松前肩衝は、古瀬戸焼の大名物茶入。その名は蝦夷地との交易に由来か。秋田佐竹家を経て徳川将軍家へ献上され、柳営御物となる。和物ながら唐物と並ぶ価値を持ち、日本の美意識の変遷を象徴する。
茶の湯の世界において、器物は単なる道具にとどまらず、所有者の権威、美意識、そして時代精神を映し出す鏡として機能してきた。その頂点に君臨するのが「名物」と称される茶道具群であり、中でも千利休以前に選定された最高位の器物は「大名物(おおめいぶつ)」と呼ばれ、格別の敬意を払われる 1 。これらの多くは、室町幕府の足利将軍家が収集した「東山御物」に代表されるように、中国大陸からもたらされた「唐物(からもの)」が中心を占めてきた 3 。
このような唐物中心の価値観の中で、日本の古瀬戸(こせと)で焼かれた「松前肩衝(まつまえかたつき)」が「大名物」の栄誉に浴しているという事実は、極めて重要かつ特筆すべき点である 5 。その名は『玩貨名物記』や『古今名物類聚』といった江戸時代を代表する名物記にも記され、古くからその評価が確立されていたことを物語っている 5 。
しかし、この茶入には多くの謎が残されている。なぜこの和物茶入は、舶来品を至上とする価値観が支配的であった時代に、最高峰の価値を見出されたのか。そして、その名に冠された「松前」という言葉は、いかなる歴史的背景を秘めているのか。本報告書は、この「松前肩衝」を多角的に分析し、器物の物理的特徴から、その伝来の軌跡、そして「大名物」という格付けが持つ深層的な意味までを徹底的に解明することを目的とする。これにより、一つの茶入が戦国時代から江戸時代にかけての日本の政治、経済、そして美意識の変遷をいかに体現しているかを明らかにしていく。
「松前肩衝」が「大名物」として評価された根源には、その比類なき造形美と、古瀬戸焼の粋を集めたかのような風格が存在する。本章では、器物としての物理的特徴を詳細に分析し、その美的価値の源泉を探る。
茶入の風格を決定づける上で、その寸法と形状は極めて重要な要素となる。「松前肩衝」は、数ある名物茶入の中でも特に大振りで、見る者に強い印象を与える。江戸時代後期に編纂された『大正名器鑑』には、その具体的な寸法が以下のように記録されている 6 。
項目 |
内容 |
出典 |
名称 |
松前肩衝(まつまえかたつき) |
『玩貨名物記』等 |
分類 |
大名物、古瀬戸肩衝茶入 |
『古今名物類聚』等 |
高さ |
三寸八分五厘(約11.7cm) |
『大正名器鑑』 |
胴径 |
二寸三分強(約7.0cm) |
同上 |
口径 |
一寸四分(約4.2cm) |
同上 |
底径 |
一寸三分五厘(約4.1cm) |
同上 |
甑高 |
二分五厘強(約0.8cm) |
同上 |
肩幅 |
三分(約0.9cm) |
同上 |
重量 |
五七匁三分(約214.9g) |
同上 |
高さが三寸八分五厘(約11.7cm)に達するという数値は、一般的な茶入が二寸台(6cm台)から三寸前半(9cm台)に多いことを鑑みれば、際立って丈が高いことを示している。この堂々たる姿は、単に大きいというだけでなく、垂直性を意識した力強い造形感覚を反映しており、戦国武将たちが自身の権威を投影するにふさわしい威厳と風格を備えていた。この物理的な存在感こそが、他の茶入と一線を画し、「大名物」としての格を裏付ける第一の要因であったと考えられる。
「松前肩衝」の表面を彩る釉薬の色調と、そこに現れた「景色」は、その美しさの中核をなす。伝書によれば、その地色は「総体に栗色のような黒ずんだ柿金気色」と表現される 5 。これは古瀬戸焼に特徴的な、鉄分を多く含んだ土と釉薬が高温で焼成されることによって生まれる、深く落ち着いた色合いである 7 。光の加減によって栗色にも、あるいは黒みがかった柿色にも見える複雑な色調は、飽きのこない深い味わいを醸し出している。
この茶入の鑑賞における最大の要点は、窯の中で偶発的に生まれた文様、すなわち「景色」である。特に二つの景色が記録されている。一つは「置形(おきがた)に黒釉の景色」 5 。これは、地釉の上に掛けられた黒釉が、意図せずして特定の形を成して流れた部分を指す。あたかも器の上に文様を「置いた」かのように見えることからこの名がある。この黒釉の「なだれ」は、静的な器の表面に動的なリズムと視覚的な焦点を生み出し、器全体の表情を引き締めている。
