本願寺肩衝は、南宋時代の唐物肩衝茶入で、本願寺の法灯継承の証である什物。教如上人が所持し、利休も評価した。現在は東本願寺に秘蔵され、非公開。
日本の戦国時代、茶道具は単なる喫茶のための器物ではなかった。それは時に一国の価値にも匹敵するとされ、所有者の権威と威光を体現する至高の象徴であった 1 。数ある茶道具の中でも、特に「名物」と称される一群は、その伝来や由緒によって格付けされ、武将たちの渇望の的となった。その頂点に君臨するのが、千利休の時代以前にその価値を認められた「大名物」である 4 。この至宝群に名を連ねる唐物肩衝茶入「本願寺肩衝」は、その名が示す通り、巨大宗教勢力である本願寺に伝来したことで知られる 6 。
しかしながら、この「本願寺肩衝」は、「天下三肩衝」に代表される他の著名な名物とは一線を画す、極めて特異な性格を帯びていた。他の名物が権力者の手を渡り歩き、政治的駆け引きの道具として歴史の表舞台を彩ったのに対し、「本願寺肩衝」は特定の宗教的権威と固く結びつき、その歴史を歩んできた。本報告書は、この謎多き茶入が持つ、第一に美術品としての造形美、第二に戦国社会における政治的道具としての側面、そして第三に本願寺教団内における聖なる象徴という三つの顔を、戦国時代の動乱という激しい時代の文脈の中に位置づけ、その多層的な価値と意味を徹底的に解き明かすことを目的とするものである。
「本願寺肩衝」が後世において複雑かつ深遠な意味を担うに至った背景には、まず器物そのものが備える圧倒的な美術的価値が存在した。その造形美と格付けは、それが単なる土の塊ではなく、時代の美意識の頂点に立つ「名品」であったことを証明している。
「本願寺肩衝」は、その出自と物理的特徴において、名物茶入の王道ともいえる品格を備えている。
出自と分類
本茶入は、中国の南宋時代(1101-1300年)に作られたと推定される、いわゆる漢作の唐物肩衝茶入である 6。唐物とは、中国から舶載された美術工芸品全般を指し、茶の湯の世界では特に尊ばれた。その中でも、わび茶の大成者である千利休の時代より前に名品としての評価が確立していた「大名物」に分類される 4。この格付けは、茶道具の中でも最高の由緒と価値を持つことを意味する。
物理的特徴
その姿は、胴が堂々と張り、肩の部分が角張って見える、典型的な「肩衝」の器形を成している 6。素材は鉄分を多く含んだ褐色の細密な陶胎で、轆轤(ろくろ)を用いて極めて薄く成形されている 7。特に胴は薄く挽き出されて豊かな膨らみを持ち、裾に向かって緩やかにすぼまる伸びやかな姿を見せる。底は、粘土の板を叩いて起こす「板起こし」という技法で作られた平底で、その周囲がわずかに持ち上がっているのが特徴である 7。
本茶入の美しさを際立たせているのが、その釉薬の掛かり具合である。裾より下は釉薬を掛けずに土の質感を見せており、その土色は朱泥色を呈している 6 。胴に掛けられた茶褐色の鉄釉は、一部が厚く掛かることで黒褐色の景色を生み出し、それが「なだれ」となって底近くまで達している 7 。この釉薬の濃淡や流れが生み出す複雑な文様、すなわち「景色」が面白く、全体として麗しい光沢を放っている 6 。無疵で均整の取れたその姿は、まさに優品と呼ぶにふさわしい風格を備えている 6 。
付属品の価値
「本願寺肩衝」の価値は、本体のみに留まらない。それを保護し、装飾する付属品もまた、この茶入が格別の扱いを受けてきたことを物語る。茶入を包む仕覆(しふく)には、「名物裂(めいぶつぎれ)」と呼ばれる、古渡りの貴重な染織品が用いられるのが常であり、本茶入の仕覆もまた、その格を示すものであったと推察される 7。
さらに重要なのが、茶入の蓋である。本茶入には象牙製の蓋が添えられているが、特に象牙の中心部にある髄の部分が黒い筋として現れた「巣入り」と呼ばれるものが用いられている 7 。象牙を単に輪切りにするのではなく、髄が断面に現れるように切り出す必要があるため、「巣入り」の蓋は希少価値が非常に高く、これもまた本茶入の格の高さを証明する要素となっている 7 。
