灰被珠光天目は、珠光によりわび茶の象徴となり、信長・秀吉・家康ら天下人が権威の象徴として渇望。質素な器が最高の権力者の対象となるパラドックスを映す。
本報告書は、中国福建省の地方窯で焼かれた一介の黒釉茶碗が、いかにして「灰被珠光天目」という名を冠し、日本の戦国時代という激動の時代精神を体現する象徴的茶碗へと変貌を遂げたのか、その軌跡を徹底的に追跡するものである。この一碗の物語は、単なる美術品の歴史に非ず、美意識の革命、権力と文化の交錯、そして数奇な運命に翻弄された人々のドラマを内包している。
室町時代、茶の湯の世界は、中国から渡来した「唐物」を至上とする価値観に支配されていた。完璧な造形と華麗な釉景を誇る曜変天目や油滴天目は、将軍家や大名がその権威をかけて蒐集する垂涎の的であった。その中で、不完全で静かな趣を持つ「灰被天目」は、顧みられることの少ない存在であった。
しかし、この序列は永続しなかった。わび茶の祖・村田珠光(1423-1502)によって、この茶碗に新たな美が見出される。そして、戦国時代に入ると、その価値は劇的な転換を遂げ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちが、領地や黄金にも勝る至宝としてこの一碗を渇望するようになる。
なぜ、完璧な美を誇る天目ではなく、この不完全で静かな趣の茶碗が、わび茶の精神を体現し、戦国の覇者たちを魅了したのか。本報告書は、灰被天目という「モノ」の物理的特質から、それが日本の戦国時代において文化的・政治的な「コト」へと昇華した全貌を、陶磁史、思想史、政治史の各側面から多角的に解明し、この問いに答えることを主眼とする。
灰被天目が日本の美意識の変革を担う以前に、それはまず一個の陶磁器であった。本章では、この茶碗という「モノ」そのものの科学的・美術史的な側面に光を当てる。その呼称の由来、生産地、年代、そして他の天目茶碗とは一線を画す造形上の特徴を、最新の研究成果に基づき解明する。
「灰被(はいかつぎ)」という名称は、文字通り「灰を被ったような」艶のない、くすんだ釉調に由来する日本独自の呼称である 1 。その静かで侘びた風情が、後のわび茶の美意識と共鳴し、この名で呼ばれるようになった。
しかし、この名称は、その製法についてしばしば誤解を生んできた。実際の焼成過程において、窯内の灰が器に降りかかってこのような景色が生まれたわけではない。灰被天目は、他の多くの高品質な天目茶碗と同様に、器を一つひとつ匣鉢(さや)と呼ばれる耐火性の容器に入れて焼成されており、灰が直接付着することはない 5 。
その独特の釉調の正体は、意図的に施された「二重掛け」という施釉技法にある 2 。まず鉄分を多く含む黒釉を掛け、その上に失透性(光を通しにくい性質)の灰釉などを重ねて掛ける。この二種類の釉薬が、焼成中の高温の中で互いに溶け合い、反応することで、黒とも茶ともつかない、複雑で変化に富んだ景色が生み出されるのである。この偶然性と作為が交錯した技法こそが、灰被天目の個性的で深みのある表情の源泉となっている。
灰被天目の生産地については、長らく議論が続いてきた。かつては、国宝「曜変天目」などで世界的に知られる福建省の建窯(けんよう)で焼かれた天目茶碗(建盞)の一種、特に焼成の失敗による「窯変」と見なされていた時期もあった 9 。
しかし、20世紀後半からの精力的な窯跡調査と、日本に伝世した作品との比較研究が進むにつれて、その見解は大きく修正されることとなる。今日では、灰被天目の生産地は建窯そのものではなく、その周辺に位置した福建省南平市の「茶洋窯(ちゃようよう)」であることが学術的な定説となっている 2 。この特定は、灰被天目が建盞の単なる亜流や模倣品ではなく、独自の生産背景を持つ陶磁器群であることを明らかにした点で、極めて重要である。
