荒木流馬術は、荒木元清が創始。村重の謀反で流浪するも、大坪流を基に実践的調馬法「百曲の長鞭」を確立。在来馬と騎馬武者の実態に即し、敗走と生存の技術を追求。
本報告書は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて成立した武術流派「荒木流馬術」および、その技術と哲学を記した伝書群、通称「荒木流馬術書」について、その創始者である荒木元清(あらき もときよ)の生涯と、彼が生きた戦国乱世という時代背景を基軸に、技術的特質と歴史的意義を総合的に考察することを目的とする。
調査を開始するにあたり、まず明確にすべきは、荒木一族に由来し、後世において混同されがちな二つの異なる武術流派の存在である。一つは本報告書の主題である、荒木元清を流祖とする**「荒木流馬術」 。そしてもう一つは、荒木夢仁斎(あらき むにんさい)を流祖とする 「荒木流拳法(捕手・小具足)」**である 1 。
この二つの流派が混同されてきた背景には、両流派の創始者が、戦国史に叛将としてその名を刻む荒木村重という、共通の、そして極めて著名な血縁的背景を持つという一点に起因する 2 。この劇的な共通点が、全く異なる技術体系を持つ二つの武術的伝統を、後世の研究者や愛好家の間で誤って結びつける原因となってきた。したがって、本報告書の最初の責務は、この歴史的混同を学術的に整理し、議論の対象を明確に定義することにある。以降の議論は、荒木元清の「馬術」に焦点を絞り、「拳法」については、混同を避けるための比較対象としてのみ言及する。
両者の違いを明確にするため、以下の比較表を提示する。
表1:「荒木流」を名乗る主要二流派の比較
項目 |
荒木流馬術 |
荒木流拳法 |
流派名 |
荒木流馬術 |
荒木流拳法(荒木流捕手、茂呂荒木流など) |
流祖 |
荒木 元清(志摩守、安志) |
荒木 夢仁斎 源 秀縄(無仁斎、無二斎とも) |
成立時期 |
戦国時代末期~江戸時代初期 |
天正年間(安土桃山時代) |
技術体系の核 |
馬術(特に実戦的な調馬法、悪癖矯正) |
捕手、小具足、鎖鎌、棒などを含む総合武術 |
母体となった流派 |
大坪流馬術 |
不明(竹内流を学んだ説あり) |
主要な伝承地 |
伊勢・藤堂藩など |
上州・伊勢崎藩を中心に全国各藩 |
史料的根拠 |
三重県立図書館所蔵『絵図巻』など 7 |
『武芸流派大辞典』、伊勢崎伝の伝書群 3 |
この表が示す通り、両者は創始者、技術内容、伝承の経緯において全く異なる系譜をたどる。この峻別を前提として、本報告書は「荒木流馬術書」とその背景にある戦国時代のリアルな姿を解き明かしていく。
荒木流馬術を理解するためには、その創始者である荒木元清という人物の波乱に満ちた生涯を避けては通れない。彼の人生は、戦国武将の栄光と悲惨を凝縮した典型例であり、その経験こそが、彼の馬術に独自の性格を与えた根源であった。
荒木元清(天文5年〈1536年〉~慶長15年〈1610年〉)は、摂津国の戦国大名・荒木村重の一族であり、系図上は従兄弟に位置付けられる有力な武将であった 1 。村重が織田信長に仕え、摂津一国を任されるという栄華を極める中で、元清もまた摂津花隈(はなくま)城主として1万8000石を領する重要な地位を占めていた 2 。彼の妻は、村重の妻・だしの母と姉妹であり、一族内での彼の立場が強固なものであったことを示唆している 2 。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。天正6年(1578年)、一族の長である村重が、石山本願寺攻めの最中に突如として信長に叛旗を翻すという、戦国史に残る謎多き謀反を起こすと、元清もこれに同調する 2 。この決断が、彼の人生を栄光の道から、過酷な流転の道へと大きく転換させることになる。この謀反の背景には、石山本願寺との関係、中国地方の雄・毛利氏との連携など、複雑な畿内の政治情勢が深く関わっており、元清もまた、その巨大な渦の中に否応なく巻き込まれていったのである 12 。
信長の総攻撃を受けた村重の居城・有岡城(伊丹城)は、一年以上にわたる籠城戦の末、天正7年(1579年)に落城する。この戦いの間に、元清の長男・渡辺四郎と次男・荒木新之丞は、京都で捕らえられ処刑されるという悲劇に見舞われた 2 。
