「霰姥口丸釜」は、霰肌と姥口が特徴の茶釜様式。わび茶の美意識を体現し、信長が政治に利用した。釜師の技が戦国の精神を鉄に宿す。
「霰姥口丸釜(あられうばくちまるがま)」という名称は、特定の一個の茶釜を指す固有名詞ではない。それは、釜の表面を覆う無数の粒状の突起である「霰」、歯の抜けた老女の口元を思わせる「姥口」という口造り、そして全体が丸みを帯びた「丸釜」という形状、これら三つの特徴を併せ持つ茶釜の一つの「様式」を指す言葉である。この様式は、日本の歴史上、最も激しく、そして創造的であった時代の一つ、戦国・安土桃山時代に特に愛好された。
本報告書は、この「霰姥口丸釜」という一つの様式を手がかりとして、それが単なる美術工芸品の範疇に留まらない、時代の精神を映す文化装置であったことを多角的に解き明かすことを目的とする。この釜が存在した背景には、天下統一を目指す武将たちの熾烈な政治力学、華美を排し内省的な美を追求した「わび茶」の精神性の深化、そして茶人たちの抽象的な美意識を形にした釜師たちの驚異的な技術革新があった。これら三者が複雑に交差する点にこそ、「霰姥口丸釜」の本質は存在する。本報告書は、器物そのものの分析から始め、その製造技術、歴史的背景、そしてそれを取り巻く人々の思想と物語を丹念に追うことで、この鉄の器に込められた戦国という時代の精神宇宙を探求するものである。
「霰姥口丸釜」を理解するためには、まずその様式を構成する三つの要素、「霰」「姥口」「丸釜」をそれぞれ解体し、その意匠と構造、そして美学的な意味を深く考察する必要がある。
霰肌とは、釜の表面全体を覆うように鋳出された、無数の粒状の突起を指す装飾技法である 1 。この独特の鋳肌は、視覚的な重厚感と複雑な陰影を生み出すだけでなく、触覚的にも特異な感触をもたらし、茶釜に深い表情を与える。
この驚異的ともいえる文様は、極めて緻密で忍耐を要する手仕事によって生み出される。その製造技法は「箆押し(へらおし)」と呼ばれ、鋳物師が鋳型の内側、まだ土が乾ききらない生乾きの状態の表面に、「霰棒」や先端を丸めた箆といった道具を用い、一粒一粒、手作業で丹念に押し付けて窪みを作ることで文様を施していく 2 。鋳型に作られた無数の窪みが、溶かした鉄を流し込むことで反転し、釜の表面に突起として現れるのである。一つの釜に施される霰の数は、時に1500粒から2500粒にも及ぶとされ、その作業は寸分の狂いも許されない、まさに神業と呼ぶにふさわしいものであった 5 。
美学的に見れば、この霰肌は単なる装飾ではない。整然と並んでいるように見えながら、人の手によるがゆえの微妙な不均一さ、揺らぎを含んでいる。この「秩序と逸脱」の共存は、完全性やシンメトリーを良しとせず、不完全さや非対称性の中に美を見出す「わび茶」の精神性と深く共鳴する。無数の粒が光を受け、複雑な陰影を落とす様は、静かな茶室において無限の表情を見せ、亭主と客の心に深い感興を呼び起こすのである。
姥口とは、茶釜の口造りの一種であり、その形状が釜の肩よりも内側に一段落ち込み、縁がわずかに盛り上がっているものを指す 6 。その名が示す通り、歯が抜け落ち、口元がすぼまった老女の口に似ていることからこの名が付けられた 6 。
この独特の形状は、茶事における具体的な所作、すなわち機能性と密接に結びついている。通常の口が立った「立口(たちくち)」の釜では、湯を汲んだ後の柄杓の合(ごう)を釜の口縁に預けるように置く。しかし、姥口釜の場合、口の周囲が盛り上がっているため、柄杓の合を中に落とさず、釜の肩に渡すようにして置くのが作法とされる 6 。この扱いの違いは、千利休が遺したとされる道歌にも詠まれている。「姥口は囲炉裡縁より六七分 低くすへるぞ習ひなりける」という一首は、姥口釜を炉に掛ける際には、通常の釜よりも六、七分(約2センチメートル)低く据えるのが習わしであることを示しており、この形状が茶事全体の所作や道具の配置にまで影響を与える、重要な要素であったことを物語っている 6 。
