上杉謙信の愛刀「竹俣兼光」は、雷を斬り鉄砲を両断した伝説を持つ。その実像は謎に包まれ、豊臣秀吉に献上後、大坂の陣で消失。歴史の闇に消えた名刀。
戦国時代の雄、上杉謙信が所持した刀剣は数多く、その中には国宝「山鳥毛」や重要文化財「姫鶴一文字」のように、今日までその輝きを伝える名刀が存在する 1 。しかし、それらとは一線を画し、数奇な運命と数多の伝説に彩られ、ついには歴史の闇へと消え去った一振りの太刀がある。それが「竹俣兼光」である。現存しないにもかかわらず、この刀は後世の人々を強く魅了し続けてきた。その理由は、単なる武器としての性能を超え、時代の象徴としての役割を担っていたからに他ならない。
本報告書は、この現存せざる名刀「竹俣兼光」が、なぜこれほどまでに語り継がれるのか、その謎を解き明かすことを目的とする。そのため、出自にまつわる伝承、謙信の武威を象徴する武勇伝、矛盾をはらむ刀身の実像、そして所有者の変遷が映し出す歴史的役割という四つの視点から、史料と伝説の両面を徹底的に探求し、竹俣兼光の多層的な物語を再構築するものである。この分析を通じて、一振りの刀が戦国という時代の中でいかにして特別な意味を獲得し、そしてなぜ伝説となったのかを明らかにする。
一振りの刀が、いかにして「竹俣兼光」という固有の名を得るに至ったのか。本章では、その原点を探ることで、この刀が背負うこととなる物語の序章を明らかにする。
竹俣兼光に関する最も古い伝承は、その出自が意外にも一介の百姓にあったと物語る。『常山紀談』『北越軍談』『煙霞綺談』、そして『上杉将士書上』といった複数の文献が一致して、この刀は元来、越後の名もなき百姓の所持品であったと記している 3 。
ある日、その百姓が山中にて凄まじい雷雨に見舞われた。咄嗟にこの刀を抜き放ち、頭上にかざして身を守ったところ、雷が刀に直撃したという。雷鳴が過ぎ去り、百姓が無事であったのに対し、刀身には血が付着していたと伝えられる。これをもって、この刀は「雷を斬った」とされ、尋常ならざる霊威を宿すものと見なされるようになった 3 。
この「雷切」の逸話は、単なる奇譚として片付けるべきではない。雷は古来、天変地異や神威の象徴であり、人知の及ばぬ絶対的な力として畏怖されてきた。その超越的な力を、人の手になる「刀」が打ち破るという構図は、混沌たる自然の猛威を、武威や秩序といった人の力が制圧するという世界観の表れと解釈できる。この刀が後に「軍神」と称される上杉謙信の手に渡ることを考えれば、この最初の伝説は、刀が元より神聖性と霊的な守護の力を宿し、偉大な武将の手に渡るべく運命づけられていたことを示す、壮大な物語の序章として機能している。すなわち、竹俣兼光は単なる「よく切れる刀」ではなく、その出自の時点から、所有者を守護する「霊剣」として位置づけられていたのである。
この霊威ある刀を見出し、その名を歴史に刻むきっかけを作ったのが、上杉家の重臣・竹俣三河守慶綱(たけのまたみかわのかみよしつな)であった。慶綱は、前述の百姓からこの刀を買い上げ、自らの名にちなんで「竹俣兼光」と称したとされる 4 。これにより、刀は一個の武具から、特定の武将と結びついた物語性を持つ存在へと昇華した。
竹俣慶綱(朝綱、頼綱とも伝わる 8 )は、上杉謙信の近侍として仕え、その寵愛と信頼が厚い武将であった。越後の国人衆を統率する越山七手組大将の一人に抜擢されるなど、軍事的な中核を担った 8 。また、一説には能登国穴水会戦においてこの刀を振るって大功を立てたことが、号の由来となったともいう 9 。彼の武将としての生涯は、天正10年(1582年)の魚津城の戦いにおいて、織田信長軍の猛攻に対し、城を守る将の一人として籠城の末に自刃するという壮絶な最期を迎える 8 。
