名香「楊貴妃」は、唐の楊貴妃の悲恋物語に由来し、東山文化で六十一種名香に選定された伽羅。複雑な香りは戦国武将の権威と教養の象徴であり、香道を通じて精神修養にも用いられた。
八世紀、唐王朝が世界帝国の輝きを放っていた時代、その宮廷に一人の女性がいた。姓は楊、名は玉環。後に「楊貴妃」として知られることになる彼女は、第六代皇帝・玄宗の寵愛を一身に受けた 1 。その美貌は「回眸一笑百媚生、六宮粉黛無顏色(眸を回らせて一笑すれば百媚生じ、六宮の粉黛色無し)」と詠まれ、すべての花が恥じらうほどであったと伝えられる 2 。彼女はまた、音楽や舞踊にも天賦の才を持ち、玄宗との愛は、文化の爛熟期であった「開元の治」の後半を彩る、甘美で華麗な物語として語り継がれた 4 。
しかし、この物語は悲劇によって終焉を迎える。玄宗が楊貴妃とその一族を寵愛するあまり政務を疎かにした結果、国家の統治は乱れ、ついに天宝十四年(755年)、節度使・安禄山が反旗を翻す。「安史の乱」である 5 。都・長安を追われた玄宗一行は、逃避行の途上、馬嵬(ばかい)の地で護衛の兵士たちに反乱の原因とされた楊一族の誅殺を迫られる。玄宗は断腸の思いで、最愛の女性に自害を命じ、楊貴妃は三十八歳の若さでその生涯を閉じた 1 。
この「傾国の美女」の悲恋物語は、詩人・白居易が詠んだ長編叙事詩『長恨歌』によって、不滅の文学作品として昇華された 2 。『長恨歌』は海を越えて日本にもたらされ、平安時代の貴族社会に大きな衝撃と感動を与えた。紫式部の『源氏物語』にもその影響は色濃く見て取れ、桐壺帝と桐壺更衣の物語は、玄宗と楊貴妃の悲恋を日本の宮廷に映したかのようである。以降、楊貴妃の物語は能楽の謡曲『楊貴妃』や様々な美術工芸品の題材となり、単なる異国の歴史上の人物を超え、抗いがたい美と、それゆえの悲劇、そして永遠の愛の象徴として、日本人の心に深く刻み込まれていった 3 。
ここに一つの問いが生じる。なぜ、この大陸の、しかも国を傾けたとさえされる女性の名が、日本の文化において至宝と見なされる香木、それも最高峰の一つに冠されることになったのか。それは単に「花のように美しく芳しいものの美称」という言葉だけで説明し尽くせるものではない。この命名の背景には、日本の文化が香りをどのように捉え、特に権力と教養が複雑に絡み合った戦国時代において、一つの「モノ」がいかにして多層的な価値をまとうに至ったかという、壮大な歴史的文脈が横たわっている。
本報告書は、この名香「楊貴妃」という一点の香木をめぐり、その起源から日本の戦国時代における受容、そしてそれが象徴する文化的・政治的意味合いに至るまでを徹底的に調査し、解き明かすことを目的とする。大陸の悲恋物語が、いかにして日本の武将たちの精神世界と交差し、権力闘争の渦中で輝きを放ったのか。一片の香木に秘められた、壮大な歴史絵巻をここに紐解いていく。
名香「楊貴妃」が日本の歴史の舞台に登場する背景を理解するためには、まず、香そのものが日本でいかに受容され、独自の文化として発展を遂げてきたか、その道のりを辿る必要がある。それは仏教儀礼の一部として始まり、やがて貴族の雅な遊びへと発展し、最終的には武士の精神性と権威の象徴として、新たな価値を帯びるに至る。
日本の香文化の原点を記す最も古い記録は、『日本書紀』の推古天皇三年(595年)の条に見出すことができる。そこには、淡路島に巨大な一本の「沈水(ぢんすい)」、すなわち香木が漂着したと記されている 9 。島人たちはそれが何であるかを知らず、薪に交ぜて竈で燃やしたところ、その煙が遠くまで類いまれな芳香を放った。これに驚いた島人たちは、この不思議な木を朝廷に献上したという 13 。この逸話は、香木が当初、人知を超えた神秘的な存在、天からの賜物として認識されたことを示唆している。聖徳太子がこれを一目で沈香であると鑑定したという伝説も伝えられており、この時点で既に上層階級には香木に関する知識が存在していたことが窺える 13 。
