『礼記射義』は、古代中国の儒教経典。射を通じて君子の徳を涵養する「仁の道」を説く。日本へ伝来し、武士の台頭と共に弓矢の価値観を変容。戦国乱世では礼射と武射の相克。江戸時代に「術」から「道」へ。
私は、東アジア思想史、特に日本の武道哲学を専門とする上級研究員兼ライターです。歴史学、哲学、文化人類学、そして武道実践の各分野の専門家から成る学際的チームを率い、古典文献の解釈と、それが歴史的文脈において人々の精神性に与えた影響を解明することを使命としています。今回の報告書では、私の専門知識を最大限に活用し、文献学的精密さと歴史的洞察力を融合させた、多角的かつ深遠な分析をお届けします。
古代中国の儒教経典『礼記』の一篇、「射義」。そこに描かれるのは、射、すなわち弓を引くという行為を通じて、君子の徳を涵養し、礼に基づく秩序ある社会を実現しようとする、静謐で理想的な世界観である。射は単なる武技ではなく、人格を映す鏡であり、仁の道そのものであると説かれる。
しかし、この報告書が光を当てるのは、その理想とは対極にあるかのような時代、すなわち日本の戦国時代である。そこは、下剋上が横行し、力こそが正義とされ、昨日までの主君が今日の敵となる、裏切りと謀略が渦巻く修羅の世界であった。秩序は崩壊し、徳は地に堕ちたかに見えたこの時代において、なぜ我々は、儒教的徳治主義の精華ともいえる『礼記射義』を論じる意味があるのだろうか。
この問いこそが、本報告書の出発点であり、探求の核心である。一見、水と油のように相容れない二つの要素―古代中国の理想的君子論と、日本の最も混沌とした時代の現実―を突き合わせることで、初めて見えてくるものがある。それは、理想が現実の前にいかに無力であったかという単純な結論ではない。むしろ、その理想が、戦国の武士たちによっていかに渇望され、苦悩の中で解釈され、実利のために利用され、そして彼らの精神性の根幹を形作るべく変容を遂げていったかという、複雑でダイナミックな思想的格闘の軌跡である。
本報告書は、『礼記射義』が説く「礼射」の理想と、戦場で求められる「武射」の現実との間の緊張、相克、そしてやがて訪れる融合の実態を、多角的な視点から解き明かすことを目的とする。この探求を通じて、戦国武士の精神構造を深く掘り下げ、後の世に「武士道」として結晶化する思想の源流を辿り、ひいては日本人の精神性の深層に横たわる理想と現実の二重構造を理解するための一助としたい。
『礼記射義』が日本の戦国時代に与えた影響を考察する前に、まずその思想的源流と、古代中国において「射」がどのような意味を持っていたのかを深く理解する必要がある。それは単なる戦闘技術ではなく、個人の修養と社会の統治を結びつける、高度に洗練された哲理であった。
古代中国、特に周代の貴族社会において、為政者たる君子が修めるべき必須の教養として「六芸(りくげい)」が定められていた。すなわち、礼(礼儀作法)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬車術)、書(書道)、数(数学)である 1 。この中で「射」が単なる武術の一つとしてではなく、礼や楽と並んで人格形成の中核に据えられていた点は極めて重要である。
射は、身体的な技量のみならず、精神の集中、不動の心、そして礼に適った美しい所作が求められる。弓を引き、的を狙い、矢を放つ一連の動作の中に、その人物の精神状態や徳性が余すところなく現れると考えられた。したがって、射の修練は、身体を鍛えると同時に心を磨き、社会の指導者としてふさわしい人格を陶冶するための、不可欠な実践だったのである。
儒教の経書群の一つである『礼記』は全49篇から成り、その第46篇が「射義」である 1 。現代の日本の弓道場などで掲げられる「礼記射義」は、この篇の冒頭と結びの部分から抜粋されたものであり、その核心思想が凝縮されている。
その冒頭には、射の根本的な心構えが示されている。
「射は進退周還(しんたいしゅうせん)必ず礼に中(あた)り、内(うち)は志正しく、外(そと)は体(たい)直(なお)くして、然(しか)る後に弓矢を持つこと審固(しんこ)なり。弓矢を持つこと審固にして、然る後に以て中(あた)るというべし」 1
