狩野山楽「松鷹図」は、桃山時代の精神と山楽の運命を映す傑作。大覚寺本は親子の情愛、二条城本は徳川の武威を表現し、永徳様式を継承しつつ独自の画境を拓いた。
京都・嵯峨野に佇む旧嵯峨御所大覚寺。その正寝殿「鷹の間」を飾る一連の障壁画、重要文化財「松鷹図」は、観る者を静謐でありながらも抗い難い力で圧倒する 1 。墨の濃淡と余白のみで構成された世界に、巨大な松の老木がうねり、一羽の鷹が鋭い眼光を放つ。これは単なる水墨画ではない。安土桃山という激動の時代の精神を凝縮し、戦国の世を生きた一人の絵師の数奇な運命が刻印された、歴史的芸術作品である。
作者は、狩野山楽(1559-1635)。師である狩野永徳の豪壮な様式を継承しながらも、それを超克し、独自の画境を切り拓いた桃山時代末期から江戸時代初期にかけての巨匠として知られる 3 。彼の名は、師・永徳や、江戸狩野の祖となった狩野探幽の輝きの陰に隠れがちであった。しかし、この「松鷹図」をはじめとする彼の作品群は、時代の転換期に生きた芸術家ならではの、複雑で多層的な魅力を秘めている。
本報告書は、この狩野山楽筆「松鷹図」を、「戦国時代」という視座から多角的に分析し、その全貌を解明することを目的とする。作品の様式論に留まらず、作者・山楽の波乱に満ちた生涯、主題である「松」と「鷹」に込められた象徴性、そして豊臣家と徳川家という二つの巨大権力との関わりの中で、この作品がいかにして生み出されたのかを徹底的に考察する。大覚寺の作品を基軸としつつ、近年山楽筆と断定された二条城の「松鷹図」との比較研究を通じて、桃山の残光と江戸の黎明が交錯する時代精神の結晶としての価値を明らかにしていく。
狩野山楽の「松鷹図」を理解するためには、まず、彼が生きた時代、すなわち安土桃山時代の芸術的潮流とその中心にいた師・狩野永徳の存在を把握することが不可欠である。この時代の芸術は、天下統一を目指す覇者たちの野心と美意識を色濃く反映していた。
織田信長、そして豊臣秀吉といった天下人は、自らの絶大な権威を天下に示すため、安土城、大坂城、聚楽第といった前代未聞の規模を誇る壮麗な城郭建築を次々と造営した 7 。これらの巨大建築の内部空間、すなわち広大な広間や廊下を埋め尽くすための装飾として、障壁画(襖絵)の需要が爆発的に高まった 8 。この時代の美意識の根幹をなすのは、見る者を圧倒する「豪華絢爛」さであった。金箔や金粉を惜しげもなく用いた金碧障壁画は、薄暗い城郭の内部を黄金の光で満たし、権力者の威光を視覚的に増幅させるための、まさに「舞台装置」としての役割を担っていたのである 10 。
この時代の要請に完璧に応えたのが、室町時代から続く画壇の名門、狩野派であった。彼らは工房的な制作体制を確立しており、大規模な障壁画制作の注文に組織的に対応することができた 6 。そして、この狩野派を率い、桃山画壇の頂点に君臨したのが、狩野永徳(1543-1590)であった。
永徳は、時代の覇者たちの気宇壮大な精神を体現する、全く新しい絵画様式を創造した。それは、画面からはみ出すほどの巨大なモチーフを、力強く、速い筆致で描く豪壮なスタイルであり、「大画様式」と呼ばれる 14 。永徳の芸術は、単に権力者の好みに迎合しただけでなく、戦国乱世の持つ荒々しいエネルギーそのものを造形化したものであった。彼の代表作には、その本質が明確に示されている。
国宝「唐獅子図屏風」は、その典型である。金地の背景に、二頭の唐獅子が闊歩する様は、圧倒的なスケール感と生命力に満ちている 17 。その豪放な筆致と量感豊かな形態把握は、弱肉強食の時代における「強く、逞しく、猛きもの」への渇望を見事に表現している 19 。この作品は、もとは城郭の壁面を飾っていたとされ、秀吉のような権力者がその前に座すことで、来訪者を威圧する効果を持っていたと考えられている 20 。