本格的に香が日本社会に根付くのは、仏教の伝来と深く関わっている。香は仏前を清め、邪気を祓うための「供香(くこう)」として、仏教儀礼に不可欠なものとなった 10 。奈良時代になると、幾多の困難を乗り越えて来日した唐の高僧・鑑真和上が、仏教の戒律と共に、様々な香料やその調合知識を日本にもたらした 10 。正倉院には、鑑真がもたらしたとされる香料や、聖武天皇ゆかりの宝物と共に、今日まで伝わる数多の香木が納められている。この頃から、香は宗教儀礼の場だけでなく、貴族の生活の中でも楽しまれるようになっていった。
平安時代に入ると、香文化は国風文化の洗練と共に大きく花開く。香は宗教的な意味合いから離れ、貴族たちの趣味や教養、そして美意識を表現するための「遊びの香り」へと発展した 13 。沈香などの香木を粉末にし、丁子(ちょうじ)や麝香(じゃこう)といった他の香料と蜂蜜などで練り合わせた「薫物(たきもの)」が作られ、部屋や衣服にその香りを焚きしめる「空薫物(そらだきもの)」が盛んに行われた 9 。『源氏物語』や『枕草子』には、登場人物たちが独自のレシピで調合した香りを競い合う「薫物合(たきものあわせ)」の様子が生き生きと描かれている 10 。顔や姿を直接見せることが少なかった宮廷の女性たちにとって、香りは自らの個性や感性を伝える重要なコミュニケーションツールであり、その人の存在そのものを象徴するものであった 13 。
時代の中心が公家から武家へと移る鎌倉時代、文化の担い手もまた変化する。武士たちは、公家文化の雅を摂取しつつも、それを自らの質実剛健な精神性に合致する形で再編していった。香文化もその例外ではない。複数の香料を練り合わせる複雑な薫物よりも、武士たちは香木そのものが持つ、奥深く、純粋な香りを直接鑑賞することを好んだ 10 。こうして、香木の一片を静かに熱し、その香りを心で「聞く」という「聞香(もんこう)」の習慣が、武家社会に広まっていったのである 13 。
武士たちにとって、香は単なる嗜好品ではなかった。それは、彼らの生き様と深く結びついた精神的な支柱であった。死と隣り合わせの戦の合間に、一片の香木と向き合う時間は、心を鎮め、精神を集中させるための貴重なひとときであった 19 。また、出陣に際して、兜に香を焚きしめるという風習も生まれた。これは、戦場での興奮を鎮める鎮静効果を期待すると同時に、死を覚悟した武士の潔さや美学を示す行為でもあった 19 。大坂夏の陣で討死した豊臣方の若き武将・木村重成の首実検の際、その兜から馥郁たる香りが漂い、敵将である徳川家康をも感服させたという逸話は、香りが「もののふの美学」と分かちがたく結びついていたことを雄弁に物語っている 19 。
さらに、香木は武士の権威と財力を示す象徴としての価値も帯び始める。南北朝時代に「婆娑羅大名」として名を馳せた佐々木道誉は、無類の香木収集家として知られる 18 。彼が所有した百八十種にも及ぶ名香のコレクションは、後に足利将軍家の所有となり、東山文化における香道の発展の礎となった 22 。道誉の存在は、香木が単なる精神的な慰撫の道具から、富と権力を誇示するための重要な文化的資産へと、その価値を変貌させたことを象徴している。この流れは、やがて来る戦国時代において、名香「楊貴妃」をめぐる権力者たちの欲望と策略の物語へと繋がっていくのである。
戦国時代の動乱に先立つ室町時代中期、日本の美意識は大きな転換点を迎える。応仁の乱という未曾有の内乱の影で、八代将軍・足利義政によって育まれた東山文化である。この時代に、茶の湯、華道、そして香道といった今日に続く日本の伝統芸道はその礎を築いた。名香「楊貴妃」が歴史の表舞台に登場し、その価値を不動のものとしたのも、まさにこの東山文化の頂点においてであった。