思想的な背景を考察すると、「老い」や「欠落」といった、一般的にはネガティブに捉えられがちな事象を連想させる「姥口」という名称と形状は、まさにわび茶の美意識の核心に触れるものである。若さや完全性、華やかさを尊ぶ価値観から距離を置き、むしろ老いや寂び、不完全さの中にこそ真の美や深い味わいを見出そうとする精神。姥口釜は、その形状自体が、戦国時代に深化し大成されたわび茶の哲学を雄弁に物語る象徴的な存在であった。
丸釜は、その名の通り、全体的にふっくらとした丸みを帯びた形状を持つ茶釜の総称である 9 。茶釜の最も基本的かつ古典的な形の一つであり、特に室町時代頃から作られ始めた天明釜に多く見られる、素朴で安定感のある姿が特徴とされる 9 。
この丸釜という器形は、特定の装飾や奇抜な造形に頼らない、湯を沸かすという釜本来の機能に根差した普遍的なフォルムである。しかし、その単純さゆえに、釜師の技量や感性が如実に表れる器形でもある。肩の張り具合、胴の丸みの加減、裾のすぼまり方など、わずかなバランスの違いで全体の印象は大きく変わる。
「霰姥口丸釜」という様式は、この「丸釜」という普遍的な器形を素体としながら、そこに「霰」という緻密な装飾性と、「姥口」という思想性を帯びた特殊な口造りを加えることで、他に類を見ない独自の個性を獲得したものである。それは、安定した土台の上に、時代の最先端の美意識と技術を結晶させた、複合的な芸術作品として捉えることができる。
この様式の解体から見えてくるのは、「作為」と「無作為」の絶妙な融合である。一見すると、霰(自然現象)や姥口(自然な老い)といった、ある種の「無作為」な要素を組み合わせたかのように感じられる。しかし、その実態は全く異なる。霰肌は、自然現象を模倣しながらも、一粒一粒が人間の手によって意図的に「打たれた」、完全な人工物である 3 。姥口もまた、老いを連想させつつ、その形状は柄杓の扱いという茶事の「機能」に直結するよう、意図的に設計されている 6 。
したがって、「霰姥口丸釜」の美しさとは、単なる素朴さや古びた趣ではない。それは「無作為に見えるように計算され尽くした作為」の産物なのである。この美学は、千利休が釜師・辻与次郎に「地をくわつくわつとあらし候へ(意図的に荒々しい肌を作れ)」と命じたという逸話 11 にも通底する、わび茶の核心を突く思想である。自然(nature)と作為(artifice)の境界線上で成立する、極めて知的で洗練された工芸品。それが「霰姥口丸釜」の真の姿なのである。
茶釜は、単なる鉄の塊ではない。それは、選び抜かれた素材と、数百度、数千度もの炎を自在に操る釜師の秘技とが融合して生まれる、鉄と炎の芸術品である。ここでは、「霰姥口丸釜」がどのような工程を経て生み出されるのか、そしてその背景にある二大産地、芦屋と天明の作風の違いを検証する。
茶釜の製作は、素材選びから始まる。主原料となるのは、砂鉄を木炭で長時間かけて製錬した「和銑(わずく)」と呼ばれる、日本古来の鉄である 12 。不純物が少なく純度が高い和銑は、近代以降の洋銑(ようずく)に比べて極めて錆びにくく、茶釜のように長く湯を沸かし続ける道具には最適な素材であった 12 。
次に、釜の形を決定する鋳型(いがた)が作られる。川砂に粘土と水を混ぜて練り上げた鋳物土を用い、「挽板(ひきいた)」と呼ばれる断面形の型板を回転させながら、まず釜の外側にあたる外型を成形する 2 。この外型の内側に、前述の「箆押し」で霰文様などが施される。その後、外型を高温で焼き固める。この技法は「焼型」と呼ばれ、細かい文様を鮮明に写し取ることができる 4 。
鋳型が完成すると、いよいよ鋳込みの工程に入る。外型と、それより一回り小さい内型(中子、なかご)を組み合わせ、その間にできたわずかな隙間に、1400~1500度もの高温で溶かした鉄(湯、ゆ)を流し込む 4 。特に芦屋釜などは、厚さがわずか2~3ミリという「薄作(うすさく)」で知られ、この薄さで均一な厚みの釜を鋳上げるには、極めて高度で精密な鋳型作りと鋳込みの技術が要求された 2 。
