最終更新日 2025-08-12

臼砲

戦国時代の「臼砲」は後世の概念で、実際は「抱え大筒」や「棒火矢」が奇襲・榴弾の役割を担った。和鉄の制約から鍛造技術が発展。
臼砲

日本の戦国時代における「臼砲」の実態と系譜――神話の解体と技術的実像の再構築

序論:戦国期「臼砲」を巡る問い

日本の戦国時代における兵器体系を語る上で、「臼砲」という存在は、ある種の謎と魅力を伴って語られることがあります。利用者様が提示された「銃身の短い大筒で、榴弾を詰めて発射した。台車に置かず、抱えて撃つことも可能で、1人敵陣近くに素早く攻め寄って発射し、敵軍を撹乱することもできた」というイメージは、戦国時代の合戦風景に劇的な一撃を加える、強力な奇襲兵器の姿を彷彿とさせます。このイメージは、戦国時代の軍事技術を理解する上で、非常に興味深い出発点となります。

しかし、この「臼砲」の探求は、開始直後に一つの決定的な歴史的事実と対峙することになります。すなわち、現代的な意味での「臼砲」、すなわち英語の「Mortar」の語源を持ち、オランダ語の「モルチール」に由来するこの種の火砲が、日本に初めて体系的にもたらされたのは、戦国時代から200年以上を経た幕末期であったという事実です 1 。この歴史的アナクロニズム(時代錯誤)は、「戦国時代の臼砲」という概念そのものが、後世の知識が過去に投影された結果として生まれた「神話」である可能性を示唆します。

したがって、本報告書の目的は、戦国時代に存在しなかった単一の兵器「臼砲」を追い求めることではありません。むしろ、利用者様の抱くイメージを構成する「短い銃身」「榴弾(炸裂弾)」「抱えて撃つ」「奇襲・撹乱」といった各要素が、戦国時代の歴史的文脈において、それぞれどのような兵器や戦術に対応するのかを丹念に解き明かすことにあります。それらの要素を分解し、一つ一つの実像を明らかにした上で、最終的にそれらを統合し、戦国期における「臼砲的なるもの」の真の姿を再構築すること。それが本報告書の目指すところです。

第一章:「臼砲」概念の解体と戦国期火砲の用語整理

第一節:近代兵器「臼砲(モルチール)」の定義と伝来

まず、議論の前提として、近代兵器としての「臼砲」を明確に定義する必要があります。英語で「Mortar」と呼ばれるこの兵器は、ラテン語の「Mortarium(乳鉢)」を語源とし、そのずんぐりとした肉厚な砲身が臼や乳鉢に似ていることから名付けられました 2 。日本語ではこれを直訳し、「臼砲(きゅうほう)」と呼びます。

その軍事的な本質は、砲身を45度以上の大仰角に向け、砲弾を高い放物線軌道(曲射)で投射することにあります 1 。この弾道特性により、カノン砲のような直射火器では攻撃が不可能な、城壁や丘陵、塹壕といった遮蔽物の向こう側にいる敵兵や施設を攻撃することが可能となります。

日本史において、この「臼砲(モルチール)」が明確に登場するのは、江戸時代後期の幕末です。西洋式砲術の導入に尽力した高島秋帆などが、天保年間(1830年代以降)にオランダから他の火砲と共に輸入したのが、歴史的な初見とされています 3 。幕末の動乱期、特に戊辰戦争では、新政府軍が会津城籠城戦などでこのモルチール砲を効果的に使用しました 1 。その有効性が認められると、佐賀藩などで国産化(複製)も試みられ、日本の近代兵器体系に組み込まれていきました 1 。このように、「臼砲」は幕末から近代にかけての兵器であり、戦国時代には存在しなかったことが明らかです。この時代的断絶を認識することが、戦国期の火砲の実像を正確に理解するための第一歩となります。

