元代「稲雀図」は、記録は稀なれど、戦国武将が権威継承、豊穣と繁栄の統治理想、文化的洗練、経済的価値の象徴として渇望した。
元代の画家、任月山(じんげつさん)の作と伝わる「稲雀図」。二十羽ほどの雀が稲穂の間で戯れる様を描いたとされるこの作品は、しかしながら、今日の主要な美術史資料や文化財データベースにおいて、その確固たる存在を特定することは極めて困難である。この「記録の不在」は、調査の限界を示すものではなく、むしろ、この絵画が置かれていたであろう「戦国」という時代の特質を雄弁に物語る、一つの重要な状況証拠と捉えるべきである。
室町幕府の権威が失墜し、群雄が割拠した戦国時代は、文化財にとっても受難の時代であった。応仁の乱(1467-1477)以降、守護大名や幕府が所蔵していた数多の至宝は、戦火による焼失、略奪、あるいは財政難による質入れなどを通じて散逸し、その来歴は複雑化の一途を辿った 1 。所有者が目まぐるしく変わる中で、作品の伝承は書き換えられ、あるいは失われ、多くの名品が歴史の渦の中に姿を消したのである。
したがって、本報告書は、現存しない、あるいは伝承が変化した可能性のある「稲雀図」という一つの環(ミッシング・リンク)を追うことを通じて、戦国時代における美術品の価値と意味を再構築する試みである。作者である任月山の日本における評価、戦国武将たちが唐物(からもの)と呼ばれる中国渡来の美術品に寄せた情熱、そして「稲雀」という画題に込められた文化的意味を丹念に繋ぎ合わせることにより、「稲雀図」が戦国武将の眼差しの中で、いかなる輝きを放っていたのかを多角的に考察する。
「稲雀図」の作者とされる任月山は、名を任仁発(じんじんはつ)、字を子明(しめい)、号を月山(げつさん)という、13世紀後半から14世紀初頭にかけて活躍した元代中国の人物である 2 。彼の特筆すべき点は、単なる職業画家ではなかったことにある。彼は元朝に仕え、水利技術の専門家として都水監(とすいかん)などの要職を歴任した高級官僚であった 2 。その社会的地位の高さは、彼の作品に単なる芸術的価値以上の「権威性」を付与する重要な要素であった。
任仁発は、公務の傍らで絵画制作を行い、特に馬の絵(画馬)において、唐代の韓幹(かんかん)や北宋代の李公麟(りこうりん)といった歴史的巨匠に比肩すると称されるほどの高い評価を得ていた 2 。彼の画風は、唐代や宋代の写実的な伝統を継承しつつ、気品ある画面を構築する点に特徴があった 3 。画馬のみならず、人物画や花鳥画にも優れた才能を発揮したことが記録されており 2 、「稲雀図」のような動物画を手がける素地は十分にあったと考えられる。彼の作品は、技術的な洗練と、高位の文人官僚ならではの格調高さを兼ね備えていたのである。
任仁発の名声は、彼の死後間もない14世紀半ばには既に日本へ伝わっていた。素眼(そがん)が撰したとされる『新札往来』(1367年頃成立)には、元代四大家と並んで彼の名が記されており、日本がいかに早くから彼の存在を認識していたかが窺える 5 。
その評価を決定的なものとしたのが、室町幕府八代将軍・足利義政の時代に、同朋衆(どうぼうしゅう)の能阿弥(のうあみ)や相阿弥(そうあみ)らによって編纂された『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』である 6 。この書物は、将軍家の座敷飾りのための秘伝書であり、所蔵する唐物絵画の作者を「上」「中」「下」の三段階で格付けした、当時の美術品評価における絶対的な基準書であった 7 。この中で、任仁発(任月山)は、李唐や夏珪といった宋代画院の巨匠たちと並び、最高ランクである「上々」の画家として記載されたのである 5 。
この格付けが持つ意味は計り知れない。下剋上が常であった戦国時代において、武力で成り上がった新興の武将たちにとって、文化的な権威を手にすることは、自らの支配を正当化するための喫緊の課題であった。彼らにとって『君台観左右帳記』は、旧来の支配者であった足利将軍家の美意識と価値基準そのものであり、この書を手に入れ、そこに記された最高級の品々を所蔵することは、旧権威を継承し、自らが新たな文化の担い手であることを天下に示す行為に他ならなかった 8 。すなわち、「任月山」の名は、単なる一画家の名前を超え、その作品の芸術性を保証する「最高級ブランド」として、戦国の世に轟いていたのである。