もう一つの重要な景色は、「裾際に鼠色土が半月のように黒釉中に湾大したところ」である 5 。これは器の裾の部分で、釉薬が掛かりきらずに素地(きじ)である土が覗いている部分を指す。その形状が半月のように見え、黒い釉薬との対比によって鮮やかな印象を与えている。このような土見せの部分は、陶器が「土」という素材から生まれていることを鑑賞者に再認識させ、洗練された釉薬の美と、素朴な土の力強さという二つの異なる要素を一つの器の中で調和させている。これら二つとして同じものが存在しない自然の景色こそが、この器を唯一無二の存在たらしめているのである。
器の出自と作風を探る上で、底部の処理は重要な手がかりとなる。「松前肩衝」は「糸切は荒い」と記録されている 5 。糸切とは、回転する轆轤(ろくろ)から作品を切り離す際に残る渦状の痕跡であり、和物の茶入、特に古瀬戸の鑑定においては重要な見どころの一つである 8 。この「荒さ」は、技術的な未熟さを示すものではない。むしろ、精緻を極めた唐物とは対照的に、作り手の勢いや土の力感をあえて残した、作為のない美しさの表れと解釈される。この力強く素朴な作行きは、後の千利休が確立する「わび茶」の精神、すなわち不完全さの中に美を見出す美意識を先取りするものであった。
古瀬戸焼には、作風によって「広沢手(ひろさわで)」や「玉柏手(たまがしわで)」といったいくつかの「手(て)」と呼ばれる分類が存在する 9 。しかし、「松前肩衝」の伝書における記述は、これらの特定の「手」の約束事に完全に合致するものではない。この事実は、「松前肩衝」が特定の流派や工房の定型的な作例ではなく、その中でも特に傑出した、あるいは定型から逸脱した孤高の作例であった可能性を示唆している。
結論として、「松前肩衝」の物理的特徴は、一見すると相反する二つの要素―「威風堂々たる姿」と「素朴で荒々しい細部」―の共存によって成り立っている。この威厳と素朴さの絶妙な調和こそが、この器の比類なき魅力の源泉である。そして、この両価的な美しさが、唐物一辺倒ではない新しい価値観を模索していた室町時代末期の数寄者たちの眼に留まり、「大名物」という最高位へと押し上げる原動力となったのである。
一つの茶入の価値は、その造形美だけでなく、いかなる人物の所蔵を経てきたかという「伝来」によっても大きく左右される。「松前肩衝」の旅路は、北の辺境から始まり、地方の有力大名を経て、最終的には天下人の秘蔵となる、まさに日本の歴史の縮図ともいえる壮大な物語を内包している。
「松前肩衝」がまとう最大の謎は、その名の由来である。「松前はもとの所持者の名であろうが誰であるかは不詳」 5 という記録が示す通り、その名は最初の所持者に由来すると推測されている。茶入の銘は、旧所持者の名や官職、屋号に由来することが極めて多い 10 。例えば、「新田肩衝」は新田氏、「宮王肩衝」は宮王大夫という人物に因んでいる 6 。この慣例に従えば、「松前」という人物、あるいは松前氏と名乗る一族が最初の所有者であったと考えるのが最も自然である。
しかし、この「松前」という名を持つ人物は、茶の湯の歴史においてその名を特定することができていない。ここで、別の可能性が浮上する。それは、「松前」が人名ではなく、地名、すなわち蝦夷地(現在の北海道)を拠点とした松前藩、あるいはその地域そのものを指しているという説である。この仮説を裏付ける鍵は、次の所有者である秋田・佐竹家との地理的関係にある。
一見すると、北の果てである松前と、日本海に面した秋田との間には直接的な関係が見出しにくい。しかし、歴史を紐解くと、両者は近世日本の経済を支えた「北前船」の交易ルートによって密接に結ばれていたことがわかる 11 。北前船は、大坂から生活物資を積み、日本海沿岸の港に寄りながら蝦夷地へ向かい、帰りには蝦夷地の昆布や鰊、海産物などを積んで再び上方に帰るという交易を担っていた 12 。秋田の土崎港は、このルートにおける重要な寄港地の一つであった。