「本願寺肩衝」が分類される「大名物」という格付けは、戦国時代の価値観を理解する上で極めて重要である。
「大名物」とは、茶道具の中でも特に由緒が深く、貴重な品々を指す言葉である 4 。その多くは、室町幕府八代将軍・足利義政が収集した美術品群、いわゆる「東山御物(ひがしやまぎょもつ)」に由来する 5 。これらは、将軍家に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれる鑑定家たちによって選び抜かれた、当代随一の名品であった。
しかし、応仁の乱以降、室町幕府の権威は失墜し、財政も困窮する。その過程で、秘蔵されていた東山御物の多くが、戦国大名や堺の豪商たちの手に渡り、天下に散逸していった 12 。この流転の歴史こそが、道具の由緒となり、その価値を一層高める要因となったのである。かつて将軍家が所持していたという来歴は、新たな所有者にとって、文化的な権威を継承したことの証となった。したがって、「本願寺肩衝」が「大名物」とされることは、それが単に美しい器物であるだけでなく、室町時代以来の文化的な権威の系譜に連なる、正統な名品であることを意味していた。
「本願寺肩衝」の物理的特徴を詳細に分析すると、それは他の著名な唐物肩衝、例えば天下三肩衝の一つである「初花」などと多くの共通点を持っていることがわかる 7 。口縁の強い外反、平たく張った肩、ほどよく膨らんだ胴、そして伸びやかな腰のすぼまりといった特徴は、当時の茶人たちが理想とした肩衝茶入の典型的な姿であった 7 。
この事実は、単に個々の道具が優れていたという以上に、当時の茶の湯の世界には、何をもって「優れた肩衝茶入」とするかという、確立され、共有された普遍的な美的基準が存在したことを示している。この美意識の源流は、足利義政とその同朋衆による東山御物の選定にまで遡ることができる、極めて権威ある伝統であった 8 。
つまり、「本願寺肩衝」は、まず純粋な美術品として、その時代の最高級の評価を得ていたのである。この揺るぎない美的価値こそが、後にこの茶入に付与されることになる政治的、あるいは宗教的な権威を支えるための、いわば「器」としての説得力を与えた。それが、誰もが息をのむほどの普遍的な「美の器」であったからこそ、後には権力や信仰の象徴という、より高次の意味を担う「権威の器」ともなり得たのである。この美の基盤なくして、その後の複雑な物語は生まれ得なかったであろう。
戦国時代、茶の湯は単なる文化的趣味の域を遥かに超え、政治、外交、権力闘争の最前線で用いられる極めて重要なツールとなった。この文脈において、名物茶道具、とりわけ「本願寺肩衝」のような肩衝茶入は、絶大な価値を持つに至った。
戦国武将、特に織田信長は、茶の湯が持つ潜在的な力を巧みに利用し、それを自らの統治システムに組み込んだ。
信長の「御茶湯御政道」
信長は、茶の湯を政治的権威と結びつけ、特定の家臣にのみ茶会開催を許可するという「御茶湯御政道」を展開した 1。これにより、茶の湯は武将にとって特別なステータスとなり、茶会に参加すること、あるいは自ら開催することは、主君に認められた者のみに許される最高の栄誉となった 15。戦功を挙げた武将への恩賞として、従来の領地や金銀に代わり、名物の茶道具が与えられることもあった 15。これは、物質的な価値だけでなく、文化的な権威と名誉をも授与するという、新たな価値体系の創出であった。
「名物狩り」と権力の誇示
天下布武を進める過程で、信長は服従させた大名や、当時自治都市として強大な経済力を誇った堺の豪商たちから、半ば強制的に名物茶器を献上させた 15。この「名物狩り」によって集められた至宝のコレクションは、信長が主催する茶会で惜しげもなく披露され、その絶大な権力を内外に誇示するための装置として機能した 15。例えば、梟雄として知られた松永久秀が、信長に降伏する証として秘蔵の茶入「九十九髪茄子(つくもなす)」を献上した逸話は、茶道具が武将の生殺与奪をも左右するほどの価値を持っていたことを象徴している 18。