第二節:戦国期における大型火器の呼称――「石火矢」と「大筒」

それでは、戦国時代において大型の火砲はどのように呼ばれていたのでしょうか。当時の史料には主に「石火矢(いしびや)」と「大筒(おおづつ)」という二つの呼称が見られますが、その区別は必ずしも厳密ではありませんでした。

石火矢(いしびや)

この言葉は元来、中国から伝来した原始的な火砲や、強力な弓の一種である弩(いしゆみ)を指す言葉でした。しかし、16世紀にポルトガル人などを介して西洋式の大砲が伝来すると、その訳語として「石火矢」が用いられるようになります 5。特に著名なのが、豊後の戦国大名・大友宗麟が用いたポルトガル製のフランキ砲で、彼はこれを「国崩し」と命名し、戦力の中核に据えようとしました 7。このように、「石火矢」は特に舶来の高性能大砲というニュアンスを強く帯びていました。

大筒(おおづつ)

一方、「大筒」は、主に日本国内で製造された大型の火縄銃、あるいは和製の大砲を指す呼称として広く使われました 9。これは1543年の鉄砲伝来以降、飛躍的に発展した日本の鉄砲製造技術をそのままスケールアップさせる形で開発されたものです。堺や国友といった鉄砲の一大生産地で、通常の火縄銃と共に様々な口径の大筒が製造されました 11。

ただし、これらの呼称はしばしば混用され、文脈によっては大型の火砲全般を指して「石火矢」や「大筒」と呼ぶ場合もありました 6 。この用語の曖昧さが、後世の研究において混乱を招く一因ともなっています。重要なのは、戦国時代の人々が、舶来品か国産品か、あるいはその構造によって、複数の大型火器を認識し、使い分けていたという事実です。

第二章:戦国期の大型火器の実像――フランキ砲と和製大筒

戦国時代に存在した大型火器は、主に南蛮貿易によってもたらされた舶来の「フランキ砲」と、日本の鉄砲技術を基盤とする和製の「大筒」に大別されます。これらは構造も運用思想も異なり、それぞれに一長一短がありました。

第一節:舶来の後装砲「フランキ砲」――国崩しの衝撃

大友宗麟が入手し、「国崩し」と名付けたことで知られるフランキ砲は、当時の日本では画期的な兵器でした 7 。その最大の特徴は、砲弾と火薬を砲口から詰める「前装式」ではなく、砲尾に設けられた開口部から、あらかじめ弾薬を装填した「子砲(しほう)」と呼ばれる薬室(カートリッジ)を挿入して発射する「後装式」であった点です 6

理論上、この構造は複数の子砲を準備しておくことで、次弾を迅速に装填できるという速射性の利点を持ちます。しかし、この利点は当時の技術的限界によって大きく損なわれていました。砲身と子砲の結合部分の密閉が不完全で、発射の際に燃焼ガスが隙間から激しく漏れ出してしまったのです 6 。このガス漏れは、砲弾の威力を著しく低下させ、時には暴発事故を引き起こす危険もはらんでいました。そのため、より堅牢で強力な前装式鋳造砲が発展したヨーロッパでは、フランキ砲は16世紀末には廃れていった過渡期の技術でした 14

日本における実戦例としては、天正14年(1586年)の臼杵城の戦いが有名です。島津の大軍に包囲された大友宗麟は、城に据えた「国崩し」で応戦しました。この戦いにおいて「国崩し」が与えた影響は、物理的な破壊力そのものよりも、その轟音と見たこともない新兵器がもたらす心理的な威嚇効果が大きかったと考えられています 14 。敵兵の士気を挫き、籠城戦を支える上で重要な役割を果たしたのです。

第二節:和製大砲「大筒」――鉄砲技術の延長線上にある兵器

日本の職人たちが作り上げた「大筒」は、その運用方法によって大きく二つに分類できます。

一つは、攻城戦において城門や櫓、土塀といった防御施設を破壊するために、堅固な台座に据え付けて運用される「据置型大筒」です 9 。慶長19年(1614年)からの大坂の陣で徳川家康が投入した大筒の多くがこのタイプであり、絶え間ない砲撃によって大坂城の守備兵を疲弊させました 18