この歴史的背景を考慮すると、一つの有力な伝来経路が浮かび上がる。すなわち、松前藩の関係者、あるいは蝦夷地で活動していた豪商が所持していたこの茶入が、北前船による交易活動を通じて、経済的な結びつきの強い秋田の佐竹家、あるいはその家臣の手に渡ったという可能性である。この仮説に立てば、「松前肩衝」は単なる美術品の移動ではなく、近世日本のダイナミックな経済活動が生んだ文化交流の証人という、新たな側面を帯びることになる。
「松前」の人物あるいは地を離れたこの茶入は、次に出羽国久保田藩(秋田藩)主、佐竹右京大夫家の所蔵となる 5 。佐竹氏は、清和源氏の流れを汲む名門であり、戦国時代には常陸国を拠点に大きな勢力を誇った大名である。関ヶ原の戦いの後、徳川家康によって秋田へ転封されたが、その家格は高く評価されていた。
このような名門大名にとって、「大名物」を所有することは、単なる茶の湯の趣味を超えた、極めて重要な意味を持っていた。それは第一に、大名としての「家格」を内外に示す象徴であった。特に佐竹家のような外様大名にとっては、文化的な権威を持つことが、幕府や他の大名との関係において有利に働くこともあった。第二に、それは藩の「経済力」の証でもあった。名物茶入は、時に城一つに匹敵すると言われるほどの資産価値を持ち、その所有は藩の豊かさを物語るものであった。この「松前肩衝」は、秋田佐竹家において、藩の至宝として代々大切に受け継がれていったのである。
佐竹家に秘蔵されていた「松前肩衝」の運命が大きく転換するのは、元禄年間(1688年-1704年)のことである。この時期、佐竹家から徳川幕府へ献上され、将軍家秘蔵の宝物を意味する「柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)」の一員となった 5 。この献上は、当時の政治的状況と深く結びついた、高度な意味を持つ行為であった。
この献上の背景には、江戸時代前期の一大事件である明暦の大火(1657年)が影を落としている。この大火により江戸城は甚大な被害を受け、天守閣をはじめとする多くの建造物と共に、徳川将軍家が代々受け継いできた宝物、すなわち「柳営御物」の大部分が焼失してしまった 13 。将軍家の権威の象徴である「御物」のコレクションが失われたことは、幕府の威信を揺るがしかねない深刻な事態であった。
そのため、幕府は権威の再確立を目指し、焼失したコレクションの再構築を急務とした。その過程で、諸大名からの献上が重要な役割を果たしたのである 13 。佐竹家による「松前肩衝」の献上は、まさにこの歴史的文脈の中に位置づけられる。それは単なる忠誠の証としての贈り物ではない。自藩が秘蔵する最高級の「大名物」を差し出すことで、幕府の権威回復に積極的に協力する姿勢を示すと共に、そのような至宝を所有し、かつ献上できるだけの「藩の格」を誇示する、極めて戦略的な政治行為だったのである。
この献上によって、「松前肩衝」は一個の大名家の所有物を超え、天下の公器、すなわち徳川幕府の治世を象'徴する存在へとその地位を昇華させた。北の地から始まったこの茶入の旅は、ついに日本の権力の頂点である将軍家の蔵に収まることで、一つの頂点を迎えたのである。
「松前肩衝」の価値を理解する上で、「大名物」という格付けが持つ意味を深く掘り下げることは不可欠である。この格付けは、単なる品質の良し悪しを示す序列ではなく、日本の茶の湯文化における美意識の変遷と、価値観の構造を映し出すものである。
茶道具の格付けは、歴史的に形成されたものであり、主に三つの階級に大別される 15 。
この格付けの枠組みは、江戸時代後期に松江藩主であった大名茶人、松平不昧(治郷、1751年-1818年)が編纂した『雲州名物帳』や『古今名物類聚』などによって体系化され、今日に至るまで茶道具評価の基準として広く受け入れられている 4 。この分類において、「松前肩衝」は最も格の高い「大名物」に位置づけられているのである。
「松前肩衝」が「大名物」であることの最も重要かつ画期的な意味は、それが「和物(わもの)」、すなわち日本国内で制作された陶器であるという点に尽きる。
「大名物」として今日に伝わる器物の多くは、中国(唐)からもたらされた「唐物」であった。例えば、天下三肩衝と称される「楢柴肩衝」「新田肩衝」「初花肩衝」や、国宝に指定されている「曜変天目茶碗」など、その代表例は枚挙にいとまがない 3 。これらは当時の日本においては技術的にも到達不可能な領域にあると見なされ、その希少性と相まって絶対的な価値を持つものとして珍重された。