有岡城を脱出した村重親子が次に頼ったのが、元清が守る花隈城であった。花隈城は、摂津における荒木氏の最後の拠点として、織田軍の猛攻に晒されることとなる(花隈城の戦い) 10 。しかし、池田恒興を主将とする織田軍の圧倒的な兵力の前に、奮戦も空しく天正8年(1580年)に開城を余儀なくされる 10 。
城を枕に討死するのではなく、元清は生き延びる道を選んだ。彼は落城した花隈城を脱出し、一族の長である村重と共に、毛利氏を頼って備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町)へと落ち延びたのである 2 。主家は事実上滅亡し、自らは全てを失った追われる身となる。この絶望的な状況からの敗走という経験は、彼の生命観や武術観に、書物の上での学びだけでは決して得られない、決定的かつ根源的な影響を与えたと推察される。平時や優勢な戦況における華麗な馬術ではなく、悪路を走り、追手を欺き、馬を極限まで酷使してでも生き延びるための、泥臭く実践的な知恵。それこそが、彼の身体に刻み込まれた「真の馬術」であったに違いない。荒木流馬術は、単なる武芸ではなく、この極限的な実体験から生まれた「生存の技術」として理解されるべきである。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れ、時代の潮流が大きく変わると、元清にも転機が訪れる。天下人への道を歩み始めた羽柴秀吉に旧悪を許され、その家臣として迎えられたのである 2 。これは、秀吉が旧敵対勢力であっても有能な人材を登用した、彼の現実的な人材活用術の一例と言えよう。
しかし、元清の人生はその後も平穏ではなかった。文禄4年(1595年)、豊臣秀次事件に連座して追放・流罪の身となる。後に赦免されるものの、彼の武将としての人生は、主君の浮沈に翻弄され続ける過酷なものであった 1 。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、元清は武将としてのキャリアに終止符を打ち、京都に隠棲する。そして、ここから彼の人生の最終章、すなわち馬術家としての道が始まる。かつて、能登の馬術家・斎藤好玄に学んだ大坪流の奥義を基礎としながら、そこに自身の波乱万丈の経験を加味した、新たな馬術体系「荒木流」を創始したのである 1 。
この荒木流馬術は、四男の荒木元満によって継承された 2 。元満の子・元政は徳川幕府に仕え、旗本として1500石を賜り、荒木家は武家として存続することに成功する 9 。この旗本荒木家は、代々馬術の技能をもって将軍家に用いられたと伝えられており、元清が創始した流派が、単なる個人的な武芸に留まらず、実用的な技術として公に認められていたことを裏付けている 15 。
表2:荒木元清 年表
西暦 |
元清の動向 |
主な歴史的出来事 |
1536年 |
誕生(天文5年) |
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1572年 |
師・斎藤好玄が死去 |
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1578年 |
荒木村重と共に織田信長に謀反 |
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1579年 |
長男・次男が京都で処刑される |
有岡城の戦い |
1580年 |
花隈城の戦い。落城後、備後国鞆へ逃亡 |
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1582年 |
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本能寺の変 |
1582年以降 |
豊臣秀吉に仕官 |
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1590年 |
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豊臣秀吉、天下統一 |
1595年 |
豊臣秀次事件に連座し、流罪となる |