そしてもう一つが、利用者様のイメージに最も近い「抱え大筒」です 9 。これは、その名の通り一人、あるいは二人がかりで抱えて射撃することが可能な、比較的大口径の火縄銃でした。しかし、その重量と、発射時に生じる強烈な反動のため、肩に当てて精密に狙うことは極めて困難でした 20 。そのため、その主たる用途は、遠距離からの狙撃ではなく、敵陣への突撃の際や接近戦において、至近距離から轟音と共に大質量の弾丸を撃ち込み、敵の陣形を混乱させ、士気を挫くための威嚇・撹乱兵器であったと分析されます。ただし、この「抱え大筒」が発射するのはあくまで鉛や鉄の塊である「弾丸」であり、着弾して炸裂する「榴弾」ではありませんでした。この点が、「臼砲」のイメージと「抱え大筒」の実態との決定的な相違点です。

第三節:比較分析表

これまでに述べた戦国期の主要な大型火器の特徴を整理するため、以下に比較表を示します。この表は、「臼砲」という単一の概念では捉えきれない、当時の多様な火器の実態を浮き彫りにします。

項目

フランキ砲(国崩し)

据置型大筒

抱え大筒

分類

舶来砲 / 石火矢

和製砲 / 大筒

和製砲 / 大筒

装填方式

後装式(子砲)

前装式

前装式

主要材質

青銅(鋳造)

鉄(鍛造)

鉄(鍛造)

口径/重量

大口径(例:95mm)/ 重量級

大~中口径 / 重量級

中~大口径 / 携行可能

特徴

速射性に理論的利点、ガス漏れ多し

堅牢、国産技術で製造

機動性、反動大、照準困難

主な用途

攻城・守城(威嚇)、海戦

攻城(城門・櫓破壊)

奇襲、陣形撹乱、近接支援

代表例

大友宗麟「国崩し」

芝辻理右衛門作の大筒

各地の鉄砲鍛冶作

第三章:炸裂・焼夷兵器の系譜――「焙烙火矢」と大筒の連携

「抱え大筒」は機動性に優れるものの、炸裂弾は発射できませんでした。では、戦国時代の「榴弾」に相当する兵器は存在しなかったのでしょうか。その答えは、「焙烙火矢(ほうろくひや)」という兵器と、それを運用する独創的な戦術の中にあります。

第一節:戦国時代の「榴弾」――焙烙火矢

焙烙火矢とは、素焼きの陶器である「焙烙」や、木・紙などで作られた球状の容器に黒色火薬を詰め、導火線を付けた兵器です 21 。その実態は、現代で言うところの手榴弾や焼夷弾に極めて近いものでした。導火線に火を付けて敵陣に投擲し、炸裂による破片での殺傷と、燃焼による焼夷効果を狙ったのです 23 。特に木造建築物が密集する城郭や、木製の軍船に対しては絶大な威力を発揮しました。この兵器は「焙烙玉(ほうろくだま)」とも呼ばれ、紀伊の雑賀衆が用いたものは「雑賀鉢(さいかばち)」という名でも知られています 21

第二節:投射方法の進化――大筒による「棒火矢」

当初、焙烙火矢は人力(手投げ)や、場合によっては投石器のような器具を用いて投射されていました。しかし、より遠くへ、より正確にこの強力な炸裂兵器を送り込むため、戦国期の人々は画期的な方法を編み出します。それが、大筒を投射機として利用する「棒火矢(ぼうひや)」という戦術です 22