鋳型から取り出された釜は、銀色をしている 3 。これを再び800~900度の炭火で焼く「釜焼き」または「焼き抜き」と呼ばれる熱処理を施す 4 。これにより、釜の表面に四三酸化鉄の緻密な黒錆の膜(酸化皮膜)が形成され、これが内部の鉄を腐食から守る、天然の錆止めとなる 3 。最後に、漆を薄く塗って焼き付け、さらに鉄漿(おはぐろ)と呼ばれる鉄の溶液を塗るなどして、深みのある色合いと艶、そして時代を経たような独特の風合い(景色)を生み出して、ようやく一つの釜が完成するのである 3 。
筑前国芦屋(現在の福岡県遠賀郡芦屋町)で生産された芦屋釜は、日本の茶の湯釜の歴史において最も古い系譜を持つ一つである 16 。その生産は南北朝時代には既に始まっており、室町時代には茶の湯釜の最高級ブランドとして、貴族や大名の間で贈答品としても用いられるなど、確固たる地位を築いていた 16 。
芦屋釜の作風は、優美さと格式高さに特徴づけられる。鋳肌は非常になめらかで、独特の光沢を帯びた「鯰肌(なまずはだ)」と称される 12 。形状は、釜として最も整った姿とされる「真形(しんなり)」を基本とし、その端正な曲線美は他に類を見ない 12 。そして最大の特徴は、胴部に箆押し技法で鋳出された優美な文様である。松竹梅や花鳥、山水画を思わせる風景など、その図様は多彩を極め、当時の庇護者であった大内氏が保護した画僧・雪舟の水墨画の影響も指摘されている 18 。
その芸術性と技術力の高さは、現代においても絶大な評価を受けており、国が指定する重要文化財の茶の湯釜全9点のうち、実に8点を芦屋釜が占めているという事実が、その価値を何よりも雄弁に物語っている 12 。芦屋釜は、わび茶が確立される以前の、唐物道具を鑑賞する豪華な「書院の茶」の美意識を体現する存在であった。
下野国天明(現在の栃木県佐野市)で生産された天明釜は、「西の芦屋、東の天明」と並び称された、関東を代表する茶の湯釜である 17 。その作風は、優美な芦屋釜とは全く対照的である。
天明釜は、文様が施されることは少なく、鋳肌そのものの表情を重視する 24 。その肌は、砂の粒子が粗く、荒々しく力強い印象を与える「荒肌」が特徴で、素朴で飾り気がない 20 。形状も、真形を基本とする芦屋釜に対し、独創的で作為的な、時に歪みさえ感じさせる力強い造形のものが多い 25 。
この一見、無骨で田舎びた天明釜が、なぜ芦屋釜と並び称されるほどの評価を得たのか。その理由は、戦国時代に起こった茶の湯における美意識の大きな転換にある。村田珠光に始まり、武野紹鷗を経て千利休によって大成された「わび茶」は、豪華絢爛な唐物趣味を否定し、静かで内省的な精神性を重んじた。この新しい価値観の中で、天明釜の持つ素朴さ、荒々しさ、そして寂びた趣こそが「わび」の精神を最もよく体現するものとして「発見」され、時代の茶人たちに熱狂的に受け入れられたのである 17 。織田信長や豊臣秀吉といった天下人が天明釜を所持していたという記録は 23 、この釜が新しい時代の美の象徴として、茶の湯の最先端にあったことを示している。
芦屋釜と天明釜の作風の対比は、単なる生産地の違いを超えて、日本の美意識における一大パラダイムシフトを象徴している。すなわち、中国渡来の豪華な器物を中心とする貴族的な「書院の茶」から、ありふれた国産品の中に深い精神性を見出す「わび茶」への移行という、文化的な地殻変動そのものを映し出しているのである。「霰姥口丸釜」という様式が、特に天明釜の作例として戦国武将に愛されたという事実は、この釜が、旧来の価値観(芦屋の優美)を乗り越え、新しい時代の精神(天明の侘び)を体現する、革新的なアイコンであったことを強く示唆している。
