最終更新日 2025-08-07

筑紫肩衝

筑紫肩衝は、南宋時代の唐物肩衝茶入で、虹のような紫褐色の釉薬が特徴。足利義政、島井宗室、豊臣秀吉、宇喜多秀家、徳川家康と天下人の手を渡り、現在は根津美術館所蔵の重要文化財。
筑紫肩衝

天下の茶入「筑紫肩衝」―戦国武将が渇望した権威の象象

序章:天下三肩衝と筑紫 ― 価値の再定義

日本の戦国時代、武将たちの欲望を掻き立て、時には一国の運命すら左右したとされる器物が存在する。その頂点に君臨するのが、「初花(はつはな)」「新田(にった)」そして「筑紫(つくし)」と称される三つの唐物肩衝茶入、すなわち「天下三肩衝」である。これらは単なる美術工芸品の域を遥かに超え、所有者の権威、財力、そして文化的洗練を天下に示す、極めて強力な政治的象徴であった。武将たちは、これらの名物茶器を「一国一城」に匹敵する価値あるものとして渇望し、その獲得に心血を注いだ。この価値観は、単に経済的な稀少性のみならず、器が持つ来歴、すなわち物語性と、それを所有すること自体が発する政治的メッセージに根差していた。

本報告書は、この天下三肩衝の一角を占める「筑紫肩衝」に焦点を当てる。虹のような光沢を帯びた紫褐色の釉薬が類稀な美しさを見せるこの茶入は、豊臣秀吉や徳川家康といった天下人の手を渡り歩き、日本の歴史の転換点において常に重要な役割を果たしてきた。しかし、その真の価値を理解するためには、表面的な美しさや著名な所有者の名を連ねるだけでは不十分である。

本報告書が探求する核心的な問いは、「なぜ筑紫肩衝は、単なる美しい器に留まらず、天下人の座を左右するほどの政治的・文化的資本となり得たのか」という点にある。その答えは、器物自体が持つ揺るぎない美的価値、その来歴が紡ぎ出す重層的な物語性、そして戦国という時代の政治力学という三つの要素が、分かちがたく絡み合った結果として見出される。筑紫肩衝の価値は、その物理的な美しさという第一の階層の上に、高名な人物たちの手を経ることで付与され、増幅され続けた「物語性」という第二の階層が築かれている。さらに、この物語性は、時の権力者が自らの支配の正統性を構築し、天下に示すために積極的に利用・演出する「政治的プロパガンダの媒体」という第三の階層としての機能を有していた。豊臣秀吉による「名物狩り」や、徳川家康への継承といった歴史的事実は、この茶入の所有が単なる偶然の産物ではなく、極めて意図的な政治戦略の一部であったことを物語っている。権力者は筑紫肩衝の物語を享受するだけでなく、自らの権力基盤を強化するための道具として、その物語を積極的に利用し、時には自ら創り出すことさえあったのである。

本報告書は、この多層的な価値構造を解き明かすため、まず器物としての筑紫肩衝そのものの造形美と価値の源泉を分析し、次いで権力者の手を渡り歩いた伝来の軌跡を詳細に追跡する。そして、茶の湯文化における象徴性を考察し、最後に近代から現代に至るその運命を概観することで、一つの茶入が日本の歴史において果たした比類なき役割を総合的に解明することを目的とする。

第一部:器物としての筑紫肩衝 ― その造形美と価値の源泉

筑紫肩衝が戦国武将たちの心を捉えて離さなかった根源的な理由は、その圧倒的なまでの美的完成度にある。この部では、まず筑紫肩衝が分類される「唐物肩衝茶入」という概念を整理し、その上で、この器が持つ無二の造形美、すなわち「景色」を詳細に分析する。これにより、その価値がいかにして形成されたのか、その源泉に迫る。

