「雁金軍旗」は、戦国時代に多くの武将が用いた旗印。雁の吉兆、忠誠、一族の絆の象徴であり、柴田勝家、真田氏、直江兼続らが採用。戦場の識別だけでなく、武将の思想や覚悟を映し出す多層的な文化的記号だった。
戦国時代の合戦において、天高く翻る色とりどりの軍旗は、混沌とした戦場で敵味方を識別するための極めて重要な軍事装備であった 1 。幟(のぼり)や旗指物(はたさしもの)といったこれらの旗は、自軍の部隊配置を瞬時に把握し、統率の取れた軍事行動を可能にするための、いわば戦場の神経網とも言うべき役割を担っていた 1 。しかし、その機能は単なる識別に留まるものではなかった。
軍旗は、それを掲げる一族の誇りであり、大将の威光を示すものであった。そして何よりも、兵たちの士気を鼓舞し、共同体としての連帯感を醸成する強力なシンボルであった 3 。徳川家康が掲げた「厭離穢土 欣求浄土」の旗が彼の浄土宗への深い帰依を示すように、また上杉謙信が軍神・毘沙門天への信仰を「毘」の一字に込めたように、軍旗には武将個人の思想、信仰、そして世界観が色濃く投影されていた 3 。
本報告書が主題とする「雁金軍旗(かりがねぐんき)」は、こうした軍旗群の中でも、自然界の生物、特に渡り鳥である「雁」を意匠とすることで、戦国の武人たちがどのような願いや思想を戦場という非日常の空間に持ち込もうとしたのかを探る上で、極めて示唆に富む事例である。利用者が持つ「渡り鳥の雁を意匠化した、視認性の高い軍旗」という基礎的理解を深め、その文化的源流から、家紋としての発展、主要武将による採用事例、そして戦場での具体的な運用実態に至るまでを多角的に分析し、「雁金軍旗」が戦国時代の社会と精神性を映し出す、豊かで多層的な文化的記号であったことを明らかにすることを目的とする。
雁金軍旗の意匠を理解するためには、そのモチーフである「雁(かり、がん)」が、日本の文化史の中でいかに受容され、どのような象徴的意味を付与されてきたのかを深く掘り下げる必要がある。武士たちがこの鳥を旗印に選んだ背景には、古代から育まれてきた豊かな文化表象が存在した。
雁は、古くは「かり」と呼ばれ、日本最古の歌集である『万葉集』にもその姿が詠まれるなど、古代より日本人の生活や季節感と密接に結びついた鳥であった 5 。秋に北国から飛来し、春に再び帰っていくその習性は、人々に季節の移ろいを告げる重要な指標と見なされた。特に、稲作を中心とする農耕社会であった日本において、季節の正確な把握は死活問題であり、雁の到来は秋の訪れと収穫の時期を知らせる合図であった。このため、陰暦8月は「雁来月(がんらいげつ)」、秋に吹く北風は「雁渡し」などと呼ばれ、雁は季節感を象徴する存在として深く人々の心に刻まれたのである 5 。
また、「かりがね」という優美な響きを持つ呼称は、元々雁の鳴き声である「雁が音(かりがね)」に由来し、やがて鳥そのものを指す言葉として定着していった 8 。この言葉の響き自体が、秋の澄んだ空や、どこか哀愁を帯びた風情を連想させ、詩歌や文学の題材として好まれた。
雁が武家社会で特に好まれた根源的な理由は、中国・前漢の時代に遡る一つの故事にある。武帝の使者として匈奴の地へ赴いた武将・蘇武(そぶ)が、内紛に巻き込まれ捕虜となった際、雁の足に手紙を結びつけて故国に自身の生存と窮状を伝えたという逸話である 10 。この伝説は、遠方からの便りを「雁書(がんしょ)」や「雁信(がんしん)」と呼ぶ語源となり、雁を「良い知らせを運ぶ鳥」「忠節を尽くす使者」として象徴づけることになった 11 。
主君への忠誠を絶対的な美徳とし、情報伝達の迅速さと正確さが一族の命運を左右した武家社会において、この蘇武の故事は極めて好意的に受け入れられた 5 。雁を家紋や旗印に掲げることは、単に縁起を担ぐだけでなく、自らが蘇武のような忠臣であることを表明し、戦場での勝利という「吉報」を願う、強いメッセージ性を帯びていたのである 10 。
