「星月夜正宗」は、武田信玄が佩用したとされる脇差。足利義輝から信玄、徳川家康、水戸徳川家へと伝来。その刃文は星月夜を思わせるが、真贋論争があり、現在は所在不明。伝説と実像が交錯する名刀。
甲斐の虎、武田信玄が佩用したと語り継がれる一振りの脇差、「星月夜正宗(ほしづきよまさむね)」。その詩的な名称は、刀身に現れた刃文の輝きが、あたかも夜空に煌めく満天の星々を彷彿とさせたことに由来するとされる 1 。本報告書は、この稀代の名刀が辿った流転の軌跡、その刀剣としての実像、真贋を巡る論争、そして現代におけるその行方まで、あらゆる角度から光を当て、その全貌を明らかにすることを目的とする。
本刀は、剣豪将軍として知られる足利義輝から武田信玄へ、そして天下人たる徳川家康へと、日本の歴史を動かした最高権力者たちの手を渡り歩いたという、極めて華麗な伝来を持つとされている。しかし、その輝かしい物語の裏では、その真贋について古くから議論が絶えず、現代においてはその所在すら杳として知れない。本報告は、この伝説と実像の間に横たわる深い謎を、現存する史料と伝承を基に、多角的かつ徹底的に解き明かすものである。
本刀の「星月夜」という優美な号は、その刀身の芸術性に由来する。古記録によれば、刃文は「大互の目乱れ(おおぐのめみだれ)」であり、地鉄には「砂流し(すながし)」や「金筋(きんすじ)」といった「働き」と呼ばれる紋様が豊富にかかり、その様子が「夜空の星を見るがごとく」であったと伝えられている 1 。この視覚的な特徴が、そのままこの名刀の固有名となったのである。
刀剣としての具体的な特徴は以下の通りである。
これらの記述は、星月夜正宗が単なる武器ではなく、極めて高い美術的価値を持つ工芸品として認識されていたことを物語っている。その作風は、鎌倉時代末期に相模国(現在の神奈川県)で完成された刀剣様式「相州伝(そうしゅうでん)」の典型的な特徴と見事に合致する。相州伝は、二度にわたる元寇という未曽有の国難を背景に、従来の優美さを重んじる太刀から、より頑強で切れ味に優れた実用的な刀剣が求められた結果として生まれた様式である 3 。硬軟の鉄を組み合わせ、高温で焼き入れることで生まれる華やかな刃文と、地鉄に見られる地景や金筋といった豊富な働きは、その最大の特徴である 5 。星月夜正宗の「豪壮な姿」という評価や、「沸出来(にえでき)」で「金筋・砂流し」が多いという作風の描写は、まさにこの相州伝の教科書的な特徴を体現していると言える 5 。この作風の共通性こそが、後の章で詳述する「この刀は本当に正宗の作なのか」という真贋論争の根源的な土台となっているのである。
星月夜正宗の価値を一層高めているのは、その華麗な伝来である。室町幕府の将軍から戦国大名、そして天下人へと、日本の歴史の中枢を担った人物たちの手を渡り歩いた軌跡は、それ自体が物語である。
本刀の伝来は、室町幕府第13代将軍・足利義輝から始まる。永禄年間(1558-1570年)に、義輝から武田信玄へ下賜されたと伝えられている 8 。当時、義輝は失墜した幕府の権威を再興すべく、上杉謙信や武田信玄といった各地の有力大名との関係構築に腐心していた。永禄年間に両者の争いを調停し、信玄に信濃守護の地位を認めるなど、巧みな外交政策を展開していた 10 。義輝はまた、天下五剣のうち四振を所持したとされる当代随一の刀剣収集家でもあった 11 。そのような彼が下賜した名刀は、単なる贈答品ではなく、幕府の権威の象徴であり、信玄との政治的な結びつきを強化するための重要な道具であったと考えられる。
信玄の愛刀として甲斐武田家に伝わった星月夜正宗は、天正10年(1582年)の武田家滅亡によって、新たな所有者の元へ移る。それが、後の天下人、徳川家康であった 2 。武田家の旧領は織田信長によって配分され、家康も駿河国などを得た 12 。信長は武田家伝来の「甲斐郷」や「左文字」といった名物を戦利品として接収しており 9 、星月夜正宗も同様の経緯で一度は信長の手に渡り、本能寺の変後の混乱の中で家康が入手した可能性も否定できない。家康は、武田家の滅亡後にその遺臣を積極的に召し抱え、いわゆる「天正壬午の乱」を経て武田の旧領と家臣団を掌握した。武田家由来の名物を所有することは、家康が武田家の正統な後継者であることを内外に示す、象徴的な意味合いを持っていたのである。