第一章:唐物肩衝茶入の最高峰 ― 揺るぎなき美の基準

筑紫肩衝を理解する上で、まず「唐物」「茶入」「肩衝」という三つの概念を正確に把握する必要がある。

「唐物」とは、主に鎌倉時代から室町時代にかけて中国(宋・元・明)から日本へもたらされた美術工芸品の総称である。当時の日本では、中国の先進的な文化や技術に対する深い憧憬があり、唐物は舶来の最高級品として、支配者層の間で珍重された。特に、中国の官窯で焼かれた陶磁器は、国内の製品とは比較にならないほどの技術的な完成度を誇り、それらを所有することは富と権力の象徴であった。

「茶入」は、茶の湯において粉末状の抹茶(濃茶)を入れておくための小さな容器を指す。茶の湯が武家社会の重要な儀礼として確立されるにつれて、使用される道具、特に亭主の美意識と財力を示す茶入は、茶道具の中でも中心的な存在と見なされるようになった。

そして「肩衝」とは、茶入の器形の一種で、胴の上部、すなわち「肩」が水平に張り、堂々とした風格を持つ形状を特徴とする。その安定感と威厳に満ちた姿から、数ある茶入の器形の中でも最も格式が高いとされ、「茶入の王者」とも称された。このため、最高級の唐物茶入の多くは肩衝の形をとっており、大名物として珍重される茶入の代名詞となった。

筑紫肩衝の出自は、一般に南宋または元時代(12世紀~14世紀)の中国、浙江省にあった龍泉窯、あるいはその周辺の窯で焼かれたものと推定されている。当時の龍泉窯は、青磁の生産で世界的に知られていたが、同時に筑紫肩衝のような褐色の釉薬を持つ、いわゆる「天龍寺青磁」とは異なる系統の陶器も生産していた。これらの窯で生み出された器は、土の質、ろくろの技術、焼成の安定性、そして釉薬の美しさにおいて、当時の世界の最高水準にあった。筑紫肩衝が持つ完璧なまでの均整と、深みのある釉調は、まさにこの中国の高度な陶磁器生産技術の結晶であり、それが日本の支配者層にとって垂涎の的となったのは当然の帰結であった。

第二章:無二の「景色」を読む ― 美的価値の解剖

筑紫肩衝の美的価値は、客観的な造形の完成度と、日本の茶人たちによって「発見」され、意味付けされた主観的な鑑賞要素「景色」との融合によって成立している。この二重の価値構造こそが、武将から茶人、商人まで、多様な人々を惹きつけてやまない普遍的な魅力を生み出した。

まず、その物理的特徴を見ると、高さ約8.8センチメートル、口径約4.0センチメートル、胴径約9.0センチメートルという寸法が記録されている。この数値は、掌に心地よく収まる大きさと、安定感のある堂々とした姿とを見事に両立させている。わずかに内に傾斜した口縁部から、力強く水平に張った肩、そしてゆったりと丸みを帯びて裾に至る胴の曲線は、破綻のない完璧な均衡を保っており、中国陶工の卓越した技術力を示している。

この完璧なフォルムを覆うのが、筑紫肩衝の最大の魅力とされる釉薬である。その色調は、単純な褐色ではなく、光の加減によって虹のような複雑な光沢を放つ紫褐色と表現される。この深く、艶やかな釉の下には、「糠肌(ぬかはだ)」と称される、細かくざらついた独特の肌合いが見える。この糠肌が、釉薬の光沢に奥行きと温かみを与え、器全体の表情を豊かにしている。このような複雑な釉調と肌合いは、粘土の成分、釉薬の調合、そして窯の中での焼成温度や酸素供給量といった諸条件が奇跡的に組み合わさって初めて生まれるものであり、意図して再現することは極めて困難である。