これは、正しい射が成立するための三つの要件を明確に示している。第一に、全ての立ち居振る舞いが礼儀作法にかなっていること(外面的な所作)。第二に、心の内なる意志が正しく安定していること(内面的な精神状態)。第三に、その結果として身体が真っ直ぐに保たれること(身体的な姿勢)。この心・技・体の三位一体が実現して初めて、弓矢を構える姿は「審固」、すなわち一点の隙もなく堅固なものとなり、その結果として的に「中る」ことができる、と説く。的中は単なる技術の成果ではなく、心身の完全な調和の現れなのである。
そして、この思想をさらに深化させるのが、篇の結びに置かれた、自己内省の哲学である。
「射は仁の道なり。射は正しきを己(おのれ)に求む。己正しくして而(しか)して後(のち)発す。発して中らざるときは、則(すなわ)ち己に勝つものを怨みず。反(かえ)ってこれを己に求むるのみ」 4
ここで「射」は、儒教の最高徳目である「仁」を実践する道そのものであると断言される。その実践方法は、「正しきを己に求む」という一言に集約される。矢が的に中らなかった場合、その原因を他者(自分より優れた射手)や外的環境(風や光)に転嫁してはならない。ましてや、自分に勝った者を怨むことなど論外である。全ての責任は自分自身にある。なぜ中らなかったのか、自らの心に乱れはなかったか、身体の構えに歪みはなかったか、技術に未熟な点はなかったかと、徹底して自己の内に原因を求め、反省することこそが求められる 9 。この厳格な自己規律と内省のプロセスを通じて、人は驕りを捨て、謙虚さを学び、人格を磨き上げていく。これこそが「仁の道」の実践に他ならない。
この思想は、単なる個人の道徳律にとどまらない。それは、支配者にとって極めて戦略的な価値を持つ、統治のイデオロギーとしての側面を併せ持っていた。失敗の原因を他責にせず、自らを省みて修養に励むという精神性は、支配者にとって従順かつ忠実で、自己管理能力の高い理想的な家臣を育成するための絶好の教育指針となる。一方で、後述するように『礼記射義』は「君臣の義」といった封建的な身分秩序を絶対視する。この二重性、すなわち「内なる自己修養の奨励」と「外なる支配体制の正当化」が一体となっている点にこそ、『礼記射義』が時代や国を超えて為政者たちに注目された根源的な理由が存在するのである。
『礼記射義』は、「これ以て徳行を観るべし」と明記している 1 。これは、射がその人物の人格や徳性を測るための「器」、すなわちバロメーターとして機能することを示している。射における一挙手一投足、特に的に中らなかった時の態度に、その人間の本質が映し出されると考えられたのである。
落ち着き払って礼に適った所作を保ち、たとえ失敗しても静かに自らを省みる者は、徳の高い君子と評価される。逆に、的中しなかったことに動揺して取り乱したり、道具や他人のせいにしたりする者は、徳の低い未熟な人物と見なされる。
この思想に基づき、古代中国では、射礼(射の儀式)が官吏登用のための試験として実際に機能していた 1 。天子や諸侯は、射礼を通じて臣下の能力や忠誠心を見極め、その結果は地位や領地の増減にまで影響を及ぼした 12 。単に矢を的に中てる技術だけでなく、儀礼全体を通じて示される礼儀や精神性こそが、民を治める為政者としての資質を判断する上で最も重要な基準とされたのである。
『礼記射義』が描く射は、個人の修養や人材評価に留まらず、社会全体の秩序を確認し、維持するための重要な儀礼であった。本文中には、「大射・郷射を行うには、先ず君臣の義・長幼の序を明らかにしなければならない」と記されている 1 。これは、射の儀式が、君主と臣下、年長者と年少者といった、儒教的な身分序列や人間関係の規範を、参加者全員に再認識させる場であったことを意味する。
特に、諸侯や卿大夫(きょうたいふ)が行う射礼の前には、必ず「燕礼(えんれい)」や「郷飲酒(ごういんしゅ)の礼」といった酒宴が催されたことが強調されている 1 。これは単なる遊興ではない。厳格な礼法に則った宴席と、それに続く射の儀式を通じて、参加者は互いの立場を確認し、礼と楽(音楽)によって共同体の和を醸成する。このような一連の儀礼は、天下の乱れが人々の驕りや分不相応な振る舞いから始まると考える儒教思想に基づき 1 、支配体制を盤石にするための高度な政治的営為だったのである。