雁が持つもう一つの重要な象徴性は、その生態的特徴に由来する。雁は長距離を渡る際、エネルギー効率を高めるためにV字形の整然とした隊列を組んで飛ぶことが知られている。この「雁行(がんこう)」と呼ばれる飛行形態は、秩序と統率の美しさの象徴と見なされた 14 。
この「群れをなして飛ぶ」という習性は、一族郎党の強い結束力、すなわち「絆」を至上の価値とする武家の理想像と見事に共鳴した 13 。合戦において個々の武勇はもちろん重要であるが、それ以上に、大将を中心とした組織的な団結力が勝敗を分かつ。雁金紋には、こうした一族の固い団結を強め、ひいては一門の永続的な繁栄を願う意味が込められていたのである 14 。
これらの象徴性は、個別に見るだけでなく、それらが複合的に作用することで、武士にとってより強力な意味合いを持ったと考えられる。すなわち、雁金という意匠は、武士団にとって「戦略的吉兆」とでも言うべき、実践的な物語を提供した。それは、「一族の固い結束(絆)をもって戦に臨めば、必ずや勝利という良い知らせ(吉報)がもたらされるであろう」という、武士団の行動規範と究極的な願望が一体化したシンボルであった。これは、単に縁起が良いという次元を超え、武士団の精神的な支柱となりうる力強い世界観を内包していたことを示している。
戦国時代の軍旗に描かれる意匠の多くは、その武将が属する家の家紋に由来する。したがって、雁金軍旗を理解するためには、家紋としての「雁金紋」の成立史、とりわけその使用が顕著に見られる信濃国(現在の長野県)の武士団との深い関係性を解き明かす必要がある。
雁をモチーフとした文様は、平安時代の『源平盛衰記』に平忠度が用いた鞍の文様として記述が見られるほか、『一遍上人絵巻』にも描かれており、その歴史は古い 10 。鎌倉時代には武具や調度品にあしらわれ、やがて家を識別する家紋として定着していった 5 。
雁金紋の最大の特徴の一つは、その驚くべき意匠の多様性にある。一羽の雁をシンプルに描いた「雁金」 6 、二羽を並べた柴田勝家の「二つ雁金」 5 、雁の翼を円形に結んだようにデザインした真田氏の「結び雁金」 5 をはじめ、「頭合わせ三つ雁金」「尻合わせ三つ雁金」「雁金菱」「飛び雁」など、そのバリエーションは記録されているものだけでも数十種類に及ぶ 12 。
この意匠の多様化は、雁金紋が多くの氏族に採用される過程で、他家との識別性を明確にする必要性から生じたものである。雁の数、配置(頭合わせ、尻合わせ、対い)、様式化の度合い(写実的なものから抽象的なものまで)を変化させることで、各家が独自のアイデンティティを紋様に込めた結果と言えよう。
紋の名称 |
図案の概要 |
主な使用氏族・武将 |
典拠資料ID |
雁金 |
翼と頭のみで意匠化された基本的な形態。 |
海野氏、赤井氏 |
6 |
二つ雁金 |
二羽の雁を並べたもの。配置により複数の種類がある。 |
柴田勝家、井上氏、進藤氏 |
5 |
結び雁金 |
雁の両羽を円形に結んだように様式化したもの。 |
真田氏、井上氏一族 |
5 |
頭合わせ三つ雁金 |
三羽の雁の頭部を中心に向けた配置。 |
高宮氏(丸に三つ雁として) |
11 |
尻合わせ三つ雁金 |
三羽の雁の尾部を中心に向けた配置。 |
花房氏 |
11 |
飛び雁 |
比較的写実的に飛翔する姿を描いたもの。 |
(多くの紋の基本形として存在) |
12 |