室町幕府八代将軍・足利義政は、政治家としては必ずしも成功したとは言えないが、文化の庇護者としては比類なき功績を残した。彼が京都の東山に造営した東山山荘(後の慈照寺銀閣)は、武家文化、公家文化、そして禅宗文化が見事に融合した、簡素で洗練された美の空間であり、東山文化の精神を象徴している 21 。
義政は、当代随一の文化人であり、芸術の目利きであった。彼が情熱を注いで収集した中国(宋・元・明)渡来の絵画、書、陶磁器、漆器などの美術工芸品は、彼の名を冠して「東山御物(ひがしやまごもつ)」と総称される 24 。これらは単なる将軍個人のコレクションにとどまらず、当時の日本の美の規範そのものであり、後の時代の大名たちが権威の証として渇望する垂涎の的となった 25 。
この東山御物の中でも、香木は極めて重要な位置を占めていた。南北朝時代の婆娑羅大名・佐々木道誉が収集した膨大な名香コレクションが足利将軍家に受け継がれたこともあり、義政のもとには天下の名香が集積していた 22 。しかし、これらの香木は銘も分類も定かではないものが多く、その価値を正しく評価し、体系的に整理する必要性が生じていた。これが、名香「楊貴妃」誕生の直接的な契機となる。
将軍義政の命を受け、この壮大な文化的事業の中心となったのが、当代を代表する二人の文化人であった。一人は、公家社会の頂点に立ち、和歌や有職故実など古典文化の第一人者であった三条西実隆。もう一人は、将軍の側近である同朋衆として仕え、武家文化の美意識を体現した志野宗信である 21 。
この二人が中心となり、将軍家所蔵の膨大な香木を鑑定し、特に優れたものを選び出して銘を与え、分類した。こうして選定されたのが「六十一種名香」である 27 。この選定作業は、単なる香木の整理にとどまらない。それは、公家の持つ古典的な教養と知性、そして武家の持つ実践的で感覚的な審美眼という、二つの異なる価値観が交差し、融合する画期的な出来事であった。まさに東山文化の精神そのものを象徴する共同作業だったのである。
この時、一つの類いまれな香木に「楊貴妃」という銘が与えられ、正式に「六十一種名香」の列に加えられた 30 。これにより、この香木は単なる香りの良い木片ではなく、将軍家の権威によってその価値が公的に認証された、天下の名香としての地位を確立したのである。
この命名行為には、単に美しいものの比喩という以上の、深い戦略的意図が込められていたと考えられる。それは、室町時代に形成されつつあった新しい価値観、すなわち「物語性を帯びた官能美」という、新たなブランドの創出であった。
選定者の一人である三条西実隆は、公家として白居易の『長恨歌』に代表される大陸の古典文学に精通し、楊貴妃の物語が持つ悲劇性やロマンティシズムを深く理解していた。彼にとって「楊貴妃」という名は、高尚な文学的背景を持つ、格調高い響きを持っていたであろう。一方、武家社会を代表する志野宗信は、理屈よりも人の心を直接揺さぶり、魅了するような強い力、すなわち実質的な影響力を持つものに価値を見出す文化の中に生きていた。彼にとって「楊貴妃」という名は、皇帝をも虜にし、国さえ傾かせたという、抗いがたい官能的な魅力の象徴であった。
「楊貴妃」という銘は、この二つの価値観を完璧に満たすものであった。それは、古典文学に由来する格調高い「物語性」(公家的価値)と、天下人を夢中にさせるほどの「官能的な魅力」(武家が求める人心掌握力の究極のメタファー)を併せ持っていた。したがって、この命名は、香木の価値を「香り」という物理的な特性だけでなく、「物語」という文化的な資本によって飛躍的に増幅させる、極めて高度な戦略であったと言える。この名香「楊貴妃」を所有し、その香りを理解し、語ることは、持ち主の教養の深さと権威の大きさを同時に誇示する、この上なく洗練された文化的パフォーマンスとなったのである。