制作年代についても、窯跡からの出土品の層位学的分析や、1323年に朝鮮半島沖で沈没した新安沈船からの出土例などが有力な手がかりとなっている。これらの科学的証拠から、灰被天目は主に中国の元代後期から明代初期、すなわち西暦14世紀前期から15世紀にかけて生産されたと特定されている 2 。この年代は、日本の室町時代中期から後期にあたり、村田珠光が活躍し、わび茶の思想が萌芽した時期と見事に一致する。中国大陸の一地方窯で焼かれた茶碗が、ほぼ時を同じくして、遠く離れた日本の新たな文化創造の担い手として迎え入れられる運命にあったことは、歴史の興味深い偶然と言えるだろう。
灰被天目は、抹茶を飲むための器形である「天目形」を踏襲しつつも、宋代の美の規範であった建盞とは明確に異なる、独自の造形的な特徴を備えている。この物理的な差異こそが、後に日本の茶人たちが新たな価値を見出すための土壌となった。
最も顕著な違いは、器の土台となる高台(こうだい)の作りに見られる。建盞の高台が鋭く、整然と削り出されているのに対し、灰被天目は高台脇にヘラで削ったことによる「切り回しの段」と呼ばれる段差があり、高台内の削り込みも建盞ほど鋭角的ではなく、浅く丸みを帯びた、どこか大らかな作りとなっている 2 。この独特の削り跡は、灰被天手を鑑識する上で最も重要な特徴の一つである。
器全体の姿も、建盞の持つ厳しい緊張感とは趣を異にする。器壁は比較的薄く作られ、口縁部を一度内側に軽くくびれさせてから外に反らせる「鼈口(すっぽんぐち)」と呼ばれる形状も、建盞に比べて浅く、やや崩れたような穏やかな造形を持つものが多い 10 。これは、完璧な均整美を追求した宋代の美意識からの離脱を示唆している。
そして何よりも、二重掛けされた釉薬が生み出す「景色」の多様性が灰被天目の真骨頂である。あるものは掛け分けられた釉の境目が窯変によって銀色に輝き(例:銘「虹」)、あるものは下地の釉が品の良い柿色や黄色を呈し、またあるものは銀色の砂子を蒔いたような光沢を見せるなど、一つとして同じものがない、個性に満ちた表情を持つ 8 。この予測不能な変化に富んだ味わいこそ、均一的な美しさを持つ建盞とは対極の魅力であり、後のわび茶の精神に深く通じるものであった。
これらの物理的特徴は、灰被天目が建盞の「劣化コピー」や「粗製品」 13 ではなく、独自の生産技術と異なる美意識のもとに生まれた「別系統の天目」であることを明確に示している。完璧ではないからこそ、そこに新たな美を見出す余地があった。この物理的な「違い」が、日本における価値観の革命を受け入れるための、いわば器そのものに備わった素地だったのである。
中国の一地方窯で生まれた灰被天目は、日本に渡り、その運命を大きく変えることとなる。本章では、この茶碗がいかにしてその価値を劇的に転換させたのかを、茶の湯の思想的変遷の中に位置づけて論じる。室町時代の唐物至上主義から、村田珠光、そして千利休に至るわび茶の確立過程で、この茶碗が果たした象徴的な役割を明らかにする。
室町時代後期、茶の湯の世界における道具の価値は、足利将軍家に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)によって編纂された『君台観左右帳記』によって絶対的な序列が定められていた 9 。この書は、将軍家の座敷飾りにおける道具の格付けを記したマニュアルであり、当時の公式な美の基準を示すものであった。
その中で、茶碗の最高峰として君臨したのは、漆黒の釉中に瑠璃色の斑文が星のように煌めく「曜変天目」であり、その価値は「万疋」(現在の価値で数千万円から億単位)とされ、天下無上の至宝とされた。これに次ぐのが、銀色の斑点が油滴のように浮かぶ「油滴天目」(五千疋)、そして建窯で焼かれた典型的な天目である「建盞」(三千疋)であった 6 。この序列が示すのは、完璧な造形と華麗で整然とした釉景を持つものが絶対的な価値を持つという、唐物至上主義の美意識である。