室町幕府の三代将軍・足利義満から八代将軍・義政に至るまで、歴代将軍が収集した中国渡来の美術工芸品は、後に義政の東山殿の名にちなんで「東山御物(ひがしやまごもつ)」と総称され、日本の美の規範として神格化された 9 。これらのコレクションには、南宋時代の宮廷絵画や元代の文人画など、当代最高峰の作品群が含まれており、足利義教(よしのり)の鑑蔵印とされる「雑華室印(ざっかしついん)」が押された作品は、東山御物であったことの由緒を示す証として特に珍重された 10 。
しかし、幕府の権威が揺らぎ始めると、これらの至宝もまた流転の運命を辿る。応仁の乱による京都の荒廃、幕府の財政悪化は、東山御物の散逸を加速させた。一部は堺の豪商の手に渡り、またあるものは有力な守護大名へと流れていった 1 。戦国武将たちは、これらの最高級の唐物を手に入れることに心血を注いだ。それは単なる美術品蒐集ではなく、足利将軍家が独占していた「権威の象徴」そのものを、自らの手中に収めるという野心的な行為であった。
戦国時代、唐物は、特に茶の湯の文化と結びつくことで、その価値を飛躍的に高めた。茶の湯は武将たちにとって必須の教養であり、社交や密談の場としても機能した 12 。その席で用いられる茶道具、特に「唐物茶入」は、時に一つの城や一国にも匹敵する価値を持つとされ、武将たちはこれを所有することで自らの権勢を誇示した 13 。
天下統一を推し進めた織田信長は、この唐物の持つ政治的価値を巧みに利用した。彼は家臣への恩賞として、領地の代わりに名物の茶道具を与える「名物狩り」を行い、武功の価値を自らが独占する新たな価値体系を構築した。また、堺の有力な茶人たちに名物を与えることで、経済都市・堺を味方につけるなど、唐物を外交の道具としても活用した 14 。
この戦略は豊臣秀吉にも受け継がれた。秀吉は、信長旧蔵の名物をはじめ、天下の至宝をことごとく蒐集し、北野大茶会などでそれらを披露することで、自らが信長の後継者であり、天下人であることを天下に知らしめた 13 。この文脈において、絵画もまた例外ではなかった。特に『君台観左右帳記』で最高評価を受けた任月山のような画家の作品は、茶室の床の間を飾る掛物として、茶入と同様、あるいはそれ以上のステータスシンボルとして渇望されたのである。散逸した旧権威の象徴(東山御物)を自らの下に「再収集」する行為は、分裂した日本を「再統一」する事業のメタファーであり、天下人にのみ許された特権的な行為であった。
「稲雀図」という主題を理解するためには、当時日本に舶載され、手本とされた中国の「雀図」がどのようなものであったかを知る必要がある。室町時代から戦国時代にかけて、日本の権力者たちが特に珍重したのは、南宋時代の宮廷画家(画院画家)たちが描いた、写実的で精緻を極めた花鳥画、いわゆる「院体画」であった。
現存する作例として、伝宋汝志(そうじょし)筆「雛雀図軸」が挙げられる 15 。この作品は、籠の周りで餌を求める雛雀たちの愛らしい一瞬を捉えたもので、羽毛一本一本を描き分けるかのような繊細な筆致と、籠の編み目の堅実な描線が見事な対比を見せている 15 。この作品は江戸時代に広島藩浅野家の所蔵となったことが知られているが 15 、その様式は南宋院体画の典型を示している。
さらに重要な作例が、伝馬麟(ばりん)筆「梅花双雀図」である 17 。この作品には、足利義教の鑑蔵印「雑華室印」が押されており、東山御物として足利将軍家に秘蔵されていたことが確実である 11 。優美な梅の枝で羽を休める二羽の雀が、極めて繊細な筆致と淡い彩色で描かれており、南宋院体花鳥画の最高水準を示す名品として知られる 17 。
これらの作品は、本来は画帖(アルバム)の一葉として描かれたものが、日本に渡来した後、茶の湯の床の間に飾る掛軸として改装された可能性が指摘されている 16 。任月山の「稲雀図」もまた、こうした南宋院体画の伝統に連なる、精緻で写実的な描写がなされた小画面の作品であったと想像される。
「稲雀」という画題は、戦国武将にとって極めて魅力的な文化的意味を内包していた。それは、この主題が「豊穣」と「繁栄」を象徴する、この上なく縁起の良い吉祥文様であったからである。