栄華を極めた東山文化も、応仁の乱(1467年-1477年)を境に、足利将軍家の権威の失墜と共にその輝きを失っていく。将軍家が秘蔵していた東山御物の多くは、戦乱の中で散逸し、あるいは財政難のために手放され、各地の守護大名や新興の戦国大名たちの手に渡っていった 25 。
名香「楊貴妃」もまた、この動乱の時代の中で将軍家の手を離れ、戦国の世を流転したと考えられる。これらの東山御物を手に入れることは、単に美術品を所有するという意味に留まらなかった。それは、かつて室町将軍が保持していた最高の文化的権威を、自らが継承したのだと天下に示す、極めて象徴的な意味合いを持つようになった。戦国武将たちが、茶道具や香木といった「名物」の蒐集に血道を上げた背景には、こうした権威の継承という強い動機があった。名香「楊貴妃」は、その出自と物語性によって、数ある名物の中でも特に武将たちの欲望を掻き立てる存在となったに違いない。
戦国の武将たちが渇望した名香「楊貴妃」。その価値の根源を理解するためには、それがどのような物質であり、いかなる体系の中で評価されていたのか、その正体に迫る必要がある。それは香木の最高峰「伽羅」に分類され、香道における「六国五味」という精緻な基準によってその香りが定義されていた。そしてその香りは、楊貴妃本人の物語と響き合う、幻惑的な多面性を持っていた。
香木は、その成り立ちや香りによっていくつかの種類に大別されるが、代表的なものが沈香(じんこう)と白檀(びゃくだん)である 32 。白檀が樹木そのものが芳香を放つのに対し、沈香の成り立ちはより神秘的である。東南アジアの熱帯雨林に自生するジンチョウゲ科の特定の樹木が、風雨や病、虫害などによって傷つくと、その防御反応として樹脂を分泌する。この樹脂が、土中のバクテリアなどの働きによって長い、長い年月をかけて変質・熟成し、特有の幽玄な香りを放つようになったものが沈香である 10 。樹脂が沈着した部分は比重が重くなり水に沈むことから、「沈水香木」とも呼ばれる 10 。常温ではほとんど香らず、わずかに熱を加えることで、初めてその奥深い香りを放つのが特徴である 32 。
この沈香の中でも、最高品質のものを特別に「伽羅(きゃら)」と呼ぶ 32 。伽羅は、主にベトナム中部の限られた地域でしか産出されないとされ、その生成には数百年以上の歳月を要すると言われる。そのため産出量は極めて少なく、古来、その価値は金に等しい、あるいはそれ以上とされてきた 32 。名香「楊貴妃」は、この最も希少で価値ある「伽羅」に分類される香木である 30 。
室町時代、香文化が芸道として確立される過程で、香木の微妙な香りの違いを客観的に評価し、伝達するための体系が求められた。こうして、足利義政の時代に志野宗信らによって完成されたのが「六国五味(りっこくごみ)」という分類基準である 9 。
「六国」とは、香木の品質や香りの特徴を、かつての産出地や積出港の名にちなんで六種類に分類したものである 38 。具体的には、伽羅(きゃら)、羅国(らこく)、真南蛮(まなばん)、真那伽(まなか)、佐曽羅(さそら)、寸聞多羅(すもんだら)の六つを指す 37 。これは厳密な植物学的分類ではなく、あくまで香道における香質に基づいた、審美的な格付けである。