この厳格なヒエラルキーの中で、灰被天目は極めて低い評価しか与えられていなかった。『君台観左右帳記』にもその名は記されているものの、「将軍家などには必要のないもの」とされ、価値の低いもの、あるいは格付けの埒外として扱われていたのである. 4 この時代の価値観からすれば、灰被天目の不均一で地味な景色は、単なる欠点としか見なされなかったのである。
この揺るぎないかに見えた唐物至上主義の価値観に、静かに、しかし根源的な問いを投げかけたのが、わび茶の祖と称される村田珠光であった。珠光は、禅の思想に深く影響を受け、茶の湯を単なる遊芸から、精神性を追求する「道」へと高めようとした 18 。
珠光の美学は、「月も雲間のなきは嫌にて候」という一節に象徴される 19 。雲ひとつない完璧な満月よりも、雲の間に見え隠れする不完全な月にこそ、より深い趣と美を見出すという思想である。これは、完全性や華やかさを尊ぶ従来の美意識に対する、明確なアンチテーゼであった。
この新たな美の基準に基づき、珠光は高価で華やかな唐物名物ばかりを追い求める当時の風潮を批判し、敢えて地味で静かな趣を持つ器に価値を見出した。彼が特に好んだとされるのが、まさにこの灰被天目であった 6 。さらに、国産の備前焼や信楽焼といった、それまで茶の湯の道具としては評価されてこなかった粗末な焼物をも茶席に取り入れ、美の視野を大きく広げた 21 。
珠光が弟子に与えたとされる書状『心の文』では、「此の道、第一に我慢、我執のきらひ物なり」(茶の湯の道において最も忌むべきは、慢心と執着である)と説かれている 18 。高価な名物を所有することに執着し、それを自慢するような茶の湯のあり方を厳しく戒めたのである 21 。不完全なものの中に美を見出し、内面的な精神性を重んじる珠光の思想が、低く評価されていた灰被天目を選ぶという行為と分かちがたく結びついていたことは想像に難くない。
珠光によって蒔かれたわび茶の種は、堺の豪商・武野紹鴎(たけのじょうおう)に受け継がれ、その弟子である千利休によって大成される。そして、この新しい価値観は、利休の高弟・山上宗二が天正16年(1588年)に著した秘伝書『山上宗二記』において、一つの革命宣言として明確に言語化された。
この書の中で、宗二は『君台観左右帳記』で天下の至宝とされた曜変天目や油滴天目を「代(しろ)カロキモノ」(価値の低いもの)と断じ、かつての絶対的な価値序列を根底から覆したのである 9 。これは、中国文化の権威に対する一方的な崇拝からの決別を意味していた。
そして、その代わりに宗二が称揚したのが、かつては冷遇されていた灰被天目であった。『山上宗二記』では、灰被天目は建盞よりも上位に位置づけられている 4 。その理由は、均一的で美しい建盞よりも、一つひとつ景色が異なり、作り手の個性が感じられる灰被天目の「佗びた」佇まいこそが、利休が目指すわび茶の精神(冷え、枯れ、痩せた美)に最も適うとされたためである 6 。
この価値の逆転は、単なる好みの変化ではなかった。それは、灰被天目の価値が本来的に内在していたものが「再発見」されたというよりも、わび茶という新しい思想体系(イデオロギー)によって、その価値が積極的に「創造」されたことを意味する。中国文化の絶対的権威から脱却し、不完全さや静寂といった日本独自の美意識を確立しようとする、文化的な独立宣言であった。灰被天目は、この価値観のパラダイムシフトを象徴する、革命の旗印となったのである。
わび茶の精神を体現するはずの灰被天目は、しかし、その価値が高まるにつれて、逆説的にも戦国武将たちの最も熾烈な権力闘争の道具として利用されていく。本章では、一碗の茶碗が領地や黄金に匹敵する価値を持ち、政治・外交の舞台で重要な役割を果たした事実を、具体的な名碗の伝来と共に明らかにする。質素や静寂を旨とする精神性が、いかにして権力と結びついていったのか、そのダイナミズムに迫る。