外交と和睦の証
名物茶器は、武将間の外交においても重要な役割を果たした。恭順の意を示す際の贈り物や、和睦の条件として、名物の譲渡が求められることも少なくなかった 3。その最も有名な例が、小牧・長久手の戦いの後、徳川家康が豊臣秀吉に天下三肩衝の一つ「初花肩衝」を献上した一件である 21。これは単なる贈答ではなく、家康が秀吉の覇権を認め、その臣下に入ることを天下に示す、極めて高度な政治的行為であった 2。
数ある茶道具の中でも、茶入、特に中国伝来の唐物肩衝茶入は、なぜ最高位の価値を持つとされたのか。
茶入の最高位
茶の湯において、亭主が客の前で扱う道具は数多いが、その中でも抹茶を入れる「茶入」は、茶事の中心に位置する最も重要な道具とされた 1。茶入は亭主の美意識や格を示すものであり、その出発点となったのが中国伝来の唐物茶入であった 24。後に日本国内で作られるようになった和物の瀬戸茶入なども、その多くが唐物茶入の姿を模倣しており、唐物が絶対的な規範であったことがうかがえる 24。
天下三肩衝
その唐物茶入の中でも、肩が角張った「肩衝」は、その堂々たる姿から特に珍重された。そして、その頂点に立つのが「初花(はつはな)」「楢柴(ならしば)」「新田(にった)」の三つの肩衝茶入である 1。これらは「天下三肩衝」と称され、その全てを所有することは天下を治めるに等しいとまで言われた、究極の至宝であった 1。事実、織田信長でさえ三つを揃えることはできず、これを成し遂げたのは豊臣秀吉ただ一人であったと伝えられている 1。
「本願寺肩衝」が持つ価値の特異性を明らかにするため、これを戦国武将が渇望した他の最高峰の肩衝茶入と比較する。この比較を通じて、他の名物が武将間の権力闘争の道具として流転したのに対し、「本願寺肩衝」がいかに特殊な位置にあったかが浮き彫りになる。
項目 |
初花肩衝 |
楢柴肩衝 |
新田肩衝 |
本願寺肩衝 |
分類 |
大名物 |
大名物 |
大名物 |
大名物 |
主な伝来 |
足利義政→信長→家康→秀吉→宇喜多秀家→家康→松平家→将軍家 11 |
足利義政→島井宗室→秋月種実→秀吉→家康→柳営御物 11 |
村田珠光→三好宗三→信長→大友宗麟→秀吉→家康→水戸徳川家 11 |
(詳細不明)→ 東本願寺 6 |
特筆すべき逸話 |
家康が秀吉に献上し、小牧・長久手の戦いの和睦のきっかけとなる 21 。 「国一つ買える」と評される 2 。 |
信長が本能寺で手に入れる寸前で果たせず 25 。秀吉が九州平定後に秋月種実から献上させ、天下三肩衝を揃える 25 。 |
信長が欲したが、大友宗麟が献上を拒んだとされる。 |
本願寺の家督継承の証 29 。千利休が高く評価し、細川忠興が所望した 29 。 |
現状 |
重要文化財。徳川記念財団所蔵 7 。 |
明暦の大火で焼失、所在不明 11 。 |
重要美術品。徳川ミュージアム所蔵 11 。 |
東本願寺什物。文化財指定なし 6 。 |
この比較表は、「本願寺肩衝」が持つ二つの側面を明確に示している。一つは、それが紛れもなく当代最高の名物であったという事実である。茶道具の価値を実質的に決定づけていた千利休が高く評価し、茶の湯に精通した大名茶人である細川忠興が所望したという逸話は、その証明に他ならない 29 。これは、「本願寺肩衝」が、戦国武将たちの間で通用する「通貨」としての世俗的価値を十分に備えていたことを意味する。もし市場に出れば、他の天下の名物と同様に、城や領地と引き換えに取引されたであろうことは想像に難くない。
