山名肩衝は、応仁の乱の山名宗全に由来する古瀬戸茶入。中川宗半が「屑衝」と呼び侘びの精神を宿し、後に加賀藩前田家が金百枚で召し上げ、文化資本として重宝した。
戦国時代、一碗の茶を点てるための小道具が、時に一国の領地、あるいは一城に匹敵する価値を持つことがあった。武将たちはなぜ、土地や兵馬ではなく、掌に収まるほどの小壺に異常なまでの執着を見せたのか。それは、茶の湯が単なる嗜好品ではなく、武力に加え、教養と文化資本を誇示するための極めて高度な政治的、社会的手段であったからに他ならない 1 。この時代、優れた茶道具、すなわち「名物」を所有することは、所有者の権威と審美眼を天下に示す行為そのものであった。
その価値の頂点に君臨したのが、「天下三肩衝(てんかさんかたつき)」と称される三つの茶入、すなわち「初花(はつはな)」「楢柴(ならしば)」「新田(にった)」である 2 。これらを手中に収めることは「天下を取るより難しい」とまで言われ、織田信長、豊臣秀吉といった天下人がその蒐集に情熱を注いだ逸話は、名物茶入が単なる器物を超えた権威の象徴であったことを雄弁に物語っている 1 。
本報告書でその全貌を解き明かす「山名肩衝(やまなかたつき)」もまた、これら天下の名物と同じく、室町、戦国、安土桃山、そして江戸という激動の時代を渡り歩き、数多の武将や茶人の手を経てきた歴史の証人である。その名に秘められた記憶、武士に愛された造形、そして所有者たちの思惑が交錯する流転の物語を紐解くことで、この一つの茶入が戦国という時代において、いかなる意味を持っていたのかを徹底的に探求する。
茶入に付けられる銘は、その器物の来歴や性格を決定づける上で極めて重要な意味を持つ 5 。この茶入が「山名肩衝」と名付けられたのは、最初の所有者とされる室町時代中期の守護大名、山名宗全(やまなそうぜん)に由来する 6 。この「山名」という名が、この器物に与えた根源的な価値と性格を理解するためには、まず山名宗全という人物とその時代背景を深く知る必要がある。
山名宗全、俗名を山名持豊(もちとよ)は、室町幕府の重職である四職家(ししきけ)の一つ、山名氏の当主である 8 。但馬、備後、安芸など八カ国もの守護職を兼ね、幕府内で絶大な権勢を誇った 9 。その気性の激しさから「赤入道」と恐れられ、1467年に勃発した応仁の乱では、細川勝元率いる東軍に対し、西軍の総大将として11万もの大軍を率いて激突した 9 。この応仁・文明の乱は、京都を焦土に変え、それまでかろうじて保たれてきた室町幕府の権威を完全に失墜させ、約百年にわたる戦国乱世の直接的な引き金となった歴史的大事件である。
ここに、この茶入が持つ最初の、そして最も根源的な価値が刻印されている。すなわち、「山名肩衝」という名は、単に最初の所有者を示しているのではない。それは、戦国時代の幕開けを告げた大動乱の張本人であり、旧秩序を破壊した武威の象徴たる人物の記憶を、その器物に永久に刻み込む行為であった。後世の所有者たち、特に下剋上を勝ち抜いてきた戦国武将にとって、この茶入を手にすることは、単に美しい器を手に入れる以上の意味を持った。それは、戦乱の時代の原点に触れ、その歴史的な正統性や武威を自らのものとする、極めて象徴的な行為だったのである。このように、「山名」の名は、この茶入に「戦乱の記憶」という消えることのない付加価値を与え、その後の流転の物語の格調を決定づけたと言える。
「山名肩衝」の価値を形成するもう一つの重要な要素は、その器形、すなわち「肩衝」という形状そのものにある。茶入には、林檎のような丸みを持つ「文琳(ぶんりん)」や、野菜の茄子に似た「茄子(なす)」など多様な形状が存在する 11 。その中で「肩衝」は、その名の通り、口のすぐ下にある肩の部分が角張り、力強く水平に張った造形を特徴とする 13 。この堂々たる姿が、特に武家社会の美意識と強く共鳴した。
美術的に見ると、「肩衝」の形状は、釉薬の景色を生み出す上で構造的な利点を持っていた。肩が角張っていることで、施釉された釉薬がその角に溜まりやすく、そこから胴にかけて垂直に流れ落ちる際に、予期せぬ美しい文様、すなわち「景色」が生まれやすいのである 14 。これは、なだらかな曲線を持つ他の器形では見られない、肩衝ならではの魅力であった。
しかし、武士たちが肩衝を好んだ理由は、単なる造形美に留まらない。一説には、「武士が正座した姿が肩衝に似ているため」好まれたとも言われる 2 。そのどっしりとして揺るぎないフォルムは、質実剛健を旨とし、威厳を重んじる武家の気風と見事に合致した。茶入の格式においては、本来「茄子」が最上位とされ、より伝統的な価値観を持つ公家社会などで珍重された 12 。それにもかかわらず、織田信長や豊臣秀吉といった戦国の覇者が、格式を超えて「天下三肩衝」を熱心に追い求めたという事実は、桃山時代にかけての価値観の大きな転換を示唆している。すなわち、伝統的な公家文化の権威から、武家独自の力強い美意識が台頭してきたことの証左なのである。
