松山銘菓「薄墨羊羹」は、戦国時代には存在せず、江戸期に誕生。戦火を越えた薄墨桜の伝説と河野氏の興亡が、泰平の世の技術で優美な菓子に昇華された。
伊予国松山、現在の愛媛県松山市に、古くから伝わる一つの銘菓がある。「薄墨羊羹」である。その姿は、抹茶を練り込んだことで生まれた静かな薄墨色の地に、桜の花びらが舞うように白大角豆(しろささげ)が散りばめられた、詩情豊かな風情を湛えている 1 。その名は、松山市の古刹、西法寺(さいほうじ)に咲く伝説の桜「薄墨桜」に由来するとされる 3 。
この菓子の製造元である株式会社中野本舗(屋号は中野本舗)の創業は、江戸時代の中期から後期にかけてと推定されている 1 。しかし、第二次世界大戦の戦禍により多くの資料が失われ、正確な創業年は定かではない 3 。確かなことは、この菓子が江戸という泰平の世に生まれ、育まれてきたという事実である。
では、なぜ江戸時代に誕生したこの菓子を、あえてその前時代、すなわち血と鉄に彩られた「戦国時代」というレンズを通して考察する必要があるのだろうか。一見すると、この問いは時代錯誤に映るかもしれない。しかし、この時代錯誤的な問いかけこそが、「薄墨羊羹」という存在の深層を解き明かすための不可欠な鍵となる。
本報告書は、単に一つの菓子の由来を辿るものではない。それは、戦国時代という激動の記憶が、いかにして江戸時代の文化の中で濾過され、昇華され、そして一つの優美な銘菓として結晶したのかを探る旅である。薄墨羊羹は、戦国時代に物理的に存在した「産物」ではない。だが、その精神的な核、物語の源泉は、まさしく戦国時代の伊予国で繰り広げられた歴史の動乱そのものに深く根差している。この菓子に込められた、時代を超えた物語を解き明かすことこそ、本報告書の目的である。
薄墨羊羹が生まれた文化的土壌を理解するためには、まずその舞台となった伊予国が、戦国時代においてどのような場所であったかを知らねばならない。そこは、長きにわたり瀬戸内の海を支配した名門、河野氏の栄光と悲劇の地であった。
河野氏は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて頭角を現し、室町時代を通じて伊予国の守護職を世襲した大名である 5 。彼らは、複雑な潮流が渦巻く瀬戸内海を庭とし、芸予諸島に勢力を持つ村上水軍などの海賊衆とも強固な関係を築き、海上交通の要衝を掌握していた 6 。
その本拠地は、道後温泉にほど近い丘陵に築かれた湯築城(ゆづきじょう)であった 5 。湯築城は、内堀と外堀の二重の堀に囲まれた輪郭式の構造を持ち、伊予国の政治、軍事、そして文化の中心として機能していた 5 。現在、道後公園として整備されている城跡の発掘調査では、当時の武家屋敷などが発見・復元されており、往時の繁栄を今に伝えている 8 。河野氏は、この湯築城を拠点に、伊予一国にその威令を及ぼしていたのである。
しかし、群雄が割拠する戦国の世にあって、河野氏の勢力にも次第に陰りが見え始める。一族内で繰り返される家督争いはその力を削ぎ、外部勢力の介入を招く要因となった 5 。そこに、土佐国(現在の高知県)から破竹の勢いで四国統一を目指す長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が出現する。長宗我部氏の侵攻に対し、弱体化した河野氏は有効な対抗策を打ち出せず、次第にその支配下に組み込まれていく 5 。
そして、運命の天正13年(1585年)が訪れる。天下統一を目前にした豊臣秀吉が、長宗我部氏を討つべく「四国征伐」の軍を発動したのである 5 。毛利氏の重鎮、小早川隆景(こばやかわたかかげ)率いる大軍が伊予国に上陸し、湯築城を包囲した 5 。この時、河野氏の当主であった河野通直(みちなお)は、すでに長宗我部氏に服属していたため、否応なく豊臣軍と対峙することとなった 5 。約一ヶ月にわたる攻防の末、通直は降伏開城を決断。これにより、数百年にわたり伊予国に君臨した守護大名・河野氏は、歴史の表舞台からその姿を消した 5 。