雁金紋を語る上で避けて通れないのが、信濃国との密接な関係である。雁金紋は、信濃国の豪族である滋野氏、そして清和源氏頼季流の信濃源氏によって古くから家紋として使用されてきた 11 。滋野氏は、海野(うんの)氏、祢津(ねつ)氏、望月(もちづき)氏の三家を中核とし、後の真田氏の源流ともなる信濃の有力氏族である 22 。彼らが雁金紋を用いたことから、その分家や影響下にあった国人衆にも紋が広まり、現在でも長野県には雁金紋を掲げる家が多いとされる 11 。
では、なぜ信濃の地で雁金紋が特に好まれたのであろうか。史料上で明確な理由は特定できないものの、いくつかの複合的な要因が推察される。
第一に、地理的要因である。内陸に位置する信濃国は、古代の主要官道である東山道が貫通しており、渡り鳥である雁の主要な飛来地や中継ルートであった可能性が考えられる 23 。日常的に雁の群れを目にする機会が多ければ、それが親しみのある意匠として取り入れられる素地は十分にあっただろう。
第二に、信仰的要因である。滋野氏をはじめとする信濃武士は、諏訪大社への篤い信仰で知られている 25 。諏訪信仰と雁を直接結びつける伝承は確認できないが、山岳信仰や自然崇拝が色濃く残る土地柄において、季節の到来を告げる渡り鳥が神聖な存在と見なされ、武士団のシンボルとして採用された可能性は否定できない。
そして第三に、最も重要なのが氏族的・政治的要因である。信濃国は、甲斐の武田氏や越後の上杉氏といった強大な戦国大名に隣接し、常に外部からの侵攻の脅威に晒されていた。このような地政学的状況下で、国人領主たちは生き残りをかけて離合集散を繰り返した。この中で、滋野氏という有力な一族が雁金紋を掲げたことは、その分家や同盟関係にある諸氏族にとって、共通のアイデンティティを示す格好のシンボルとなった。
このことから、信濃における雁金紋の広範な使用は、単なる血縁の証やデザインの流行を超え、一種の「地域連合」の象徴として機能した可能性が浮かび上がる。外部の強大な勢力に対し、信濃武士団が「我々は一枚岩である」と視覚的に宣言するための、政治的・軍事的なツールとしての役割を担っていたのではないか。雁金紋は、信濃武士団としての地政学的なアイデンティティを形成し、維持するための重要な記号であったと考えられるのである。
雁金紋は信濃武士団と深い関わりを持つ一方で、その象徴性の豊かさから、地域を越えて多くの戦国武将に採用された。本章では、特に著名な武将たちを取り上げ、彼らが雁金軍旗に込めた意味や関連する逸話、そしてその歴史的背景を個別に分析する。
織田信長の筆頭宿老として「鬼柴田」の異名で恐れられた猛将、柴田勝家は、「二つ雁金」またはそれを丸で囲んだ「丸に二つ雁金」を家紋とし、軍旗にも用いた 15 。伝えられるところによれば、その軍旗は「白地に黒の雁金」を描いたものであり、戦場の土埃や硝煙の中でも際立つ高い視認性を意識した、極めて合理的なデザインであった 28 。
勝家の「二つ雁金」紋には、さらに深い意匠と思想が込められていることがある。二羽の雁のうち、一羽が口を開いた「阿形(あぎょう)」、もう一羽が口を閉じた「吽形(うんぎょう)」で描かれることがあるのだ 30 。阿吽は万物の始まりと終わり、宇宙の森羅万象を象徴する仏教的な概念であり、これを旗印に採用したことは、勝家の旗が単なる識別標に留まらず、彼の死生観や世界観を反映した精神的な支柱であったことを強く示唆している。
しかし、この武威と覚悟に満ちたシンボルは、勝家の最期によって新たな意味を帯びることになる。本能寺の変後、羽柴秀吉との覇権争いに敗れた勝家は、妻であり信長の妹であったお市の方と共に、本拠地の北ノ庄城で自害を遂げる 31 。この悲劇的な結末は、後世の人々の心に深く刻まれた。そして、勝家ゆかりの地である越前(福井県)では、空を仲睦まじく飛ぶ二羽の雁の姿を、勝家とお市の方の夫婦が帰ってきた姿と重ね合わせる、哀切に満ちた伝承が生まれたのである 11 。吉兆と武威の象徴であった「二つ雁金」は、ここでは悲恋と鎮魂のシンボルへと、その意味合いを大きく転化させている。
