煙草は戦国末期に日本へ伝来し、当初は薬として認識された。幕府は度々禁令を出したが、普及を止められず、やがて喫煙具の発展や浮世絵の題材となるなど、日本独自の文化を形成し、社会に大きな影響を与えた。
煙草が日本の歴史に登場する背景には、大航海時代という世界史的なうねりが存在する。元来、アメリカ大陸の先住民族が宗教的儀式や儀礼で用いていたこの植物は、15世紀末のクリストファー・コロンブスによる「新大陸発見」以降、ヨーロッパ世界へと伝播した 1 。当時のヨーロッパでは、煙草は多くの病に効能があるとされ、一種の万能薬として大きな期待とともに迎えられた。特に、フランス王アンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディシスが、侍医ジャン・ニコ(ニコチンの語源となった人物)の勧めで嗅ぎ煙草を偏頭痛の治療に用いて効果があったとされる逸話は、王侯貴族の間でその流行を決定づける契機となった 3 。このように、薬としての価値が先行したことが、煙草が世界へ広まる原動力となったのである。
日本への煙草の伝来については、天文12年(1543年)の鉄砲伝来と同時期にポルトガル人によってもたらされたとする説が広く知られているが、これを裏付ける確実な史料は現存していない 4 。より確かな記録として現存する最古のものは、慶長6年(1601年)、スペインのフランシスコ会修道士ヘロニモ・デ・ヘススが、療養中の徳川家康に対し、薬として調合された煙草とその種子を献上したという記述である 5 。これが、煙草の種子が日本にもたらされた公式な最初の記録とされている。
しかし、この公式記録以前に、既に喫煙の風習が日本に存在していた可能性は極めて高い。事実、家康に煙草を献上した一行にいた修道士ペドロ・デ・ブルギーリョスは、その報告書の中で、1601年の時点で日本には既に煙草が存在していたと明記している 2 。これは、家康への献上という公式ルートとは別に、宣教師や商人、あるいは東南アジアや中国、朝鮮半島を経由する非公式なルートを通じて、喫煙の風習が先行して伝播していたことを示唆している 2 。この「公式の伝来」と「非公式な風習の伝播」という二重の構造は、後に幕府が煙草を統制しようとした際に、既に民衆の間に広まっていた文化との間で深刻な緊張関係を生む土壌となった。
「たばこ」という言葉は、ポルトガル語あるいはスペイン語の “tabaco” に直接由来する 9 。そのさらに源流は、カリブ海のタイノ族の言葉で、もともとは葉そのものではなく、煙を吸うためのY字型の喫煙具を指していたという説もある 9 。
外来語であったため、その音に対して様々な漢字が当てられた。「煙草」という表記が今日では一般的だが、当時は煙が立ちこめる様を表す「烟草」、中国で毒草を意味する「莨」、さらには音訳である「淡婆姑」「多葉粉」といった多様な表記が存在した 11 。中でも興味深いのは「丹波粉」という表記で、これは語呂合わせではなく、日本で初期に煙草が栽培された丹波国に由来する可能性が指摘されており、言葉の定着が国内での生産活動と連動していたことを物語っている 11 。
日本に伝来した当初、煙草は現代のような嗜好品ではなく、もっぱら「薬」として認識されていた。宣教師たちは、その薬効を盛んに喧伝し、気分を爽快にし、虫歯や切り傷の痛みを和らげ、さらには当時恐れられていた梅毒を含む万病に効く「万能薬」として紹介した 1 。中には、煙草の葉一枚が米一俵と同じ価格で取引されたという記録もあり、その高価さにもかかわらず支配者層に受け入れられたのは、この「薬」としての絶大な期待があったからに他ならない 12 。未知の異質な文化である「喫煙」を、当時の日本社会が最も理解しやすく、価値を認めやすい「薬」というカテゴリーに当てはめて紹介したことは、心理的な抵抗を下げ、その後の急速な普及を促すための極めて効果的な文化的翻訳であったと言える。