しかし、もう一つの側面、そしてより重要な点は、その伝来の特異性である。「初花」や「楢柴」が権力者の間を移動する「動産」として、政争の具となったのに対し、「本願寺肩衝」は本願寺という一つの組織に留まり続ける、あたかも「不動産」のような存在であった。その価値は世俗の権力闘争の論理だけでは動かせなかったのである。
この事実は、本茶入が単なる高価な取引の対象ではなく、それを超えた、組織の根幹に関わる重要な意味を担っていたことを強く示唆している。つまり、「本願寺肩衝」は、世俗的な価値は十分に持ち合わせながらも、その価値体系だけで取引されることを拒む、より高次の、あるいは異質な価値が付与されていた。この点にこそ、他の名物との決定的な違いがあり、この茶入の謎を解く鍵が隠されているのである。
「本願寺肩衝」が他の名物と一線を画す最大の理由は、それが戦国大名に匹敵する、あるいはそれを凌駕するほどの力を持った巨大宗教組織・本願寺の中核に位置づけられていたことにある。その価値は、世俗的な尺度を超えた、聖なる権威の象徴という領域にまで達していた。
戦国時代の本願寺は、単なる一宗教教団ではなかった。それは、全国に広がる門徒(一向宗徒)の強固なネットワークと、彼らからの莫大な寄進(お布施)に支えられた、巨大な政治・経済・軍事複合体であった。
巨大な経済力と軍事力
本願寺教団の本拠地であった摂津国・石山本願寺は、イエズス会の宣教師が「日本の富の大部分は、この坊主の所有である」と報告するほどの富を蓄積していた 33。その周囲には広大な寺内町が形成され、商工業や物流の一大拠点として機能していた 34。この莫大な経済力と、阿弥陀仏への信仰で固く結ばれた門徒たちの団結力は、戦国大名に匹敵する強力な軍事力を生み出した 35。彼らは「一向一揆」として各地で蜂起し、守護大名や戦国大名をしばしば脅かす存在であった。
信長との十年戦争
天下布武を掲げ、中央集権的な支配体制の確立を目指す織田信長にとって、自己の権力に従わない独立勢力である本願寺の存在は、最大の障害であった 35。元亀元年(1570年)、信長は石山本願寺の明け渡しを要求(真偽は不明)、これを拒否した本願寺法主・顕如(けんにょ)が全国の門徒に檄を飛ばしたことから、両者の全面戦争が勃発する 36。この石山合戦は、天正8年(1580年)に朝廷の仲介による和睦が成立するまで、実に10年もの長きにわたって続いた 36。これは信長の生涯における最も長く、困難な戦いであった。
石山合戦は、本願寺に外部からの圧力だけでなく、内部からの亀裂をももたらした。この内部対立が、後の教団分裂へと繋がっていく。
石山合戦の講和と対立
10年に及ぶ抗争の末、顕如は朝廷の勅命を受け入れ、信長との和睦を決断する。しかし、この決定に長男の教如(きょうにょ)は猛反発し、徹底抗戦を主張。父・顕如が石山本願寺を退去した後も、なお一部の強硬派と共に籠城を続けた 38。この父子の路線対立は、本願寺教団内に深刻な亀裂を生み、後の分裂の直接的な遠因となった。
後継者問題と家康の介入
本能寺の変後、天下人となった豊臣秀吉は、本願寺の強大な力を警戒し、その内部対立に介入する。天正20年(1592年)に顕如が没すると、秀吉は穏健派であった三男の准如(じゅんにょ)を第十二代法主とし、教如を隠居させた 38。しかし、教如はこれに従わず、隠居後も自らを正統な法主として振る舞い、多くの門徒も彼を支持したため、本願寺内部は事実上の分裂状態に陥った 39。
この状況に決定的な変化をもたらしたのが、関ヶ原の戦いで覇権を握った徳川家康であった。家康は、秀吉とは逆に、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を積極的に支援した 41 。慶長7年(1602年)、家康は京都の烏丸六条に広大な寺地を教如に寄進。これにより、教如を法主とする新たな本願寺、すなわち東本願寺(真宗大谷派)が創立され、准如が率いる本願寺(後の西本願寺・浄土真宗本願寺派)と並び立ち、ここに本願寺の東西分立が確定したのである 38 。