このような唐物を絶対視する価値観が支配的であった時代に、国産の古瀬戸焼である「松前肩衝」が最高位の「大名物」に選ばれているという事実は、極めて異例であり、日本の美意識史における一つの転換点を示唆している。これは、室町時代末期から戦国時代にかけて、すでに一部の先進的な数寄者たちの間で、舶来品を無条件に尊ぶ価値観から脱却し、日本独自の美、すなわち作為のない素朴さや力強い造形の中に新たな価値を見出そうとする動きがあったことを示す強力な証拠となる。
この動きは、後に千利休が「わび茶」として大成させる美意識の萌芽であった。洗練され、均整のとれた唐物の美しさとは対極にある、不完全で非対称な「松前肩衝」の美を高く評価したということは、日本の文化が独自の審美眼を確立していく上での、重要な一歩であったと言える。したがって、「松前肩衝」の存在は、単なる優れた和物茶入というだけでなく、日本の美意識史における価値の革命を象徴する記念碑的な器物なのである。
「松前肩衝」に関する情報を調査する過程で、一部の資料に「十等級」という評価が見られることがある 17 。この数字による序列化は、一見すると歴史的な格付けのように思えるが、その背景を慎重に検討する必要がある。
結論から言えば、この「十等級」という評価は、歴史的な茶道具の格付け(大名物・名物・中興名物)とは全く異なる文脈で生まれたものである。前述の通り、『玩貨名物記』や『雲州名物帳』といった歴史的典拠や茶道史の常識において、「松前肩衝」は「大名物」という質的な評価を与えられており、数字で序列化されることはない 1 。
「十等級」という記述が見られる資料を分析すると、その多くが歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』シリーズに登場するアイテムのデータに由来している可能性が極めて高い 19 。このゲームでは、歴史上の様々な「家宝」が、ゲーム内での効果を決定するためのパラメーターとして数値化されており、「松前肩衝」もその一つとして「等級」という形で評価されているのである。
これは、歴史的遺産が現代のポップカルチャーの中で、新たな文脈を与えられて再解釈・消費されている興味深い事例である。歴史的な文脈における「大名物」という評価が、その器の持つ由緒や美意識の深さを物語るのに対し、ゲーム内での「等級」は、あくまでもエンターテインメントとしての機能性を目的とした評価である。本報告書としては、この二つの評価軸を明確に区別し、後者が「松前肩衝」の知名度を現代の幅広い層に広める一助となっている側面も、現代的な受容の一形態として指摘しておきたい。
本報告書で詳述してきたように、大名物「松前肩衝」は、単なる古美術品としてその価値を語り尽くせるものではない。それは、作者不詳の一介の陶器としてこの世に生まれながら、その類まれな美的価値によって時代の数寄者に見出され、「大名物」という最高の栄誉を冠するに至った。その造形は、戦国武将の求める威厳と、わびの精神に通じる素朴さという、二つの価値観を内包する稀有な存在であった。
その伝来の軌跡は、日本の歴史のダイナミズムそのものである。北の辺境「松前」から、近世経済の大動脈であった北前船の交易ルートを南下し、秋田佐竹家という有力大名の権威の象徴となった。そして最終的には、元禄という文化が爛熟した時代に、天下泰平の世を治める徳川将軍家の至宝「柳営御物」として、日本の権力の中心へと至ったのである。
この一つの茶入の物語は、戦国の群雄割拠から、経済が列島を結びつけ、中央集権的な幕藩体制が確立されるという、日本の歴史の大きな潮流を内包している。さらに、唐物を絶対視する価値観から、日本独自の美意識が確立されていく文化史的な転換点をも象徴している。
「松前肩衝」は、もはやその姿を公に目にすることは叶わないかもしれない。しかし、その伝来と評価の歴史を丹念に追うことで、我々はそれが単なる静的な美術品ではなく、時代時代の権力者、経済、そして美意識と深く関わりながらその価値を変容させてきた、生きた歴史の証人であることを理解できる。この小さな茶入は、日本の歴史の豊かさと複雑さを、今なお我々に雄弁に語りかけているのである。