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1598年 |
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豊臣秀吉 死去 |
1600年 |
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関ヶ原の戦い |
1610年 |
京都にて死去(慶長15年、享年75) |
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この年表は、元清の生涯が、信長の天下布武、秀吉の天下統一、そして徳川の世の始まりという、日本の歴史上最も激動した時代と完全に重なっていることを示している。彼の馬術は、まさにその乱世の記憶そのものであった。
荒木流馬術を「元清個人の経験の産物」としてのみ捉えるのは、一面的である。その技術的基盤には、当時、最も権威ある馬術流派とされた「大坪流」が存在した。荒木流を正しく評価するためには、その母体となった大坪流の歴史と技術を理解することが不可欠である。
大坪流は、室町時代に大坪慶秀(おおつぼ よしひで、剃髪後は道禅と号す)が開いた、日本の古典馬術を代表する一大流派である 16 。慶秀は足利義満から義政の時代にかけて将軍家に仕えたとされ、彼の創始した大坪流は、室町幕府の師範たる流派としてその名を高め、戦国時代を通じて馬術流派の主流としての地位を確立した 16 。
その技術的特徴として、大坪流は馬術そのものを専一に探求することを旨とし、馬上での刀槍といった武器術を深く扱うことは避ける傾向があったと評されている 18 。流派の教えは『大坪流軍馬』や『大坪流馬方幸秀論』など、数多くの伝書として体系化され、後世のあらゆる馬術流派に計り知れない影響を与えた 16 。その権威は、単なる一武芸流派のそれを超え、武家社会における馬術の「標準」とも言うべき存在であった。
この権威ある大坪流の系譜において、荒木元清は極めて幸運な出会いを果たしている。彼の師は、斎藤好玄(さいとう よしはる、1500年~1572年)という人物であった 1 。
斎藤好玄は、大坪流の馬術を極め、「大坪流中興の祖」とまで称された当代随一の達人であった 21 。彼自身も能登国熊木城主という武将であったが、晩年は摂津に赴き、荒木元清の居城であった花隈城に身を寄せていたと伝えられる。そして、その地で元清に大坪流の奥義を直接伝授したのである 21 。
元清が、最も権威ある馬術流派の、しかも「中興の祖」とまで呼ばれた達人から直接指導を受けたという事実は、彼が創始した荒木流馬術の技術的基盤が、極めて正統かつ高水準なものであったことを強力に裏付けている。彼は、単なる我流の馬乗りではなく、当代最高の馬術理論と技術を体得した上で、自らの流派を立てたのである。
しかし、この事実は同時に、一つの根源的な問いを我々に投げかける。なぜ元清は、最高権威の馬術を学んだにもかかわらず、敢えて「荒木流」という新流派を立てる必要があったのか。その答えは、確立された権威である「正伝」と、元清自身が経験した「実戦」との間に存在する、埋めがたいギャップに求められるべきである。大坪流がその権威化・体系化の過程で、ある種洗練させ、削ぎ落としていったかもしれない、より実践的で泥臭い、生存のための技術や心構え。それを、元清は自身の敗走と流浪の経験に基づいて再び付加し、強調する必要性を感じたのではないか。荒木流は、このギャップを埋めるための、元清個人の哲学と工夫の結晶であったと考えられる。
荒木元清が創始した馬術の神髄は、幸いにも具体的な伝書として現代に伝えられている。特に三重県立図書館が所蔵する写本群は、その内容を具体的に知る上で極めて貴重な史料である。
現存が確認されている「荒木流馬術書」は、単一の完結した書物ではなく、『絵図巻』、『息相巻』、『手綱之歌書』など、少なくとも7点の写本群から構成される一つのコレクションである 7 。これらの伝書は、その来歴が非常に明確である点に大きな価値がある。巻末の記述によれば、寛永8年(1631年)、荒木元清から馬術の相伝を受けた藤堂藩士・谷吉兵衛という人物を介して、同藩の藩祖・藤堂高虎の妹婿にあたる重臣・藤堂仁右衛門高経に「進上」されたものである 7 。