古代中国で育まれた『礼記射義』の哲理は、海を越えて日本へと伝わり、独自の歴史的文脈の中で新たな意味を付与されていく。特に、武士階級の台頭と共に、その受容の様相は大きく変化し、戦国時代における思想的格闘の土壌を形成することになる。
儒教経典が日本へ伝来したのは、一般に3世紀末から7世紀頃にかけてとされる 13 。当初、その思想は主に朝廷や貴族社会で受容された。『礼記』もその例外ではなく、特にその儀礼的な側面が重視された。奈良・平安時代には、宮廷の年中行事として、中国の礼制を模した「射礼(じゃらい)」が執り行われるようになる 15 。これは、正月に宮中で大的を射る儀式であり、『礼記射義』が説く射の政治的・儀礼的側面が、日本の支配層に導入された初期の形態であった。この段階では、射は武士の武芸というよりも、朝廷の権威と秩序を示すための雅な儀式としての性格が強かった。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて武士が台頭すると、弓矢の持つ意味合いは大きく変容する。武士にとって弓矢は、朝廷の儀礼の道具ではなく、自らの力と存在意義を示すための主要な武器であり、生活の糧であった。
この流れを決定づけたのが、鎌倉幕府の開祖である源頼朝である。頼朝は、武士の精神を鍛錬し、その結束を固めるための手段として、流鏑馬(やぶさめ)に代表される「弓馬の術」を積極的に奨励した 17 。これにより、弓矢は単なる武器としての価値を超え、武士のアイデンティティと不可分に結びついた「弓馬の道」という、武士独自の価値観の象徴へと昇華していく。この「道」という概念の発生こそが、後の時代に『礼記射義』のような精神的な教えが武士社会に深く浸透していくための素地となった。
戦国時代の激しい動乱に先立つ室町時代には、すでに弓術に深い精神性を求める思想の萌芽が見られた 10 。この時代、武士階級の支配が安定する中で、武士としての「あるべき姿」が問われるようになり、その精神的支柱として儒教の思想が注目され始めた。
特に、武士道思想の源流として、「義」の観念―すなわち正義や道義、人として踏み行うべき正しい道―が重視されるようになる 10 。『礼記』に記されたような礼儀作法や道徳規範は、武士が自らの行動を律し、その支配を正当化するための重要な論理的根拠となった。弓術においても、単に的に中てる技術だけでなく、その所作や心構えに「義」が体現されているかが問われるようになる。こうした室町時代における精神性の探求が、戦国時代に花開く多様な弓術思想―礼を重んじる「礼射」と、実利を追求する「武射」―が生まれるための、肥沃な土壌を準備したのである。
戦国時代という未曾有の動乱期において、弓術の世界は二つの大きな潮流へと分かれていく。一つは、伝統と儀礼を重んじ、『礼記射義』の理想を体現しようとする「礼射」。もう一つは、戦場の現実から生まれ、実利と効果を至上とする「武射」である。この二つの思想の相克は、単なる技術論争に留まらず、時代の価値観そのものの対立を象徴していた。
礼射の系譜を代表するのが、小笠原流である。鎌倉時代の小笠原長清を祖とし、室町時代には足利将軍家の弓馬術礼法師範として、武家社会における故実(古来の礼儀・制度)の中心的地位を確立した 18 。その権威は絶大であり、「礼の小笠原」と称されるほど、礼法と深く結びついていた。
小笠原流の教えは「糾法(きゅうほう)」と呼ばれ、それは単に弓を射る技術だけでなく、騎射や、日常生活における立ち居振る舞い全般を含む、厳格な礼法の体系であった 20 。その思想の根底にあるのは、的中という結果以上に、そこに至るまでの過程の正しさと、礼に適った所作の美しさを重んじる価値観である 10 。相手への心遣いや思いやりが礼の基本であり、その心が形となって現れたものが、洗練された儀礼となる 20 。
この思想は、『礼記射義』が説く「進退周還必ず礼に中り」という精神と、驚くほど高い親和性を持っている。小笠原流にとって、射は自己の人格を磨き、社会における自らの分をわきまえるための修養の道であり、『礼記射義』の理想を武家社会において実践する流派であったと言える 1 。彼らにとって弓矢は、武士社会の伝統と秩序、そして権威の象徴だったのである。
一方、戦国乱世という土壌から必然的に生まれたのが、武射の系譜である。その中心となったのが、室町時代中期の日置弾正政次(へきだんじょうまさつぐ)を祖とする日置流であった 23 。