もう一つの国宝「檜図屏風」は、山楽の「松鷹図」を考察する上で特に重要である。この作品では、巨大な檜がまるで蛇がのたうつかのように幹をくねらせ、枝を画面いっぱいに広げている 21 。描かれるモチーフは檜と岩、水面のみに限定され、色彩も整理されていることで、主題である檜の持つ圧倒的な生命エネルギーがより強調されている 22 。この、画面の枠を突き破るかのような巨木の構図は、永徳の「大画様式」の極致であり、後の山楽の「松鷹図」における松の描き方に直接的な影響を与えたことは疑いようがない 3 。
永徳の芸術は、時代の政治的・社会的エネルギーと不可分であった。信長や秀吉の天下統一事業が持つ破壊的な創造性と、永徳の「大画様式」が持つ画面を支配する力は、互いに共鳴しあっていた。彼の絵画は、単なる美術品ではなく、権力装置の一部として機能していたのである。この文脈を理解することこそ、その様式を継承した弟子・山楽の作品を深く読み解くための不可欠な前提となる。
狩野山楽の芸術は、彼の波乱に満ちた生涯と分かち難く結びついている。戦国の動乱に生まれ、豊臣政権下で栄光を掴み、そして豊臣家滅亡後は死の淵をさまよう。彼の人生そのものが、桃山から江戸へと移行する時代の縮図であった。
狩野山楽は、永禄2年(1559年)、近江国に生まれた。本姓を木村、名を光頼という 24 。父・木村永光は、戦国大名・浅井長政の家臣であった 24 。天正元年(1573年)に浅井氏が織田信長によって滅ぼされた後、父・永光は豊臣秀吉に仕えることとなる。この主家の変転が、山楽の運命を決定づけた。画才に秀でていた山楽は秀吉に見出され、その推挙によって、当時画壇の最高権威であった狩野永徳の門下に入ったのである 26 。戦国の動乱がなければ、一武将の子であった彼が、狩野派の門を叩くことはなかったであろう。これは、まさしく時代が生んだ邂逅であった。
永徳門下で頭角を現した山楽は、師の右腕として、大坂城や聚楽第といった豊臣家の巨大プロジェクトにおける障壁画制作に深く関与したと推測される 27 。天正18年(1590年)に師・永徳が急逝すると、山楽は豊臣家の御用絵師として、その中心的役割を担うようになる 5 。この時期、山楽は永徳の豪壮な「大画様式」を最も正統に継承する実力者として、その地位を不動のものとしていった。
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣家は滅亡する。山楽の運命は、主家と共に暗転した。彼が心血を注いだ大坂城の障壁画はことごとく灰燼に帰し、山楽自身も豊臣家の残党として、新たな支配者である徳川幕府から命を狙われる身となったのである 26 。絵師がパトロンと一蓮托生であった時代の過酷さが、ここにある。彼は潜伏を余儀なくされ、画家としてのキャリアは断絶の危機に瀕した。
この絶体絶命の窮地から山楽を救ったのは、武力ではなく文化の力であった。当代随一の文化人であった松花堂昭乗や、公家の名門である九条家の当主・九条幸家らが幕府への取りなしに動いた結果、山楽は赦免されたのである 26 。この経験は、山楽の後半生と、彼が築くことになる画派の性格を決定づけた。
永徳の血を引く狩野宗家は、徳川幕府の御用絵師として江戸へ移り、「江戸狩野」として新たな体制を築いていく。一方、山楽は京都に留まり、活動を続けた。これが、後に「京狩野」と呼ばれる一派の始まりである 5 。彼は、豊臣家への忠誠、滅亡による死の恐怖、そして文化人や公家の庇護による再生という劇的な経験を経て、新たな芸術の境地を切り拓いていくことになる。その画風には、師・永徳譲りの豪壮さに加え、より深い精神性、人間的な温かみ、そして苦難を乗り越えた者だけが持ちうる、計算された理知性が宿るようになった。彼の芸術は、戦国の世を生き抜き、新たな時代の価値観を模索する中で、より複雑で多層的なものへと深化していったのである。