このような激しい内部対立と分裂の渦中にあって、「本願寺肩衝」は極めて重要な意味を持つことになる。
三種の什物
本願寺には、代々の法主がその地位と教えの正統性を継承した証として、三つの特別な宝物、すなわち「什物(じゅうもつ)」が伝えられていた 30。それは、宗祖・親鸞聖人の肖像画である「安城御影(あんじょうのごえい)」、親鸞の生涯を描いた絵巻物である「親鸞伝絵(康永本)」、そして、この茶入「本願寺肩衝」であった 30。
権威の具体化
この事実は、「本願寺肩衝」が、単なる美術品や趣味の茶道具ではなく、本願寺法主の地位そのものを物理的に象徴する、レガリア(王権の象徴物)に等しい、極めて神聖な器物であったことを物語っている。父・顕如と対立し、秀吉によって隠居させられた教如が、この「本願寺肩衝」を所持し続けていたという事実は、彼が名目上の地位を剥奪された後も、自らこそが親鸞以来の法灯を継ぐ正統な後継者であると、強く自負し続けていたことの何よりの物的証拠であった 29。それは、彼の抵抗と正義の旗印だったのである。
ここに、「本願寺肩衝」の価値の本質を解き明かす、決定的な構造が見出される。戦国時代において、名物茶器の価値はしばしば「一国一城」に匹敵すると言われた 1 。これは、武将にとっての究極の価値である「領地(国や城)」を基準とした、世俗的な価値評価である。名物茶器は、その領地と交換可能なほどの価値を持つものとして位置づけられていた。
しかし、「本願寺肩衝」においては、この価値の序列が完全に逆転する。この茶入が象徴していたのは、「本願寺の法主の座」そのものであった。それは、全国に数十万、数百万の門徒を擁し、戦国大名をも動かす巨大宗教組織の頂点に立つ地位である。いわば、「一宗一派の主」の座が、この一つの茶入に凝縮されていたのである。
したがって、この茶入は「領地に匹敵する」価値を持つのではなく、「法主の座という究極の宗教的権威そのもの」を体現していた。価値の基準が、世俗的な領地ではなく、宗教的な権威の源泉そのものに置かれているのだ。この「価値の逆転」あるいは「価値の次元の違い」こそが、「本願寺肩衝」を戦国時代の数多ある名物の中で、唯一無二の、比類なき存在たらしめている根源的な理由なのである。それは、世俗の価値体系では測りきれない、聖なる領域に属する至宝であった。
「本願寺肩衝」の物語は、その所有者であった教如上人という一人の人物の生涯と分かちがたく結びついている。彼の政治的野心、文化的素養、そして個人的な情愛が、この一つの器物に深く投影されている。
教如は、単なる宗教指導者や権力闘争の当事者ではなかった。彼はまた、当代一流の文化人、特に茶の湯に深く通じた人物でもあった 29 。
政治的茶人
戦国時代、茶の湯は支配者階級にとって必須の教養であり、重要な社交術であった。教如もまた、茶会を主催し、あるいは招かれることを通じて、武将や公家と幅広い交流ネットワークを築いていた 29。特に、飛騨高山城主であり、利休七哲の一人にも数えられる大名茶人・金森長近との親密な関係は、教如が後に徳川家康へ接近し、東本願寺創立の支援を取り付ける上で重要な役割を果たしたと指摘されている 29。
権威の道具として
このような文脈において、教如が所有する「本願寺肩衝」は、彼の茶会における究極の切り札であったと想像される。この茶入を披露することは、彼が単に茶の湯の心得があるというだけでなく、本願寺の正統な継承者であることを、文化的な洗練をまとった形で、列席した権力者たちに強く印象づける効果があったはずである。それは、彼の政治的立場を補強するための、極めて強力な文化的・象徴的資本であった。
「本願寺肩衝」の価値は、本願寺という閉じた世界の中だけで通用するものではなかった。その美術品としての普遍的な魅力は、当代最高の審美眼を持つ茶人たちをも惹きつけていた。