日置流の思想は、戦場での実用性、すなわち「敵を確実に射倒す」という一点に集約される。そのため、儀礼的な側面は削ぎ落とされ、矢を的に「中てる」こと、そして鎧を「貫く」威力に特化した、極めて合理的な射法が追求された 24 。その教えを伝える伝書『射法訓』の冒頭には、「射法は弓を射ずして骨を射ること最も肝要なり」と記されている 26 。これは、弓矢という道具の操作に惑わされるのではなく、自らの身体、特に骨格の合理的な使い方(骨法)を極めることが射の要諦であると説くものであり、『礼記射義』が内面的な「心志」を第一とするのとは対照的なアプローチである 28 。
日置流の世界観では、会(矢を引き絞って狙いを定める状態)が長く、精神性を探求するような射は、単なる「不鍛錬」の証と見なされることさえあった。一瞬の判断が生死を分ける戦場において、悠長に構えることは死を意味するからである 30 。早く構え、早く射て、早く中てることが勝利に繋がる。この戦場のリアリズムから生まれた思想は、『礼記射義』が描く優雅で内省的な君子の射とは、明らかに一線を画していた。
大名や上級武士が礼射や武射の思想を論じる一方で、戦場の主役となりつつあった足軽たちにとって、弓矢は全く異なる意味を持っていた。『雑兵物語』のような文献から垣間見える彼らの現実は、思想や哲学とは無縁の、極めてプラグマティックなものであった 31 。
彼らにとっての関心事は、いかにして矢を効率的に補給するか、敵との間合いをどう計るか、そして矢が尽きた時にどう生き延びるか、といったことであった。恐怖に駆られて矢を無駄撃ちしてしまえば、待っているのは死である。矢が尽きれば、弓を捨て、腰に差した短い槍(はずやり)で戦うしかない 31 。彼らにとって弓は、人格陶冶の道でもなければ、流派の誇りをかけたものでもなく、ただひたすらに生き残るための道具であった。この戦場の末端の現実を見つめる時、『礼記射義』の崇高な哲理が、いかに一部の支配者階級のイデオロギーであったかが浮き彫りになる。
この礼射と武射の対立は、単なる弓術のスタイルの違いに留まるものではない。それは、戦国時代という社会全体の価値観の地殻変動を映し出す鏡であった。小笠原流に代表される礼射は、足利幕府や守護大名といった旧来の支配層がよって立つ「伝統」や「形式的権威(礼)」を象徴していた。一方、日置流に代表される武射は、下剋上が常態化した時代が生んだ、出自を問わず実力のみが評価される「現実」や「実質的パワー(武)」を体現していた。
したがって、ある戦国武将がどちらの流派を重んじ、あるいは両者をどのように取り入れたかを分析することは、その武将が伝統的権威と実力主義という二つの価値観の間で、どのような政治的スタンスを取り、どのような世界観を持っていたかを推し量るための、極めて有効な分析の枠組みを提供するのである。
表1. 戦国期主要弓術流派の思想と特徴の比較
項目 |
小笠原流(礼射) |
日置流(武射) |
創始者 |
小笠原長清(祖) |
日置弾正政次 |
成立背景 |
鎌倉・室町幕府の公式礼法 |
戦国乱世の実戦需要 |
基本理念 |
弓馬故実、礼法の実践 |
戦場での勝利、実用性 |
重視する要素 |
礼儀、作法、精神性、過程の美 |
的中、貫通力、速射性、結果 |
射法の特徴 |
儀礼的、優雅、起居進退を重視 |
合理的、動的、骨法を重視 |
『礼記射義』との関連 |
思想的に極めて親和性が高い(理想の実践) |
思想的には距離がある(精神論より技術論) |
代表的伝書 |
(各種伝書) |
『射法訓』 |
『礼記射義』の理想と戦場の現実が交錯する中で、戦国時代の武将たちは、弓矢という存在にどのような思想を託したのだろうか。彼らは、古代の哲理を、自らの生き残りと覇権確立のために、いかに解釈し、利用し、あるいは乗り越えようとしたのか。代表的な武将たちの姿を通して、その思想的格闘の様相を追う。
戦国時代初期、駿河・遠江を支配した今川氏は、「海道一の弓取り」と称された。この称号は、単に軍事的な強大さを示すだけでなく、彼らが弓馬の礼法に通じた、高い教養を持つ支配者であったことをも意味していた。