その構造は、焙烙玉に長い木の棒を取り付けて矢のような形状にし、それを大筒の砲口に差し込んで発射するというものでした 22 。これは、発射薬の爆発力で弾体を直接飛ばすのではなく、弾体そのものに推進力を持たせたロケットに近い「火矢」とは異なり、大筒の発射エネルギーを利用して炸裂弾を投射する仕組みです。その発想は、現代の小銃の先端に擲弾(グレネード)を取り付けて発射する「ライフルグレネード」にも通じるものであり、既存の兵器(大筒)をプラットフォームとして、新たな機能(炸裂弾投射)を付加した、日本の戦国武将たちの創意工夫の結晶と言えるでしょう 22

第三節:実戦における焙烙火矢の猛威

この「大筒と焙烙火矢の組み合わせ」が、戦局を決定づけた事例として、天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いが挙げられます。石山本願寺を支援する毛利水軍と、それを海上封鎖しようとする織田信長の九鬼水軍が激突したこの海戦で、毛利・雑賀水軍は焙烙火矢を巧みに用いました。

太田牛一が記した第一級史料『信長公記』には、その時の様子が「海上には焙烙火矢などと言うものを拵え、御身方の船を取り籠め、投げ入れ、投げ入れ、焼き崩し」と生々しく記録されています 26 。焙烙火矢によって次々と軍船を炎上させられた織田水軍は壊滅的な敗北を喫し、毛利方による石山本願寺への兵糧搬入を許してしまいました 23

この戦例は、焙烙火矢が単なる威嚇兵器ではなく、戦術的に極めて有効な決戦兵器であったことを雄弁に物語っています。そして、この「大筒で焙烙火矢(棒火矢)を撃つ」という兵器システムこそが、利用者様のイメージする「臼砲(大砲で榴弾を発射する)」の歴史的実態そのものに他なりません。専用の曲射砲を持たなかった戦国武将たちが、本来は直射砲である大筒を応用することで「擬似的な榴弾砲撃」を可能にした、技術的制約下における知恵と工夫の産物だったのです。

第四章:製造技術の光と影――和製大砲の可能性と限界

戦国期日本の大砲開発は、鉄砲の急速な普及とは対照的に、多くの技術的課題を抱えていました。その背景には、二大生産地の存在と、日本の基幹素材であった「和鉄」の特性、そしてそれを克服しようとした職人たちの独自の技術がありました。

第一節:二大生産地「堺」と「国友」

1543年に種子島に鉄砲が伝来すると、その製造技術は瞬く間に日本各地に広がりましたが、中でも二大生産地として名を馳せたのが、和泉国の「堺」(現在の大阪府堺市)と近江国の「国友」(現在の滋賀県長浜市)です 11 。堺は自由都市としての経済力と高い金属加工技術を背景に、国友は幕府の庇護を受けることで、それぞれが鉄砲の一大供給拠点として発展しました。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちは、彼らの生産能力を戦略的に活用し、大量の鉄砲を合戦に投入しました 28

この鉄砲製造で培われた技術は、やがて大型火器である大筒の製造へと応用されていきます。特に、天下統一を目前にした徳川家康は、大坂の陣に備えて堺の鉄砲鍛冶・芝辻理右衛門らに大筒の製造を命じました 29 。これは、鉄砲鍛冶たちが、単なる銃職人ではなく、国家的な軍事プロジェクトを担う高度な技術者集団と見なされていたことを示しています。

第二節:材質の壁――「和鉄」の特性と鋳造の困難

しかし、和製大砲の開発には、乗り越えがたい「材質の壁」が存在しました。日本の伝統的な製鉄法である「たたら製鉄」で生み出される「和鉄(わてつ)」は、炭素含有量や不純物が少なく、鍛錬することで強靭かつ鋭利な鋼となるため、日本刀のような刃物の製作には世界最高の素材でした 30

その一方で、この和鉄は「鋳造(ちゅうぞう)」、すなわち高温で溶かして型に流し込む製法には極めて不向きでした。特に、大砲のように肉厚で均質な品質が求められる大型の鋳造品を作ることは至難の業だったのです 30 。鋳造の際に内部に空洞(巣)ができたり、砲身の厚さが不均一になったりする問題が多発し、完成しても発射時の高圧に耐えられず破裂する危険性が常に付きまといました 32 。この和鉄の物理的特性が、日本における鋳鉄砲の技術的発展を大きく阻害する根本的な原因となったのです。