表1:主要な灰被天目と戦国武将の伝来一覧
名称(銘) |
分類 |
主要な伝来(戦国~江戸初期) |
現在の所蔵先 |
灰被天目 銘「虹」 |
大名物 |
足利義政 → (不詳) |
文化庁 8 |
大名物 灰被天目 |
大名物 |
油屋常祐 → 徳川家康 → 尾張徳川家 |
徳川美術館 15 |
灰被天目 |
名物 |
武野紹鴎 → 大阪本願寺 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 関白秀次 → 堺薬師院 → 前田家 |
(不詳) 20 |
灰被天目 銘「豊後」 |
名物 |
朝倉景紀 → 織田信長 → 村井貞勝 → 豊臣秀吉 → 細川幽斎 |
(不詳) 26 |
灰被天目 銘「秋葉」 |
名物 |
伊達政宗 → 仙台伊達家 |
MOA美術館 12 |
灰被天目 銘「埋火」 |
名物 |
小堀遠州 |
静嘉堂文庫美術館 28 |
珠光天目 |
- |
村田珠光 → 細川家 |
永青文庫 20 |
灰被天目 |
- |
徳川家康 → 紀州徳川家 |
(不詳) 11 |
灰被天目 |
中興名物 |
(不詳)→ 松平不昧 |
野村美術館 20 |
注:伝来や分類については諸説あるものも含む。
戦国時代、茶の湯は単なる文化的な営みではなかった。それは、極めて高度な政治的ツールであった。この変革を主導したのが、織田信長である。信長は、戦乱で功績を挙げた家臣への恩賞として与えるべき土地が不足する中、茶道具に絶対的な価値を与え、これを領地の代わりとした 32 。信長は、堺の商人などから高価な茶道具を半ば強制的に買い上げる「名物狩り」を行い、名だたる茶器を自身のもとに集積した 34 。
さらに信長は、茶の湯の第一人者であった千利休を自らの茶頭(さどう)として重用し、名物の鑑定や価値付けを行わせた 33 。これにより、茶道具の価値は信長と利休によって公的に保証され、信長自身がその価値システムの頂点に君臨する構造が作り上げられた。
この戦略の結果、優れた茶道具を所有することは、単なる個人的な趣味ではなく、主君である信長にその功績を認められた一流の武将であることの証、すなわち一種のステータスシンボルとなった 32 。茶器一つが城一つに匹敵する「一国一城」の価値を持つとされ、武将たちは名物茶器の拝領を最高の栄誉と見なした 36 。この信長が築いたシステムは豊臣秀吉にも引き継がれ、茶道具は戦国社会における権威の象徴として、その価値をますます高めていったのである。
価値を高めた灰被天目は、当然のことながら、この権力闘争の渦中に投げ込まれる。上記の一覧表が示すように、一つの茶碗が、戦国の名だたる武将たちの手を渡り歩いていく。その伝来の軌跡は、そのまま戦国時代の権力者の興亡の歴史を映し出す鏡となる。
天下統一を推し進めた信長と秀吉は、わび茶のパトロンであると同時に、最も熱心な名物コレクターでもあった。
銘「豊後天目」は、その典型例である。元は越前の名門・朝倉氏の一族である朝倉景紀が所持していたが、天正元年(1573年)に朝倉氏が信長によって滅ぼされると、その手に渡ったとみられる。信長はこの茶碗を、自らの腹心で京都所司代として都の支配を任せていた村井貞勝に下賜した。しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変で信長と共に貞勝も討死すると、変後に実権を握った羽柴(豊臣)秀吉がこれを収蔵した 26。朝倉氏から信長へ、そして秀吉へと渡ったこの一碗の流転は、戦国の権力移動をまさに体現している。
また、『山上宗二記』には、当時、天下に三つの優れた灰被天目があり、そのうちの二つを秀吉が所持していたと記されている 9 。さらに、茶人・武野紹鴎が所持していた灰被天目が、大阪本願寺、織田信長、豊臣秀吉、そしてその甥である関白秀次を経て、加賀の前田家へと伝来したという記録も存在する 20 。これらの記録は、信長と秀吉が灰被天目を極めて重要な茶道具として認識し、積極的に蒐集していたことを示している。