一方、「五味」とは、その香りを人間の味覚にたとえて五種類で表現したものである 38 。甘(かん・あまい)、酸(さん・すっぱい)、辛(しん・からい)、苦(く・にがい)、鹹(かん・しおからい)の五つで、それぞれの香りの特徴を捉える 37 。例えば、「甘」は蜜のような甘さ、「辛」は丁子のようなスパイシーさ、「苦」は薬草を煎じたような苦みと表現される 44 。一つの香木が必ずしも一つの味だけを持つとは限らず、複数の味を複雑に兼ね備えるものも多い。その組み合わせや、どの味が強く立つかによって、えもいわれぬ香りの世界が生まれるのである 41 。
項目 |
詳細 |
典拠 |
銘 |
楊貴妃(ようきひ) |
30 |
分類(六国) |
伽羅(きゃら) |
30 |
五味 |
甘・苦・鹹・辛 |
31 |
選定 |
六十一種名香 |
27 |
選定者 |
志野宗信、三条西実隆 |
27 |
選定時期 |
室町時代(足利義政期) |
21 |
主な所蔵歴 |
足利将軍家(東山御物)→諸大名家へ伝来か。徳川美術館所蔵の伽羅「玄宗」との関連性も示唆される。 |
22 |
香りの特徴 |
「ねっとりしていて、何とも深~い香り」と評される 30 。伽羅特有の「奥深く華やかで、ウッディ、スパイシー、甘さを兼ね備える」香りに加え 47 、銘が喚起する官能的で悲劇的なイメージが重なる。 |
30 |
このプロファイルから、名香「楊貴妃」が持つ香りの本質と、それが喚起する世界の深さが見えてくる。志野流の伝書によれば、「楊貴妃」は最高峰の伽羅でありながら、「甘・苦・鹹・辛」という四つもの味を併せ持つ、極めて複雑で多層的な香りとして記録されている 31 。この香りの複雑性は、偶然の産物ではない。それは、この香木に「楊貴妃」という銘を与えた人々の、深い洞察と美意識の表れであった。
この香木を焚くとき、聞き手は単一の香りではなく、時間と共に移ろい、重なり合う香りのシンフォニーを体験したはずである。その香りの変化と調和の中に、聞き手は人物・楊貴妃の多面的な物語そのものを感じ取ったのではないだろうか。
まず立ち上る「甘」い香りは、玄宗皇帝を虜にした彼女の甘美な魅力、そして宮廷で受けた寵愛の極みを思わせる。次に現れる「苦」みは、国を傾けたという後世の苦い評価や、馬嵬の露と消えた悲劇的な最期を想起させる。時折鼻を突く「辛」い刺激は、宮廷で権勢を振るった楊一族の栄華や、彼女自身の機知に富んだ刺激的な個性を感じさせるだろう。そして、それら全ての根底に流れる「鹹」い、すなわち塩辛い香りは、彼女が流したであろう涙、あるいは多汗症であったという逸話 6 が伝える生身の人間としての存在感を、聞き手の心に深く刻みつける。
香道では、香りを「嗅ぐ」とは言わず、心でその意味を聴き、理解する意味を込めて「聞く」と表現する 13 。名香「楊貴妃」を聞くという行為は、単なる香りの鑑賞を超え、その複雑な香りの変化を通して、聞き手に楊貴妃の栄華と没落、甘美と悲劇、その生涯の光と影を追体験させるような、極めて文学的、演劇的な体験であった。一片の香木が、壮大な物語を伝えるための芸術媒体として、見事に機能していたのである。
室町幕府の権威が地に堕ち、群雄が割拠する戦国時代。この実力主義の世において、武将たちは自らの力を誇示するために、あらゆるものを利用した。城や兵馬といった軍事力はもちろんのこと、文化的な威信もまた、天下を制するための重要な要素であった。この文脈の中で、名香「楊貴妃」を含む香木は、単なる奢侈品や嗜好品の域をはるかに超え、武将の権威と教養を可視化する「ソフトパワー」の源泉として、また、時には土地や金銀に代わる「戦略的資産」として、熾烈な争奪の対象となった。
戦国時代、優れた茶道具は「名物」として珍重され、その価値は一城、一国にも匹敵するとされた。香木もまた同様であり、「一国一城より一片の香木に価値あり」という言葉が、当時の価値観を端的に物語っている 21 。
