戦国時代の置時計は、信長逸話は創作だが、ザビエル献上の自鳴鐘が日本初。西洋定時法と日本不定時法の衝突を経て、江戸期に二挺天符など独創的機構を持つ和時計が誕生。
日本の戦国時代における「置時計」を語る上で、多くの人々がまず想起するのは、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが織田信長にそれを献上したものの、信長はその複雑な仕組みを理解できずに返却した、という有名な逸話であろう。この物語は、革新的な精神と古い価値観が交錯する信長の人物像を象徴するエピソードとして、長らく語り継がれてきた。しかし、この広く流布する逸話は、歴史的事実としてどの程度確かなものなのだろうか。本報告は、この問いの検証から筆を起こし、置時計という一つの「モノ」が戦国時代の日本にもたらした、より深く広範な影響の軌跡を徹底的に追跡するものである。
逸話の真偽を確かめるためには、当事者であるルイス・フロイス自身の記録に当たることが不可欠である。フロイスが信長と初めて公式に会見したのは、永禄12年(1569年)のことである。彼がイエズス会の上長に宛てた書簡や、後年編纂した大著『日本史』には、この時の様子が詳細に記されている 1 。これらの一次史料によれば、フロイスが信長に献上したのは、ガラス製のフラスコに入った金平糖(コンフェイトス)、そして当時貴重品であった西洋の蝋燭などであった 3 。記録には、信長がこの異国の珍しい菓子を大変喜び、興味深くフラスコを眺めたとあるが、そこに「置時計」を献上した、あるいは返却されたという記述は一切見当たらない 1 。
この史料上の不在は、我々に重要な示唆を与える。すなわち、信長と置時計を結びつける有名な逸話は、同時代の記録に基づいた史実ではなく、後世に形成された物語である可能性が極めて高いということである。
では、なぜ史実にない物語が生まれ、広く信じられるようになったのか。その背景には、後世の人々が「織田信長」という英雄をどのように理解し、語り継いできたかという、信長像の形成過程そのものが深く関わっている。信長が、鉄砲の導入や楽市楽座の設置に見られる合理主義者であり、また宣教師から医学、天文学、地理学といった南蛮の知識を積極的に学ぼうとした、先進的な精神の持ち主であったことは事実である 5 。この「合理的で新しいもの好きの信長」というイメージが、西洋科学技術の象徴ともいえる「時計」と結びつきやすかったことは想像に難くない。
さらに、信長に関する史料の性質も考慮する必要がある。信長の家臣であった太田牛一が記した『信長公記』は、比較的客観的な記録としての性格が強い。一方で、江戸時代初期に小瀬甫庵らが著した『信長記』(『甫庵信長記』)は、講談調の読み物として大衆に広く受け入れられる中で、多くの文学的脚色や英雄的な逸話が付加されていった 6 。信長が超人的な英雄として描かれる中で、「置時計を理解できなかった」というエピソードは、彼の先進性に人間的な限界や異文化との劇的な対峙という側面を加え、より多面的で魅力的な英雄像を構築するために創作、あるいは付加された物語であると考察できる。
この逸話は、史実か否かという二元論で評価されるべきではない。むしろ、この物語そのものが、後世の人々が「織田信長」という歴史上の人物をどのように解釈し、消費してきたかを示す貴重な「歴史的産物」なのである。それは、信長の先進性を象徴する「時計」と、彼の限界を示す「不理解」という要素を組み合わせることで、より深みのある英雄譚を求める文化的欲求の表れと解釈することができよう。真の歴史を探る我々の旅は、この「幻の時計」の逸話が何を意味するのかを問い直すことから始まるのである。
信長と置時計の物語が後世の創作であるとすれば、機械式時計が日本の歴史の表舞台に初めて登場するのは、いつ、どこで、誰によってもたらされたのであろうか。その答えは、信長の時代より遡ること18年、天文20年(1551年)の周防国山口に求められる。この地で、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが戦国大名・大内義隆に謁見し、時計を献上した出来事こそ、日本における西洋機械式時計の歴史の確かな黎明であった。
