『平家物語』は、平家の栄枯盛衰を描く軍記物語。戦国武将の行動規範、死生観に影響。乱世の武士の精神的支柱となった。
『平家物語』は、平安時代末期の治承・寿永の内乱(1180年~1185年)を舞台に、平清盛を頂点とする平家一門の栄華と没落を、仏教的な無常観を基調に描いた軍記物語である 1 。その冒頭「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の一節は、日本人の精神性に深く刻み込まれ、時代を超えて読み継がれる国民的叙事詩としての地位を確立している。
しかし、この物語の真価は、単なる文学作品としての価値に留まらない。成立から約300年の時を経て、日本が再び激しい戦乱の時代、すなわち戦国時代に突入したとき、『平家物語』は過去の遺物としてではなく、現代を生きる武士たちの精神世界と行動規範を形成する、極めて重要な文化的装置として機能した。本報告書は、この「戦国時代」という特殊なフィルターを通して『平家物語』を再検証し、それが当時の武士たちにいかに受容され、彼らの死生観、倫理観、さらには政治戦略にまでいかなる影響を及ぼしたかを徹底的に解明することを目的とする。
これは、『平家物語』を静的なテキストとしてではなく、戦国という時代を映し出す「鏡」として、また、その時代を動かす一つの「力」として捉え直す試みである。物語が内包する多層的な思想、多様な享受の形態、そして社会的な機能を分析することで、古典がいかにして後世と相互作用し、新たな意味を付与され続けるかという、文化のダイナミズムを浮き彫りにする。
戦国時代の視点から『平家物語』を論じる前提として、まずこの物語自体が持つ複雑で多層的な構造を理解する必要がある。作者不詳の謎に包まれた成立過程、そして「語り」と「読み」という二つの異なる享受形態に対応して発展した多様な諸本(テキスト)の存在は、この物語が単一の作者による創作物ではなく、長い時間をかけて多くの人々の手を経て形成された集合的な知の産物であることを示している。
『平家物語』の作者は、今日に至るまで詳らかではない 1 。鎌倉時代から南北朝時代にかけての歌人・随筆家である吉田兼好が著した『徒然草』には、「信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)」という人物がこの物語を作り、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に語らせて世に広めた、という有名な記述が存在する 2 。この説は古くから広く知られているが、あくまで数ある説の一つに過ぎず、決定的な証拠はない。
むしろ近年の研究では、特定の個人を作者とする見方よりも、物語がより複雑な過程を経て成立したと考えるのが一般的である。すなわち、貴族の日記や公的な記録といった「書かれた史料」と、民間で語り継がれてきた様々な「口承の伝承」が、長い時間をかけて相互に影響し合い、融合することで、この壮大な物語が形成されたという見方である 4 。この成立過程の複雑さこそが、物語に多様な解釈を許容する奥行きと豊かさを与え、後世の人々が自らの状況を投影できる余地を生み出したと言える。
『平家物語』には、内容や巻数が異なる「諸本(しょほん)」あるいは「異本(いほん)」が極めて多数存在することが知られている 6 。これらは大きく二つの系統に大別される。一つは琵琶法師が琵琶を弾きながら語るための台本として発展した「語り本系」、もう一つは読み物として享受される中で増補・改編されていった「読み本系」である 7 。
語り本系 は、その名の通り、聴衆の前で語られることを前提としたテキストである。代表的なものに、南北朝時代の応安4年(1371年)に、当道座(盲人音楽家のギルド)の惣検校であった明石覚一(あかしかくいち)が最終的にまとめたとされる「覚一本(かくいちぼん)」がある 4 。覚一本は、七五調を基調とするリズミカルで美しい文章と、物語の主筋が明確に整理されている点を特徴とし、後世最も広く流布した。戦国時代の武将たちが陣中などで耳にした『平家物語』は、主にこの語り本系のテキストであったと考えられる 10 。