家康の手に渡った星月夜正宗は、徳川家内部でさらに流転する。まず家康は、この刀を六男である松平忠輝に与えた 2 。忠輝は、家康に疎まれたという逸話を持つ一方で、数々の名刀を与えられており、その評価は一筋縄ではいかない 13 。しかし、元和2年(1616年)に忠輝が改易(領地没収・追放)されると、星月夜正宗は再び家康のもとに戻された 2 。この出来事は、大名物と称される刀が単なる下賜品ではなく、所有者の地位や運命と分かちがたく結びついた存在であったことを如実に示している。
最終的に家康は、自身の死に際し、十一男であり御三家・水戸徳川家の祖となる徳川頼房に本刀を譲り渡した 2 。これにより、星月夜正宗は水戸徳川家の至宝として、二百数十年もの長きにわたり、同家に伝来することになる。
幕末、星月夜正宗はその伝来の最終章を迎える。水戸徳川家から、常陸土浦藩主であった土屋家へと渡ったのである。この譲渡の経緯については、二つの説が伝えられている 1 。一つは、万延元年(1860年)に水戸藩主・徳川斉昭が没した際、その形見分けとして従兄弟にあたる土屋寅直に贈られたという説。もう一つは、斉昭の子で鳥取藩主となった池田慶徳が明治元年(1868年)に没した際、その遺物として実弟の土屋挙直に贈られたという説である。
この伝来の終着点が土屋家であったことは、極めて示唆に富む。なぜなら、土浦藩主土屋家は、元を辿れば武田家の重臣であった家系だからである 14 。特に、武田家滅亡の際に最後まで主君・勝頼に付き従い、壮絶な討死を遂げた土屋昌恒の忠義は名高い。家康はその忠臣の子を召し抱え、やがて大名に取り立てたのである 14 。すなわち、武田信玄の愛刀とされた星月夜正宗が、数百年という時を経て、その忠臣の末裔の手に渡ったことになる。これは単なる所有者の移動ではなく、深い歴史的因縁を感じさせる出来事である。形見分けの際に「土屋家は武田家臣の流れということで『星月夜』をもらった」という逸話が残っていることからも 1 、この譲渡が偶然ではなく、当時の人々の歴史認識、すなわち武田家とその家臣団という記憶に基づいた意図的なものであった可能性が高い。これは、武士社会における主従の絆や家の来歴がいかに永く記憶され、尊重されていたかを示す好例と言えよう。
時期 |
所有者 |
経緯・備考 |
典拠資料 |
永禄年間 (1558-1570) |
足利義輝 → 武田信玄 |
義輝より信玄へ下賜。将軍の権威を示す政治的贈答。 |
8 |
天正10年 (1582) 以降 |
徳川家康 |
武田家滅亡後に入手。武田遺産の継承を象徴する。 |
2 |
慶長年間 |
家康 → 松平忠輝 |
六男・忠輝へ下賜。 |
2 |
元和2年 (1616) |
忠輝 → 徳川家康 |
忠輝の改易に伴い、家康へ返還される。 |
2 |
元和2年 (1616) 以降 |
家康 → 徳川頼房 (水戸家) |
十一男・頼房へ下賜。水戸徳川家の重宝となる。 |
2 |
幕末~明治初年 |
水戸徳川家 → 土屋家 |
形見分けとして下賜。武田家旧臣の家系へ回帰する。 |
1 |
星月夜正宗の価値を決定づける最も重要な要素は、その作者が「正宗」であるという鑑定である。しかし、この鑑定は絶対的なものではなく、古くから疑義が呈されてきた。本章では、その真贋論争の深層を徹底的に検証する。
鎌倉時代末期の刀工・正宗は、日本刀の歴史において最高峰の名工とされ、その名は絶大な権威を持っていた 4 。彼の作品は在銘のものが極めて少なく、現存する多くは後世の鑑定によって「伝 正宗」とされてきたものである 5 。
江戸時代において、この鑑定の権威を独占したのが本阿弥家であった。彼らが発行する折紙(鑑定書)は刀の価値を法的に保証するものであったが、その権威の裏で、価値を人為的に吊り上げるための鑑定や、作風が少しでも似ている無銘の刀を安易に正宗と鑑定する傾向があったことも、古くから指摘されている 8 。講談で有名な「姥捨山正宗」の逸話は、本阿弥光悦が戯れに鈍刀へ「正宗」と鞘書したところ、それが珍重されたという物語であり、本阿弥家の鑑定の権威と、それに伴う危うさを象徴している 8 。星月夜正宗に付けられた「代五千貫」という破格の評価も、こうした時代の空気の中で理解する必要がある。