狩野山楽の芸術と思想を最も色濃く映し出す作品、それが大覚寺の「松鷹図」である。この障壁画は、単なる様式美の追求に留まらず、作者の個人的なメッセージが込められた、極めて特異な作品として分析することができる。
本作は、京都・大覚寺の正寝殿(しょうしんでん)、「鷹の間」の四方を飾る障壁画であり、襖12面と壁貼付絵1面から構成される 1 。制作年代は安土桃山時代から江戸時代初期(16世紀から17世紀)とされ、山楽の壮年期から円熟期にかけての代表作と位置づけられている 1 。金碧画が主流であった桃山時代において、水墨で描かれた本作は、その重厚で静謐な雰囲気によって異彩を放っている 34 。
この障壁画の最も際立った特徴は、その大胆にして奇抜な構図にある。中心となる松の巨木は、画面下から天に向かって力強く幹を伸ばし、一度画面上部を突き破ってフレームアウトした後、再び画面内に枝を垂らすという、極めて動的な構成をとる 3 。この「怪怪奇奇な構図」と評されるほどのダイナミズムは、師である狩野永徳の国宝「檜図屏風」の構成を明らかに継承したものである 3 。永徳の「大画様式」のDNAが、山楽の中に脈々と受け継がれていることを示している。
しかし、山楽は単なる模倣に終わらない。永徳の「檜図」が金地と濃彩による圧倒的な物質感で迫ってくるのに対し、山楽の「松鷹図」は水墨画である 3 。金地の圧迫感がない分、墨の濃淡、潤渇、そして描かれざる部分である「余白」が、より重要な意味を持つ。力強い筆致で描かれた松の幹や岩肌と、淡墨で描かれた遠景や霧との対比は、画面に深い奥行きと静寂、そして精神的な広がりを与えている 1 。永徳譲りの力強さの中に、計算され尽くした静謐さを共存させている点に、山楽の芸術家としての成熟と独自性が明確に見て取れる 4 。
画題である「松鷹図」は、武家社会において特別な意味を持つ。常緑樹である松は、一年を通じて緑を保つことから永遠の生命力や繁栄を象徴し、鷹は百鳥の王として、その勇猛さから武勇や権威の象徴とされてきた 35 。この二つを組み合わせた画題は、室町時代から武将たちに好まれ、特に戦国時代には、自らの武威と家の永続を願う象徴として盛んに描かれた 38 。大覚寺の「松鷹図」も、一見すればこの伝統的な図像の系譜に連なるものと解釈できる。
しかし、この作品には、従来の「松鷹図」の定型的な解釈を根底から覆す、決定的な要素が描き込まれている。それは、鷹の視線の先にあるものである。岩場に立つ親鷹の鋭い眼差しは、敵を威嚇しているのでも、獲物を狙っているのでもない。その視線は、松の枝にかけられた巣の中にいる、か弱い雛たちへと注がれているのである 3 。
この「親子の鷹」というモチーフは、極めて異例であり、この作品に込められた真の意味を解き明かす鍵となる。ここで描かれている鷹は、単なる武威の象徴としての猛禽ではない。自らの子を守り、育む「親」としての慈愛に満ちた存在として描かれているのだ。この「武人」としての力強さと、「親」としての優しさという二重性は、まさしく天下人・豊臣秀吉の姿と重なり合う。秀吉は、戦国の世を勝ち抜いた覇者であると同時に、晩年にようやく授かった待望の世継ぎ・秀頼の将来を誰よりも案じる一人の父親であった。
豊臣政権の最大の課題が、秀吉亡き後の後継者問題であったことを考えれば、この「力強い親が、あらゆる外敵から子を守る」という構図は、豊臣家の安泰と血筋の永続を願う、極めて政治的な寓意画として解釈することが可能である。豊臣家恩顧の絵師であった山楽は、主君への忠誠心と、その政権の未来への切なる祈りを、この比類なき「松鷹図」に託したのではないだろうか。この障壁画は、戦国の価値観を体現しつつ、そこに父性の情愛という人間的なテーマを織り込んだ、山楽畢生の名作と言える。
狩野山楽の芸術の多面性と、彼が生きた時代の複雑さを理解するためには、大覚寺の作品と並び称されるべき、もう一つの「松鷹図」との比較が不可欠である。それは、徳川の権威の象徴、二条城に描かれた障壁画である。