刀の号は、その歴史において特に象徴的な所有者や、決定的な逸話に由来することが多い。慶綱はこの刀の価値を見出した最初の武士であり、謙信へと繋ぐ重要な役割を果たした。そして、その最期は上杉家の忠義を象徴するものであった。したがって、「竹俣兼光」という号は、単に元所有者を示す来歴表示にとどまらない。それは、上杉家の忠臣である竹俣慶綱の武勇と、主家のために殉じたその生涯を内包した、一種の「記念碑」としての役割を担っている。刀は、慶綱という一人の武将の生き様と分かちがたく結びつくことで、武器という機能を超えた深い物語性を獲得したのである。
竹俣慶綱から献上されたこの刀は、やがて主君である上杉謙信の佩刀となった 4 。特に備前伝の刀を好んだとされる謙信にとって 9 、この兼光作の太刀は格別の存在であったと推察される。そして、竹俣兼光は「小豆粥行光(あずきがゆゆきみつ)」「谷切り来国俊(たにぎりらいくにとし)」と共に、「謙信の三愛刀」あるいは「謙信三腰」と称される、最も重要な愛刀の一つとして数えられるようになる 3 。さらに、上杉家が選定した名刀リストである「上杉家御手選三十五腰」にもその名が連ねられており、家中でも特別な扱いを受けていたことがわかる 2 。
謙信の愛刀には、備前福岡一文字派の最高傑作とされ、その華やかな刃文で知られる国宝「山鳥毛」や、同じく一文字派の重要文化財「姫鶴一文字」など、美術的価値の極めて高い名刀が数多く存在する 1 。これらが一文字派の絢爛な作風を代表するのに対し、竹俣兼光は備前長船派の、実用を重んじた豪壮な作風を代表するものであった。
「謙信三腰」に数えられるほどの地位は、この刀が持つ特異な伝説性に由来すると考えられる。「小豆粥行光」は川中島での武田信玄との一騎打ちの際に佩用したとされ、「谷切り来国俊」もまた逸話を持つ刀であるが、「竹俣兼光」は「雷切」や後述する「鉄砲切り」など、最も超人的で、謙信の武威を直接的に象徴する伝説を複数有している。これは、謙信が自らを「毘沙門天の化身」と任じ、その神格化されたパブリックイメージを最も強く反映した刀であった可能性を示唆する。すなわち、竹俣兼光は上杉家の刀剣コレクションの中で、単なる美術品や武器としてではなく、謙信の武威と霊威を最も象徴する「アイコン」として、特別な地位を占めていたのである。
竹俣兼光の物語を豊かにしているのは、その出自だけではない。この刀には様々な異名が付与され、それぞれが所有者である上杉謙信の武勇を神話的な領域にまで高める役割を果たした。本章では、それらの伝説を深掘りし、その物語が戦国時代において何を意味したのかを分析する。
竹俣兼光にまつわる最も有名な武勇伝が、「鉄砲切り」の逸話である。これは第四次川中島の戦い、具体的には『上杉将士書上』によれば弘治二年(1556年)三月二十五日夜の戦いにおいて、謙信がこの刀を振るい、武田方の鉄砲足軽を、その手にしていた火縄銃ごと両断したという伝説である 7 。この驚異的な切れ味から、竹俣兼光は「鉄砲切り兼光」という異名を得たとされる 7 。
この逸話の特筆すべき点は、『上杉将士書上』に「甲州方見て、疑もなく謙信の竹股兼光にて候、切りたる所見事なりと沙汰せしなり」と記されていることである 8 。つまり、敵方である武田軍の兵士たちでさえ、その凄まじい切れ味を目の当たりにし、あれはまさしく謙信秘蔵の竹俣兼光に違いないと噂し、称賛したというのである。
物理的に鉄製の銃身を刀で両断することは極めて困難であり、発砲によって銃身が高熱を帯び、軟化していた状態であれば可能だったのではないか、という技術的な考察も存在する 13 。しかし、この逸話の核心は、物理的な可能性の検証にあるのではない。「鉄砲」は、戦国時代の合戦様式を根底から覆した新兵器であり、個人の武勇や技量を無力化しうる存在として、旧来の武士たちに衝撃を与えた。それに対し、伝統的な武士の魂の象徴である「刀」が、新兵器である鉄砲を打ち破るという物語は、旧来の武士の価値観や武威が、新時代の技術をも凌駕するという強いメッセージ性を持つ。特に「軍神」とまで呼ばれた謙信の佩刀であればこそ、このような超人的な逸話が求められ、語り継がれたのである。この「鉄砲切り」の伝説は、戦国時代における兵器の技術革新と、それに伴う武士の価値観の揺らぎに対する、一つの文化的応答であった。伝統的武威の象徴である謙信が、その象徴たる刀で新兵器を粉砕する物語は、時代の変化に対する精神的な勝利を宣言するプロパガンダとして機能したと言えよう。