戦国時代、茶の湯は単なる喫茶の習慣や趣味の領域を遥かに超え、政治、外交、そして個人の美意識を表現する極めて重要な社会的装置として機能した。この時代において、「霰姥口丸釜」のような一つの釜は、時に一国一城にも匹敵する価値を持ち、武将たちの運命を左右することさえあった。
茶の湯を政治の道具として巧みに利用し、その価値を飛躍的に高めたのが織田信長である。信長は、領地を拡大する過程で、服従させた大名や堺の豪商たちから名高い茶道具を献上させる、いわゆる「名物狩り」を精力的に行った 29 。こうして集めた名物茶器は、信長の圧倒的な権力を象徴するコレクションとなった。
信長はこれらの名物を披露する盛大な茶会を催し、自身の権威を内外に誇示した 29 。さらに、家臣に対しては茶会の開催を原則として禁じ、大きな手柄を立てた者への最高の恩賞としてのみ、名物茶器を与え、茶会を開くことを許可した 29 。これは「茶の湯御政道」とも呼ばれ、茶道具が土地や金銭以上の価値を持つ「恩賞」として機能するシステムを確立した。茶の湯の作法に通じ、名物の価値を理解することは、一流の武人としてのステータスとなり、茶室は武将たちの社交や密談の場としても重要な役割を果たしたのである 30 。松永久秀が信長に反旗を翻した際、最後まで差し出すことを拒み、自らの命と共に爆破したと伝わる「古天明平蜘蛛釜」のエピソードは、茶釜が単なる器ではなく、武将の誇りと魂そのものであったことを象徴している 23 。
このような信長の茶の湯政治を背景に、「霰姥口丸釜」の一種である「天猫姥口釜」を巡る、象徴的な逸話が伝えられている。主役は、織田家筆頭家老にして「鬼柴田」の異名を取った猛将・柴田勝家である。
勝家はかねてより、信長が所持するこの天猫姥口釜を所望していた。数年にわたり願い続けた末、越前一向一揆を平定した功績により、ついに信長からこの釜を拝領することが許された 32 。その際、信長は機嫌よく、次のような狂歌を詠んで勝家に手ずから釜を与えたと伝えられている。
「なれなれて あかぬなじみの姥口を 人に吸わせんことをしぞおもふ」 32
この歌は、表面的には「長年連れ添ってすっかり馴染み、飽きることのない愛しい老婆の口(姥口)を、他人に吸わせるのはなんとも惜しいことだ」という、好色な諧謔に満ちた意味を持つ。この逸話は、現在、藤田美術館が所蔵する「天猫姥口釜」の箱書きにも記されており、信憑性の高いものと考えられている 33 。
この一つの逸話は、多層的な解釈を可能にする。第一に、戯れの歌を添えて至宝の釜を与えるという行為は、信長の圧倒的な権威と、勝家という重臣に対する並々ならぬ信頼関係を示す、巧みな政治的パフォーマンスである。第二に、「姥口」という釜の名に掛けた、やや猥雑ともいえる冗談は、冷徹な独裁者という信長のイメージの裏にある、洒脱で人間的な一面を垣間見せる。それは、単なる主従関係を超えた、二人の間の親密な空気感を伝えている。そして第三に、このエピソードは、茶釜が武将間のコミュニケーションを媒介し、権力関係の確認と人間的な感情の交流という二つの機能を同時に果たす、極めて高度な文化装置として機能していたことを如実に示している。一つの釜が、戦国の世の権力と人間ドラマを凝縮して内包しているのである。
戦国時代の茶の湯を語る上で、千利休の存在を欠かすことはできない。利休は、それまでの茶の湯を精神性の高い「わび茶」として大成させ、日本の美意識そのものを根底から変革した。彼の美学は、茶釜の選択と創造にも色濃く反映されている。
利休は、絢爛豪華な唐物や、優美で技巧的な芦屋釜よりも、素朴で内省的な趣を持つ天明釜や、自らの美意識を釜師に託して作らせた京釜を好んだ 11 。豊臣秀吉が「黄金の茶室」に象徴される「金」の美を好んだのに対し、利休は長次郎に焼かせた「黒楽茶碗」に代表されるように、華美を削ぎ落とした「黒」や「寂び」の世界を追求した 35 。