この背景には、戦国大名が拡大する家臣団に対し、恩賞として与えるべき土地が慢性的に不足していたという現実がある。そこで、土地に代わる新たな恩賞として、文化的価値が高く、誰もがその価値を認める「名物」が極めて重要な役割を果たすようになった 50 。東山御物であった名香「楊貴妃」のような、由来正しく、物語性に富んだ香木は、その筆頭であった。それを下賜されることは、主君から最高の評価を受けた証であり、武士にとって無上の名誉だったのである。
香木の持つ政治的価値を、最も劇的に天下に知らしめたのが、織田信長による「蘭奢待(らんじゃたい)」の切り取り事件である。蘭奢待は、東大寺正倉院に収められている天下第一の名香であり、その正式名称は「黄熟香」という 52 。聖武天皇ゆかりの御物として、歴代天皇の勅許がなければ開封することすら許されない、神聖不可侵の宝物であった 12 。
天正二年(1574年)、信長は朝廷に働きかけ、この蘭奢待の切り取りを強引に実現させる 52 。彼は自らの手で一寸角ほどの大きさに二片を切り取ると、その一つを正親町天皇に献上し、もう一つを自らのものとした 12 。この行為は、単に名香を手に入れたいという趣味のレベルを遥かに超えている。天皇の権威の象徴である勅封を、事実上、自らの力で開かせたこの事件は、信長こそが天皇をも凌駕する当代随一の権力者であることを、天下に宣言する極めて政治的なパフォーマンスであった 52 。
信長はその後、この蘭奢待の小片を、千利休をはじめとする有力な茶人や武将が参列する茶会で披露し、その香りを共に聞くことで、自らの権威を改めて誇示した 12 。この蘭奢待事件以降、天下の名香を所有し、それを裁断し、分配するという行為は、最高権力者のみに許された特権として、武将たちの間に強く意識されるようになったのである。
信長の後継者である豊臣秀吉もまた、香木の価値を深く理解していた。彼が築いた聚楽第や大坂城には、全国から集められた名宝が満ち溢れていたが、その中には多くの香木も含まれていた。ルイス・フロイスの『日本史』や、公家たちが記した『聚楽第行幸記』などの記録からも、秀吉が香木を盛んに収集し、茶会などで用いていたことが窺える 58 。
そして、戦国の世を最終的に統一した徳川家康の香木収集への執心は、信長や秀吉をも凌ぐ、まさに常軌を逸したものであった 14 。家康は、自ら香の調合を行うほどの深い知識を持つと同時に、その収集は国内にとどまらなかった。彼は東南アジアの国王に親書を送り、長崎奉行を通じて、最高品質の伽羅などを積極的に輸入させたのである 21 。
家康の死後、その膨大な遺産を記した目録『駿府御分物帳』には、他の南蛮渡来の珍品と共に、おびただしい量の沈香や伽羅が記載されている 22 。これらの香木は、彼の遺産として尾張、紀伊、水戸の御三家をはじめとする徳川一門に分与された 67 。今日、名古屋の徳川美術館が世界有数の香木コレクションを所蔵しているのは、まさに家康のこの並外れた収集の賜物なのである 46 。
これらの事実から、戦国時代における香木の多面的な価値が浮かび上がってくる。それは単なる奢侈品ではなく、武将の権威と教養を可視化する「ソフトパワー」の源泉であった。名香を所有することは、持ち主の経済力、その価値を理解し使いこなす文化的素養、そしてそれを入手できた人脈や権威(将軍家や朝廷との繋がり)を同時に示す、非常に効率的なステータスシンボルだったのである。茶会という、戦国時代の重要な政治・社交の場で名香「楊貴妃」を焚くことは、自らの力を最も効果的に見せつける行為であったに違いない。