しかし、日本の茶人たちは、こうした客観的な完成度だけに価値を見出したわけではない。彼らは、器の表面に偶発的に現れた文様や変化を「景色」と名付け、それを積極的に鑑賞の対象とした。筑紫肩衝において、最も重要な「景色」とされているのが、肩から胴にかけて筋状に釉薬が溶け流れた「なだれ」と呼ばれる部分である。これは、焼成中に釉薬が意図せず垂れた痕跡に過ぎないが、茶人たちはこの「なだれ」に、あたかも雄大な山から流れ落ちる滝のような、あるいは自然の力強い生命力のような、詩的な情景を見出した。この「なだれ」の存在が、完璧で静的な造形に動的な変化と物語性を与え、筑紫肩衝を唯一無二の存在へと昇華させたのである。その他にも、器の底部に見られる、ろくろから切り離す際に生じた螺旋状の痕跡「糸切高台」など、製作過程で生じた偶発的な特徴の細部に至るまでが、鑑賞の要諦とされた。

このように、中国で生まれた「客観的な完成度」という価値基準と、日本で発見され意味付けされた「主観的な景色」という価値基準が、筑紫肩衝という一つの器の上で融合している。完璧な造形という土台があるからこそ、偶発的な「景色」が一層引き立ち、逆に日本的な「景色」の発見が、この唐物茶入を単なる優れた輸入品から、日本の美意識の中で熟成された特別な「筑紫肩衝」へと変容させた。

この美意識は、戦国時代に千利休らによって大成された「侘び寂び」の美学としばしば対比される。侘び寂びが、不完全さや質素さ、経年変化の中に美を見出すのに対し、筑紫肩衝が体現するのは、あくまでも華やかで完璧な「唐物」の美である。しかし、天下人となった豊臣秀吉は、黄金の茶室に象徴される豪華絢爛な趣味と同時に、利休の侘び茶をも深く愛した。この事実は、戦国時代の美意識が単一ではなく、唐物の華やかな美と、侘びの静謐な美という、異なる価値観が併存し、時には緊張関係を保ちながらも共存していたダイナミックな状況を示している。筑紫肩衝は、その華やかな美の頂点に立つ存在として、時代の美意識の一翼を担っていたのである。

第二部:伝来の軌跡 ― 権力者の手を渡る歴史

筑紫肩衝の価値は、その美術的価値のみならず、権力者の手を渡り歩いた比類なき来歴によって決定づけられている。その伝来の軌跡は、単なる所有者の変遷の記録に留まらない。それは、室町幕府の権威の失墜、商人階級の台頭、天下統一を巡る激しい権力闘争、そして徳川幕府による新たな支配体制の確立という、日本の歴史そのものの縮図である。この部では、筑紫肩衝が「モノ」として、いかにして権力の変遷を体現し、時にはその流れを決定づける「生きた政治的アクター」として機能したかを、年代順に追跡する。

第一章:黎明期 ― 室町将軍家から博多豪商へ

筑紫肩衝の輝かしい来歴の原点は、室町幕府八代将軍・足利義政(1436-1490)が蒐集した至宝群「東山御物」に遡るとされている。東山御物は、当時の日本において最高の文化的権威を持つコレクションであり、そこに収蔵されていたという事実は、後世における筑紫肩衝の絶対的な価値の源泉となった。将軍家が認めた最高峰の唐物であるという「出自」が、この茶入に揺るぎないブランドを与えたのである。

しかし、応仁の乱以降、室町幕府の権威は失墜し、財政も逼迫する。その結果、東山御物をはじめとする将軍家伝来の名宝は、次第に有力な大名や、経済力を蓄えた商人たちの手に流出していく。筑紫肩衝もまた、この時代の流れの中で、茶の湯の祖と称される村田珠光(1423-1502)の手に渡ったと伝えられる。珠光は、それまで貴族や武家の書院で行われていた豪華な茶の湯に、禅の精神を取り入れ、「侘び茶」の思想的基礎を築いた人物である。彼がこの完璧な美しさを持つ唐物茶入を所持したという伝承は、後の茶の湯の世界における筑紫肩衝の地位を決定づける上で重要な意味を持った。