読み本系 は、知識人層が読み物として楽しむ中で、より詳細な情報や異伝が付け加えられていった系統である。代表格としては、語り本系よりも古い形態を残しているとされる「延慶本(えんぎょうぼん)」や、さらに物語を大幅に拡張し、源氏側の視点も多く取り入れた『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』などが挙げられる 3 。これらの読み本系は、合戦の具体的な経緯や登場人物の背景に関する豊富な記述を含んでおり、物語の歴史的側面や多様なエピソードを探求するための重要な資料となった。また、能や幸若舞といった後代の芸能が新たな作品を創作する際には、この読み本系の豊かな物語世界が典拠とされることも少なくなかった 12 。
この「語り本」と「読み本」という二大系統の存在は、単なるテキストのバリエーション以上の意味を持つ。それは、『平家物語』が中世から戦国時代にかけて果たした二重の社会的機能の証左に他ならない。一方では、琵琶法師という専門職能集団によって、文字の読めない人々を含む広範な階層に届けられる「大衆娯楽」であり、同時に道徳を教える「メディア」であった 2 。他方では、教養ある武士や知識人たちが、より深く物語世界を探求し、歴史的知識や処世の教訓を学ぶための「教養書」であり「研究資料」として機能したのである 14 。この二重構造があったからこそ、『平家物語』は社会のあらゆる階層に深く浸透し、戦国という激動の時代において、社会全体の価値観に影響を及ぼすほどの強固な基盤を築くことができたのである。
表1:『平家物語』主要諸本の系統と特徴 |
系統 |
語り本系 |
読み本系 |
『平家物語』が時代を超えて人々の心を捉え続けた最大の要因は、その壮大な物語を支える強固な思想的骨格にある。特に、仏教に由来する「無常思想」「因果思想」「浄土思想」という三つの思想は、物語全体を貫く縦糸として機能し、登場人物たちの運命に意味と秩序を与えている 16 。これらの思想は、戦乱に明け暮れる戦国武将たちにとっても、自らの生き死にを理解するための重要な世界観を提供した。
この「無常・因果・浄土」という三つの思想的枠組みは、単独で存在するのではなく、有機的に連関し合って物語を駆動させている。そしてこの枠組みは、戦国時代という現実世界においても、勝者と敗者の双方にとって、自らの運命を理解し、社会の秩序を再構築するための強力なイデオロギー装置として機能した。勝者は、自らの勝利を旧勢力の「悪行」に対する天罰(因果)として正当化しつつも、自らもまた「盛者」であり、驕れば滅びる(無常)という戒めを得る。徳川家康が平家の滅亡から学んだとされる教訓は、この思想を深く内面化した結果と解釈できる 26 。一方、敗者は、自らの滅びをこの世の理(無常)として受け入れ、来世での救済(浄土)に希望を見出すことで、現世での敗北に意味と慰めを得ることができた。そして社会全体にとっては、物語が死者の魂を「鎮魂」するという機能が、戦乱による精神的な動揺を回復させるための重要な文化的メカニズムとなったのである。これは、戦国武将が敵味方の区別なく戦死者を供養したという精神性とも深く通底している 28 。
『平家物語』が戦国時代に与えた影響を最も色濃く見て取れるのは、当時の覇者たちの言動である。織田信長、上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康といった武将たちは、この物語を単なる過去の戦記としてではなく、自らの生き様を映し出す「鑑(かがみ)」として、あるいは行動規範を学ぶ「教科書」として、極めて主体的に享受していた。彼らの眼を通して、『平家物語』は新たな生命を吹き込まれ、戦国の世を動かす力の一部となったのである。
織田信長が、桶狭間の決戦前夜に幸若舞(こうわかまい)の『敦盛』の一節、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と謡い舞った逸話はあまりにも有名である 2 。この幸若舞は、『平家物語』巻第九「敦盛最期(あつもりのさいご)」の悲話、すなわち一ノ谷の合戦で源氏の武将・熊谷直実(くまがいなおざね)に討たれた若き貴公子・平敦盛の物語を題材としている 30 。信長が、当時流行していた能ではなく、より武士に好まれたダイナミックな語り物芸能である幸若舞を選んだという点も重要である 12 。