第三節:鍛造という独自の活路と、その限界

鋳造という正攻法での大砲製造が困難であると悟った日本の職人たちは、彼らが最も得意とする「鍛造(たんぞう)」、すなわち金属を叩いて成形する技術で大砲を作るという、世界的に見ても極めて珍しい独自の活路を見出します 30

その製法は、鉄砲の銃身を作る技術の延長線上にありました。熱した短冊状の鉄片を芯となる鉄の棒に巻き付け、槌で叩いて鍛え接合していく「巻き鍛え」や、瓦状に成形した鉄片を組み合わせて筒を構成する「瓦張り」といった、驚異的な手間と熟練を要する技法が用いられました 15 。芝辻理右衛門が家康のために製作した大筒も、近年の非破壊検査によって、この鍛造で作られていたことが証明されています 15

しかし、この独創的な試みも、世界の大きな流れからは隔絶していました。同時期のヨーロッパでは、16世紀を通じて青銅や鋳鉄を用いた鋳造技術が飛躍的に進歩し、より安全で高性能な大砲の大量生産体制が確立されつつありました 34 。日本の鍛造砲は、職人の技の極致ではありましたが、生産性や大型化には限界があり、結果として、日本の大砲技術は欧州の軍事技術革命から取り残されていくことになります。これは、資源と基盤技術の制約が、一国の技術的進路をいかに決定づけるかを示す典型例と言えるでしょう。

第五章:実戦における運用と戦術思想

戦国時代の大砲は、技術的な限界を抱えつつも、合戦において重要な役割を果たしました。その運用は単なる物理的な破壊に留まらず、敵の心理を揺さぶる戦略的な意図や、先進的な戦術思想の萌芽を見て取ることができます。

第一節:攻城兵器としての役割――大坂の陣に見る砲撃戦

戦国期における大砲の最も効果的な使用法は、野戦ではなく攻城戦でした。その白眉と言えるのが、慶長19年(1614年)から翌年にかけて行われた大坂の陣です。

徳川家康は、この戦いにイギリスから輸入したカルバリン砲などの最新鋭の舶来砲と、芝辻理右衛門らに作らせた国産大筒を投入しました 8 。これらの大砲から放たれる砲弾は、炸裂しない鉄や鉛の塊でしたが 18 、その威力は絶大でした。難攻不落を誇った大坂城に対し、昼夜を問わず続けられた砲撃は、城の櫓や塀を破壊し、守備兵を絶えず恐怖に晒しました。

そして決定打となったのが、大坂城本丸への着弾です。一発の砲弾が豊臣秀頼の母・淀殿の居室近くに着弾し、侍女数名が即死するという衝撃的な事件が発生しました 18 。この出来事は、豊臣方の戦意を根底から打ち砕き、それまで強硬に和議を拒んでいた彼らを交渉の席に着かせる直接的な原因となったのです。この事例は、戦国期の大砲が、物理的な破壊兵器であると同時に、敵の継戦意思を断ち切る強力な心理兵器として機能したことを明確に示しています。一方で、豊臣方も土塁を高くしたり、竹を束ねた「竹束」を前面に押し出したりして砲撃に備えており、火器を前提とした攻防の技術が進化していたことも窺えます 38

第二節:先進的戦術思想の萌芽

戦国時代の武将の中には、大砲を単なる兵器としてではなく、より大きな戦略的文脈の中で捉えようとする者もいました。

その筆頭が、九州の雄・大友宗麟です。彼は、キリスト教の保護などを通じてポルトガルとの南蛮貿易を積極的に推進し、その利益として最新兵器であるフランキ砲「国崩し」の導入を図りました 7 。宗麟はさらに、家臣を南蛮に派遣して大砲の製造技術を学ばせるなど、技術の国産化にも意欲を見せています 41 。彼の試みは、九州という地政学的な利点を活かし、外交と軍事を結びつけて国力を増強しようとする、極めて先進的な戦略思想の表れでした。宗麟が育んだ技術と人脈は、後の徳川家康による大砲製造にも繋がったとされています 41