この伝書群は、物理的な特徴も興味深い。7点の写本はすべて同一人物の筆跡と見られ、特に『絵図巻』に描かれた馬や人物の絵は非常に巧みであることから、相応の教養と絵心を持つ人物によって、一括して製作されたことが伺える 7 。これは、この伝書が単なるメモ書きではなく、高位の武士に進上するために、威信をかけて丁寧に作成されたものであることを示している。
伝書群の中でも特に注目すべきは、図解を多用した『絵図巻』である。ここには、荒木流馬術の核心とも言うべき、極めて実践的な調馬法が記されている。
その象徴が、「百曲の長鞭(ひゃっきょくのながむち)」と題された秘術である 7 。「百曲」とは、あらゆる種類の悪い癖を意味し、この秘術は、いかなる癖馬をも矯正するためのものである。その方法は、図と解説文によれば、二本の柱の間に馬を立たせ、馬の轡(くつわ)と柱を縄で結びつける。そして馬を鞭で打ち、馬が狂って暴れると、その動きによって自らの首が締まるという、巧妙かつ苛烈な仕掛けを用いる 7 。これにより、馬に苦痛を通じて「懲りさせ」、強制的に従順な馬にしてしまうというのである。
この技術の重要性は、伝書中の但し書きからも明らかである。そこには、「この図は余(ほか)の図録に出ざる口伝たりといえども、浅からざる御懇望によりこれを書き抜くものなり」と記されている 7 。つまり、この技術は本来、師から許された弟子へ直接口伝えでのみ授けられるべき「口伝(くでん)」であり、書物に図として記すこと自体が異例中の異例であった。この一文は、この技術が荒木流の核心をなす、門外不出の秘伝であったことを強く物語っている。
この一見すると残酷な調教法が「秘術」として重要視された背景には、戦国時代の武将が置かれた厳しい現実がある。彼らは、常に理想的な良馬を所有できたわけではない。特に、城を失い敗走する元清のような武将にとっては、その場で手に入る馬がどのような癖馬であっても、即座に自分の手足として機能させなければならなかった。この「百曲の長鞭」は、そのためのいわば究極の「裏技」であり、緊急時対応マニュアルであった。この徹底した実用主義、美学や理想よりもまず「生き残る」ことを最優先する思想こそが、荒木流の本質を象徴している。
三重県立図書館の解説は、荒木流馬術書の内容を、その母体である大坪流の伝書と比較し、「ほぼ同じです」と評価している 7 。しかし、その直後に「それを後世、『荒木流』とされたのは、その少しの『違い』が重要だったからでしょう」と、極めて重要な考察を続けている 7 。
では、その「違い」とは具体的に何だったのか。それは、確立された「公」の権威である大坪流の馬術体系に対し、荒木元清という一個人の過酷な実戦経験(特に敗走や潜伏)から得られた、より実践的で、生存に特化した「私」の技術や思想が付加された点にあると考えられる。前述した「百曲の長鞭」は、その象徴的な一例に過ぎない。
大坪流が、足利将軍家の権威を背景に、馬術を一つの洗練された「芸道」として体系化していく過程で、もしかしたら切り捨てていったかもしれない、生々しく、泥臭い実戦の知恵。それを元清は、自らの血と汗の記憶をもって、再び馬術の世界に呼び戻した。戦国という乱世から、泰平の江戸時代へと移行する中で、武芸が個人の武勇伝や実戦の記憶と結びつき、新たな流派として分化していく。荒木流馬術の成立は、まさにその過渡期の様相を鮮やかに示す一事例なのである。
荒木流馬術の真価は、それが生まれた時代のコンテクスト、すなわち戦国時代の馬と騎馬武者の実態を理解することによって、初めて明らかになる。この流派は、当時の現実的なニーズに完全に応えるために設計された、極めて合理的な技術体系であった。
現代人が映画やドラマで目にする、颯爽と駆け抜ける大型の馬は、残念ながら戦国時代の日本の風景ではない。当時、合戦で活躍した馬は、木曽馬に代表される在来種であり、その体高(地面から肩までの高さ)は125cmから135cm程度と、現代の基準ではポニーに分類されるほど小柄であった 22 。
これらの在来馬は、サラブレッドのような平地での最高速度や持続力には劣るものの、胴長短足で重心が低く、日本の険しい山道やぬかるんだ悪路を踏破する能力に非常に優れていた 25 。また、性質は頑健で粗食にも耐えた。しかし、その一方で、小柄な体格ゆえに、重い甲冑を身に着けた武士を乗せて長時間を高速で移動することは困難であったことも事実である 26 。