信長のこの行為は、単に人生の儚さを詠んだという感傷的な解釈に留まらない。そこには、彼の革新的な野望と、伝統文化への複雑な眼差しが映し出されている。「人間五十年」という句は、人生の短さとこの世の無常を凝縮しており、旧来の秩序を破壊し、短期間で天下統一を成し遂げようとした信長の苛烈な生き方そのものと深く共鳴する。しかし、彼が自己を投影した敦盛が、和歌や笛に秀でた旧時代の「雅(みやび)」の象徴であったという逆説は見逃せない。これは、信長が単なる破壊者ではなく、自らが乗り越えようとする伝統文化への深い理解と、ある種の憧憬を抱いていた可能性を示唆している。彼は、旧世界の美の象徴である敦盛の運命に、自らの革命的な生涯の儚さを重ね合わせ、その短い人生を最大限に燃焼させようとする決意を新たにしたのかもしれない。
「軍神」と謳われ、「義」を重んじた上杉謙信もまた、『平家物語』の熱心な享受者であった。『常山紀談』などの記録によれば、謙信はある夜、琵琶法師に『平家物語』を語らせ、巻第四「鵼(ぬえ)」の段を聞いてしきりに涙を流したという 10 。そして、「わが国の武徳も衰えたものだ」と嘆いたとされる 10 。この「鵼」の段は、老将・源頼政(みなもとのよりまさ)が帝を悩ませる妖怪・鵺を見事に射落とす武勇伝である。
謙信の涙は、頼政の武勇に感動したものではない。むしろ、頼政が生きた時代から450年以上が経過し、武士の道徳(武徳)が地に落ちた自らの時代(戦国時代)の現状を、古えの理想像と比較しての深い嘆きであった。私利私欲のために戦を繰り返す同時代の武将たちを軽蔑し、自らを足利将軍家を守る「義」の体現者と規定していた謙信にとって、『平家物語』は失われた理想の武士像を映し出す鏡であった 33 。彼の涙は、単なる感傷ではなく、理想と現実の埋めがたい乖離に対する絶望と、自らがその理想を背負わねばならないという悲壮な決意の表れであったと言えよう。彼は物語を、過去の歴史としてではなく、現代社会への批判と、自己の行動を正当化するための道徳的規範として享受していたのである。
天下統一を成し遂げた二人の英雄、豊臣秀吉と徳川家康の『平家物語』への態度は対照的である。秀吉の生涯そのものが、まさに『平家物語』的な栄枯盛衰を地で行くドラマであった。農民から天下人にまで上り詰めたその栄華の絶頂と、後継者問題に端を発する豊臣家の急激な没落は、「盛者必衰」の理を誰よりも劇的に体現している 34 。彼の辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」 35 には、物語が描く無常観が色濃く反映されている。
一方、徳川家康は、『平家物語』を物語として感情的に享受する以上に、そこから教訓を学び、自らの統治に活かした人物であった 27 。彼は、平家がなぜ滅んだのか、その原因(権力者の驕り、徳の欠如、一門の不和)を冷静に分析し、それを反面教師として、長期的な安定政権の構築を目指した。「堪忍は無事長久の基」「怒りは敵と思え」といった彼の遺訓 27 は、激情に駆られて強硬策をとり、多くの反発を招いた平清盛の振る舞いとはまさに対極にある。さらに、家康が琵琶法師の組織である当道座を公的に保護したこと 36 や、彼に仕えた神道家・梵舜(ぼんしゅん)が『平家物語』(覚一本)の写本を制作したこと 9 は、家康がこの物語の持つ文化的・思想的な影響力を深く認識し、それを自らの統治体制の安定に利用しようとした高度な政治的意図の表れとも解釈できる。秀吉が物語を「体現」した悲劇の主人公であったとすれば、家康は物語を「分析」し、その法則を支配のシステムへと昇華させた冷徹な読者であったと言えるだろう。
戦国時代の武士にとって、『平家物語』は単なる娯楽や教養の対象ではなかった。それは、戦の駆け引きや組織内での処世術を学ぶ実践的な「戦術書」であり、同時に、武士としていかに生き、いかに死ぬべきかを教える「倫理の教科書」でもあった 14 。武士道と呼ばれる倫理体系が形成されていく過程で、この物語が果たした役割は計り知れない。