世界遺産・元離宮二条城。その中心である国宝・二の丸御殿は、徳川家康が創建し、三代将軍・家光の時代に後水尾天皇の行幸を迎えるにあたり、寛永3年(1626年)に大規模な改修が行われた 42 。この時、御殿内部の障壁画は、狩野探幽を総帥とする狩野派一門によって一新された。その中でも、大広間四の間の障壁画「松鷹図」は、長らく若き日の探幽の作とされてきた 44 。しかし、近年の研究により、その力強い桃山的な画風から、筆者は狩野山楽であると断定されるに至った 44 。この部屋は、将軍の上洛時には武器庫として使われたとされ、まさしく徳川の武威を象徴する空間であった 35 。
この二つの「松鷹図」は、同じ作者が同じ画題を描きながら、その表現は対極的とも言えるほど異なっている。この差異を分析することで、山楽という絵師の驚くべき技量と、作品が置かれた場の機能がいかに芸術様式を規定するかが明らかになる。
比較項目 |
大覚寺 正寝殿「松鷹図」 |
二条城 二の丸御殿「松鷹図」 |
制作年代 |
安土桃山~江戸時代初期(16~17世紀) |
江戸時代初期(寛永3年/1626年頃) |
画材・技法 |
紙本墨画(水墨画) |
紙本金地著色(金碧画) |
構成 |
襖12面、壁貼付絵1面 |
障壁画37面(現存数) |
設置場所 |
正寝殿「鷹の間」(門跡の居室) |
大広間「四の間」(武器庫、対面所の控え) |
主題の主眼 |
武威、生命力、親子の情愛 |
徳川の武威、永続的な繁栄 |
様式的特徴 |
永徳様式を継承した動的な構図、水墨による静謐さと力強さの共存 |
桃山様式を踏襲した豪壮さ、金碧画による圧倒的な権威の演出 |
大覚寺の作品が、墨の濃淡と余白を活かした水墨画であるのに対し、二条城のそれは、背景に金箔を貼り詰めた豪華絢爛な金碧画である 48 。これは、新たな天下人となった徳川幕府の絶対的な権威と永続的な繁栄を、誰の目にも明らかな形で示すための選択であった 50 。桃山時代に確立された豪壮な様式を最大限に活用し、見る者を圧倒する視覚効果を狙っている。
主題の扱いも大きく異なる。大覚寺の鷹が巣の雛を見守る「親」としての側面を強く打ち出していたのに対し、二条城の鷹は、そのような人間的な情愛を一切排し、純粋な「武の象徴」として、ただただ勇壮に描かれている 48 。そこには、徳川の揺るぎない力を誇示する以外の意図は入り込む余地がない。
この表現の差異は、それぞれの障壁画が設置された「場」の機能の違いに起因する。大覚寺の正寝殿は、皇族や公家が住職を務めた門跡寺院の、いわば私的な居住空間であった 1 。ここでは、内省的で精神性の高い水墨画がふさわしい。一方、二条城の大広間は、天皇を迎え、諸大名を謁見するという、国家の威信をかけた極めて公的な儀礼空間である 42 。この場所では、徳川の権威が一目で理解できる、明快で圧倒的な芸術表現が求められたのである 11 。
豊臣恩顧の絵師であった山楽が、徳川の威光を示すための最重要プロジェクトである二条城の障壁画制作に、中心人物の一人として参加したという事実は、驚くべきことである 47 。これは、彼の画技が党派性を超えて当代随一であったことの証明に他ならない。同時に、彼が時代の変化を的確に読み、パトロンの意図を完璧に汲み取って、表現様式を自在に使い分けることのできる、優れた戦略家であったことを示している。豊臣家のために描いたであろう大覚寺の作品と、徳川家のために描いた二条城の作品。この二つの「松鷹図」は、山楽の芸術的な幅広さの証であると同時に、激動の時代を生き抜いた彼の、したたかな生存戦略の記念碑でもあるのだ。
狩野山楽の芸術は、桃山時代後期の狩野派の中で、そして日本美術史の大きな流れの中で、どのような位置を占めるのか。彼の作品は、師・永徳の遺産をいかに継承し、次代へと橋渡ししたのかを考察する。