重要なのは、利休の「侘び」が、単に古いものや素朴なものをそのまま受け入れる受動的なものではなかったという点である。利休は、京都の釜師・辻与次郎に対し「地をくわつくわつとあらし候へ」と命じたと伝えられるように、自らの明確な美意識に基づき、積極的に「侘び」を「創造」した革新者であった 11 。それは、計算され尽くした「作為としての侘び」である。
この文脈において、「姥口丸釜」や「姥口乙御前釜」といった様式が、利休好みとして記録に残されていることは極めて示唆に富む 36 。不完全さ(姥口)と、計算された素朴さ(霰肌)を併せ持つこの釜の様式は、利休が目指したわび茶の理想を完璧に体現するものであった。それは、信長が政治的権威の象徴として用いた茶道具とは異なり、個人の内面的な精神性を深く掘り下げるための装置として、利休の茶の湯の中心に据えられたのである。
茶の湯釜の歴史は、それを愛用した茶人や武将たちだけの物語ではない。その背後には、彼らの高度で、時に抽象的な要求に応え、鉄と炎を駆使して美を創造した「釜師(かまし)」たちの存在があった。特に戦国・安土桃山時代は、茶の湯の隆盛と共に、名工たちが次々と登場した時代でもあった。
桃山時代の京都を代表する釜師であり、千利休の美学を最も深く理解し、それを形にした人物こそ、辻与次郎である 37 。近江国辻村(現在の滋賀県栗東市)の出身で、京都三条釜座の西村道仁に学んだと伝えられる 38 。
与次郎の功績は、単に腕の良い職人であったことに留まらない。彼は、千利休という稀代のプロデューサーの「お抱え釜師」として、その難解な美意識を見事に鋳鉄で表現し、数々の「利休好み」の釜を創始した 37 。代表作として「阿弥陀堂釜」「雲龍釜」「四方釜」などが知られる 38 。さらに、釜の羽を意図的に欠き落としたように見せる「羽落ち」や、独特の荒々しい錆肌を生む「焼き抜き」といった、わび茶の美学に沿った新しい技法を創案したのも与次郎であった 38 。その功績により、豊臣秀吉から「天下一」の称号を許されたと伝えられるほど、当時の釜師の中で突出した存在であった 38 。与次郎の登場により、茶の湯釜の中心地は、それまでの芦屋・天明から、利休のいる京都へと大きくシフトしていくことになる。
辻与次郎のようなスター釜師の影で、芦屋と天明の地では、多くの名もなき職人たちが工房集団として活動していた。
芦屋の釜師については、江戸時代の学者・貝原益軒の『筑前国続風土記』などに、山鹿氏(太田姓)、大江氏、長野氏といった姓を持つ釜師集団が存在したことが記録されている 41 。中には、永正14年(1517年)の年紀と「大江宣秀」という作者銘が鋳出された芦屋釜も現存しており、個々の名工が活躍していたことがわかる 42 。彼らは、守護大名・大内氏などの強力な庇護のもとで、格式高い優美な釜を製作したが、戦国末期に大内氏が滅亡すると、その最大のパトロンを失い、急速に衰退。江戸時代初期には、その製作技術は途絶えてしまった 21 。
一方、天明の釜師は、平安時代に藤原秀郷が河内国(現在の大阪府)から招いた鋳物師集団がその起源と伝承されている 23 。芦屋に比べて特定の個人名が記録に残ることは少ないが、工房集団としてその技術を強固に継承し、わび茶の流行と共にその名を高めた。彼らの伝統は江戸時代を通じて受け継がれ、現代においても、江田工房や若林鋳造所といった工房が、その一千年の歴史と技を守り続けている 43 。
これらの釜師たちの存在を考察すると、戦国時代の美の革新が、茶人から釜師への一方的な注文によって成し遂げられたのではないことが見えてくる。特に利休と与次郎の関係は、単なる発注者と製作者の関係を超えた、創造的な「共犯関係」であった。利休が提示する「わび」や「寂び」といった言葉だけでは伝達不可能な、極めて抽象的な美の哲学を、与次郎は「羽落ち」や「焼き抜き」といった具体的な鋳造技術の開発・応用によって「翻訳」し、実物として提示した。その実物を前にして、利休の思想はさらに深化し、次の要求へと繋がっていく。この双方向の創造的な対話、思想と技術のキャッチボールこそが、「わび茶釜」という全く新しい芸術ジャンルを確立させた原動力であった。釜師は、茶の湯という文化運動の最前線に立つ、重要な思想的実践者でもあったのである。