柴田勝家の事例は、一つのシンボルが、その所有者の生涯や歴史的評価によって、いかにその意味を変容させていくかを示す好例である。生前は武将としての覚悟と宇宙観を込めた旗印が、その劇的な死を通して、後世の人々の記憶の中で夫婦の愛と哀悼の物語を纏うようになる。これは、シンボルが決して固定的なものではなく、歴史の中で「生き続け」、時代や人々の解釈によって絶えず新たな意味を付与されていくダイナミズムを物語っている。
「日本一の兵(つわもの)」と称された真田信繁(幸村)で知られる真田氏は、世に名高い「六文銭(ろくもんせん)」の旗印で知られているが、それと同時に「結び雁金」の紋も用いていた 32 。この二つの紋の使い分けは、真田氏の巧みなアイデンティティ戦略を浮き彫りにする。
一般的に、戦場での死をも恐れない決死の覚悟を示す「六文銭」が定紋(表紋)として戦時に用いられたのに対し、「結び雁金」は替紋(裏紋)として、主に平時の生活用品などに用いられたとされる 33 。雁が持つ吉兆や絆といった穏やかな象徴性は、一族の安寧と繁栄を願う、日常におけるアイデンティティの表明であった。雁の両羽を円形に結んだような「結び雁金」の意匠は、中国の「雁書」の故事にちなみ、手紙を結ばれた鳥を表現しているとも言われ 5 、一族の固い結束を象徴するのにふさわしいデザインであった。
一方で、戦場という非日常の空間では、旗印は「六文銭」に切り替わる。六文銭とは、死者が冥土の三途の川を渡る際に必要とされる渡し賃を意味し、これを旗印に掲げることは、「不惜身命」、すなわち命を惜しまず戦うという、自軍の兵だけでなく敵軍に対しても強烈なメッセージを発するものであった 32 。この旗印は敵に恐怖を与え、少数精鋭であった真田軍の武名を高める上で絶大な効果を発揮した。
真田氏による二つの家紋の使い分けは、単に状況に応じて意匠を使い分けるというレベルを超えた、高度な自己演出、すなわちアイデンティティ戦略と見なすことができる。「結び雁金」は、一族内部や平時における「私(ケ)」の顔であり、共同体の繁栄と結束を願う内向きのシンボルである。それに対し、「六文銭」は、戦場という極限状況における「公(ハレ)」の顔であり、外部の敵対勢力に対する政治的・軍事的メッセージを発信する外向きのシンボルである。この公私の顔を巧みに使い分けることで、真田氏は大国の狭間にあって小勢力ながらも、自らの存在意義と覚悟を内外に鮮烈に印象づけ、戦国乱世をたくましく生き抜いたのである。
上杉家の宰相として知られる直江兼続もまた、雁金紋と縁の深い武将である。彼の部隊が使用したとされる雁金の軍旗は、現存する数少ない戦国時代の旗の実物資料として、山形市の最上義光歴史館に所蔵されており、その歴史的価値は計り知れない 35 。
この「伝直江軍部隊旗」と呼ばれる旗は、材質に高価な絹を用い、寸法は縦156.0cm、横222.0cmにも及ぶ巨大なものである 38 。そのデザインは、広大な白地の空間に、一羽の雁が飛翔する姿を黒で描いた、極めてシンプルかつモダンな印象を与える 40 。この旗は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに連動して勃発した出羽合戦(長谷堂合戦)において、東軍の最上義光軍が、西軍に属した上杉軍の直江兼続配下の部隊に勝利した際、戦利品として鹵獲したものと伝えられている 37 。