このことから、「肩衝」の流行は、戦国武将の自己認識の変化と深く連動していると考えられる。安定と調和を重んじる旧来の価値観が投影された丸みを帯びた器形から、力と実威を尊ぶ新しい時代の精神が投影された「肩衝」へ。実力主義が支配する戦国時代において、武将たちは自らの力を視覚的に示す必要があった。肩衝の持つ堂々とした肩の張り、安定感のある姿は、まさに武将が理想とする威厳や不動の精神性を体現していたのである。千利休によって侘び茶が追求され、より内省的な美が重んじられる時代になっても、肩衝の持つ風格は武将たちのアイデンティティの拠り所として価値を失わなかった。「山名肩衝」は、その形状自体が戦国という時代の精神性を雄弁に物語る、まさに「武士の器」であったと言えよう。
「山名肩衝」の出自、すなわちどこで焼かれたものかについては、資料によって記述が異なり、長らく議論の対象となってきた。一つは中国で作られたとする「漢作(かんさく)」説、もう一つは日本国内の瀬戸で焼かれたとする「古瀬戸(こせと)」説である。この二つの説を比較検討することは、この茶入の真の姿に迫る上で不可欠である。
「漢作」とは、中国の宋・元代に作られた「唐物(からもの)」の中でも、特に土味、釉調、作行きが優れたものを指す最上級の評価である 11 。漢作唐物は茶入の最高位に位置づけられ、その伝来は絶対的な権威を持っていた 12 。『山名肩衝』を漢作とする資料は、この茶入が持つ並外れた品格と出来栄えを、最高の賛辞で表現しようとしたものと考えられる 6 。
一方、『大正名器鑑』をはじめとする信頼性の高い文献は、この茶入を「古瀬戸肩衝茶入」と明記している 7 。古瀬戸とは、日本の陶芸の中心地であった瀬戸(現在の愛知県瀬戸市)において、鎌倉時代から室町時代にかけて焼かれた施釉陶器を指す 17 。日本の土と釉薬を用い、当初は中国陶磁の強い影響下にありながらも、次第に日本独自の「和様」の美を展開させていった 15 。特に大名物クラスの古瀬戸は、唐物と見紛うほどの品格と技術の高さを誇るものが存在する 19 。
この二つの説の混在は、単なる鑑定の誤りとして片付けるべきではない。むしろ、この茶入が持つ卓越した品質と、茶の湯における価値観の変遷を物語っている。最も確からしい結論は、『大正名器鑑』の記述に基づき、「山名肩衝」は「 唐物に比肩する最高級の古瀬戸茶入 」である、というものである。
この結論に至る背景には、日本の美意識の歴史的変遷がある。室町から桃山時代初期にかけて、茶道具の価値は「唐物であること」が絶対的な基準であった。この時期、「山名肩衝」が「漢作」と称されたとすれば、それはその出来栄えが日本製とは思えないほど素晴らしく、最高の賛辞として「漢作」の称号が与えられた可能性が高い。その後、時代が下り、千利休や小堀遠州といった茶の湯の大成者たちによって、それまで唐物の模倣と見なされがちであった和物、特に古瀬戸の独自の美が再発見・再評価されるようになる。この流れの中で、「山名肩衝」もまた「優れた古瀬戸」として正しく認識されるようになったと考えられる。
近代的な美術史研究の成果を反映した『大正名器鑑』が、実見の上で「古瀬戸」と断定したことの意義は大きい 20 。したがって、「山名肩衝」は、その出自を「漢作」と誤認されるほどの卓越した技術と美しさを持った「古瀬戸」の名品であると結論づけるのが最も妥当であろう。その評価の変遷は、日本の陶芸が中国陶磁を模倣する段階から、独自の美を確立し、自らの手で最高峰の価値を生み出すに至った歴史的プロセスそのものを体現しているのである。
山名宗全の手を離れた後の「山名肩衝」は、戦国の世を生きる武将たちの間を渡り歩き、その価値をさらに高めていく。特に、前田家家臣・中川宗半の時代、そして加賀百万石・前田家の至宝となってからの歴史は、この茶入の物語において重要な転換点となった。
桃山時代から江戸時代初期にかけて、この茶入は中川宗半(なかがわそうはん)の手に渡る。宗半、本名を中川光重(みつしげ)は、織田信長に仕えた後、加賀藩祖・前田利家の次女である蕭姫(しょうひめ)を妻に迎え、前田家の重臣となった武将である 21 。越中増山城主を務めるなど武人として活躍する一方で、千利休門下の熱心な茶人としても知られ、茶会に没頭するあまり城の修築を怠って配流されたという逸話を持つほどの数寄者であった 23 。