利休と忠興の視線
千利休が高く評価し、細川三斎(忠興)がこれを所望したという逸話が残されている 29。利休は、わび茶を大成し、茶道具の価値基準を確立した当代随一の権威である。また、細川忠興は、自身も優れた茶人であり、審美眼に厳しいことで知られる大名であった。この二人が価値を認め、欲したという事実は、「本願寺肩衝」が、その宗教的な背景を抜きにしても、純粋な造形物として最高級のレベルにあったことを証明している。彼らは、この茶入が持つ法灯の象徴という重い意味を知りつつも、なおその均整の取れた姿や美しい釉景といった、普遍的な造形美に強く心惹かれていたのであろう。
「本願寺肩衝」の伝来において、最も驚くべき、そして人間的な物語が、教如の晩年に訪れる。
驚くべき伝来
ある史料によれば、教如は晩年、この本願寺の家督継承の証であり、宗門の至宝中の至宝である「本願寺肩衝」を、寵愛していた側室の一人、教寿院如祐尼(きょうじゅいんにょゆうに)に譲ったとされている 30。教寿院は、後の東本願寺第十三代法主・宣如(せんにょ)の母である 39。
象徴性の変容
この譲渡は、極めて重大な意味を持つ。本願寺の法灯という、この上なく「公的」で「政治的」な象徴であったはずの茶入が、教如個人の「私的」な情愛の証へと、その意味合いを大きく変容させたからである。この背景には、いくつかの可能性が考えられる。一つには、徳川家康の後ろ盾を得て東本願寺の基盤が固まり、後継者たる息子の宣如も成長したことで、教如にとってこの茶入は、もはや自らの正統性を主張するための「闘争の道具」としての役割を終えたのかもしれない。そして、長年の苦難を共にしたであろう最愛の女性に、自らの想いを託す最高の贈物として、この至宝を選んだのではないか。あるいは、自らの血を引く子に確実に法灯を継がせるため、その母に象徴たる茶入を預けるという、最後の政治的布石であった可能性も否定できない。
いずれの解釈を取るにせよ、「本願寺肩衝」の来歴は、教如という一人の人間の波乱に満ちた生涯と分かちがたく結びついている。彼の壮年期においては、父や弟との確執、秀吉との対立の中で、自らの正統性を賭けた「闘争の象徴」であった。それが、彼の地位が確立された晩年には、深い愛情を注ぐ特定の個人への「私的な贈物」へとその姿を変えた。
一つの器物が、所有者の人生のステージに応じて、その社会的・象徴的な役割をこれほどまでに劇的に変化させる例は極めて稀である。この物語は、「本願寺肩衝」を単なる歴史資料の域から、教如という人物の権力への渇望、政治的葛藤、そして深い愛情が刻み込まれた、極めて人間的な物語を持つオブジェクトへと昇華させている。それは、歴史を動かすのが、地政学や経済といった無機的な力だけでなく、時には一個人の情愛のような、極めてパーソナルな感情でもあることを、静かに、しかし雄弁に物語っているのである。
「本願寺肩衝」の存在は、戦国時代の茶の湯文化と宗教の関係性を考える上で、非常に興味深い論点を提示する。特に、茶の湯の精神的支柱であった禅宗と、本願寺が奉じる浄土真宗との思想的な違いは、この問題をより複雑で深みのあるものにしている。
茶の湯、とりわけ千利休によって大成された「わび茶」は、禅宗の思想と分かちがたく結びついている。「茶禅一味」という言葉が示すように、茶の湯の精神は禅の精神と同一であるとさえ考えられてきた 43 。
その思想的特徴はいくつか挙げられる。第一に、質素・簡素を尊ぶ美意識である。華美な唐物道具だけでなく、ありふれた日用品の中に美を見出し、茶道具として用いる「見立て」の文化は、その象徴である 46 。第二に、静寂な空間で自己と向き合う精神性である。無駄を削ぎ落とした茶室で、一碗の茶を点て、喫するという行為は、坐禅による修行にも通じるものとされた 44 。これらの精神性は、日々の鍛錬を通じて自己を律しようとする武士階級に広く受け入れられた 44 。