竹俣兼光には、もう一つの興味深い逸話が伝えられている。ある百姓が背負っていた小豆袋からこぼれ落ちた一粒の小豆が、鞘走りして僅かに覗いていたこの刀の刃に触れたところ、真っ二つに断ち切られたというものである 14 。この微小な物体をも切り裂く鋭利さを示す逸話から、この刀は「小豆兼光」とも呼ばれたとされる 15 。
しかし、この「小豆切り」の逸話は、上杉家伝来の別の名刀「小豆長光」にも帰せられており、両者はしばしば混同、あるいは同一視されてきた 3 。例えば、『上杉将士書上』では、川中島で信玄に斬りかかった際の謙信の佩刀を「備前長光、異名を赤小豆粥」と記している 14 。一方で、竹俣兼光こそがその際に使われた刀であるとする説も根強く存在する 3 。
「兼光」作の刀に、「長光」作の刀の逸話がなぜ混同されたのか。この情報錯綜の背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、上杉家には長光作、兼光作の名刀が複数存在し、後世に伝わる過程で記録に混同が生じた可能性がある 2 。第二に、著名な刀には、他の刀の有名な逸話が引き寄せられ、吸収・統合されていくという、伝承における一般的な傾向が挙げられる。「小豆を斬る」という逸話は、刀の切れ味を端的に示す非常に分かりやすい物語であり、民衆にも広まりやすかった。竹俣兼光の知名度が高まるにつれて、この有名な逸話が「竹俣兼光の伝説の一つ」として取り込まれていった可能性は高い。
この「小豆長光」との混同は、単なる記録ミスとしてではなく、伝説が流動し、成長していく過程を示す好例と見なすべきである。竹俣兼光という一振りの刀が、時代を経て様々な物語を吸収し、より豊かで複合的な性格を持つ「伝説の剣」へと昇華していく様子がうかがえる。これは、一つの「史実」から複数の「物語」が派生・融合する、伝承文化の典型的なパターンを示している。
数多の伝説と逸話のベールを剥ぎ、竹俣兼光という刀の物理的な実像に迫る時、我々は新たな謎に直面する。現存しないこの刀の姿を伝える史料は、驚くべき矛盾をはらんでおり、その作者を巡っても刀剣学的な論争が存在する。本章では、伝説の背後にある「物」としての竹俣兼光を探求する。
竹俣兼光の具体的な姿を今に伝える貴重な史料として、刀剣鑑定の権威であった本阿弥家が作成した二種類の「押形(おしがた)」(刀身の形状や刃文、銘などを紙に写し取ったもの)が存在する。しかし、驚くべきことに、本阿弥光徳と本阿弥光悦という、同時代の二人の名鑑定家が残した押形は、それぞれ全く異なる姿を伝えているのである 3 。
この二つの押形が示す矛盾を、以下の表に整理する。
項目 |
光徳押形 |
光悦押形 |
典拠 |
『光徳刀絵図集成』 |
『本阿弥光悦押形』 |
鑑定家 |
本阿弥光徳 |
本阿弥光悦 |
銘文 |
備州長船兼光 延文五年六月日 |
備州長船兼光 元徳三年十一月日 |
年紀 |
延文5年(1360年) |
元徳3年(1331年) |
刃長 |
約85.5cm |
約77.0cm |
刀身彫刻 |
表裏に三鈷柄剣 |
表に三鈷柄剣、裏に食い違い樋様彫刻 |
推定刀工 |
二代 兼光 |
初代 兼光 |
この表が視覚的に示す通り、竹俣兼光という刀の「物理的実体」そのものが、信頼性の高い一次史料においてさえ一つに定まらない。これは、この刀を巡る謎が伝説の領域にとどまらず、物としての実像にまで及んでいることを明確に物語っている。