江戸幕府を開いた徳川家康もまた、茶の湯を深く愛し、多くの名物を所持した。特に尾張徳川家に伝来した大名物「灰被天目」(現・徳川美術館蔵)は、その代表格である。この茶碗は、元はわび茶の揺籃の地であった堺の豪商・油屋常祐(浄祐)が所持していたものを家康が入手し、後に溺愛した九男・義直(尾張徳川家初代)に譲り渡したと伝えられる 15 。この一碗は、『山上宗二記』に記載された天目の中で唯一現存する作例とも言われ、わび茶の歴史を今に伝える極めて重要な存在である 38 。
この他にも、家康の死後、その遺産が「駿河御分物」として御三家に分配された際、紀州徳川家に伝わったとされる灰被天目も存在した 11 。徳川家にとっても、灰被天目は特別な価値を持つ茶碗であったことが窺える。
中央の覇者たちだけではない。奥州の独眼竜として知られる伊達政宗も、優れた茶人であり、名物「秋葉天目」を所持していた 27 。この茶碗は、政宗以来、長く仙台伊達家に伝来した 12 。政宗が中央の最新の文化であるわび茶とその象徴である灰被天目を深く理解し、自身の教養と権威の象徴としていたことを示す好例である。
これらの伝来史が示すのは、灰被天目が持つ二重性である。「質素」「静寂」を旨とするわび茶の精神性を体現する一方で、戦国武将にとっては自身の権威と教養を誇示するための最高の「ブランド品」でもあった。この一見矛盾した二つの価値、すなわち精神性と権力性が分かちがたく融合している点にこそ、戦国時代における灰被天目の本質がある。武将たちは、わび茶の精神性を理解し、それを実践できるだけの「教養」と「余裕」があることを示すことで、単なる武力による支配者ではない、文化的に正統な支配者であることをアピールした。つまり、質素な茶碗を所有するという行為が、最高の贅沢であり、最高の権威の表明となったのである。灰被天目は、この権力闘争のパラドックスを象徴する、極めて政治的なオブジェクトであったのだ。
戦国の動乱、江戸時代の泰平、そして近代化の荒波を越えて、数々の灰被天目が奇跡的に現代にまで伝えられている。本章では、大正時代に実業家であり茶人でもあった高橋義雄(箒庵)が編纂した茶道具の一大集成『大正名器鑑』 41 を一つの道標としながら、現存する特に著名な灰被天目の名品を個別に紹介する。それぞれの碗が持つ唯一無二の造形的な見どころと、それにまつわる豊かな物語を詳述し、灰被天目の美の多様性を明らかにする。
室町幕府8代将軍・足利義政の所持と伝えられる「大名物」であり、灰被天目の中でも特に由緒正しい一碗として知られる 8 。その最大の特徴は、銘の由来ともなった幻想的な釉景にある。器の内外面に、漆黒釉と褐釉が左右に掛け分けられており、その斜めの境目が窯の炎による化学変化、すなわち窯変によって鮮やかな銀色に発色している。この景色が、あたかも雨上がりの空に架かる虹を思わせることから、「虹天目」とも呼ばれてきた 8 。黒褐色の硬く焼き締まった素地に、典型的な天目形をなしながらも、その釉景は他に類を見ない華やかさを湛えている。唐物至上主義であった室町将軍家の美意識と、後のわび茶の美意識の接点に位置する、茶道文化史上、極めて貴重な遺例である 8 。
堺の豪商・油屋常祐から徳川家康を経て、尾張徳川家に伝来した、最も著名な灰被天目の一つである 15 。『山上宗二記』にその名が記された天目の中で、唯一現存する作例とも目されており、その歴史的価値は計り知れない 38 。この茶碗の見どころは、その複雑で深遠な景色にある。見込み(内側)には飛雲のような淡い青色の模様が浮かび、全体には梨の皮のようなざらついた光沢(梨子地)と、細かな銀の砂子を蒔いたようなきらめきが広がる。そして、器の裾、土際の釉薬が厚く溜まった部分には、黒ずんだ灰色の中に墨を流したかのような景色が見られ、格別の風情を醸し出している 15 。『玩貨名物記』や『古今名物類聚』、そして『大正名器鑑』といった歴代の名物記にその名が記される、まさに名物中の名物である 15 。