一方で、「本願寺肩衝」が伝来した本願寺は、浄土真宗の総本山である。浄土真宗の教義は、禅宗とは根本的に異なる思想に基づいている。
異なる教義
浄土真宗の教えの核心は、「他力本願」にある 41。これは、自らの修行(自力)によって悟りを開くことを目指すのではなく、阿弥陀仏の慈悲の力(他力)にすべてを任せ、その救いを信じることで誰もが極楽浄土に往生できるとする教えである。これは、坐禅などの厳しい修行を通じて自力での悟りを追求する禅宗の思想とは、対極に位置するといっても過言ではない 50。
文化的実践としての受容
にもかかわらず、浄土真宗の最高指導者である本願寺法主・教如が、禅宗と深いつながりを持つ茶の湯に深く通じていたのはなぜか。その答えは、戦国時代における茶の湯の社会的な機能にある。この時代の茶の湯は、もはや特定の宗派の思想を体現するだけの閉じた文化ではなく、武士、公家、僧侶といった支配者階級全体に共有される、必須の教養であり、政治・社交の「共通言語」となっていた 51。
本願寺における茶の湯
この状況を踏まえると、本願寺にとっての茶の湯は、禅的な精神修行としてではなく、対外的な交渉や情報収集、さらには教団内部の結束を図るための、極めて実践的な文化的ツールとして受容され、活用されたと考えられる。堺の豪商であり、当代一流の茶人であった津田宗及が本願寺の茶会に出席している記録も残っており 53、本願寺が宗教的権威を保ちつつも、世俗の文化人や権力者と密接に交流していた様子がうかがえる。
「本願寺肩衝」という、茶の湯の粋を集めたような名物が、禅宗とは思想的に異なる浄土真宗の中枢に存在したという事実は、一見すると矛盾に満ちている。しかし、この矛盾を解く鍵は、戦国時代のプラグマティズム(実用主義)にある。
禅と茶の湯が思想的に高い親和性を持つことは事実である 44 。一方で、浄土真宗と禅の教義は根本的に異なる 41 。このギャップを埋めたのが、茶の湯が持っていた「社交ツール」としての圧倒的な有用性であった 51 。
教如は、父や弟との後継者争いに勝ち、家康ら天下の権力者の支持を取り付けて東本願寺を創立するという、極めて現実的な政治目標を持っていた。その目標達成のためには、当時の支配階級の共通言語であった茶の湯をマスターし、それをコミュニケーションの手段として駆使することは不可欠であった 29 。
したがって、本願寺における茶の湯の受容は、禅宗の精神性への思想的な共鳴から生まれたものではなく、自らの組織の維持・発展という「実利」のために、茶の湯という「文化形式」を戦略的に利用した、「プラグマティックな文化受容」であったと結論付けられる。イデオロギー(宗教教義)の違いを超えて、社会的な必要性(政治・外交)が文化の受容を促す。このダイナミズムを、「本願寺肩衝」は象徴しているのである。
戦国の世を駆け抜け、数奇な運命を辿った「本願寺肩衝」は、現代においてどのような位置にあるのか。その存在は、歴史的遺産の価値と、現代社会における権利の問題が交差する、複雑な地点に立っている。
現状
「本願寺肩衝」は、現在も真宗大谷派の本山である東本願寺の什物として、厳重に保管されているとみられる 6。しかし、天下三肩衝をはじめとする他の多くの大名物が、博物館などで定期的に公開され、その姿を我々が目にすることができるのとは対照的に、「本願寺肩衝」が一般に公開されることは、まずない。まさに秘宝中の秘宝として、その存在は厚いヴェールに包まれている。
非公開の理由
この徹底した非公開の姿勢は、本茶入が持つ特異な性格に起因する。第三章で詳述した通り、これは単なる美術品ではなく、本願寺の法灯の継承を象徴する三種の神器の一つであり、教団のアイデンティティの根幹に関わる、極めて神聖な宝物である 30。そのため、美術的価値よりも宗教的価値が優先され、不特定多数の目に触れさせるべきではないという判断が働いていると考えるのが自然である。それは、教団にとって最もプライベートで神聖な領域に属するものなのである。