この現存する旗は、我々に雁金軍旗の実像を具体的に教えてくれる。まず、その巨大な寸法は、軍旗が遠距離からでも部隊を識別するという、純粋に機能的な要求から生まれたことを物語っている。次に、高価な絹という素材の使用は 39 、この旗が一介の足軽部隊のものではなく、将の直属部隊や精鋭部隊といった、特別な部隊の旗であった可能性を示唆する。そして何よりも、戦利品として今日まで大切に伝えられてきたという来歴そのものが、軍旗が単なる布切れではなく、敵を打ち破った栄誉の証として、勝者の威信を象徴する一種の「トロフィー」としての価値を持っていたことを雄弁に物語っている。この一枚の旗は、戦国時代の物質文化史を解き明かす、貴重な物証なのである。
武将名 |
使用した紋の種類 |
主な活動地域/所属 |
関連する逸話・特記事項 |
典拠資料ID |
柴田勝家 |
二つ雁金、丸に二つ雁金 |
尾張、越前/織田家 |
白地に黒の軍旗。阿吽の意匠。お市の方との悲恋物語。 |
16 |
真田氏(昌幸、信繁ら) |
結び雁金(替紋) |
信濃/滋野氏流、武田家→独立 |
平時に使用。戦時の「六文銭」との使い分けが特徴的。 |
5 |
直江兼続(配下部隊) |
雁金(一羽飛び雁) |
越後、出羽/上杉家 |
最上義光歴史館に現存旗。長谷堂合戦で鹵獲されたと伝わる。 |
35 |
井上氏 |
二つ遠雁、結び雁金 |
信濃/信濃源氏 |
『見聞諸家紋』に記載。信濃における代表的な使用氏族。 |
11 |
海野氏 |
雁金 |
信濃/滋野氏 |
真田氏の源流。古くからの使用者として知られる。 |
6 |
花房氏 |
尻合わせ三つ雁金 |
備前/宇喜多・徳川家 |
「花房雁金」と呼ばれ、海賊が恐れたという逸話が残る。 |
50 |
赤井氏 |
雁金 |
丹波/独立勢力→織田家 |
旗本赤井氏の家紋として伝わる。 |
6 |
意匠に込められた象徴性の探求から一歩進み、本章では軍事装備品としての雁金軍旗が、戦場で具体的にどのように機能し、どのように作られ、そして歴史的記録の中でどのように描かれてきたのか、その実際的な側面に光を当てる。
雁金軍旗が戦場で効果を発揮するためには、そのデザインが優れた視認性を有している必要があった。柴田勝家の「白地に黒」や、現存する直江兼続の旗に見られる「白地に一羽の雁」といった配色は、戦場の混乱の中でも極めて目立ちやすく、部隊識別という第一の目的を達成する上で非常に効果的であった 28 。
他の軍旗と比較すると、そのデザイン思想の違いがより明確になる。例えば、武田信玄の「風林火山」や徳川家康の「厭離穢土欣求浄土」のような文字旗は、そこに込められた思想や覚悟を味方に伝え、士気を高める効果があったが、文字を判読する必要があるため、遠距離からの瞬間的な識別という点では図像旗に劣った可能性がある 3 。
また、織田信長の「永楽通宝」や島津氏の「丸に十字」のような抽象的な紋様旗と比較すると、雁金紋は鳥という具象的なモチーフでありながら、戦闘の邪魔にならないようシンプルに図案化されており、デザインとしての洗練度が高い 30 。これにより、文字の読めない兵卒であっても、自軍の旗を容易に認識できるという実用的な利点があった。雁金紋は、象徴性と機能性を見事に両立させたデザインであったと言える。
軍旗の製作には、当時の繊維・染色技術が集約されていた。材質としては、麻や木綿が一般的であったが、直江兼続の旗が絹製であったように、大将や精鋭部隊の旗には高価な絹が用いられることもあった 39 。絹は軽量で風になびきやすく、光沢があるため、威厳を示すのに適した素材であった。
寸法は、一般的な幟旗で縦3.6m、幅76cm程度が基準とされたが、これはあくまで目安であり、家ごとの規定や、時代による流行によって大きく異なった 44 。直江兼続の旗のような巨大なものも存在し、その大きさ自体が軍団の威勢を誇示する要素となっていた。