その後、筑紫肩衝は、国際貿易港として栄華を極めた博多の豪商・島井宗室(1539-1615)の所有となる。宗室は、博多三傑の一人に数えられる大商人であり、同時に当代一流の数寄者(茶人)でもあった。一説には、宗室の前に筑紫(九州)の別の数寄者が所持していたことから、「筑紫肩衝」の名が付いたとも言われる。この事実は、二つの重要な歴史的動向を示唆している。一つは、応仁の乱後の京都の荒廃と、博多や堺といった地方の自由都市の経済的・文化的興隆である。文化の中心がもはや京都だけではなく、海外との交易によって富を蓄積した商人たちが、新たな文化の担い手として登場したことを物語っている。もう一つは、茶の湯が武家社会だけでなく、富裕な商人階級にも深く浸透し、彼らが経済力を背景に最高級の名物道具を蒐集していたという事実である。

一方で、筑紫肩衝の初期の伝来については、織田信長が所有していたという異説も存在する。これは、足利義政から島井宗室へと至る一般的な伝承 とは異なる系譜であり、史料による伝承の揺れを示している。名物道具の来歴は、その価値を高めるために後世に様々に語られ、時には複数の伝承が生まれることがある。この異説の存在自体が、筑紫肩衝が早くから天下人の所有にふさわしい器として認識されていたことの証左とも言えるだろう。

第二章:豊臣秀吉の時代 ― 「名物狩り」と政治の道具

戦国の世を統一へと導いた豊臣秀吉(1537-1598)の時代、筑紫肩衝はその運命を劇的に変える。秀吉は、武力による天下統一事業と並行して、「名物狩り」と呼ばれる文化政策を強力に推し進めた。これは単なる美術品蒐集ではなく、全国の大名や商人が所有する高名な茶道具(名物)を、自らの元に集積させることで、文化的権威を独占し、自身の権力を絶対化するための高度な政治戦略であった。服従しない大名からは、領地だけでなく、その家が誇る名物をも没収することで、経済的・軍事的な力だけでなく、文化的威信をも根こそぎ奪い取ったのである。

この「名物狩り」の文脈において、博多の豪商・島井宗室が所有する筑紫肩衝は、秀吉にとって見過ごすことのできない標的であった。秀吉は、九州平定後の1587年、博多に滞在した際に宗室に茶会を命じ、その席で筑紫肩衝を披露させた。そして、その類稀な美しさを賞賛しつつも、半ば強制的にこれを召し上げたと言われている。この出来事により、筑紫肩衝は一商人の所有物から、天下人・豊臣秀吉の所有物へとその地位を劇的に変えた。それは、もはや個人の趣味の対象ではなく、天下の権威を象徴する公的な器物へと変貌した瞬間であった。

秀吉は、こうして手に入れた名物茶器を、自らの権威を誇示するだけでなく、極めて効果的な政治的道具として活用した。その最たる例が、筑紫肩衝の宇喜多秀家(1572-1655)への下賜である。秀家は秀吉の養子であり、備前・美作を領する大大名であった。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において、秀家は総大将として大きな功績を挙げた。秀吉は、その功を賞して、天下三肩衝の一つであるこの至宝を秀家に与えたのである。

この下賜は、単なる恩賞ではなかった。それは、言葉以上に雄弁な政治的メッセージを発信する行為であった。第一に、一国一城にも匹敵するとされる天下の名物を下賜することで、秀吉は秀家の功績を最大限に称え、その忠誠心をさらに強固なものにしようとした。第二に、この破格の恩賞を内外に示すことで、豊臣政権内における秀家の特別な地位を明確にし、他の大名たちへの見せしめとした。そして第三に、文化的権威の象徴である茶入を恩賞として用いることで、秀吉は自らが武力だけでなく文化をも支配する絶対的な君主であることを天下に知らしめたのである。筑紫肩衝は、この「与える」という行為を通じて、主従関係を強化し、豊臣政権のヒエラルキーを可視化する役割を能動的に演じたのだ。