さらに、香木は物理的に小さく、分割や運搬が容易でありながら、その価値は普遍的で安定していた。この特性は、いつ城が落ち、領地を失うか分からない不安定な戦国時代において、香木を金やダイヤモンドのような「戦略的資産」として極めて優れたものにした。家康の執拗なまでの収集活動は、彼がこの点を深く理解していた証左と言える。彼は香木を、武力だけでは完全に従わせることのできない朝廷や公家を懐柔するための「外交カード」として、また、徳川政権の文化的権威を盤石にするための「戦略的備蓄」として、明確に位置づけていたのである 66 。名香「楊貴妃」もまた、こうした権力者たちの壮大な戦略の駒として、戦国の世を駆け巡ったのであった。
戦国時代は、武力による覇権争いのみの時代ではなかった。それはまた、日本の精神文化が大きく変容し、今日に続く「道」の文化が確立された時代でもあった。茶の湯が千利休によって大成されたように、香りを鑑賞する行為もまた、足利義政の時代にその基礎が築かれ、戦国武将たちの庇護のもとで「香道」という一つの芸道として確立されていった。名香「楊貴妃」は、この香道の世界において、その物語性と香りの深さゆえに、特別な役割を担うこととなる。
香木の香りを静かに聞き、その趣を味わうという行為は、室町時代、足利義政、三条西実隆、志野宗信らによって、一定の作法と精神性を持つ芸道へと体系化された 10 。香道は、単に香りを「嗅ぐ」のではなく、心を澄ませてその奥にある情景や物語を「聞く」と表現する、極めて精神性の高い芸道である 13 。その核心は、複数の香木の香りの微妙な違いを聞き分け、その組み合わせの妙や、香に込められた文学的な主題(これを「香銘」という)を鑑賞する、知的な遊びにある 69 。
香道はやがて、その成り立ちを反映した二つの大きな流派へと分かれていく 20 。
一つは「御家流(おいえりゅう)」である。公家の三条西実隆を祖とし、その名の通り、宮廷文化の伝統を受け継ぐ流派である 21 。和歌や『源氏物語』といった古典文学の世界観を香で表現することを重んじ、華麗な蒔絵が施された香道具を用い、伸びやかで雅な雰囲気の中で香りを楽しむことを特徴とする 71 。
もう一つは「志野流(しのりゅう)」である。武家出身の同朋衆・志野宗信を祖とし、武家社会の価値観を色濃く反映している 21 。簡素で質実な木地の香道具を用い、厳格な作法の中で精神を集中させ、自己を律する精神鍛錬の側面を強く持つ 71 。
細川幽斎や蒲生氏郷といった、武勇のみならず文化にも深く通じた戦国武将たちは、自らの教養とステータスを示すために、これらの流派のいずれかを学び、熱心に庇護した 29 。彼らにとって香道は、戦の合間の精神修養であると同時に、他の大名との文化的な交流や、自らの格を示すための重要な手段であった。
香道の楽しみ方の中心にあるのが、「組香(くみこう)」と呼ばれる香りのゲームである 69 。これは、数種類の香木を順不同に焚き、参加者がそれらの香りの異同を聞き分けるというものだ。多くの場合、組香には『源氏物語』の巻名や和歌、季節の風物といった文学的なテーマが設定されており、参加者には香りの鑑賞能力だけでなく、高い古典教養が求められた 20 。
名香「楊貴妃」のように、それ自体が強い物語性を持つ香木は、こうした組香の席で特別な役割を果たしたと考えられる。例えば、ある香会で、最初に手本として聞く香(これを「試香(こころみこう)」という)として「楊貴妃」が焚かれたとしよう。その瞬間、その場の空気は一変し、香会全体が『長恨歌』の悲恋の世界観に染め上げられる。参加者たちは、その甘くも切ない香りを頼りに、心の中で玄宗皇帝や楊貴妃の物語を旅することになる。他の香木が楊貴妃の侍女たちに、あるいは彼女を取り巻く運命の様々な側面にたとえられ、香を聞き分けるという行為そのものが、一つの壮大なドラマを体験する過程となるのである 30 。
戦国時代の武将や公家が残した日記や茶会記には、彼らの日常に香が深く根付いていたことを示す記述が散見される。