自ら薬を調合するなど、健康への関心が人一倍高かった徳川家康は、異国からもたらされたこの「薬草」に強い好奇心を示した 7 。慶長6年(1601年)のヘロニモ・デ・ヘススによる種子の献上は、まさに家康のそうした知的好奇心を満たす格好の贈り物であった 5 。しかし、家康自身が喫煙を試したところ、ひどく咽せ返ってしまい、その良さを全く理解できなかったという逸話が残っている 12 。この個人的な不快な体験と、同時期に駿府城で頻発した不審火が、後の禁令へと繋がる伏線となった 6 。家康は煙草を常習的に用いることはなかったが、彼の治世に煙草は確実に日本社会へと浸透していったのである 13 。
戦国武将の中で、煙草を最も愛した人物として伊達政宗の名が挙げられる。彼の喫煙習慣は極めて特徴的で、単なる嗜好の域を超えた、一種の儀式であった。仙台城での一日を描いた記録によれば、朝、起床するとまず寝床の上に虎の皮を敷かせ、蝋燭の火で3服、あるいは5服の煙草を嗜むのが日課であったという 14 。これを皮切りに、1日に4回から5回、決まった時間に規則正しく喫煙したと伝えられている 4 。この厳格な習慣は、彼が喫煙を健康法の一環として捉えていた可能性を示唆している 4 。
政宗の喫煙スタイルは、彼の自己管理能力と規律を重んじる性格の表れでもあった。彼の喫煙が決して無軌道なものではなかったことは、その道具へのこだわりからも窺える。愛用の煙管は全長68cmにも及ぶ長大なもので 4 、喫煙後には自ら丁寧に手入れをし、煙管箱に納めていたという 18 。この逸話を裏付けるように、彼の墓所である瑞鳳殿からは、実際に豪華な装飾が施された煙管箱と竹製の掃除道具が副葬品として発見されている 18 。このように、煙草への向き合い方そのものが、政宗という武将の人物像を映し出す鏡として機能していた。
豊臣秀吉の側室であり、秀頼の生母である淀殿が、日本で最初に煙草を吸った女性であるという説がある 20 。この説は、煙草が薬として広まり始めた天正年間(1573-1591年)という時代背景と重なるものの、これを直接裏付ける史料は存在せず、伝説の域を出ない 20 。
しかし、なぜ淀殿が「最初の女性喫煙者」として語られるのか。彼女は豊臣家の終焉を象徴する悲劇の女性であり、後世にはしばしば悪女としても描かれた。煙草という、異国からもたらされた目新しく、どこか倒錯的で妖しい魅力を持つ嗜好品を彼女に結びつけることは、そのミステリアスで悲劇的な人物像をより一層際立たせる物語的装置として機能したと考えられる。近年では、彼女のヒステリックとされる振る舞いが、豊臣秀吉のキリスト教禁止令(伴天連追放令)によって煙草の輸入が滞ったことによる禁断症状だったのではないか、という興味深い解釈も提示されている 22 。この説は彼女が愛煙家であったことを前提としており、史実の真偽を超えて、煙草が彼女の人物像を語る上でいかに魅力的な小道具であったかを示している。
煙草は他の大名家にも影響を及ぼした。薩摩の島津義久の家臣であった鳥居氏は、良質な煙草の栽培に成功し、藩から「煙草奉行」に任じられたという記録がある 4 。これは、有力大名が早くから煙草の経済的価値に着目し、その生産を藩の重要政策として位置づけていたことを示す好例である。一方で、煙草の負の側面も早くから認識されていた。大名の一人、土方勝久は大変な煙草好きで知られたが、慶長13年(1608年)に喫煙が原因で急死したと伝えられている 12 。医師の診断は「煙草の呑み過ぎにより喉が破裂した」というもので、薬としての認識と並行して、その過剰摂取がもたらす健康被害もまた、経験的に知られ始めていたことが窺える。節度を保ち、自己管理の道具とした政宗と、無軌道な末に命を落とした勝久の対比は、煙草という新しい文化にどう向き合うかが、武将個人の資質を測る一つの指標と見なされていたことを示唆している。