古来より、稲は日本人にとって最も重要な食料であると同時に、富の象徴であり、神が宿る神聖なものと信じられてきた 18 。たわわに実った黄金色の稲穂は、豊穣そのものを表す文様として、人々の豊かな暮らしへの願いを担ってきた 19 。
一方、雀は、常に群れをなして行動する習性から、「一族の繁栄」や「子孫繁栄」を意味する吉祥文様として愛されてきた 18 。また、雀は害虫を食べる益鳥であると同時に、実った稲穂を食べることから、豊穣の証として田園風景に欠かせない存在であった。「稲雀」の組み合わせは、秋の豊かな実りを象徴する季語としても定着している 21 。
この二つの吉祥性が結びついた「稲雀図」は、戦乱の世を生きる武将たちにとって、単なる美しい絵画以上の意味を持った。それは、自らが治める領国の五穀豊穣と、一族の永続的な繁栄という、為政者としての根源的な願いを託すにふさわしい主題であった。武力による支配(「武」)だけでなく、民を豊かに治める善政(「文」)を志向する理想の君主像を、この画題に投影したのである。座敷にこの絵を掲げることは、自らの支配の正当性と徳を、内外に示すための洗練された意思表明であった。
依頼主が提示された「任月山作 稲雀図」という伝承は、これまでの考察を踏まえると、いくつかの可能性が考えられる。一つは、そのような作品が実際に存在し、戦乱の中で失われたか、あるいは記録の途絶えた個人蔵として現存する可能性。もう一つは、現存する別の「雀図」の伝承が、時代を経る中で変化した可能性である。
特に後者の可能性を考える上で、以下の比較表は示唆に富む。
表1:主要舶載「雀図」の比較
作品名 |
伝承筆者 |
時代 |
様式的特徴 |
伝来・旧蔵者 |
特記事項 |
典拠資料 |
雛雀図軸 |
宋汝志 |
南宋時代・13世紀 |
繊細な毛描き、堅実な筆線、院体画様式 |
広島藩浅野家 |
もとは画帖仕立てか。江戸時代に狩野派が鑑定。 |
15 |
梅花双雀図 |
馬麟 |
南宋時代・13世紀 |
精緻な彩色、写実的表現、院体画様式 |
足利将軍家(東山御物)、山本家 |
足利義教の鑑蔵印「雑華室印」あり。 |
11 |
(想定)稲雀図 |
任月山(任仁発) |
元時代・13-14世紀 |
(不明だが、精緻な動物画を得意とする) |
(不明だが、東山御物の可能性が高い) |
『君台観左右帳記』で「上々」評価。 |
2 |
この表から明らかなように、13世紀から14世紀にかけて制作された精緻な「雀図」が、最高権威であった足利将軍家のコレクションに含まれ、極めて高く評価されていた。一方で、「任月山」という画家もまた、同じ『君台観左右帳記』において最高評価を受けていた。これらの事実が混じり合い、例えば東山御物であった伝馬麟筆「梅花双雀図」が、どこかの段階でより権威のある「任月山」の名に結びつけられ、主題もまた日本的な吉祥観念と結びつきやすい「稲雀」として語られるようになった、という伝承の変化は十分に考えられるシナリオである。美術品の価値が、その来歴や物語によって大きく左右された戦国時代においては、こうした伝承の変容は決して珍しいことではなかった。
仮に「任月山作 稲雀図」が実在したとすれば、それは典型的な唐物名画が辿ったであろう流転の物語を経験したはずである。その想定されるルートは以下の通りである。
このルートは、多くの唐物名品が辿った道筋であり、「稲雀図」もまた、このような激動の歴史を生き抜いた一枚であった可能性を強く示唆している。
これまでの考察を総括すると、戦国武将にとって、任月山筆と伝わる「稲雀図」を所有することは、単なる美術鑑賞という私的な趣味の領域を遥かに超えた、重層的かつ戦略的な意味を持つ行為であったと結論づけられる。その意味は、以下の四つの側面に集約することができる。
謎に包まれた「稲雀図」は、その実在の可否を超えて、戦国武将が追い求めた価値の集合体であった。彼らはその絹本の上に、戦乱の先にあるべき五穀豊穣の平和な未来の姿を、そしてその理想郷を実現する者たるべき自らの姿を、重ね合わせて見ていたに違いない。一枚の絵画を追うこの探求は、美術品が歴史の中で単なる「モノ」として存在するのではなく、時代の欲望と理想を映し出す、力強く雄弁な語り部となりうることを我々に教えてくれるのである。