河野氏の滅亡は、単なる一地方大名の終焉を意味するものではなかった。それは、伊予国が長年育んできた独自の政治的・文化的アイデンティティの断絶であった。その後、伊予国は小早川隆景、福島正則、そして関ヶ原の戦いを経て加藤嘉明といった、中央政権から派遣された外部の領主によって統治されることになる 5 。この統治者の劇的な交代は、地域の文化的な連続性にも大きな断絶をもたらした。江戸時代に入り社会が安定すると、人々はこの失われた「河野の時代」への郷愁を募らせることになる。この「喪失の記憶」こそが、後の世に地域の伝説や物語を語り継ぎ、薄墨羊羹のような文化的な創造物を生み出す豊かな土壌となったのである。
薄墨羊羹の名の由来となった西法寺と薄墨桜。その伝説は、伊予国の歴史、とりわけ河野氏の興亡と分かちがたく結びついている。そして、その運命もまた、戦国時代の動乱によって大きく揺さぶられることとなった。
薄墨桜の伝説は、遠く飛鳥時代、白鳳年間にまで遡る。天武天皇(在位673年-686年)の皇后(後の持統天皇)が道後温泉に湯治に訪れた際、病に倒れた。その平癒を西法寺(当時は西方寺と称した)に祈願させたところ、たちまち全快したという 3 。これを喜んだ天武天皇は、勅使を遣わし、薄墨色の文字で書かれた綸旨(りんじ、天皇の意を伝える文書)と一本の名桜を下賜した 4 。この綸旨の色にちなみ、この桜は「薄墨桜」と呼ばれるようになったと伝えられている 13 。
時代は下り、鎌倉時代の弘安年間(1280年頃)、戦乱で荒廃していた寺を再興したのが、伊予国の国主であった河野通有であった 18 。この時、通有によって寄進されたとされる木造釈迦如来坐像は、現在も愛媛県の有形文化財として寺に伝わっている 18 。西法寺は、河野氏の本拠地である湯築城から見て北東、すなわち鬼門の方角に位置しており、河野家にとって鬼門鎮護の道場として極めて重要な役割を担っていた 19 。こうして、薄墨桜の伝説は、伊予国の支配者である河野氏の庇護のもとで、大切に守り伝えられてきたのである。
しかし、その平穏は戦国の動乱によって無残にも打ち砕かれる。第一章で述べたように、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐の軍勢が伊予国に侵攻した。この時、西法寺の裏山にあった勝岡山には河野氏方の城砦(勝岡城)が築かれており、寺もまた軍事的な拠点と見なされていた可能性がある 19 。小早川隆景の軍勢が勝岡城を攻略した際、その兵火は西法寺にも及び、七堂伽藍はことごとく炎上、焼失した 15 。
この壊滅的な打撃の後、寺は山深い勝岡山の麓から約1km下った現在の地に移転し、寺号も「西方寺」から「西法寺」へと改められたと伝えられている 19 。伝説の薄墨桜も、この兵火を乗り越え、新たな場所で根付いたとされる。現在、境内に咲く桜は三代目、あるいはその孫木にあたると言われており 23 、学術的には「イヨウスズミ」というヤマザクラ系の八重桜と同定されている 16 。
天正13年の兵火という破壊的な出来事は、薄墨桜の伝説を歴史の彼方へ消し去るどころか、むしろ逆説的にその物語性を強化する結果となった。それは単なる古代の優雅な由来譚ではなく、「戦火を生き延びた不屈の象徴」という新たな価値を帯びることになったのである。地域の支配者であった河野氏が滅亡し、伊予国が中央政権の支配下に置かれるという大きな歴史の転換点において、この桜の存在は、断絶されなかった地域の記憶そのものとなった。江戸時代の人々がこの桜にちなんだ菓子を愛した背景には、単に花の美しさだけではなく、戦国の悲劇を乗り越えた「再生と永続の物語」への深い共感が存在したのである。
年代区分 |
西法寺・薄墨桜の歴史 |
伊予国・河野氏の動向 |
日本の菓子・茶の湯文化 |
古代(飛鳥~平安) |
斉明7年(661年)西方寺として開基 15 。天武9年(680年)天武天皇より薄墨桜を賜る伝説が生まれる 18 。 |
平安時代末期より伊予国で勢力を拡大。 |
奈良時代、鑑真により砂糖が薬として伝来 25 。 |
中世(鎌倉~室町) |
弘安年間(1280年頃)河野通有により荒廃した寺が再興される 18 。 |
鎌倉時代、元寇で活躍。室町時代を通じて伊予国守護職を世襲し、湯築城を拠点に全盛期を迎える 5 。 |
鎌倉・室町時代、禅僧により点心(軽食)として羊羹(羊肉の汁物)が伝わる。肉食禁忌のため、小豆等を用いた蒸し羊羹が生まれる 26 。茶の湯が武家社会に広まる 28 。 |
戦国時代 |