煙草の流行が爆発的に広がるにつれ、徳川幕府は強い警戒感を抱き、厳しい規制に乗り出した。慶長14年(1609年)に最初の禁煙令が発布されて以降、家康の存命中から2代秀忠、3代家光の治世にかけて、幕府は繰り返し禁令を発布した 5 。『徳川実記』などの公式記録には、慶長17年(1612年)や元和元年(1615年)の禁令が記されており、その規制は当初の喫煙そのものの禁止から、次第に煙草の栽培、売買へと対象を拡大し、違反者には財産没収や数十日間の入牢といった厳しい罰則が科されるようになった 12 。
幕府がこれほどまでに煙草を敵視した理由は、主に三つあった。
第一に、 火災対策 である。当時の建築物の主たる素材は木と紙であり、ひとたび火災が発生すれば大惨事につながった。特に江戸は世界有数の人口過密都市であり、火の不始末は致命的であった。そのため、幕府は煙草の火を火災の元凶とみなし、厳しく取り締まった 25 。歩き煙草は厳禁とされ、女性のくわえ煙草による失火は死罪に処されることさえあったという 25 。
第二に、 風紀の取り締まり 、すなわち「かぶき者」対策である。戦国の気風が残る江戸初期、社会秩序に反抗する「かぶき者」と呼ばれる若者たちが徒党を組んで市中を闊歩していた。彼らは異様な風体で人々を威嚇し、南蛮渡来の目新しい煙草を吸い、長い煙管を武器のように誇示することを、自らの反体制的な姿勢を示すシンボルとしていた 6 。幕府にとって禁煙令は、こうした風紀を乱す勢力を弾圧するための有効な手段でもあった。
そして第三に、これが最大の理由とされる 経済政策 、すなわち年貢米の確保である。幕府の財政基盤は米の年貢によって支えられていた。しかし、煙草は商品作物として極めて収益性が高く、多くの農民が安定した収入が見込める煙草栽培へと転作する動きが全国で急速に広がった。これは、幕府の屋台骨である米の生産量を直接脅かす深刻な事態であり、幕府は強い危機感を抱き、煙草の栽培そのものを禁止しようとしたのである 5 。
しかし、幕府の厳しい禁令にもかかわらず、喫煙の流行は衰えるどころか、ますます拡大していった 7 。その背景には、人々が煙草を万病に効く薬草だと信じて疑わなかったこと 25 、そしてより大きな要因として、各藩が財政難を補うための重要な財源として煙草栽培を黙認、あるいは積極的に奨励したことが挙げられる。明暦2年(1656年)の松山藩のように、公式に栽培を奨励する藩まで現れた 5 。
この状況は、天下の公儀としての幕府の権威が、各藩の経済的実利の前では必ずしも絶対ではなかったという、初期幕藩体制の構造的な矛盾を露呈させた。煙草という一つの作物が、中央集権化を目指す幕府の建前と、自藩の経営を優先する各藩の本音との間の深刻な亀裂を浮き彫りにしたのである。
度重なる禁令の失敗を前に、幕府もついに現実的な政策へと転換せざるを得なくなった。寛永期(1624-1645年)には喫煙自体が容認され始め 5 、寛永19年(1642年)には寛永の大飢饉を背景に、本田畑での栽培は禁じるものの、新しく開墾した新田畑での栽培を限定的に認めるなど、全面禁止から管理・課税へと大きく舵を切った 25 。この政策転換は、禁止できないものからは税を取るという、より近代的で現実的な統治手法への移行を意味した。煙草に課された運上金(営業税)や冥加金(免許手数料) 6 は、後の酒税などにも繋がる「嗜好品への課税」という概念の先駆けであり、物納経済から貨幣経済へと移行しつつあった社会の変化を象徴するものであった。そして、5代将軍徳川綱吉が治めた元禄期(1688-1703年)頃には、煙草に関する新たな禁令は出されなくなり、煙草は名実ともに日本社会に完全に定着したのである 6 。