ザビエル一行の日本滞在と大内義隆との会見を記録した『大内義隆記』などの史料には、ザビエルが義隆に献上した品々の中に、特筆すべき一品があったことが記されている 7 。それは、「十二時を掌るに夜昼の長短を違へず響く鐘の声」と描写される装置であった 7 。この記述は、一日の時間を昼夜の別なく均等に二十四に分割し、定刻になると自動的に鐘を鳴らして時を知らせる機械、すなわち「自鳴鐘」であったことを明確に示唆している。フランスの史料では「une petite horloge sonnante(小さな自鳴鐘一個)」と記録されており、これが日本にもたらされた最初の西洋式機械時計に関する、最も信頼性の高い記録である 7 。この時計が刻む「夜昼の長短を違へず」という時間は、当時の日本社会には存在しなかった、全く新しい時の概念「定時法」の到来を告げるものであった。
ここで一つの問いが生じる。なぜ、日本で最初の機械式時計の受領者は、織田信長や他の有力な戦国武将ではなく、西国の雄、大内義隆だったのであろうか。その答えは、当時の山口が持っていた類稀な先進性と国際性に求められる。
大内氏の治世下、山口は京都を模した壮麗な都市計画がなされ、その繁栄ぶりから「西の京」と称えられていた 9 。大内氏は、勘合貿易(日明貿易)や朝鮮との交易を独占的に掌握することで莫大な富を蓄積し、大陸の最新の文物や情報が山口に集積する、一大国際文化都市を現出させていたのである 12 。
当主である大内義隆自身も、武人であると同時に、当代随一の文化人であった。彼は画僧・雪舟に築庭を依頼し、多くの公家や知識人を庇護するなど、学問や芸術を深く愛し、その奨励に努めた 10 。そして何よりも重要なのは、彼が異文化に対して極めて開かれた姿勢を持っていたことである。義隆は、ザビエルに対して日本で初めてキリスト教の組織的な布教活動を公に許可し、その拠点として大道寺という寺院まで与えた 13 。この寛容性は、当時の日本の支配者の中では際立っていた。
ザビエルが義隆に時計を献上したのは、単に珍しい品を贈ったわけではない。それは、受領者の文化的素養と政治的影響力を的確に見抜いた、高度な文化外交戦略であった。ザビエルは、戦乱に明け暮れる他の武将たちとは一線を画し、国際交易を通じて海外の文物に日常的に触れ、その価値を理解できる義隆こそが、時計の背後にある西洋の数学的・天文学的な叡智と、それが象徴する文明の先進性を正しく評価できる人物だと判断したのである。時計は、キリスト教という「新しい教え」が、いかに高度な文明の産物であるかを示す、何より雄弁なプレゼンテーションツールであった。それは、義隆の知的好奇心と文化的プライドに直接訴えかける、計算され尽くした一手に他ならなかった。こうして、機械式時計は、戦国日本の最も国際的で洗練された文化の中心地で、その歴史的な第一歩を記すことになったのである。
ザビエルがもたらした「自鳴鐘」は、単なる時間を告げる道具ではなかった。それは、16世紀ヨーロッパにおける最新の科学技術と、それを生み出した独特の世界観の結晶体であった。この小さな機械の内部には、どのような叡智が凝縮されていたのか。そして、その技術はどのような文化的土壌から生まれたのか。本章では、置時計のメカニズムを技術的に解剖するとともに、その背後にあるヨーロッパの思想的潮流を探ることで、日本に伝来した「モノ」の持つ本来の意味を明らかにする。
16世紀のヨーロッパで置時計や携帯時計が可能になったのは、画期的な発明「動力ゼンマイ」の登場による 16 。それまでの塔時計などが錘(おもり)の落下する力を動力としていたのに対し、鋼鉄製の帯を渦巻状に巻いたゼンマイが、ゆっくりと解けようとする力をエネルギー源とすることで、時計の小型化と可搬性が実現した。このゼンマイは「香箱(こうばこ)」と呼ばれる歯車付きの円筒形ケースに収められ、輪列(りんれつ)と呼ばれる一連の歯車群に安定した動力を供給した 17 。