天正18年(1590年)の狩野永徳の急逝は、狩野派にとって大きな転機であった 29 。絶対的な指導者を失った一門は、時代の変化に対応すべく、多様な道を模索し始める。
永徳の長男として宗家を継いだ狩野光信は、父の豪壮な「大画様式」とは対照的に、伝統的な大和絵の要素を取り入れた、優美で繊細、叙情的な画風を志向した 26 。その穏やかな作風は、父の圧倒的な影響下から脱しようとする意識の表れとも考えられる。一方、永徳の弟である狩野宗秀は、兄の画風を忠実に守り、その影武者的な役割を果たしたが、独創性という点では兄に及ばなかったと評されている 26 。
こうした中で、狩野山楽は、永徳の「大画様式」の豪壮さを最も色濃く受け継ぎながら、そこに独自の装飾性や写実性を加え、より円熟した様式へと昇華させた存在であった 6 。彼は永徳の血縁者ではなかったが、芸術的には師の最も正統な後継者であったと言えるだろう。偉大すぎる父を持つがゆえにその様式から距離を置いた光信とは対照的に、血縁のない弟子であった山楽は、永徳の様式を客観的に「最強の武器」として捉え、それを徹底的に学び、磨き上げ、自らのものとすることに躊躇がなかった。結果として、彼は永徳様式の本質を最も純粋な形で次代に伝える役割を担うことになったのである。
徳川の世となり、狩野宗家が江戸へ下って幕府の御用絵師集団「江戸狩野」の中核をなしたのに対し、山楽は京都に留まり活動を続けた。これが「京狩野」の始まりである 33 。彼の画風は、娘婿であり養子となった狩野山雪へと受け継がれた 57 。山雪は、山楽の様式を基礎としながらも、古画研究に裏打ちされた知的で、時に奇抜ともいえる独自の画風を確立し、京狩野の個性を際立たせた。
狩野山楽の芸術は、一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを体現している。彼の作品には、永徳に代表される桃山文化の、生命力とエネルギーが満ち溢れている。しかし同時に、その表現は過剰な部分が削ぎ落とされ、より計算された構図と、洗練された理知的な装飾性を持つ 4 。それは、下剋上の混沌とした戦国が終わりを告げ、秩序と安定を志向する江戸という新たな時代へと向かう、過渡期の精神を見事に捉えている。彼の描く「松鷹図」は、桃山の力強さを持ちながらも、もはや戦乱の世の荒々しさではなく、泰平の世の支配者にふさわしい、揺るぎない威厳と静謐さを湛えているのである。
本報告書を通じて行ってきた多角的な分析の結果、狩野山楽筆「松鷹図」は、単に松と鷹というモチーフを描いた美しい絵画という評価に留まるものではないことが明らかになった。それは、戦国乱世の武将たちが求めた武威と永続性の象徴であり、滅びゆく豊臣家の安泰を願う忠臣の祈りが込められた寓意画であり、そして新たな天下人である徳川の威光を示すための壮大なプロパガンダでもあった。一枚の絵画が、これほどまでに重層的な歴史的意味を担う例は稀である。
作者である狩野山楽もまた、再評価されるべき画家である。彼は、師・永徳の巨大な影に隠れがちであったが、その芸術は永徳の豪放さを受け継ぎながら、より理知的で、時には人間的な情愛に満ちた深い精神性を加えた、独自の高みに到達していた。豊臣と徳川という二つの時代、二つの政権を生き抜き、その類稀なる筆一本で自らの道を切り拓いた彼は、真に戦国の世が生んだ不屈の芸術家であった。
大覚寺と二条城、二つの「松鷹図」を比較分析することによって、我々は、芸術作品がその置かれた文脈――作者の運命、注文主の意図、そして時代の精神――によって、いかにその意味を変容させるかを目の当たりにする。この二つの作品群は、桃山という絢爛たる時代が終わりを告げ、江戸という新たな秩序が生まれようとする、日本史の大きな転換点に屹立する、不滅の記念碑なのである。