天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐の兵火により諸堂が焼失 18 。 |
一族内の抗争で弱体化。長宗我部元親の圧迫を受ける 5 。天正13年(1585年)四国征伐で豊臣軍に降伏し、大名としての河野氏は滅亡 5 。 |
千利休が茶の湯を大成。茶会が政治的意味合いを帯びる 29 。砂糖は南蛮貿易等を通じた希少な輸入品 25 。抹茶は宇治などで限定的に生産される高級品 31 。 |
江戸時代 |
現在地に移転し再興。「西法寺」と改称 19 。 |
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寒天を用いた煉羊羹が江戸で誕生し、全国へ広まる 26 。砂糖の国内生産が奨励され、菓子文化が庶民にも普及 25 。中野本舗が創業し、「桜羊羹」から「薄墨羊羹」が生まれる 33 。 |
薄墨羊羹が戦国時代の伊予国に存在し得なかったことは、その背景となる歴史だけでなく、当時の食文化史を紐解くことでも明らかになる。視点を伊予国から全国へと広げ、戦国時代における「羊羹」とその原材料がどのような位置づけにあったのかを分析する。
戦国時代、茶の湯は単なる風雅な趣味ではなかった。織田信長や豊臣秀吉といった天下人は、茶の湯を高度な政治的駆け引きの道具として用いた 35 。武将たちは領地や金銀に匹敵する価値を持つ「名物」と呼ばれる茶器を渇望し、茶会は忠誠を誓わせ、あるいは謀議を巡らすための重要な舞台となった 29 。豊臣秀吉は茶の湯を巧みに利用し、その権威を確立したことから、後に「茶の湯御政道」とまで呼ばれるようになった 35 。
このような茶席で供される菓子は、もてなしの重要な要素であった。しかし、そこで提供された「羊羹」は、現代我々が知るものとは大きく異なる存在であった。
羊羹のルーツは、中国の羊肉を用いた熱い吸い物「羹(あつもの)」にある 26 。これが鎌倉時代から室町時代にかけて、日本に渡来した禅僧たちによって伝えられた。しかし、仏教の戒律で肉食が禁じられていたため、彼らは小豆や小麦粉、葛粉など植物性の材料を用いて羊の肉に見立てた料理を考案した 26 。これが日本の羊羹の原型であり、当初は食事の一部、あるいは酒の肴として食されていた記録が残っている 26 。戦国時代の茶会で出された羊羹も、主にこの流れを汲む、蒸して固めた「蒸し羊羹」であったと考えられる 32 。現在主流となっている、寒天を煮溶かして餡と練り上げる「煉羊羹」の製法が確立されるのは、江戸時代中期以降のことである 26 。
さらに、薄墨羊羹を構成する主要な原材料は、戦国時代においては極めて希少で高価なものであった。
以上のことから、薄墨羊羹は、その製法(煉羊羹)、主原料(豊富な砂糖と抹茶)、そして意匠(白豆による桜の表現)のいずれの点においても、江戸時代以降の技術的、経済的、そして文化的な成熟を前提として成立している。戦国時代の伊予国でこの菓子が作られることは、物理的に不可能であったと断言できる。この明確な時代錯誤こそが、薄墨羊羹が単なる「歴史の再現」ではなく、後世から過去を見つめ、再構築した「歴史の表象」であることを雄弁に物語っているのである。
戦国の世が終わり、徳川幕府による安定した治世が確立されると、日本の社会と文化は新たな局面を迎える。この泰平の時代こそが、戦国の記憶を内包した「薄墨羊羹」を生み出すための揺りかごとなった。
江戸時代は、二百数十年にわたる平和が続き、経済が飛躍的に発展した時代であった。五街道の整備により物流網が発達し、商業活動が活発化。文化の担い手も、武士や公家から、力をつけた町人階級へと広がっていった。
菓子文化もこの時代に大きく花開いた。特に画期的だったのは、砂糖の普及である。八代将軍徳川吉宗による享保の改革では、国内の物産振興が奨励され、サトウキビの栽培が試みられた 25 。これにより、讃岐国(現在の香川県)や阿波国(現在の徳島県)で「和三盆」に代表される国産の高品質な砂糖が生産されるようになり、これまで高嶺の花であった砂糖が、以前よりは広く使われるようになった 25 。これに伴い、全国各地で多様な菓子が考案され、庶民にとっても菓子は身近な楽しみとなっていった。