しかし、この栄華は長くは続かなかった。1598年に秀吉が死去すると、豊臣政権は内部対立から急速に瓦解へと向かう。そして1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。宇喜多秀家は西軍の副大将として奮戦するも、奮戦むなしく敗北。戦後、秀家は捕らえられ、八丈島へと流罪に処された。主を失った筑紫肩衝は、新たな天下人、すなわち東軍を率いた徳川家康の元へと渡ることになる。この一連の劇的な流転は、あたかも筑紫肩衝が所有者に栄枯盛衰をもたらすかのような、一つの壮大な物語を形成し、その価値をさらに神格化していくことになった。

第三章:徳川家康への継承 ― 天下掌握の最終証

関ヶ原の戦いを制し、事実上の天下人となった徳川家康(1543-1616)にとって、武力による勝利を確定的なものとし、新たな支配体制の正統性を天下に知らしめることが急務であった。そのために家康が用いたのが、豊臣秀吉が築き上げた文化的権威の継承という戦略であった。その象徴こそが、天下三肩衝の獲得である。

宇喜多秀家の敗亡により、筑紫肩衝は家康の手に渡った。一説には、秀吉から家康へ直接譲渡されたとも伝えられるが、いずれにせよ、関ヶ原の戦いを経て、この天下の名物が家康の所有となった事実は動かない。これは、単なる美術品の移動ではない。それは、豊臣家から徳川家への公的な権力移譲を象徴する、極めて重要な儀式であった。秀吉が「名物狩り」によって独占した文化的権威の頂点である天下三肩衝を、家康が継承すること。それは、家康が秀吉の後継者として、武威のみならず文徳においても天下を治めるにふさわしい人物であることを、何よりも雄弁に物語るものであった。モノの移動が、政治体制の変動を可視化し、確定させる役割を果たしたのである。

家康はこの筑紫肩衝を秘蔵し、特に愛用したと伝えられる。そして、その死に際しては、二代将軍となる徳川秀忠にこれを譲り渡した。以後、筑紫肩衝は、初花、新田とともに徳川将軍家の至宝、すなわち「柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)」として、江戸時代を通じて厳重に管理・秘蔵されることとなる。

「柳営」とは将軍の陣営や幕府を意味する言葉であり、「柳営御物」とは、徳川将軍家が所有する道具の中でも、特に由緒正しく、将軍の権威と直結する特別な宝物を指す。筑紫肩衝が柳営御物となったことは、それがもはや個人の所有物ではなく、徳川幕府という統治機構そのものの権威を裏付ける「レガリア(王権の象徴)」へと、その性格を完全に変えたことを意味する。それは、将軍から将軍へと代々受け継がれるべき、幕府の永続性を保証する神聖な器物となったのである。戦国の動乱期を駆け巡り、数々の権力者の野心と栄枯盛衰をその身に刻み込んできた筑紫肩衝は、徳川の世の泰平の象徴として、永い眠りにつくことになった。

以下の表は、筑紫肩衝が辿った主要な伝来の経路と、各時代におけるその意味合いをまとめたものである。

表1:筑紫肩衝の主要な伝来経路と各時代の意味

時代

主要な所有者(伝承を含む)

出来事と文化的・政治的意味

関連資料

室町時代

足利義政(東山御物)

最高の文化的権威の源泉として価値が確立

室町〜戦国時代

村田珠光 → 筑紫の数寄者 / 島井宗室

茶の湯文化の深化と、商人階級の台頭を象徴。「筑紫」の名の由来となる

安土桃山時代

豊臣秀吉

「名物狩り」により入手。天下人の文化的権威の独占を象徴

安土桃山時代

(下賜)→ 宇喜多秀家

忠誠を促すための最高級の恩賞。茶器が政治的道具として機能した好例

安土桃山時代

(返還・没収)→ 豊臣家 / 徳川家康

関ヶ原の戦いの結果、豊臣家の権威が失墜し、徳川家へ権力が移行したことの証左

江戸時代

徳川家康 → 秀忠 → 徳川将軍家

「柳営御物」として秘蔵。徳川幕府の永続的な権威を裏付けるレガリアとなる

近代

徳川宗家 → 根津嘉一郎(初代)