表1:徳川幕府による主要な煙草禁令年表
年月 |
法令/出来事 |
内容/罰則 |
典拠史料/関連情報 |
慶長14年(1609) |
禁煙令 |
喫煙の禁止。 |
『徳川実記』。駿府城での不審火多発が背景 6 。 |
慶長17年(1612) |
喫煙・売買・耕作の禁令 |
規制対象を売買・栽培に拡大。違反者の財産は訴人(密告者)に与えられた 23 。 |
『徳川実記』。かぶき者の流行が背景か 6 。 |
元和元年(1615) |
喫煙・売買・耕作の禁令 |
大坂夏の陣の後、改めて禁令を発布。 |
幕府による統制強化の一環 5 。 |
元和2年~8年(1616-1622) |
禁令の再強化 |
5度にわたり売買・耕作の禁令を発布。 |
イギリス商館長リチャード・コックスの日記に家康の関与が記される 5 。 |
元和5年(1619)頃 |
煙管狩り |
3代将軍家光の時代、市中で煙管を没収する「煙管狩り」が実施されたとの説がある 6 。 |
日本橋のたもとに没収された煙管が山積みになったという 25 。 |
寛永19年(1642) |
本田畑での耕作禁止 |
寛永の大飢饉を受け、食糧生産を優先。本田畑(古くからの田畑)での煙草栽培を禁止 5 。 |
新田畑での栽培は限定的に容認される方向へ 25 。 |
慶安2年(1649) |
家屋内での喫煙許可 |
江戸市中において、家屋内に限り喫煙が許可される 5 。 |
流行を抑えきれず、規制緩和へ。 |
煙草の普及は、その道具である喫煙具に日本独自の発展と洗練をもたらした。外来の文化をそのまま模倣するのではなく、自国の素材、技術、美意識と融合させ、全く新しい独自の文化へと昇華させていく、日本の文化受容の典型的なパターンがここに見られる 27 。
煙管(きせる)は、伝来当初、煙草の味が荒かったため、煙を冷まして喫味を和らげる目的で、羅宇(らう)と呼ばれる竹の管が長い大型のものが主流であった 2 。静岡県の山中城跡から発掘された戦国時代の銅製煙管も、火皿が大きくラッパ状に開いた初期の形態的特徴を有している 27 。しかし、時代が下り、刻み煙草の製造技術が向上して細かく柔らかいものが好まれるようになると、それに合わせて火皿は小さく、羅宇は短いものが一般的になった 2 。材質も、竹と金属を組み合わせた「羅宇煙管」から、全体が金属で作られ、より精緻な装飾が可能な「延べ煙管」まで多様化し、単なる喫煙具から持ち主の身分や個性を表現する装飾品へとその性格を変えていった 2 。中には、護身用にもなる武骨な「喧嘩煙管」や、吸い口が二つに分かれた「夫婦煙管」、懐に入れやすいよう平たく作られた「刀豆(なたまめ)煙管」など、用途や意匠を凝らした様々な煙管が生まれ、日本独自の道具として爛熟期を迎えた 2 。
煙草入れや煙草盆も同様の発展を遂げた。当初は煙草と煙管を携帯するための実用的な袋物であったが、幕府によって華美な服装が制限された江戸時代において、町人たちが自らの「粋」や財力を示すための数少ない手段として、その意匠に贅を尽くすようになった 29 。武士が刀にお金をかけたのに対し、富裕な町人は煙草入れにお金をかけた、とまで言われた 31 。材質には金唐革や美しい錦が用いられ、帯に留めるための根付や、煙管を収める筒などにも精緻な彫金や蒔絵が施され、これらは一体となって高度な美術工芸品として発展していった 29 。
煙草は人々の生活の隅々にまで浸透し、新たな作法やコミュニケーションの形を生み出した。それまで存在しなかった「煙管を持つ手」や「煙をくゆらせる口元」といった所作が、身分や粋、色気といった社会的・文化的な意味を帯びるようになり、煙草は日本人の身体に新たな表現の語彙を与えたのである。