このような馬が、戦場においてどのような価値を持っていたか。それは、大規模な突撃部隊の戦力としてよりも、まず第一に、戦場における指揮官の移動、部隊間の情報伝達、そして何よりも、戦況が不利になった際の退却や敗走における機動力として、極めて重要な戦略的価値を持っていたのである 22 。
武田騎馬軍団に代表されるような、重装備の騎馬武者が隊列を組んで敵陣に突撃するというイメージは、長らく戦国時代の合戦の華として語られてきた。しかし、近年の研究では、こうした大規模な騎馬突撃戦術は極めて限定的であり、多くの場合、武士は戦場に到着すると馬から下りて、足軽たちと共に徒歩で戦ったと考えられている 29 。馬は、戦場への進入と展開、そして離脱のための高速な「乗り物」としての側面が強かったのである。
では、なぜそれでも馬術は武士にとって必須の技能とされたのか。その理由は、たとえ下馬戦闘が原則であったとしても、馬を乗りこなす能力が、将の生死と軍の統率に直結したからである。『甲陽軍鑑』には、大将たる者は馬上で指揮を執り、そのまま勝負を決するために、片手で手綱を自在に操れなければならない、という記述が見られる 32 。これは、片手で采配や刀槍を扱いながら、もう一方の手で馬を制御する高度な技術が、指揮官には求められていたことを示している。
さらに、戦場は火縄銃の轟音や鬨の声が鳴り響く、極度の混乱状態にある。こうした状況下でパニックに陥る馬を制御する技術は、将自身の安全確保に不可欠であった 33 。加えて、当時の軍馬は去勢されておらず、気性の荒い牡馬が多かったため、これらを乗りこなすための腕力と技術も、実践では極めて重要だったのである 34 。
戦国時代の馬と騎馬武者の実態を理解することは、荒木流馬術の本質を捉えるための最終的な鍵となる。この流派は、大型馬による華々しい突撃戦術のためではなく、小型で時に気性の荒い在来馬を使いこなし、移動、指揮、そして何よりも「生存のための逃走」という、当時の現実的なニーズに応えるために磨き上げられた技術体系だったのである。
荒木元清自身が経験した花隈城からの脱出は、まさに馬の機動力が生死を分けた典型的な状況であった。敵の追撃を振り切り、夜陰に乗じて険しい道を駆け、潜伏先までたどり着く。そのために求められる馬術は、儀礼的な流鏑馬や、平地での教練とは全く質の異なる、生存のための実践知の塊であったはずである。
いかに馬を疲弊させずに長距離を移動させるか。夜間や視界の悪い悪路で、いかに馬を安全に導くか。そして、手に入れた馬がどのような癖馬であっても、即座に戦力化するための強制的な調教法。荒木流馬術書に記された「百曲の長鞭」のような秘術は、まさにこうした元清の極限状況下での経験が、一つの技術として結晶化したものに他ならない。栄光の戦場のためのアートではなく、絶望的な状況下で生き残るためのサイエンス。それこそが、荒木流馬術の真の姿であった。
本報告書は、「荒木流馬術書」が、単なる一馬術流派の伝書に留まらず、創始者・荒木元清の波乱の生涯、特に織田信長への謀反とそれに続く敗走という過酷な経験を色濃く反映した、徹底して実践的な武術体系の記録であることを解明した。
荒木流と、その母体となった大坪流との関係性は、単なる分派や亜流といった言葉では片付けられない。それは、当代随一の権威であった大坪流という正統な技術を基盤としながらも、そこに「百曲の長鞭」に象徴されるような、生存のための現実的な技術と思想を付加することで、独自の価値を確立したものである。泰平の世に向かう中で、多くの武芸が体系化・儀礼化していく大きな流れの中で、荒木流は戦国乱世の生々しい記憶と実用性を色濃く留めた、稀有な存在であったと言える。
最終的に、荒木流馬術の歴史的意義は、それが戦国武将の個人的な体験が、いかにして一つの「知」の体系、すなわち「流派」として結晶化し、後世に伝えられていったかを示す、極めて貴重な事例であるという点にある。荒木元清という一人の武将の生き様を通して、我々は戦国時代の馬術のリアルな姿と、その時代を生きた武士の死生観を、より深く垣間見ることができる。この伝書は、まさに戦国乱世が生んだ、一つの生きた証人なのである。