押形の矛盾は、必然的に作者を巡る論争へと繋がる。備前長船派の刀工「兼光」には、一般的に初代と二代が存在したと考えられている。
光悦押形に記された「元徳三年」(1331年)という年紀は、長船派の正系である景光の子、初代兼光の活躍時期に合致する 3 。一方、光徳押形の「延文五年」(1360年)は、その子とされる二代兼光の作と見なされることが多い 3 。兼光は、父・景光の作風を継承した「片落ち互の目(かたおちぐのめ)」と呼ばれる刃文から、相州伝の影響を受けた大らかで力強い「のたれ刃」へと作風を変遷させた刀工として知られる 17 。特に南北朝時代の作は、身幅が広く、鋒(きっさき)が大きく延びた、豪壮な大太刀の姿を特徴とする 17 。
この作者を巡る論争は、竹俣兼光の謎をさらに深める。もし光徳押形が伝える延文期の大太刀こそが真の竹俣兼光であれば、その豪壮な姿は、まさに「鉄砲切り」の伝説にふさわしいものと言えるだろう。しかし、光悦押形の存在は、我々が「竹俣兼光」と呼ぶ対象が、歴史の中で常に単一の、固定された一個体ではなかった可能性を強く示唆している。例えば、上杉家には複数の兼光作が存在したため記録の過程で混同が生じた、あるいは「竹俣兼光」という号が、特定の一個体ではなく、上杉家所蔵の優れた兼光作の刀に対する一種の「称号」として、時代や状況に応じて複数の刀を指していた、といった可能性も考えられるのである。
伝説と矛盾に満ちた竹俣兼光の物語の中で、唯一、その物理的な個性を確固として伝えるエピソードが存在する。それが、上杉景勝の代に起こった偽造事件である。
謙信の死後、跡を継いだ上杉景勝は、父の愛刀である竹俣兼光の研ぎと外装(拵え)の新調のため、京都の職人へ預けた 3 。しかし、一年後に戻ってきた刀は、巧妙に作られた偽物とすり替えられていた。この偽造を見破ったのは、奇しくもこの刀の号の由来となった竹俣三河守(あるいはその子孫)であった。彼は、戻ってきた刀を検分し、真物ではないと断言した。その根拠となったのが、真物だけが持つ極めて特異な特徴であった。すなわち、真物の竹俣兼光には「鎺元(はばきもと)から一寸五分(約4.5cm)ほど上の鎬地(しのぎじ)に、馬の毛を一筋通せるほどの微細な孔が、表裏に貫通していた」が、偽物にはその孔がなかったのである 3 。
この指摘を受け、三河守は自ら京都に赴き、偽造団を探索し、ついに本物の竹俣兼光を取り戻したと伝えられる 3 。この偽造事件は、いくつかの重要な事実を我々に示している。第一に、この刀の経済的・象徴的価値が、偽造という重罪のリスクを冒すほどに高かったこと。第二に、「馬の毛通しの孔」という、他のどの刀にも見られない、極めてユニークな物理的特徴の存在である。これは、数多の抽象的な伝説の中で唯一、触知可能な「事実」として際立っている。この孔が戦闘による損傷痕なのか、何らかの目印なのか、あるいは別の用途があったのかは新たな謎を呼ぶが、この刀に確固たる個性を与える。この事件は、名刀が単なる美術品ではなく、大名家の威信をかけた財産であり、それを巡る人間の欲望や駆け引きが存在した、戦国末期の社会経済史の一断面をも描き出しているのである。
一振りの刀の流転は、時代の大きなうねりを映し出す鏡となる。竹俣兼光が上杉家の手を離れ、天下人の手に渡り、そして歴史からその姿を消すまでの軌跡は、戦国時代の終焉と新たな時代の到来を象C象徴する物語そのものである。
竹俣兼光の運命が大きく転回したのは、天正14年(1586年)のことである。この年、上杉景勝は上洛し、大坂城において豊臣秀吉に謁見、臣従を誓った 19 。この主従関係の儀式において、景勝は秀吉に対し、父・謙信の遺愛の品である竹俣兼光を献上したのである 7 。