時計の精度を司る心臓部が、「調速機」と「脱進機」である 18 。当時の主流であった「バージ脱進機」は、王冠のような形状の歯車(冠型がんぎ車)と、その歯に交互に噛み合う二つの爪(パレット)を持つ垂直な軸(バージ)から構成されていた 19 。ゼンマイの力で回転しようとする冠型がんぎ車を、バージに取り付けられたパレットが瞬間的に止め、そして解放する。この連続的な動作が、歯車の連続回転を「カチ、カチ」という往復運動に変換し、一定のリズムを生み出す。このバージの往復運動を安定させるのが、T字型の棒の両端に錘をつけた「棒テンプ(フォリオット)」と呼ばれる調速機であった 19 。
さらに、ザビエルが献上した「自鳴鐘」がそうであったように、多くの置時計は時刻を音で知らせる「時打ち機構」を備えていた。これは、時刻を司る輪列とは別に設けられた打方(うちかた)輪列と、鐘を打つ回数を制御する「数取り車」という特殊な歯車によって実現される。数取り車には、打数に応じた深さの切れ込みが刻まれており、定時になるとレバーがこの切れ込みに落ち込むことで打方輪列のロックが外れ、ハンマーが鐘を所定の回数だけ叩く仕組みであった 23 。
16世紀の置時計技術の粋を具体的に知る上で、格好の事例が存在する。日本に現存する最古の機械式時計であり、国指定重要文化財でもある、徳川家康が所用した置時計である 24 。この時計は、慶長16年(1611年)、スペイン国王フェリペ3世から、難破したスペイン船の乗組員を救助した返礼として家康に贈られたものである 27 。
時計そのものは、1581年にマドリードの著名な時計師ハンス・デ・エバロによって製作されたもので、高さ約21.5センチ、真鍮に金メッキを施した壮麗な箱型の置時計である 23 。その四面には、ルネサンス期に流行した遠近法を用いた建築物の彫刻が施され、単なる計測器ではなく、芸術品としての価値も極めて高い 23 。内部機構は、時刻を表示する「時方」、鐘を鳴らす「打方」、そして設定した時刻に音を鳴らす「目覚まし」という、三つの独立したゼンマイと輪列で構成されており、まさに当時のヨーロッパにおける最高水準の精密機械技術が集約されている 23 。
このような精緻な機械は、いかなる社会的要請から生まれたのか。その源流は、中世ヨーロッパのキリスト教修道院に遡る 29 。修道院では、一日の労働、食事、そして何よりも重要な祈りの時間が厳格な戒律によって定められていた。この時間を正確に守り、共同体に告げるため、自動で鐘を鳴らす装置として塔時計が開発されたのである 19 。英語で時計を意味する「クロック(clock)」の語源が、ラテン語で鐘を意味する「クロッカ(clocca)」であることは、この歴史的背景を雄弁に物語っている 19 。
この「時間を厳格に管理し、規律に従う」という精神は、16世紀の宗教改革を経てプロテスタンティズムが勃興すると、社会全体へと拡大していく。特にカルヴァン主義などにおいては、世俗の職業労働そのものが神から与えられた天職(Beruf)と見なされ、勤勉に働くことが神の栄光を増すための行いとされた。社会学者マックス・ヴェーバーがその著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘したように、このような倫理観においては、「時間の浪費は第一の、そして原理的にもっとも重い罪」と見なされたのである 31 。
置時計が刻む、客観的で、数学的に分割可能な、そして誰に対しても等しく流れる均質な時間は、このような近代的労働倫理と、その上に成り立つ資本主義の精神を支える、不可欠な社会的基盤となった 34 。