この真贋論争において最も興味深い点は、本刀の長年の所有者であった水戸徳川家自身が、本阿弥家の「正宗」鑑定を全面的には信用せず、内部で「長谷部国重(はせべくにしげ)の作ではないか」と囁いていたという事実である 2 。これは単なる伝聞ではなく、所有者による専門的な見識に基づく異議申し立てであり、極めて重要である。
水戸徳川家が「長谷部国重」説を唱えた根拠は、おそらくその刃文の解釈にあったと考えられる。長谷部国重は、正宗と同じく相州伝の影響を強く受けた山城国の刀工である。その作風は正宗に似るが、刃文全体が乱れ刃となる「皆焼(ひたつら)」や、より奔放で大模様の乱れ刃を得意とし、「大互の目乱れ」の作例も知られている 20 。一方、正宗の刃文は「湾れ(のたれ)」と呼ばれる緩やかな波状の線を基調に、互の目や丁子(ちょうじ)が交じるなど、より多様で複雑な表情を見せることが多い 5 。
星月夜正宗の刃文は「大互の目乱れ」と記録されている 1 。この表現は、正宗の作域から逸脱するものではないが、むしろ長谷部国重の典型的な作風により近いと判断された可能性がある。水戸徳川家は、徳川光圀(水戸黄門)による『大日本史』編纂事業に代表されるように、学問や実証的研究を重んじる気風があった。彼らは単に本阿弥家の権威に盲従するのではなく、独自の鑑識眼をもって家伝の刀剣を評価していたと考えられる。この「長谷部国重説」は、その高い見識の現れであり、具体的な作風比較に基づいた専門的な判断であった可能性が極めて高い。この説の存在自体が、名物刀剣の鑑定がいかに一筋縄ではいかないか、そして所有者自身が鑑定の主体となり得たことを示す重要な事例である。
鑑定の揺らぎはこれに留まらない。明治時代に入ると、今度は「備前長船兼長(びぜんおさふねかねなが)」の作と鑑定されたこともあったという 8 。これは、鑑定という行為が、時代背景や鑑定者の基準によって大きく変遷することを示すさらなる証左である。
以上の点を総合すると、「星月夜正宗」が真に正宗の作であるという確証は、残念ながら得られない。「とにかく正宗というには、ちと無理な刀である」という辛辣な評価も存在するほどである 8 。しかし、その真贋を巡る議論の歴史そのものが、この刀の来歴を豊かにし、そのミステリアスな魅力を形成しているとも言えるだろう。
鑑賞の要点 |
星月夜正宗(伝) |
正宗(一般的作風) |
長谷部国重(一般的作風) |
刃文 |
大互の目乱れ 1 |
湾れ基調に互の目・丁子交じり 5 |
大乱れ、皆焼、大互の目 21 |
沸(にえ) |
沸出来、金筋・砂流し多い 2 |
沸本位。粒子は大小不揃いで力強い 4 |
沸本位。砂流し・金筋交じる 21 |
地鉄 |
地沸つく、豪壮 2 |
板目肌よく詰み、地景入る 5 |
板目肌に柾目交じり、肌立つ 21 |
姿 |
脇差、大磨上無銘 2 |
太刀は大磨上無銘が多い 5 |
短刀・脇差が多く、重ね薄い 20 |
現物が公の場から姿を消した今、星月夜正宗の存在を証明する上で最も重要なのが、所有者であった大名家が遺した一次史料である。特に、水戸徳川家と土屋家が作成した刀剣台帳の存在は決定的である。
『武庫刀纂(ぶことうさん)』は、水戸藩8代藩主・徳川斉脩の命により、文政6年(1823年)に編纂された、水戸徳川家伝来の刀剣を網羅した詳細な台帳である 23 。この台帳には、刀剣の実物から写し取った「押形」と呼ばれる図、寸法、彫物、そして由来などが、刀工ごとに極めて精緻に記録されている 26 。関東大震災で被災した名刀「燭台切光忠」の姿を現代に伝えるのも、この『武庫刀纂』の記録があればこそであった 26 。
本報告における最大の調査課題の一つは、この『武庫刀纂』に「星月夜正宗」に関する記述が存在するか否かである。もし記載があれば、以下の点が明らかになる可能性がある。