宗半がこの茶入を所持したことから、「宗半肩衝」という別名が生まれた 6 。さらに『大正名器鑑』は、この時期に「中川屑衝(なかがわくつつき)」という異名があったことを伝えている 7 。この「屑」という一見不名誉な名称には、深い意味が込められていると考えられる。
「屑」という文字は通常、価値のないもの、ごみを指す。これを天下の名物に冠するのは極めて異例である。しかしこれは、所有者である中川宗半の高度な美意識、すなわち師である千利休から受け継いだ「侘び茶」の精神を反映した、意図的な命名であった可能性が高い。豪華絢爛な道具を権威の象徴とした豊臣秀吉的な価値観に対し、利休は不完全さや質素さの中にこそ真の美を見出す「侘び」の思想を大成させた。宗半は、この茶入が持つ世俗的な価値(山名家伝来、高価な名物)を、あえて「屑」という謙譲、あるいは逆説的な言葉で打ち消し、その本質的な美しさとだけ向き合おうとしたのではないか。この茶入は、宗半の手にある間、単なる財宝から、深い精神性を帯びた「侘びの器」へとその性格を昇華させたのである。
その後、「山名肩衝」は中川家(『大正名器鑑』では中川半左衛門と記される。宗半の一族か、あるいは同一人物の別称か)から、加賀藩三代藩主・前田利常によって「金百枚」で召し上げられ、前田家の所有となる 7 。この「金百枚」という価格は、この茶入の価値を具体的に示す重要な指標である。
江戸時代初期において、金一枚(一両)の価値は、米価に換算すると現在の価値で約10万円前後と推定される 24 。単純計算でも金百枚は1000万円に相当するが、職人の手間賃などから換算するとその価値はさらに数倍に跳ね上がる可能性もあり、いずれにせよ大名家にとってさえ極めて大きな投資であったことがわかる 25 。
前田利常によるこの破格の召し上げは、単なる美術品収集に留まらない。外様大名の筆頭として、常に徳川幕府から警戒される立場にあった加賀藩にとって、これは自家の権威と文化的な高さを天下に示すための、高度に政治的・戦略的な投資であった。軍事力で幕府に対抗することができない以上、文化や学問の力でその存在感と品格を示す必要があったのである。「山名宗全→中川宗半(前田家縁者)→前田本家」という由緒正しい伝来を持つ名物を莫大な金額で召し上げる行為は、藩の内外に加賀藩の圧倒的な財力と、歴史と文化を尊ぶ高い見識を知らしめる絶好の機会であった。
こうして「山名肩衝」は、再び権威の象徴へと回帰し、加賀百万石の文化政策を体現する至宝として、前田家に秘蔵されることになった。前田家伝来の文化財の多くは、現在、公益財団法人前田育徳会によって管理・所蔵されており、「山名肩衝」もまた同会に受け継がれている可能性が極めて高いと推定される 26 。
本報告で論じた「山名肩衝」の流転の歴史と、各時代におけるその価値や意味合いの変化を以下に要約する。
時代 |
所有者(推定含む) |
肩書の変遷と意味合い |
典拠・関連情報 |
室町時代中期 |
山名宗全 |
山名肩衝 (武威と動乱の象徴) |
応仁の乱の西軍総大将。戦国時代の幕開けを刻む名。 7 |
桃山〜江戸初期 |
中川宗半(光重) |
宗半肩衝 / 中川屑衝 (侘びの精神を宿す器) |
前田家重臣、利休門下の茶人。世俗的価値を相対化する命名。 6 |
江戸時代初期〜 |
加賀藩主 前田家 |
前田家御物 (文化資本としての至宝) |
三代藩主・前田利常が金百枚で召し上げ。加賀百万石の権威の象徴となる。 7 |
現代 |
公益財団法人 前田育徳会(推定) |
歴史的文化財 |
前田家伝来の文化財を管理・所蔵。 26 |
一つの古瀬戸茶入、「山名肩衝」の物語を追うことは、日本の歴史における「力」と「美」の関係性の変遷を辿る旅に等しい。この小壺は、その来歴の中で実に多層的な価値をその身にまとってきた。
それはまず、応仁の乱の将帥・山名宗全の名を冠することで得た、 武威の象徴 としての価値であった。戦国の幕開けを告げた動乱の記憶は、この器物に揺るぎない格を与えた。
次に、茶人武将・中川宗半の手に渡ることで、それは 侘びの精神を宿す器 へと昇華された。「屑衝」という逆説的な名は、華美な権威を否定し、物の本質を見つめようとする桃山文化の深い精神性を示している。
そして最後に、加賀藩前田家が莫大な対価を払って召し上げたことで、 文化資本としての至宝 となった。それは外様大名の筆頭が、武力ではなく文化の力でその権威を維持しようとした、江戸時代の新たな統治戦略の象徴であった。
このように「山名肩衝」は、応仁の乱から始まる武力闘争の時代、侘び茶によって精神性が深められた桃山文化、そして文化による統治が確立した泰平の江戸時代という、価値観の大きな転換点を映し出す鏡であったと言える。掌に収まるこの小壺は、戦国の世を生きた人々の欲望、美意識、そして権力への意志を凝縮し、今に伝える、比類なき歴史の語り部なのである。