16世紀の置時計は、単なる時間計測器ではない。それは、自然の周期(日の出、日没)から時間を切り離し、抽象的で、数学的に分割可能な、均質なものとして捉える「西洋の合理主義的世界観」そのものを内包した、一種のイデオロギー装置であった。修道院の規律から生まれたこの機械は、神が創造した世界を人間が理性によって理解し、管理できるという信念の象徴であり、ザビエルが日本にもたらしたのは、この世界観そのものであったと言えるのである。
表1:戦国・江戸初期における主要な舶来機械式時計の比較
項目 |
ザビエル献上の時計(大内義隆宛) |
スペイン国王献上の時計(徳川家康宛) |
年代 |
天文20年(1551年) |
慶長16年(1611年)献上(時計自体は1581年製) |
献上者 |
フランシスコ・ザビエル |
スペイン国王フェリペ3世(代理人経由) |
受領者 |
大内義隆 |
徳川家康 |
目的 |
キリスト教布教の許可を得るための文化的外交 |
難破船員救助に対する謝礼としての公式な贈答 |
時計の特徴 |
自鳴鐘(時打ち機能付きの小型時計と推定) |
金メッキ真鍮製置時計(時打ち・目覚まし機能付き) |
現存の有無 |
なし(記録のみ) |
あり(久能山東照宮所蔵、国指定重要文化財) |
歴史的意義 |
日本史における機械式時計の初伝来 |
現存する日本最古の機械式時計であり、当時の最高技術水準を示す |
西洋の合理主義的世界観をその歯車に宿した機械式時計は、戦国時代の日本で、根本的に異なる時間感覚と宿命的な衝突を遂げることとなる。当時の日本社会は、ヨーロッパとは全く異なる原理に基づく時間システムによって営まれており、この差異こそが、置時計という「モノ」の受容を複雑なものにした最大の要因であった。本章では、日本の伝統的な「不定時法」を詳述し、西洋の「定時法」を前提とする置時計が、なぜ当時の人々にとって「理解しがたい」存在であったのか、その文化的・社会的背景を深く掘り下げる。
戦国時代から明治初期に至るまで、日本の公的な時刻制度は「不定時法」であった 36 。これは、一日の時間をまず「昼」と「夜」に二分し、それぞれをさらに六等分するという考え方に基づいている。昼は日の出から日没まで、夜は日没から次の日の出までと定義されるため、昼と夜の長さは季節によって変動する。夏は昼が長く夜が短く、冬はその逆となる。その結果、時間を構成する基本単位である「一刻(いっとき)」の長さも、季節によって、そして昼と夜とで常に変化したのである 38 。
時刻の呼称には、十二支(子、丑、寅…)が用いられる「十二辰刻(じゅうにしんこく)」と、数字を用いる方法の二つがあった 36 。後者では、正午(午の刻)を「九つ」、真夜中(子の刻)も「九つ」とし、そこから数字が「八つ」「七つ」と減っていき、「四つ」まで下がると再び「九つ」に戻るという独特の数え方をした。日の出は「明け六つ」、日没は「暮れ六つ」と呼ばれ、これらが人々の生活リズムの基準点となった 39 。このシステムは、人々の生活が太陽の運行という自然のリズムと分かちがたく結びついていたことを示している。
時間計測の道具としては、太陽の影を利用する日時計、水の増減で時を計る水時計(漏刻)、そして燃える速さが一定の香や蝋燭を用いる燃焼時計などが古くから存在した 30 。特に、盤上に筋状に抹香を敷き詰めた香時計(時香盤)は、季節ごとの昼夜の長さに合わせて香の脇に立てる金属のピン(目印)の位置を調整することで、不定時法に柔軟に対応することが可能であり、寺院などで広く用いられていたと推測される 38 。
これに対し、ヨーロッパの機械式時計が前提とする「定時法」は、一日の長さを二十四の等しい時間に分割するシステムである 43 。そこでは、一時間の長さは季節や昼夜の別なく、常に一定である。この二つの時間システムは、単なる計測方法の違いに留まらない、根源的な世界観の差異を反映している。
不定時法は、季節ごとに移ろう自然のサイクルに人間が寄り添い、生活を合わせるという「相対的」な時間感覚に基づいている。そこでは、時間は常に具体的で、生活と一体化したものであった。一方、定時法は、人間が定めた抽象的で普遍的な基準によって自然を区切り、管理するという「絶対的」な時間感覚の産物である 38 。それは、時間を生活から切り離し、客観的な数量として捉える視点に立脚している。