封建的権威から近代的経済力への文化財所有の担い手の変化を象徴

現代

根津美術館

重要文化財として公共化。歴史の証人として広く公開・保存される

第三部:茶の湯文化における象徴性 ― 器を取り巻く世界

筑紫肩衝の価値は、その伝来の物語だけに依存するものではない。それは、戦国時代の茶の湯という文化的な舞台装置の中で、特権的な役割を演じることによって、さらにその輝きを増していった。この部では、茶会における「主役」としての筑紫肩衝の姿と、それを包み込む仕覆や箱といった付属品が織りなす、日本独自の価値観の世界を探求する。

第一章:茶会における「主役」

戦国時代における茶会は、単なる遊芸の場ではなかった。それは、武将たちが一堂に会し、腹の探り合いを繰り広げる、極めて緊迫した政治交渉の舞台でもあった。狭い茶室という密室空間では、言葉以上に、亭主(ホスト)が用意する道具の一つ一つが、その権勢、財力、そして文化的教養を雄弁に物語った。その中でも、茶会のクライマックスである濃茶を点てる際に用いられる茶入は、まさに一座の注目を一身に集める「主役」であった。

筑紫肩衝のような天下の名物が茶会に用いられる場合、その意味合いはさらに重層的になる。まず、亭主がこの器を所有しているという事実そのものが、招待された客(多くは他の大名や重臣)に対して、圧倒的な優位性を示すことになる。床の間に荘重に飾られ、やがて亭主の手によって恭しく扱われる筑紫肩衝の姿は、亭主が天下人、あるいはそれに準ずる人物であることを無言のうちに宣言する。客は、この至宝を前にすることで、亭主の権威を肌で感じ、敬意を払わざるを得なくなる。茶会は、筑紫肩衝を媒介として、政治的な序列を確認し、再生産する儀式の場として機能したのである。

また、筑紫肩衝の価値は、千利休や津田宗及といった、当代随一の茶人たちの審美眼によって保証されることで、さらに揺るぎないものとなった。彼らのような「目利き」が、ある茶入を「大名物」として認定し、その美しさや見所を語ることではじめて、その器は客観的な価値を獲得した。彼らが編纂した茶会記には、どの茶会で、誰が、どの名物道具を用いたかが詳細に記録されている。筑紫肩衝が彼らの茶会で用いられ、その美が称賛されたという記録は、この器の権威を裏付ける最も確かな証拠となった。武将の権力と、茶人の審美眼。この二つが両輪となって、筑紫肩衝の価値は絶対的なものへと高められていったのである。

第二章:付属する「名物」たち ― 日本的価値観の結晶

筑紫肩衝の価値を考える上で、茶入本体のみに注目するのは十分ではない。日本の茶道具の世界では、本体だけでなく、それに付属する品々もまた、一体となって一つの美的世界を形成し、それぞれが高い価値を持つ。これは、器物そのものだけでなく、それが経てきた時間や、関わってきた人々の想いをも含めて慈しむ、日本独自の美意識と価値観の現れである。

筑紫肩衝には、その価値をさらに高める数々の優れた付属品が伝わっている。まず、茶入の口を塞ぐ「蓋」である。茶入の蓋は、通常、象牙を素材として作られるが、その色合いや木目(象牙の模様)の美しさ、そして茶入本体との調和が厳しく問われる。筑紫肩衝に付属する牙蓋もまた、それ自体が一つの美術品として高く評価されている。

次に、茶入を保護し、装飾するための袋である「仕覆(しふく)」である。仕覆は、金襴や緞子、間道といった、中国や東南アジアから輸入された最高級の染織品(裂地)を用いて仕立てられる。筑紫肩衝には、七種にも及ぶとされる、それぞれに由緒ある名物裂で仕立てられた仕覆が付属していたと伝えられる。これらの仕覆は、季節や茶会の趣向に合わせて取り替えられ、茶入の表情に変化を与える。一つの茶入が複数の美しい「衣」を持つという発想は、器物を人格化して愛でる日本的な感性の表れであり、仕覆の一つ一つが「名物」として独自の価値を持っていた。