また、紀伊の雑賀衆に代表される鉄砲傭兵集団の存在も重要です。彼らは、鉄砲の集団運用による連続射撃や、地形を活かしたゲリラ戦術など、当時としては極めて高度な戦術を編み出していました 43 。木津川口の戦いで焙烙火矢を効果的に用いたように、彼らは兵器の特性を最大限に引き出す柔軟な運用思想を持っていたと考えられます。これらの勢力がもし、より高性能な大砲を自由に運用できる環境にあったならば、日本の合戦の様相はさらに大きく変化していたかもしれません。

第六章:結論――戦国期「臼砲」像の再構築

本報告書を通じて行ってきた詳細な分析の結果、日本の戦国時代において、「臼砲」という名称と機能が一致した単一の兵器カテゴリーは存在しなかったと結論付けられます。

利用者様が当初抱かれていた「銃身が短く、榴弾を発射し、抱えて撃つことも可能な奇襲兵器」という魅力的なイメージは、特定の単一兵器を指すものではなく、戦国時代から幕末にかけての複数の歴史的事実が、後世において複合的に組み合わさって形成された「神話的表象」であったと再構築できます。その構成要素は、以下のように分解されます。

  • 形状と名称(臼砲): この部分は、幕末にオランダから伝来した「モルチール砲」の形状と、その和訳である「臼砲」という言葉が、時代を超えて戦国時代のイメージに投影されたものです 1
  • 携行性・奇襲性(抱えて撃つ): この要素は、和製大砲の一種である「抱え大筒」の運用実態に由来します。これは実際に一人または少数で携行し、奇襲や陣形撹乱に用いられた機動兵器でした 9
  • 機能(榴弾を発射): この中核的な機能は、「大筒」という投射プラットフォームと、「焙烙火矢(棒火矢)」という炸裂・焼夷弾を組み合わせた、一種の「兵器システム」によって実現されていました。これは専用の臼砲ではなく、既存の兵器を応用した独創的な戦術でした 22

最終的に、戦国時代の大型火器の歴史は、材質(和鉄)や製法(鋳造の困難)といった技術的制約という高い「壁」に直面しながらも、現場の兵士や指揮官、そして職人たちが、その壁を乗り越えるために知恵と技を尽くした試行錯誤の物語であったと言えます。「鍛造砲」や「棒火矢」といった独創的な工夫は、単なる西洋技術の模倣や劣化コピーに留まらない、日本の軍事技術史における独自の歩みを示す貴重な証左です。それは、与えられた条件下で最善を尽くそうとした、戦国期の人々の逞しい創造性の発露に他なりません。