現時点の調査では、『武庫刀纂』に正宗の作とされる刀が複数記載されていることは示唆されているものの 29 、「星月夜正宗」そのものが記載されているという直接的な証拠は見出せていない。この点の解明は、今後の研究によって『武庫刀纂』そのものを調査することによってのみ可能となるであろう。
最後の所有者であった土浦藩土屋家にも、家伝の刀剣を管理するための台帳が存在した。特に大正元年(1912年)に作成された『御刀剣台帳』などが現存し、その記録作成の実践について研究が進められている 30 。これらの台帳に、水戸家から譲られたとされる星月夜正宗の記載があるか否かは、その伝来を裏付ける上で極めて重要である。もし記載があれば、土屋家がこの刀をどのように認識していたか(例:作者、号、評価額など)を知る貴重な手がかりとなる。
しかし、現在土浦市立博物館が所蔵する土屋家伝来の刀剣83口のリストには、本刀の名は見られない 31 。この事実は、星月夜正宗が、土屋家の主要な刀剣コレクションが博物館に収蔵されるよりも前の段階で、何らかの理由により家から離散したことを強く示唆している。
輝かしい伝来と複雑な真贋論争を秘めた星月夜正宗は、現在、その姿を公の場で見ることはできない。本章では、その行方について、現存する情報から考察する。
文化庁が管理する国指定文化財等データベースをはじめ、各種の文化財データベースを調査した結果、「星月夜正宗」という名称での国宝、重要文化財、あるいは重要美術品への指定は一件も確認できなかった 33 。また、「土屋家伝来」や「水戸徳川家伝来」の「正宗」あるいは「長谷部国重」といったキーワードで検索しても、本刀の伝来と一致する刀剣は見当たらない。前述の通り、最後の所有者であった土屋家の刀剣コレクションを収蔵する土浦市立博物館の所蔵品リストにも、本刀は含まれていない 35 。これらの事実から、本刀は公的な文化財として登録されることなく、個人の所蔵品として歴史の表舞台から姿を消したと結論付けられる。
本刀がなぜ姿を消したのか、いくつかの可能性が考えられる。
この星月夜正宗の運命を考える上で、同じく「正宗」の名を持ち、戦後行方不明となった名刀「本庄正宗」の事例は示唆に富む。本庄正宗は国宝に指定され、徳川将軍家の象徴として大切に保管されていた天下の名刀であった 38 。にもかかわらず、第二次世界大戦後のGHQによる刀剣接収の過程で行方不明となり、現在に至るまでその行方は知られていない 40 。この事例は、いかに由緒正しい名刀であっても、歴史の大きな転換点において、容易に失われうることを示している。
ただし、両者の「失われ方」には違いがある。本庄正宗の消失は、敗戦と占領という公的かつ歴史的な事件に起因する。一方で、星月夜正宗の場合は、GHQによる接収以前の、より早い段階(明治~大正期)で個人の手に渡り、その後の所有者の変遷が追跡不能になった可能性が高い。その消失の経緯は、より私的な文脈、すなわち家の事情による売却といった、記録に残りにくい出来事にあったと推測される。
本報告の調査により、名刀「星月夜正宗」が、剣豪将軍・足利義輝から始まり、武田信玄、徳川家康、水戸徳川家、そして武田家の旧臣である土屋家へと至る、日本の権力構造の変遷を体現するかのような、類稀なる伝来を持つ一振りであることが明らかとなった。その作風は相州伝の粋を集めたものと高く評価される一方で、その作者を巡っては、最高鑑定を下した本阿弥家に対し、所有者であった水戸徳川家自身が「長谷部国重説」を唱えるなど、複雑で奥深い真贋論争の歴史を内包している。
現物はおそらく個人の秘蔵となるか、あるいは失われ、その行方を知ることは極めて困難である。水戸徳川家の『武庫刀纂』に、その最後の姿が記録として留められている可能性は残されているが、確証はない。
しかし、たとえ刀身という物理的な実体が失われたとしても、「星月夜正宗」という一振りの刀が紡いできた物語は、それ自体が価値を持つ。戦国武将の威光、武士の忠義、大名家の誇り、そして刀剣鑑識の奥深さを、その流転の軌跡は雄弁に物語っている。その存在は、もはや物としての実体を超え、人々の記憶と記録の中に生き続ける、かけがえのない文化的遺産なのである。