「本願寺肩衝」のもう一つの特徴は、文化財指定を受けていないことである。これもまた、その特殊な位置づけを物語っている。
指定の不在
「初花肩衝」が重要文化財に指定されているのをはじめ 31、現存する他の著名な大名物の多くが、国宝や重要文化財に指定され、国民の文化遺産として保護の対象となっている 11。しかし、「本願寺肩衝」には、公的な文化財指定がない。
法的背景
文化財保護法は、文化財の保護と同時に、その公開活用を促進することを目的としている 57。しかし、文化財の所有者が宗教法人である場合、そこには慎重な配慮が求められる。日本国憲法第20条で保障された「信教の自由」や、宗教法人の自治権との調整が必要となるからである 58。実際に、宗教法人法では、法人の財産目録といった書類の閲覧権者を、信者やその他直接的な利害関係者に限定しており、第三者への無条件の公開を前提としていない 60。
聖なる什物か、国民の文化財か
これらの背景を考慮すると、「本願寺肩衝」に文化財指定がない理由は、所有者である東本願寺の意思が強く働いている結果であると推察される。東本願寺は、この茶入を、不特定多数の国民が共有する「文化財」としてではなく、あくまで自らの宗門に伝わる「聖なる什物」として位置づけている。その神聖性とプライバシーを、公的な管理下に置かれることよりも優先しているのである。これは、その歴史的経緯に鑑みれば、所有者として当然の判断ともいえる。
「本願寺肩衝」の徹底した非公開性と文化財指定の不在は、この茶入が持つ特異な歴史的経緯が、現代の法体系や価値観と交差する点に生じる、複雑な相克を象徴している。
美術史的、あるいは歴史的な観点から見れば、これほどの由緒と美しさを備えた器物は、紛れもなく国民的至宝と呼ぶにふさわしい。しかし、その価値の本質が、特定の宗教教団における最高権威の象徴である以上、所有者である宗教法人の権利と意思は最大限に尊重されなければならない。
この、文化遺産としての「公」の価値と、信仰の対象としての「私」の価値との間の緊張関係こそが、我々が「本願寺肩衝」の姿を直接目にすることができない根源的な理由である。この状況は、「歴史的遺産は誰のものか」という、現代社会が抱える根源的な問いを我々に突きつける。それは万人のための「国民の宝」なのか、それとも特定の共同体のアイデンティティと不可分な「魂の器」なのか。「本願寺肩衝」は、その問いに明確な答えが出せないまま、今なお静かに、しかし確固として存在し続けているのである。
「本願寺肩衝」は、戦国という激動の時代が生んだ、類い稀なる文化的複合体である。
その原点は、遠く南宋の地で、名もなき陶工の手によって生み出された一つの「美」の器であった。その普遍的な造形美は、やがて日本の数寄者たちの目にとまり、最高の格付けである「大名物」の称号を与えられる。
そして戦国の世においては、信長や秀吉が築いた権力闘争の舞台で通用する「政治」の道具としての価値をまとう。当代一流の茶人たちがこれを評価し、所望したという事実は、その世俗的価値の高さを物語っている。
しかし、この茶入を真に唯一無二の存在たらしめたのは、巨大宗教教団・本願寺のトップの座、すなわち法灯の継承を象徴する「聖」なる証としての役割であった。この究極の価値は、他のいかなる名物も持ち得なかった、異次元の権威をこの茶入に与えた。
美、政治、そして聖。この三つの異なる価値が、一つの茶入の中に奇跡的に同居し、さらに教如という一人の人間の、権力闘争から深い情愛に至るまでの激動の生涯と分かちがたく重なり合う。その重層的な物語は、今なお東本願寺の奥深くで静かに息づいている。我々がその姿を直接目にすることは叶わないかもしれない。しかし、その存在は、歴史の多層性と、一つの物が語りうる物語の深遠さを、時代を超えて我々に教えてくれるのである。