公家である山科言経が記した『言経卿記』には、彼が織田信長をはじめとする武将たちと頻繁に交流し、贈答品をやり取りする様子が克明に記録されている 73 。贈答品の中身として香木が具体的に記されている箇所は多くないものの、当時の公家と武家の交流において、香木が重要な役割を果たしていたことは想像に難くない 75 。
また、堺の豪商・津田宗及が記した『天王寺屋会記(宗及茶湯日記)』や、奈良の漆屋・松屋久政らが三代にわたって記した『松屋会記』といった茶会記は、当時の茶席の様子を伝える一級史料である 77 。これらの記録には、茶会の床の間にどのような香炉が飾られ、炭手前の際にどのような香合から香が焚かれたかといった記述が見られ、戦国武将たちの洗練された美意識と、茶の湯における香の重要性を窺い知ることができる 80 。彼らがその席で、天下の名香たる「楊貴妃」の香りを聞き、その物語に思いを馳せた瞬間があったとしても、何ら不思議ではない。
戦国の世が終わり、徳川の治世が始まると、香木をめぐる熾烈な争奪戦は沈静化する。しかし、香木が持つ文化的価値と権威の象徴としての意味合いは、形を変えながらも江戸時代の大名社会へと脈々と受け継がれていった。名香「楊貴妃」の物語もまた、戦国の記憶と共に、新たな時代へとその芳香を伝え続けるのである。
天下を統一した徳川家康は、戦乱で散逸した「名物」の収集に力を注ぎ、前述の通り、世界随一とも言われる膨大な香木コレクションを築き上げた 66 。彼の死後、これらの至宝は「駿府御分物」として御三家、特に筆頭である尾張徳川家にその多くが受け継がれた 67 。これにより、尾張徳川家は、武家の誉れであると共に、最高の文化的権威の継承者としての地位を不動のものとした。
名古屋の徳川美術館には、今日に至るまで、家康遺愛の香木や、尾張徳川家伝来の名香が数多く所蔵されている。その中には、唐の玄宗皇帝にちなんだ「玄宗」という銘を持つ伽羅も含まれている 36 。この「玄宗」は六十一種名香に準ずるものとされ、その存在は、悲恋の相手である名香「楊貴妃」との関連性を強く示唆する。これは、室町時代に生まれ、戦国武将たちが熱狂した香木の価値観と物語の世界が、泰平の世となった江戸時代の大名家においても、大切に守り継がれていたことの証左に他ならない。
本報告書を通じて明らかになったように、名香「楊貴妃」は、単に芳しい香りを放つ木片ではなかった。それは、大陸の悲恋物語という普遍的な文化資本をその身にまとい、室町将軍の権威によってその価値を公的に認証され、戦国の覇者たちが自らの権威の証として所有を渇望した、極めて多層的で象徴的な存在であった。
この一片の香木は、戦国武将にとって、自らの「武(ぶ)」、すなわち軍事力や政治力だけでなく、「文(ぶん)」、すなわち文化的教養や洗練された美意識をも天下に示すための、不可欠なツールであった。名香「楊貴妃」を所有し、その香りの奥深さを理解し、その背景にある物語を語ること。それは、武力だけではない、天下を治める者にふさわしい総合的な人間力、すなわち「天下人」たる器量を証明する行為だったのである。
香道の世界では、香りの記憶は世代を超えて受け継がれるという。名香「楊貴妃」そのものが現存するかは定かではない。しかし、その存在は、日本の歴史と文化の中に、確かに刻まれている。一片の香木「楊貴妃」の内に、私たちは古代中国と日本の壮大な文化交流の歴史、公家と武家の美意識の融合、戦国乱世の権力闘争のダイナミズム、そして現代にまで続く芸道の奥深い精神世界までをも見出すことができる。
その香りは、たとえ今はもう直接聞くことが叶わなくとも、数多の文献の記述、伝来した香道具の輝き、そして私たちの想像力の中に、甘くも切ない、馥郁たる記憶として、永遠に漂い続けているのである。