江戸時代には、煙管の持ち方一つでその人物の身分がわかるとされた 33 。武士は威厳を示すように羅宇の中ほどを堂々と持ち、町人は筆を持つように上品に、農民は火皿に近い熱い部分をつまむように持ったという 33 。また、遊女、特に花魁は、豪華な衣装を焦がさないため、また格子の内側から客を誘う小道具として、非常に長い煙管を優雅な手つきで操った 33 。
社交の場においても煙草は重要な役割を果たした。来客があればまず煙草盆を差し出すのがもてなしの基本となり 13 、一服しながら交わす言葉は場の雰囲気を和らげた。旅籠や街道の茶屋で旅人が一服する光景は、ごくありふれた日常の一部となった 30 。特殊な空間では、その役割はさらに深化した。吉原などの遊郭では、遊女が自ら火をつけた煙管を客に差し出す「吸い付け煙草」が、親密さの表現や恋の駆け引きの手段として用いられた 26 。意外なところでは、わびさびを追求する茶の湯の世界にも煙草は入り込み、千利休の孫である千宗旦や大名茶人の小堀遠州が好んだとされる煙草盆が今に伝わっている 40 。茶事において、待合や腰掛、そして薄茶の席で客をもてなす道具として、煙草は正式にその地位を確立したのである 42 。
煙草文化の浸透は、当代の芸術、特に浮世絵に色濃く反映された。喜多川歌麿が描く美人画では、物憂げに煙管を持つ遊女や、くつろいで一服する町娘の姿が描かれ 43 、東洲斎写楽の役者絵では、煙管が役柄を象徴する重要な小道具として登場する 45 。また、葛飾北斎や歌川広重の風景画に目を向ければ、旅の途中の茶屋で一服する庶民の姿が生き生きと描かれており、喫煙が人々の生活にいかに溶け込んでいたかを伝えている 37 。
これらの浮世絵は、単なる風俗画に留まらず、当時の喫煙文化を視覚的に伝える極めて貴重な一次資料である 45 。煙草を吸う仕草は、人物の心情や場面の雰囲気を雄弁に物語る。例えば、嫌な相手に煙を吹きかける行為は侮蔑を表し、物思いに耽りながら煙を吐く姿は内面の葛藤を暗示するなど、煙草は芝居や絵画の中で重要な演出の役割を担っていた 47 。現在、たばこと塩の博物館には、喫煙風景が描かれた浮世絵が体系的に収集・所蔵されており、そのコレクションは江戸の煙草文化を研究する上で比類なき価値を持っている 32 。
幕府の禁令にもかかわらず、煙草の需要は増大の一途をたどり、その栽培は一大産業へと発展した。慶長10年(1605年)に長崎の桜馬場で初めて煙草の種が植えられたのを皮切りに 51 、栽培は瞬く間に日本全国へと広がった。当初は高価な輸入品に頼っていたが、国内での栽培が成功すると、多くの藩がこれを重要な財源とみなし、栽培を奨励した。
やがて、各地で気候風土に適した品種改良が進み、地域ごとの特色を持つブランド煙草、いわゆる「銘葉」が誕生した。中でも、薩摩(鹿児島県)の「国分葉」、常陸(茨城県)の「水府葉」、そして相模(神奈川県)の「秦野葉」は、その品質の高さから「三大銘葉」と称され、全国にその名を轟かせた 47 。これらの銘葉は農家にとって高収益をもたらす貴重な換金作物となり、地域の経済を潤した。例えば薩摩藩では、古くから樟脳の専売制を敷くなど、商品作物の管理・販売に長けており、国分葉もまた藩の重要な財源として戦略的に育成されたと考えられる 53 。
日本の喫煙文化の最大の特徴は、煙管で吸うために煙草の葉を極めて細かく刻む「細刻み」という独自の加工技術が発達したことにある 5 。海外で主流であったパイプ用の粗い刻み方や葉巻とは一線を画し、日本ではより柔らかく、マイルドな喫味を求める人々の嗜好に合わせて、まるで髪の毛のように繊細に刻む技術が追求された 35 。この精緻な加工技術は、世界でも類を見ない日本独自のものであり、職人たちの高い技術力と探究心が生んだイノベーションであった。
煙草という新興産業の勃興は、既存の産業構造にも大きな変化を促した。その最も劇的な例が、和泉国堺の職人たちの産業転換である。戦国時代、堺は鉄砲の一大生産地として栄えたが、関ヶ原の合戦、大坂の陣を経て世に平穏が訪れると、鉄砲の需要は激減した 2 。そこで堺の職人たちが次に着目したのが、急速に普及し始めた煙草であった。