引用文献

  1. 幕末に使われた大砲の種類/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/cannon-type/
  2. 臼砲 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E7%A0%B2
  3. 幕末維新期における鉄砲技術の落差 - Adobe Photoshop PDF https://www.sanadahoumotsukan.com/up_images/bok/rekibun19.pdf
  4. 第2部 5. 幕末の西洋兵学受容 | 江戸時代の日蘭交流 https://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_5.html
  5. 石火矢(イシビヤ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E7%81%AB%E7%9F%A2-432208
  6. 石火矢 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%81%AB%E7%9F%A2
  7. 大友宗麟とキリシタン文化/臼杵城跡にある国崩し(大砲) - 大分県 https://www.pref.oita.jp/site/archive/201011.html
  8. 石火矢(輸入 - 戦国日本の津々浦々 https://proto.harisen.jp/mono/mono/isibiya.htm
  9. Word file(12KB) https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001652000.docx
  10. 大砲 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A0%B2
  11. 国友鉄砲ミュージアム | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/1020/
  12. 有名な鉄砲鍛冶・生産地/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/famous-gun-blacksmith/
  13. 石火矢 いしびや - 戦国日本の津々浦々 ライト版 https://kuregure.hatenablog.com/entry/2022/12/08/233000
  14. フランキ砲 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E7%A0%B2
  15. 6 、戦国期日本の大砲開発と製造・・・その実態 http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/303
  16. 九州に覇を唱えたキリシタン大名・大友宗麟の真実 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/6766?p=1
  17. 力攻めが行われるのは 実はマレだった? 戦国の城攻め - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/battle/shirozme-chikarazeme/
  18. 徳川家康が大坂の陣で配備した大筒とは/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/114558/
  19. 館長セレクション - 堺市 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/play/online/selection.html
  20. 令和4年度地域観光資源の多言語解説整備支援事業 実施地域一覧 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/kankocho/content/001594983.pdf
  21. 火矢筒 棒火矢/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/search-arquebus/art0002545/
  22. 焙烙火矢 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%99%E7%83%99%E7%81%AB%E7%9F%A2
  23. 寺内町と一向一揆への海上輸送【戦国ロジ其の4】 - LOGI-BIZ online https://online.logi-biz.com/9627/
  24. 紀伊国・雑賀の里 - 和歌山市観光協会 https://www.wakayamakanko.com/img/pdf_saika.pdf
  25. 焙烙火矢とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%84%99%E7%83%99%E7%81%AB%E7%9F%A2
  26. ざいだん模様 村上水軍のその後 - 日本財団図書館 https://nippon.zaidan.info/kinenkan/moyo/0001368/moyo_item.html
  27. 華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされる - 岐阜市 https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/148/chapter_5_s.pdf
  28. 江戸幕府御用達の鉄砲製造工場 近江国・国友/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/osaka_teppo_toribia/ominokuni-kunitomo/
  29. 伝統産業と共存するまち、堺 - 堺フィルムオフィス https://sakai-film.jp/info/9295/
  30. 根来衆と鉄砲~その⑥ 難航した大砲の国産化と、その理由 - 根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2022/10/25/044805
  31. その他の先人達 - 堺市 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/sakai/keisho/senjintachi/sonota.html
  32. 119.pdf - 萩市立萩図書館 https://hagilib.city.hagi.lg.jp/hagilib-archive/image/119.pdf
  33. 不惑会・喜田邦彦・信長・秀吉・家康の大砲政策く http://fuwakukai12.a.la9.jp/Kita/kita-taihou.html
  34. オランダ海軍の大砲 これは 16 世紀後半に鋳造されたオランダ製の前装式大砲である。33 ミリの https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001653341.pdf
  35. 補論②:西欧における大砲 ~その登場から三十年戦争まで~ その2 | 槍と銃 pike and shot https://ameblo.jp/lapislapis23/entry-12579692872.html
  36. 23.大砲の歴史と鋳鉄 - 新井宏(ARAI Hiroshi)のWWWサイト https://arai-hist.jp/magazine/baundary/b23.pdf
  37. 火縄銃と大坂冬の陣・夏の陣/ホームメイト https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/hinawaju-osakanojin/
  38. 大坂の陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
  39. 鉄砲伝来と城の変化/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/113818/
  40. 大友宗麟とキリシタン文化/臼杵城跡にある大友宗麟のレリーフ - 大分県 https://www.pref.oita.jp/site/archive/201010.html
  41. 戦国日本を動かした大砲のルーツを探る | 大学教授による学問のミニ ... https://telemail.jp/shingaku/academics-research/lecture/g006342
  42. 大友宗麟の国づくり(PDF - 大分市 https://www.city.oita.oita.jp/o205/documents/kunuzukuri.pdf
  43. 「雑賀孫一(鈴木重秀)」戦国一のスナイパー!? 紀州鈴木一族の棟梁 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/131