この献上がいかに秀吉を喜ばせたかは、彼が景勝に宛てて送った自筆の礼状が現存することからも明らかである。その手紙には、「先刻、竹又兼光之刀給候。まんぞくニ候。(先ほど、竹俣兼光の刀をいただき、満足である。)」と率直な喜びが記されている 5 。
景勝が、父・謙信の武威の象徴であり、数々の伝説に彩られたこの名刀を手放した背景には、極めて高度な政治的判断があった。これは単なる「贈り物」ではない。天正14年は、秀吉が難敵であった徳川家康をも臣従させ、天下統一事業を盤石のものとしつつあった時期である 21 。そのような状況下で、景勝にとってこの献上は、上杉家が秀吉の絶対的な権威を認め、その支配体制に完全に組み込まれることを示す、最大の忠誠の証であった。父の武威の象徴そのものである竹俣兼光を差し出すことは、かつての独立大名としての誇りを清算し、豊臣政権下の一大名として生き残るための、痛みを伴う政治的決断だったのである。この所有権の移転は、戦国時代の終焉と、新たな統一政権の確立という、日本の歴史の大きな転換点を象徴する出来事であった。刀は、上杉謙信個人の武勇の象徴から、豊臣秀吉の天下の権威を構成する「御物」へと、その役割を変えたのである。
豊臣家の「御物」となった竹俣兼光の最後の記録は、その滅亡と共に訪れる。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において大坂城が落城した際、城内の混乱の中で竹俣兼光は行方不明となった 7 。
落城後、一人の浪人がこの名刀を持ち去ったという風聞が立った。この刀の価値を熟知していた新たな天下人、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠は、黄金三百枚という当時としては破格の懸賞金をかけて全国を捜索させたが、ついにその行方が知れることはなかった 7 。
なぜ発見されなかったのか。その理由は永遠の謎である。戦火の中で焼失してしまったのか。あるいは、持ち出した者が徳川の権威を恐れて名乗り出ることができず、子々孫々まで秘匿し続けたのか。もしくは、豊臣家の象徴たるこの名刀を徳川家に渡すことを潔しとせず、意図的に破壊、あるいは隠匿した者がいたのかもしれない。
竹俣兼光の最期は、豊臣家の滅亡と完全に同期している。上杉から豊臣へと渡ることで天下の権威の象徴となったこの刀は、その豊臣家と共に歴史の舞台から姿を消すという、あまりにも劇的な運命を辿った。徳川幕府による大規模な捜索は、この刀がもはや単なる一個人の所有物ではなく、天下の権威に関わる「公」の存在と認識されていたことを示している。その消失は、戦国という時代の完全な終焉を象徴する、一つの空虚な王座のようでもある。
本報告書で詳述してきた通り、名刀「竹俣兼光」は、その存在が確かな史料によって証明される一方で、その実像は矛盾と謎に満ちている。本阿弥家の二つの押形が異なる姿を伝え、作者さえも特定できない。しかし、その物理的な実体を覆い尽くすかのように、「雷切」や「鉄砲切り」といった超人的な伝説が付与され、この刀を唯一無二の存在へと昇華させた。
竹俣兼光の真の価値は、もはや現存するか否か、あるいはその物理的特性がどうであったかという点にあるのではない。その本質は、この刀が日本の歴史の重要な局面と分かちがたく結びついた「物語の器」である点にある。それは、上杉謙信という稀代の武将の武威とカリスマ、竹俣慶綱に代表される家臣の忠節、戦国から天下統一へと向かう時代の激動、そして豊臣家の栄華と滅亡の悲劇を、その一身に背負っている。
上杉家の手を離れ、豊臣家の滅亡と共に歴史から姿を消したことで、竹俣兼光はその物語を完結させた。物理的には失われたがゆえに、その伝説はかえって純化され、後世の人々の想像力を掻き立て続ける。竹俣兼光は、もはや鋼の刀ではない。史料の断片と人々の記憶の中に、今なお最も鮮やかにその刃の輝きを放ち続ける、永遠の伝説なのである。