染色には、型紙を用いて文様を染め抜く型染めなどの伝統技法が用いられたと考えられる 45 。特に、最上領や上杉領であった山形地方では紅花染めが特産品として知られており、こうした地域の染色技術が軍旗の製作に何らかの影響を与えた可能性も考えられる 46 。軍旗一枚をとっても、そこには地域の産業や技術の粋が込められていたのである。
戦国時代の合戦の様子を視覚的に伝える貴重な史料として、合戦図屏風がある。しかし、これらの屏風に雁金軍旗がどのように描かれているかを見ていくと、史料としての扱いの難しさが浮かび上がってくる。
例えば、柴田勝家が主要な登場人物である『賤ヶ岳合戦図屏風』を検証すると、意外にも勝家軍の旗として雁金紋が明確に描かれているという記録は見当たらない。むしろ、勝個人の所在を示す馬印(うまじるし)である「金の御幣」の方が目立つように描かれている 47 。これは、合戦図屏風が必ずしも全ての軍旗を網羅的に記録したものではなく、制作者の意図や後援者の要望、あるいは後世の知識に基づいて、特定の武将や象徴的な武具を強調して描く傾向があることを示している 48 。
その一方で、『長谷堂合戦図屏風』には、直江兼続軍の旗として、最上義光歴史館に現存する旗と酷似した雁金の旗が描かれていると指摘されている 41 。これは、図像史料と現存する物質史料が相互にその信憑性を補強し合う、極めて貴重な事例である。
これらの事例から導き出されるのは、史料批判の重要性である。合戦図屏風は、戦国の雰囲気を伝える一級の視覚史料であることに疑いはないが、それを史実の正確な記録として鵜呑みにすることはできない。『賤ヶ岳合戦図屏風』の事例は、我々が期待する情報が必ずしも含まれているわけではないことを示し、『長谷堂合戦図屏風』の事例は、他の史料と照合することではじめてその価値が確かなものとなることを教えてくれる。雁金軍旗の研究においては、文献史料、図像史料、そして現存する物質史料を多角的に比較検討し、それぞれの史料の特性と限界を理解した上で分析を進める、厳密な視点が不可欠なのである。
本報告では、「雁金軍旗」を多角的な視点から徹底的に調査し、それが単なる部隊識別のための軍事装備品ではなく、戦国時代の精神文化を映し出す、極めて多層的な意味を内包した文化的記号であったことを明らかにしてきた。
戦場の空に翻った一枚の雁金軍旗には、古代から日本人が育んできた自然観(季節の移ろいを告げる渡り鳥)、中国古典に由来する普遍的な価値観(吉報と忠誠)、そして武家社会が育んだ固有の理想(一族の絆)が、見事に凝縮されていた。雁という一つのモチーフは、これらの重層的な象徴性を纏うことで、武士たちにとって極めて魅力的で力強いシンボルとなったのである。
さらに興味深いのは、柴田勝家、真田氏、直江兼続といった名だたる武将たちが、この共通のモチーフを用いながらも、そこに自らの生き様、死生観、そして一族の運命を色濃く投影し、独自の物語を紡いでいった点である。吉兆の鳥であった雁は、柴田勝家の悲劇的な最期によって、後世の人々の記憶の中で妻お市の方との悲恋の象徴へと意味を変えた。また、真田氏にとっては、決死の覚悟を示す「六文銭」の裏で、一族の平穏と繁栄への願いを託す存在であった。
結論として、雁金軍旗は、我々に戦国時代の精神性の豊かさと複雑さを教えてくれる。戦という極限状況の中にあっても、武将たちは自然との繋がりを意識し、故事来歴に学び、一族の未来に願いを馳せていた。彼らは決して、ただ殺伐とした闘争に明け暮れていたわけではない。その精神は、豊かで複合的な文化に深く根差していたのである。天高く掲げられた雁金の姿は、まさしく、そうした戦国武士たちの精神世界の深淵を、今に伝える雄弁な語り部と言えるだろう。