『平家物語』が後世の日本人の心性に与えた影響の中で、最も特徴的なものの一つが「判官贔屓(ほうがんびいき)」という感情である。これは、弱い立場に置かれた者や、悲劇的な運命を辿った者に対して、理屈を超えて同情を寄せる心理を指す 45 。この言葉の源流は、平家を滅亡に追い込む最大の功労者でありながら、兄・源頼朝に疎まれ、奥州平泉で非業の最期を遂げた源義経にある 47 。彼の官位が「左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)」、唐名で「判官」であったことから、この名が生まれた 48 。
『平家物語』によって確立されたこの「判官贔屓」という文化的類型は、戦国時代の人々が、同時代に起こる出来事を解釈し、自らの感情を処理するための「物語の型」として機能した。その格好の対象となったのが、武田信玄の後継者・武田勝頼である。
勝頼は、偉大な父・信玄ですら落とせなかった高天神城を攻略するなど、決して愚将ではなかった 49 。しかし、天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に壊滅的な敗北を喫し、その後は家臣団の離反が相次ぎ、天正10年(1582年)、天目山で自害して名門・武田家を滅亡に導いた 51 。
この勝頼の生涯は、義経の物語と多くの点で重なり合う。偉大な父(兄)を持ち、優れた軍事的才能を発揮しながらも、時代の大きな流れや内部の不和によって、最後には滅びていく。江戸時代以降、勝頼は「家を滅ぼした暗愚の将」という評価が定着するが 51 、それは勝者である徳川方の視点が強く反映された史観である。一方で、人々は勝頼の悲劇的な運命に、既に馴染み深い義経の物語の「型」を当てはめて理解し、同情を寄せた。これにより、単なる敗北した将軍としてではなく、「時流に抗えなかった悲運の名将」という、共感を誘う英雄像が形成されていったのである。
これは、歴史の勝者が記す公式の物語とは別に、敗者の視点から歴史を語り継ごうとする民衆の根強い欲求の表れである。『平家物語』が提供した「判官贔屓」という物語の力が、後世の歴史認識そのものの形成にまで、深く影響を与え続けたことを示す好例と言えよう。
『平家物語』は、戦国時代において個々の武将の精神に影響を与えただけでなく、社会全体を支える文化的な装置としても重要な機能を果たした。琵琶法師による語りや、能、幸若舞といった多様な芸能への展開を通じて、物語は武士階級を超えた幅広い層に浸透し、人々の価値観を共有する基盤となった。さらに、戦乱の時代に特有の精神的な不安に応えるため、死者の魂を鎮める「鎮魂」の物語としての役割も担ったのである。
『平家物語』の普及に最も大きな役割を果たしたのは、琵琶を伴奏に物語を語ることを職業とした盲目の僧侶、「琵琶法師」であった 2 。彼らは、仏教声楽である「声明(しょうみょう)」などの影響を受けながら、平家物語の語りを「平曲(へいきょく)」と呼ばれる高度な語り物音楽へと発展させた 53 。
室町時代になると、彼らは「当道座(とうどうざ)」という全国的な自治的・職能的組織(ギルド)を結成する 55 。当道座は、明石覚一検校のような優れた才能を輩出し、幕府の公的な保護を受けて、盲人の位階(検校、勾当、座頭など)を管理し、職業の独占権を確保した 55 。彼らは全国を旅しながら平曲を語り広め、文字を読むことのできない人々にも物語を届けた。さらに、当道座は「座頭金(ざとうがね)」と呼ばれる高利の金融業も営み、幕府の保護を背景に大きな経済力を有する社会集団でもあった 58 。戦国時代においても、この当道座のネットワークは維持され、物語の伝播と享受の基盤として機能し続けた。
『平家物語』のドラマティックで豊かな物語世界は、後代の様々な芸能にとって、尽きることのない創作の源泉となった 2 。
室町時代に武家社会で大成した**能(能楽)**には、『平家物語』を題材とした作品(平家物)が数多く存在する 13 。『忠度(ただのり)』『清経(きよつね)』『敦盛(あつもり)』など、戦に敗れ非業の死を遂げた平家の公達を主人公とし、その魂の救済を描く修羅能が中心である。世阿弥は『風姿花伝』で「源平などの名のある人のことを花鳥風月に作り寄せて、能よければ何よりもまた面白かるべし」と述べ、平家物語を能の重要な題材と位置づけている 13 。