彼らは、鉄砲鍛冶で培った高度な金属加工技術を応用し、細刻み煙草に不可欠な「煙草包丁」の生産へと事業の軸足を移したのである。これは、一つの分野で培われた高度な専門技術が、全く新しい市場の需要に対して「水平展開」された見事な事例であった。堺製の煙草包丁は、その切れ味と耐久性から極めて高い評価を受け、やがて幕府から「堺極」という品質保証の刻印と専売の許可を得るほどのブランドとなった 2 。需要が消滅した産業の技術と労働力が失われることなく、新興産業へと円滑に移行できたこの事例は、近世日本の経済が持つ高い適応能力と、その根底にあった技術的基盤の厚みを示している。
国内生産の拡大は煙草の価格を押し下げ、かつては支配者層の贅沢品であった煙草は、次第に庶民にも手が届く嗜好品へと変化していった 6 。この文化の「民主化」を支えたのが、多層的で柔軟な流通システムの確立であった。
都市部には専門の「煙草屋」が出現し、店先で主人が煙草を刻み、女将がそれを販売する「かか巻、とと切」と呼ばれる対面販売の形態も見られた 5 。また、大きな木箱を背負った行商人が町や村を売り歩く移動販売も盛んに行われた 56 。さらには、葉煙草を購入した客のために、手間賃を取って好みの細さに刻んでやる「賃粉切り」という専門職や、路上に筵を敷き、煙管と火を用意して一杯いくらで吸わせる「一服商い」も登場し、煙草を買う資力のない貧しい人々でさえも喫煙の楽しみを享受することができた 56 。
一方で、藩レベルでは流通を管理し、安定した税収を確保するために、特定の商人に独占的な販売権を与える「煙草座」が設けられることもあった。慶安2年(1649年)に設置された秋田藩の煙草座などがその代表例である 5 。このように、藩が管理する公式な流通網から、零細な路上販売に至るまで、極めて多層的な流通システムが存在したことこそが、あらゆる階層の人々が煙草文化にアクセスすることを可能にし、国民的な嗜好品へと押し上げる原動力となったのである。
戦国時代の終焉から江戸泰平の世へと移行する激動の時代に日本へ伝来した煙草は、単なる嗜好品の枠をはるかに超え、近世日本社会のあらゆる側面に深く、かつ複合的な影響を及ぼした。それは、法制度(禁令と課税)、経済(新産業の創出と藩財政)、社会(かぶき者文化と社交儀礼)、そして文化(喫煙具の発展と芸術の題材)の隅々にまで浸透し、社会変容の触媒として機能したのである。
この煙草の受容がいかに特異で劇的であったかは、同じく外来の嗜好品である砂糖と比較することで一層明らかになる。砂糖もまた、奈良時代に薬として伝来し、近世に広く普及した 59 。しかし、砂糖の普及はカステラなどの南蛮菓子を通じて比較的穏やかに進み、社会との間に深刻な軋轢を生むことはなかった 61 。一方、煙草は「火災の危険性」「反体制文化の象徴」「基幹作物である米との競合」という、砂糖にはない極めて深刻な社会的・経済的対立点を内包していた。この根深い対立構造こそが、幕府による執拗なまでの厳しい規制と、それに抗い、したたかに文化を享受し続けた社会のダイナミズムを生み出したのである。
薬として始まり、時に社会悪として糾弾されながらも、最終的に日本独自の精緻な文化として深く根を下ろした煙草の歴史は、外来の文物を受容し、自国の文脈の中で変容させ、新たな価値を創造していく日本社会の姿そのものを映し出している。それは、幕府の集権的統制と庶民文化のエネルギーとのせめぎ合いであり、米を基盤とする伝統経済と貨幣を介した商品経済との交錯であり、そして古来の職人技術と新しい時代の需要との幸福な結合であった。煙草は、まさに近世日本社会が内包していた様々なダイナミズムを象徴する、歴史の証人なのである。