この二つの「時」の衝突は、必然であった。信長が置時計を「理解できなかった」とされる逸話の深層には、彼の知性の問題ではなく、彼が生きていた「不定時法」という世界観と、時計が体現する「定時法」という世界観との間の、根本的なパラダイムの断絶が存在したのである。
季節によって長さが変わる「一刻」を基準とする社会において、常に一定の速度で時を刻み続ける機械は、実用性に乏しいだけでなく、むしろ不正確で非合理的な「役立たず」に映った可能性すらある。例えば、日の出を合図に活動を開始する戦国武将にとって 46 、時計が示す「午前6時」が、季節によって日の出の時刻とずれてしまうのでは意味がない。彼らにとって重要なのは、抽象的な「6時」という記号ではなく、「日の出からどれくらい経ったか」という具体的な生活時間であった。
したがって、逸話における「不理解」とは、歯車の仕組みが分からないという技術的な理解の不能を指すのではなく、「自らの生活世界において、その存在意義を了解できなかった」という文化的な次元での不理解と解釈するのが最も妥当であろう。それは、異なるOS(オペレーティングシステム)で設計されたアプリケーションが起動しないのと同様の、根本的な世界観の不一致だったのである。この解釈は、信長の知性を不当に貶めることなく、二つの文明の出会いが内包していた衝突の深さを、より的確に描き出す。
西洋の定時法という異質な世界観を内包した機械式時計は、当初、日本の不定時法社会と激しい文化的衝突を起こした。しかし、その物語は断絶では終わらなかった。江戸時代に入ると、日本の職人たちはこの舶来の技術を単に模倣するのではなく、自らの文化と生活様式に適合させるべく、驚くべき創意工夫を凝らし始める。その過程で生まれたのが、世界にも類を見ない独自の機構を持つ「和時計」である。本章では、西洋技術の受容が、いかにして日本独自の創造的変容を遂げたのか、その象徴である「二挺天符」機構を中心に論じる。
機械式時計の製作技術は、キリスト教の伝来と共に日本にもたらされた。フランシスコ・ザビエルに続き来日したイエズス会宣教師たちは、九州の有馬や安土にセミナリヨ(神学校)を設立し、神学教育と共に、オルガンや印刷技術、そして時計の製作技術などを日本人に教えた 24 。こうして、日本の鍛冶職人や金工師たちが、西洋の機械時計に触れる機会を得たのである。
しかし、17世紀に入り、徳川幕府がキリスト教を禁じ、いわゆる鎖国政策を推し進めると、ヨーロッパからの新しい技術や情報の流入は、長崎の出島という細い窓口を除いてほぼ途絶えてしまう 25 。この技術的孤立が、逆説的にも日本独自の技術革新を促す土壌となった。日本の時計師たちは、限られた既存の技術を基盤としながら、日本の時刻制度である「不定時法」に完全に対応する時計を、自らの手で開発するという困難な課題に挑むことになった。この挑戦の末に生まれたのが、「和時計」と呼ばれる、日本独自の機械時計群である 47 。
数ある和時計の機構の中でも、不定時法への対応という課題に対して最も独創的かつ精巧な解決策を示したのが、「二挺天符(にちょうてんぷ)」と呼ばれる機構である 48 。これは、和時計を世界的に見てもユニークな存在たらしめている、日本人の叡智の結晶と言える。
その基本原理は、時計の心臓部である調速機「棒テンプ」を、昼用と夜用の二本、時計内部に備えるというものである 48 。棒テンプは、その両端に取り付けられた錘(分銅)の位置を調整することで、振動の周期(テンポ)を変えることができる。不定時法においては、一般に夏は昼の一刻が長く夜は短く、冬はその逆になる。そこで、昼の長い時間に対応するゆっくりとしたテンポの「昼用テンプ」と、夜の短い時間に対応する速いテンポの「夜用テンプ」をあらかじめ設定しておく。そして、昼夜の切り替わり点である「明け六つ(日の出)」と「暮れ六つ(日没)」の時刻に、この二つのテンプを自動的に切り替えるのである 48 。
