美術工芸品の枠を超え、現代に生きる我々に対しても重要な問いを投げかけている。それは、戦国という激動の時代が生んだ、一つの完成された美の形式であると同時に、その背景には、芸術と権力、精神性と世俗性、自然と作為、完全と不完全といった、時代を超えて普遍的なテーマをめぐる根源的な緊張関係が凝縮されている。
物質的な豊かさや効率性が追求される現代社会において、ありふれた竹の筒に込められた深い思想と物語は、目に見える価値だけではない、精神的な豊かさの重要性を静かに、しかし力強く示唆している。それは、日本文化の基層をなす「わび」の精神の、最も純粋な結晶の一つであり、我々自身の美意識の源流を照らし出す、静謐な光を放つ存在なのである。利休が戦陣の中で切り出した一本の竹は、四百年以上の時を経てなお、我々の心に深く語りかけてくる。