今川氏親が制定し、その子義元が追加条項を定めた分国法『今川仮名目録』は、領国内の紛争を法によって裁き、秩序ある統治を目指すものであった 32 。その根底には、儒教的な徳治主義の影響が色濃く見られる。さらに義元は、京から多くの公家や文化人を駿府に招き、和歌や連歌を奨励するなど、高度な文化政策を展開した 35 。これは、まさに『礼記射義』が説く「礼」と「楽」によって国を治めるという理想を、戦国の地で実現しようとする壮大な試みであった。
しかし、この理想主義は、1560年の桶狭間の戦いにおいて、織田信長の徹底した合理主義の前に脆くも崩れ去る。伝統的な権威と儀礼に則った大軍を率いた義元の姿は、『礼記射義』的な秩序の体現者であった。対する信長は、情報戦、天候の利用、兵力の集中投入といった、既存の常識にとらわれないリアリズムを武器とした。義元の敗死は、戦国乱世という極限状況においては、形式化された「礼」や高邁な理想論だけでは、剥き出しの「武」や「実」に対抗できないという、時代の冷徹な現実を象徴する出来事であった。それは、『礼記射義』の思想が、そのままの形では戦国時代に適用され得ないことの、決定的な証明でもあった。
甲斐の虎、武田信玄の思想を伝える『甲陽軍鑑』には、今川氏とは異なる、より現実的な儒教思想の受容が見られる。信玄は、人材登用において「仮にもこの晴信、人を使うときには人を使わず、技を使う」と述べたとされ、家柄や個人的な好き嫌いではなく、その人物が持つ能力(技)を最大限に活用する、徹底した能力主義・実利主義を貫いた 37 。
『甲陽軍鑑』は、戦場で必須の武芸として「弓・鉄砲・馬・兵法」を挙げる一方、その技量に溺れて慢心することを強く戒めている 38 。これは、実用的なスキルと、それを制御する精神性の両立を求める姿勢の表れである。ここで重視されるのが、「分別(ふんべつ)」という徳目である。これは、物事の善悪や道理をわきまえ、状況に応じて適切に判断する能力を指す 39 。『礼記射義』が説く「仁」や「礼」といった普遍的・理想的な徳目とは異なり、「分別」はより具体的で、戦場で生き抜くための実践的な知恵であった。信玄は、儒教の理想を鵜呑みにするのではなく、それを自らの置かれた状況に合わせて「翻訳」し、プラグマティックな武士の心得として受容したのである。
越後の龍、上杉謙信は、「義」を掲げて戦った武将として知られる。「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉に象徴されるように、彼の行動規範は、自らの利害得失を超えた、普遍的な正義の実現にあった 40 。宿敵である武田信玄が塩不足に苦しんだ際に塩を送ったという逸話は、彼の「義」の精神を端的に物語っている 40 。
謙信の「義」は、その普遍性を追求する点において、『礼記射義』が説く「仁」の心と通じるものがある。しかし、「仁」が内省的で調和的な徳であるのに対し、謙信の「義」は、不正を許さず、それを正すためには武力行使も辞さない、より能動的で戦闘的な性格を帯びていた 41 。これもまた、戦国武将が儒教の理想を、自らの信念と生き様を通して独自に解釈し、昇華させた一形態であったと言える。
戦国時代の最終的な覇者となった織田信長と豊臣秀吉の時代、弓矢の価値は再び大きく転換する。信長は、鉄砲を合戦に本格的に導入し、その戦術を根底から覆した 42 。彼の徹底した合理主義の前では、弓矢が持つ伝統的な権威や精神性は意味をなさなかった。弓は、数ある兵器の一つとして、その性能とコストによって評価される存在となり、『礼記射義』的な精神性が介在する余地は失われていった。
秀吉の時代には、その傾向はさらに加速し、弓矢は戦場の主役としての地位を完全に鉄砲に譲ることになる。しかし、皮肉なことに、実戦兵器としての価値が低下したことによって、弓矢は新たな役割を担うことになる。それは、武士の教養や儀礼としての側面であり、戦乱の終息後、泰平の世で「弓道」という精神文化へと昇華していくための、静かな助走期間となったのである。
戦国という激動の時代が終わりを告げ、徳川幕府による泰平の世が訪れると、武士のあり方、そして弓術の価値観は劇的な変容を遂げる。戦場で敵を殺傷するための「術」は、自らの心身を鍛錬するための「道」へと昇華していく。この過程で、『礼記射義』の思想は、戦国時代とは異なる形で再評価され、日本の武道精神の根幹をなす重要な要素となった。