このような時代背景の中、伊予松山で中野本舗は創業した 1 。当初作られていた羊羹は「桜羊羹」という名であったと伝えられている 33 。これは、西法寺の桜にちなむという基本的な着想は持ちつつも、より直接的な表現であったことがうかがえる。
この菓子が、その名を「薄墨羊羹」へと変え、今日知られる姿になったのは、幕末の頃、当代の中野喜十郎の代になってからである 33 。この改称は、単なる名称変更以上の、深い意味を持っていた。それは、この菓子に込められた物語を、より洗練させ、多層的なものへと昇華させる行為であった。
「薄墨羊羹」という名称と、その優美な意匠は、見る者に複数の時代の物語を想起させる、きわめて高度な文化的暗号と言える。
第一に、それは西法寺に伝わる「薄墨桜」の伝説そのものを表している。抹茶によって表現された「薄墨」の色は、天武天皇が下賜したという「薄墨の綸旨」の色を彷彿とさせる 4 。これは、この菓子が由緒正しい、格調高いものであることを示唆する。
第二に、それは戦国の記憶と無常観を内包している。餡の中に散らされた白い豆は、満開の桜ではなく、風に舞い散る桜の花びらを表現しているとされている 1 。満開の桜が栄華の頂点を象徴するのに対し、「散り際」は滅びの美学を映し出す。これは、伊予国に君臨しながらも天正の兵火に散った河野氏の運命や、『平家物語』に通じる「盛者必衰の理」という、日本人が古来持ち続けてきた無常観と深く共鳴する。
第三に、それは江戸時代に成熟した「わび・さび」の美意識を体現している。「薄墨」という言葉は、色鮮やかな色彩ではなく、水墨画のような幽玄で抑制の効いた世界観を想起させる。華やかさの中に、どこか儚さや静けさを感じさせるその風情は、泰平の世に洗練された江戸文化の美意識そのものである。
このように、「薄墨羊羹」は、飛鳥時代の壮大な伝説、戦国時代の悲劇的な記憶、そして江戸時代の洗練された美意識という、三つの異なる時代の層が重なり合って生まれた文化的結晶なのである。食べる者はその甘さの中に、単なる桜の風情だけでなく、歴史の儚さと、それを乗り越えて今に続く再生の物語を味わうことになる。この菓子は、平和な時代だからこそ可能になった、戦乱の時代への詩的なオマージュなのである。
本報告書を通じて行ってきた多角的な調査は、一つの明確な結論へと我々を導く。松山の銘菓「薄墨羊羹」は、戦国時代に物理的に存在した「産物」ではない。しかし、その存在を精神的に支える「物語」の核は、伊予国における戦国時代の動乱、すなわち名門・河野氏の滅亡と古刹・西法寺の焼失という、地域の歴史に深く刻まれた記憶そのものである。
戦国時代、羊羹はまだ蒸し菓子であり、その主原料である砂糖や抹茶は、一部の権力者しか手にできない希少品であった。現代に連なる煉羊羹の製法が確立され、菓子文化が庶民の間にまで広がるのは、戦乱が終息した江戸時代のことであった。この技術的・経済的な事実は、薄墨羊羹が戦国時代には生まれ得なかったことを証明している。
しかし、歴史とは単なる過去の事実の連続ではない。それは、後の時代の人々によって語り継がれ、解釈され、意味を与えられることで「記憶」となる。薄墨羊羹は、まさにその文化的営為の結晶である。天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐は、伊予国に支配者の交代という政治的変革だけでなく、地域のアイデンティティの断絶という文化的衝撃をもたらした。この「喪失の記憶」は、泰平の世となった江戸時代において、失われた過去への郷愁を呼び起こし、地域の伝説を再評価する土壌を育んだ。
中野本舗の創業者たちは、戦火を生き延びた西法寺の「薄墨桜」の伝説に、この地域の歴史的記憶を託した。彼らは、江戸時代の洗練された技術と美意識を用いて、戦国の激しい記憶を、優美で味わい深い「物語」へと再構築したのである。抹茶がもたらす静かな「薄墨」の色は、綸旨の伝説と江戸のわびさびを重ね合わせ、散りばめられた白い豆は、桜の美しさと共に、戦乱に散った者たちへの無常観をも映し出す。
かくして、薄墨羊羹は、単なる菓子であることを超え、地域の歴史、伝説、そして激動の時代の記憶を内包し、それを味わうという行為を通じて後世に語り継ぐ、一つの文化的な媒体となった。それは、戦国という時代が、後世の人々にとって、新たな文化創造のための尽きせぬ「物語の源泉」であり続けることを、静かに、しかし雄弁に示しているのである。