また、戦国武将に特に愛好されたのが**幸若舞(こうわかまい)**であった 12 。これは能よりも物語性が強く、勇壮な合戦の場面などをダイナミックに演じる芸能であり、織田信長が好んだ『敦盛』がその代表である 12 。これらの芸能は、武家社会における儀礼や饗応の場で盛んに上演され、武士たちの教養や娯楽の中心を占めた。物語は、単なる語り物から、より洗練された総合芸術へと昇華し、武士たちの精神世界にさらに深く根を下ろしていったのである。
中世から戦国にかけての日本では、戦乱や政争によって非業の死を遂げた者の魂は、この世に強い恨みを残す「怨霊(おんりょう)」となり、生きている人々に祟りをなすと固く信じられていた。『平家物語』においても、西国へ落ち延びる源義経一行が、壇ノ浦で滅びた平家一門の怨霊によって海上で難破する場面などが描かれている 24 。
このような社会において、物語を語り、聞くという行為そのものが、死者たちの荒ぶる魂を慰め、鎮めるための「鎮魂(ちんこん)」の儀式であったという見方は極めて重要である 24 。物語は、平家の滅亡を単なる歴史的事実としてではなく、因果応報の理や無常の摂理の中に位置づけ、最終的には建礼門院の祈りによる浄土往生という救済を描く 62 。これにより、死者たちの無念の死に意味を与え、その魂を安らかな世界へと導こうとする。この鎮魂の機能こそ、『平家物語』が社会に広く受け入れられた根源的な理由の一つであった。
絶え間ない戦乱によって、文字通り無数の死者が生まれる戦国時代において、この「鎮魂」への希求は、より一層切実なものとなった。戦国武将たちが、自らが滅ぼした敵の菩提を弔うために寺院を建立したり、敵味方の区別なく戦没者を供養したりした例は少なくない 28 。これは、単なる慈悲心からだけでなく、斃した敵の怨霊を恐れ、その祟りを鎮めるという、極めて現実的な必要性に迫られての行為であった。
このような文脈で注目されるのが、戦国時代から江戸時代初期にかけて盛んに制作された「源平合戦図屏風」である 63 。これらの屏風は、一見すると一ノ谷や屋島の合戦における武士たちの勇壮な活躍を賛美し、戦術研究の資料とするためのものに見える。しかし、その華やかな合戦描写の背後には、そこで死んでいった平家の人々への追悼と鎮魂の意図が色濃く込められていたと考えられる 25 。戦国の勝者である武将たちは、源平の戦いに自らの戦いを重ね合わせ、この「平家絵」を制作・鑑賞することを通じて、自らが関わった戦の夥しい犠牲者たちの魂を供養するという、宗教的・儀礼的な営みを行っていたのである。それは、修羅の世界に生きる者が、その罪業を自覚し、せめてもの救いを求める敬虔な祈りの表象であったのかもしれない。
本報告書で詳述してきたように、『平家物語』は戦国時代において、単に過去を物語る古典文学の域を遥かに超えた、多角的かつ動的な存在であった。それは、下剋上の世を生きる武将たちが、自らの目まぐるしい栄枯盛衰を投影し、生き死にの意味を問うための「鏡」であった。また、戦場での駆け引きから、名誉、忠誠、恥といった武士道倫理に至るまで、行動の規範を学ぶための「教科書」でもあった。
さらに、琵琶法師の語りや、能、幸若舞といった芸能への展開を通じて、武家社会の文化的基盤を豊かにし、人々の価値観を共有するプラットフォームとして機能した。そして何よりも、絶え間ない戦乱が生み出す夥しい死者たちの魂を慰撫し、社会の精神的安定を保つための「鎮魂の装置」としての役割を担ったのである。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」。この有名な一節が凝縮して示す普遍的なテーマは、権力闘争と裏切りが日常であった戦国武将たちの心に、他のいかなる物語よりも深く、そして切実に響いた。彼らにとって『平家物語』は、混沌とした現実を理解し、自らの運命に意味と秩序を見出すための、不可欠な思想的拠り所であった。
このように、一つの文学作品が時代を超え、後世の社会といかに深く相互作用し、その時代の要請に応じて新たな意味を付与され続けるかという点で、『平家物語』の戦国時代における受容の様相は、文化の持つダイナミズムと、古典の持つ不滅の力を示す、類稀なる事例と言えるだろう。戦国という激動の時代は、この国民的叙事詩の真価を、最も鮮烈に映し出す鏡となったのである。