この自動切替を実現するのが、文字盤の回転と連動した巧妙なカムとテコのメカニズムである。文字盤は一日で一回転(あるいは半日で一回転)し、その回転軸には突起のついた円盤(雪輪などと呼ばれる)が取り付けられている。明け六つと暮れ六つの位置に来ると、この突起がテコを押し上げ、使用中のテンプを物理的に持ち上げて歯車から切り離すと同時に、もう一方の待機していたテンプを下降させて歯車に噛み合わせる 48 。これにより、一つの時計でありながら、内部で二つの異なる時の流れを刻み分けることが可能となった。この画期的な機構によって、それまで一日に二度、人間が手動で行わなければならなかった分銅の位置調整の手間が省かれ、和時計の実用性は飛躍的に向上したのである 25 。
和時計、とりわけこの二挺天符機構は、西洋技術の単なる模倣や改良の産物ではない。それは、異質な二つの世界観、すなわち西洋の「定時法」と日本の「不定時法」の間に生まれた緊張関係を、技術的な創意工夫によって止揚し、全く新しい一つのプロダクトへと昇華させた「創造的融合」の輝かしい結晶である。日本の職人たちは、西洋の機械論的な合理性をそのまま受け入れるのではなく、それを一度解体し、日本の自然観に基づいた時間感覚という「魂」を機械の内部に吹き込んだ。彼らは、定時法という普遍的な原理を、不定時法という特殊な文脈の中で見事に再構築し、世界に類を見ない独自の時計を生み出したのである。このプロセスは、外来の要素を咀嚼し、自らの文化的文法に適合させて新たな価値を創造するという、日本文化における技術受容の一つの典型的なパターンを鮮やかに示している。
本報告は、織田信長と置時計を巡る有名な逸話の検証を起点とし、この小さな機械が戦国時代から江戸時代にかけての日本社会に与えた影響を、技術史、文化史、そして思想史の交差点から多角的に分析してきた。その探求の旅路を振り返り、置時計という「モノ」が、いかに当時の日本と西洋の間に横たわる巨大な世界観の差異を映し出し、そして新たな創造の触媒となったかを、ここに総括する。
戦国時代に日本に伝来した置時計は、単なる珍奇な舶来品ではなかった。それは、ゼンマイを動力とし、歯車で時を刻むというその機構自体が、西洋の合理主義、修道院に起源を持つキリスト教的時間規律、そして自然を客観的に計測し管理しようとする近代的精神を体現していた。この機械は、日本にとって、自らとは異なる文明のあり様を映し出す「鏡」の役割を果たしたのである。
その「鏡」に映し出されたのは、太陽の運行という自然のリズムと共に生き、季節の移ろいに合わせて一刻の長さを変える、日本の「不定時法」という全く異なる時間感覚であった。信長の逸話が象徴するように、二つの世界観の出会いは当初、「不理解」と「非実用性」という形での文化的衝突を生み出した。定時法を刻む機械は、不定時法を生きる人々の生活世界の中では、その意味と価値を見出すことが困難だったのである。
しかし、その衝突は恒久的な断絶では終わらなかった。江戸時代の日本の職人たちは、この西洋からの「鏡」に映る技術を、驚くべき創造性をもって自らの文化の中に受容し、変容させた。彼らは、定時法の原理を解体し、不定時法という日本の生活感覚に適合させるために、「二挺天符」という世界にも類例のない独創的な機構を考案した。和時計の誕生は、異文化との対話の中から生まれた、日本独自の技術的・文化的達成であり、衝突を創造的融合へと転換させた日本の叡智の証左である。
かくして、「置時計」を巡る物語は、信長の個人的な逸話という狭い枠組みを遥かに超え、技術の伝播、文化の衝突、そして創造的融合という、人類史における普遍的なテーマを我々に提示してくれる。戦国時代の一つの「モノ」は、二つの文明が出会い、互いの姿を映し出し、そして新たな価値を生み出していく壮大な歴史の縮図として、今なお我々に深い洞察を与え続けているのである。