奥州の覇者・伊達政宗が所持し、以来、長く仙台伊達家に伝来した名碗として知られる 12 。その姿は穏やかな天目形をなし、胴部には轆轤目が太くめぐる。二重掛けされた釉薬は、裾の部分で一筋の黒釉がなだれのように流れ落ちて景色を作り、土際には厚く溜まった黄釉が現れている。全体を覆う釉調は、やや褐色を帯びた黒色で、ところどころに鈍い銀色の光芒が見え、まさに「佗び」という言葉がふさわしい、静かで趣深い一碗である 12 。この茶碗もまた、『古今名物類聚』および『大正名器鑑』に所載されている 12 。
江戸時代初期を代表する大名茶人であり、独自の美意識「きれいさび」を確立した小堀遠州が所持し、自ら「埋火(うずみび)」と命名したと伝えられる一碗 28 。この銘は、灰を被ったという直接的な名称を嫌った遠州の洗練された美意識を反映しているとされる。「埋火」とは、灰の中に熾る消えやらぬ炭火を指す。その名の通り、一見すると静かで落ち着いた表情の中に、熱や生命力を秘めたような景色を持つ茶碗であったと想像される。
その名が示す通り、わび茶の祖・村田珠光から、戦国武将であり利休七哲の一人でもある細川忠興(三斎)へと伝来したとされる、特別な由緒を持つ天目茶碗である 20 。灰被天目の一種とされ、その姿はわび茶の源流を今に伝えるものとして極めて重要視される。珠光がどのような思いでこの一碗を手にし、茶を点てたのか、見る者に深い思索を促す、歴史の重みに満ちた作例である 30 。
これらの名品は、それぞれが異なる表情と物語を持つ。しかし、そのいずれもが、完璧ではないがゆえの深い味わいと、静かな佇まいの中に豊かな景色を秘めている点で共通している。それらは、灰被天目という一つのカテゴリーの中に、無限の美の宇宙が広がっていることを示しているのである。
本報告書が明らかにしてきたように、灰被天目は、中国福建省の茶洋窯で生まれた一介の陶磁器であった。しかし、それは日本に渡り、室町時代後期に勃興した「わび茶」という新たな美意識の奔流の中で、その運命を劇的に変える。村田珠光によってその価値を「発見」され、千利休と山上宗二によってその意味を「創造」されたのである。
この茶碗の再評価は、単なる美術史上の出来事に留まらない。それは、中国伝来の完璧な美から、不完全さや静寂のうちに趣を見出す日本独自の美へと、価値基準そのものを転換させる文化革命の象徴であった。そして、皮肉なことに、この革命の精神的支柱であったはずの灰被天目は、その担い手であった戦国武将たちにとって、自らの権威と教養を示すための究極のシンボルとなった。質素を尊ぶ器が、最高の権力者の渇望の対象となる。このパラドックスこそ、戦国という時代の複雑な精神構造を映し出している。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の手を渡り歩いた名碗の伝来は、戦国時代の権力闘争の歴史そのものを生々しく物語る。一碗の茶碗は、もはや単なる器であることを超え、時代の精神、美意識、そして政治力学が凝縮された、類稀なる歴史的遺産なのである。
かくして、「灰被珠光天目」という呼称は、単一の特定の茶碗を指す固有名詞というよりも、村田珠光によって見出され、わび茶の理想を託された灰被天目という一群の茶碗が持つ、歴史的・思想的な概念を内包する言葉として理解すべきであろう。
灰被天目を深く知ることは、戦国という時代に生きた人々の、美と力に対する複雑で深遠な眼差しを理解することに他ならない。この静かな茶碗は、五百年の時を越えて、今なお我々に、その激動の時代の記憶を雄弁に語りかけている。