さらに、これらの茶入、蓋、仕覆は、「挽家(ひきや)」と呼ばれる木製の容器に納められ、最終的には桐の箱に収められる。この桐箱の蓋の表や裏には、歴代の所有者や高名な茶人によって、その道具の名称、由来、称賛の言葉などが墨で書き付けられる。これを「箱書き」といい、箱書きは、その道具の来歴を証明する鑑定書としての役割を果たす。特に、千利休や小堀遠州といった伝説的な茶人の箱書きがあることは、その道具の価値を飛躍的に高める要因となった。

このように、茶入本体、蓋、仕覆、挽家、そして箱書きが記された桐箱までが、すべて一体となって「筑紫肩衝」という一つの総合芸術を構成している。この構造は、重要な文化的変容を示唆している。すなわち、中国で生まれた「唐物」である筑紫肩衝が、仕覆や箱といった極めて日本的な要素を纏うことで、単なる異国の輸入品ではない、日本の文化の中で熟成され、再創造された「和の美」を帯びた存在へと変容していく過程である。これは、外来の文化を巧みに取り込み、自らの文脈の中で新たな価値を付与するという、日本文化の持つ卓越した受容と創造の特質を、見事に体現している事例と言えるだろう。

終章:歴史の証人としての筑紫肩衝 ― 近代、そして現代へ

戦国の動乱を駆け抜け、徳川幕府の泰平の象徴となった筑紫肩衝は、明治維新という新たな時代の荒波に再びその姿を現す。江戸幕府の終焉後、柳営御物であった筑紫肩衝は、徳川宗家に引き継がれた。しかし、明治・大正期に入ると、多くの旧大名家が財政的な困難に直面し、伝来の家宝を手放さざるを得ない状況が生まれる。この社会構造の大きな変化の中で、筑紫肩衝は、三井物産の設立に関わるなど、近代日本の産業界で巨大な成功を収めた実業家・初代根津嘉一郎(1860-1940)の所有となった。

この所有者の変化は、極めて象徴的な出来事である。それは、文化財の所有構造が、かつての封建的な身分や家柄に基づく世襲から、近代的な経済力に基づくものへと移行したことを明確に示している。戦国武将が権威の象徴として渇望し、徳川将軍家が幕府のレガリアとして秘蔵した至宝が、近代資本主義の中で財を成した一個人のコレクションへと収まったのである。これは、日本の価値観そのものが大きく転換したことの証左に他ならない。

しかし、根津嘉一郎は単なる蒐集家ではなかった。彼は、自らが蒐集した美術品を私有するだけでなく、広く公共のために公開し、後世に伝えていくことの重要性を深く認識していた。その遺志に基づき、彼のコレクションを保存・公開するため、1941年に根津美術館が設立された。筑紫肩衝は、現在、この根津美術館の中核的な所蔵品の一つとして大切に保管され、国の重要文化財にも指定されている。

かつては天下人や将軍といった、ごく一握りの特権階級の者だけが目にすることを許された至宝が、今日では誰もが美術館で鑑賞できる公共の文化遺産となっている。この事実は、筑紫肩衝が辿ってきた長い旅路の、一つの到達点を示している。それは、権力の象徴から、歴史の証人へ、そして国民共有の宝へと、その役割を変えてきた物語の帰結である。

総括すれば、筑死肩衝は、その類稀なる美的完成度ゆえに、戦国武将たちの飽くなき欲望の対象となった。しかし、その本質的な価値は、器物自体の美しさだけに留まるものではない。その真価は、権力闘争の渦中で所有者を変え、そのたびに新たな物語をその身に纏い、ついには権力そのものを象徴する記号へと昇華していった、その比類なき歴史にある。一つの小さな茶入の伝来を追うことは、戦国から現代に至る日本の権力、美意識、そして社会の構造的変遷を読み解く壮大な旅である。そして、筑紫肩衝は、その旅路において、我々を導く最も優れた水先案内人であり続けている。