江戸時代に入り、大規模な戦闘がなくなると、武士階級はその存在意義を問い直されることになった。彼らはもはや戦闘者ではなく、社会を治める為政者・官僚としての役割を担うことになったのである 43 。この社会構造の変化に伴い、武芸の目的も大きく変わった。敵を倒すための実用的な技術から、武士としての品格を保ち、精神を修養するための手段へとその重心を移していった 44 。
弓術も例外ではなかった。鉄砲の普及により、すでに戦場での実用性は低下していたが、相手を殺傷することなく、的という対象に向かって技術と精神を磨くことができる弓術は、平和な時代の武士の心身鍛錬法として、まさにうってつけであった 46 。こうして、弓術は「弓道」へとその姿を変え、新たな価値を見出されていく。
武士が新たなアイデンティティを模索する中で、その精神的支柱として儒学、特に朱子学や陽明学が幕府によって奨励された 43 。山鹿素行に代表される思想家たちは、儒教道徳に基づいた「士道」を体系化し、武士のあるべき姿を論じた。
この思想的潮流の中で、戦国時代には実用性の陰に隠れがちであった『礼記射義』の精神的・哲学的側面が、再び大きな脚光を浴びることになる。「射は仁の道なり」「正しきを己に求む」といった教えは、もはや戦場で生き残るための教訓ではなく、日常における自己修養の指針として解釈され直された。的中という目に見える「結果」よりも、そこに至るまでの射手の「心構え」や「過程」の正しさ、礼に適った美しい所作が重視されるようになったのである。この価値観の転換こそが、「弓術」を「弓道」へと昇華させた原動力であった。
この変容の背景には、一つの逆説的な構造が存在する。すなわち、弓術が精神修養の道である「弓道」へと飛躍を遂げることができたのは、皮肉にも、それが鉄砲の登場によって戦場での第一級の武器としての実用性を失ったからに他ならない。戦国時代、弓は人殺しの道具であり、その性能、すなわち的中率や貫通力が絶対的な価値を持っていた。この状況下では、『礼記射義』が説く礼や仁の理想は、二次的な価値、あるいは支配者のための美辞麗句と見なされがちであった。
しかし、江戸時代に入り、弓を引く目的が「敵を倒す」ことから「自己を磨く」ことへと根本的に変化した。目的が変われば、評価基準も変わる。もはや「的中」だけが唯一の正解ではなく、「射の品格」「精神の安定」「礼に適った所作」といった、『礼記射義』が説く内面的な価値こそが、武士の修養の成果を示すものとして重要視されるようになった。つまり、弓術の 物理的な威力の減退 が、その 形而上学的な価値の増大 を可能にしたのである。この実用性の喪失が精神性を飛躍させたという逆説を理解することなく、日本における弓道精神の成立を正しく語ることはできない。
本報告書は、『礼記射義』という古代中国の理想が、日本の戦国時代という過酷な現実の中で、いかに受容され、変容していったかを追ってきた。
結論として、戦国時代は、単なる『礼記射義』の思想が停滞、あるいは無視された時代ではなかった。それは、理想(礼射)と現実(武射)が最も激しく衝突し、せめぎ合った、思想的にも極めてダイナミックな時代であった。今川氏のように理想を追求して破れた者、武田氏のように現実的に翻訳して利用した者、上杉氏のように独自の「義」へと昇華させた者、そして織田氏のように合理性のもとに切り捨てた者。戦国の武将たちは、儒教の理想を盲目的に信奉するのではなく、自らが置かれた極限状況の中で、それを解釈し、取捨選択し、時には大胆に変容させて受容したのである。
この思想的格闘の経験こそが、後の江戸時代に、より洗練された「武士道」が体系化され、弓術が「弓道」という世界にも類を見ない深遠な精神文化へと結実するための、不可欠な土壌を形成した。もし戦国時代のリアリズムによる洗礼がなければ、『礼記射義』の思想は、古代の宮廷儀礼の化石として留まるか、あるいは単なる観念的な道徳論に終わっていたかもしれない。戦国時代は、日本における『礼記射義』の受容史において、単なる通過点ではなく、その思想を血肉化し、日本独自の精神文化として再創造するための、決定的転換点だったのである。かくして、仁の道は修羅の世界を潜り抜け、新たな生命を得て、現代にまでその精神を伝えている。