戦国時代に生み出され、武将や茶人たちに愛された茶釜は、その後も「名物(めいぶつ)」として、時代の権力者たちの手を渡り歩き、数々の逸話と共にその価値を高めていった。そして、一度は歴史の中に消えた技術さえも、現代において復興の道を歩んでいる。
歴史に名を残す「霰姥口釜」および関連する名物釜は、その一つ一つが独自の物語を秘めている。ここでは、その代表的なものの伝来を追跡することで、茶釜がどのようにして権力と文化の象徴として流通し、その価値を蓄積していったか、その「社会的な生涯」を概観する。
釜の名称 |
様式・作者 |
主要な伝来 |
特記事項・逸話 |
現在の所蔵先 |
典拠 |
天猫姥口釜 |
天明作 |
織田信長 → 柴田勝家 |
信長が勝家に下賜する際に詠んだ狂歌「なれなれて あかぬなじみの姥口を 人に吸わせんことをしぞおもふ」と共に伝わる。 |
藤田美術館 |
23 |
古芦屋松梅文真形霰釜 |
芦屋・大江宣秀 作 |
(不明) |
胴部に松梅文、全体に霰地を施す。釜の羽裏に「永正拾四年丁丑」「大江宣秀」の銘が鋳出されており、作者と製作年が明らかな極めて貴重な作例。 |
根津美術館 |
42 |
姥口乙御前釜 |
天明作 |
明智光秀 → 千利休(宗易) → 内藤作兵衛 → 小笠原遠江守 |
『名物釜所持名寄』に「極上作」として記載される名物。光秀から利休へ贈られたという伝来を持つ。 |
(不明) |
36 |
この表が示すように、一つの釜は、信長から勝家へという権力移譲の証として、あるいは光秀から利休へという茶人同士の交流の証として、歴史の重要な局面で役割を果たしてきた。その伝来の物語そのものが、釜の価値を構成する重要な要素となっているのである。
一度は隆盛を極めた茶釜の産地も、時代の変遷と共にその運命を変えた。特に、優美を誇った芦屋釜は、戦国末期のパトロンであった大内氏の滅亡を機に衰退し、江戸時代初期にはその製作技術が完全に途絶えてしまった 21 。
しかし、この「幻の名品」は、400年もの時を経て、現代に蘇ることとなる。平成に入り、福岡県芦屋町が主体となった「芦屋釜復興事業」が開始され、全国に残る古芦屋釜の科学的な調査や古文献の研究が進められた 47 。この事業の中で、八木孝弘氏や樋口陽介氏といった鋳物師たちが、16年という長い養成期間を経て独立し、失われた伝統技術の復元と継承に心血を注いでいる 14 。彼らの手によって、和銑を用い、薄作で優美な文様を持つ、かつての芦屋釜が再び生み出されているのである。
一方、わび茶の精神を今に伝える天明釜の伝統もまた、若き釜師たちによって力強く受け継がれている 43 。彼らは、古来の技法を守りながらも、茶釜だけでなく、現代の生活様式に合わせた工芸品を制作するなど、伝統に新しい息吹を吹き込んでいる。こうして、戦国の炎の中から生まれた釜作りの技と心は、形を変えながらも未来へと繋がれている。
「霰姥口丸釜」は、単に湯を沸かすための鉄の器ではない。それは、戦国の世を生きた武将たちの野心と機知、茶人たちの先鋭的な美意識、そして名もなき職人たちの超絶的な技巧が、鉄と炎によって奇跡的に結晶化した、時代の精神を宿す文化遺産である。
その無数に打たれた霰の一粒一粒には、均一性の中に潜む手仕事の揺らぎがあり、老女の口を思わせる歪んだ口縁には、完全性よりも不完全さの中に美を見出す、わび茶の深遠な哲学が刻印されている。この釜の前に静かに座すとき、我々は、華やかさから内省へ、完全から不完全へ、そして権威から人間性へと向かった、戦国という時代の巨大な精神のうねりを目の当たりにする。一つの釜が、それを巡る人々の物語を吸収し、自らが歴史の証人となる。一碗の湯の向こうに、戦国という時代の広大な宇宙を垣間見ることができるのである。本報告が、その深遠な世界への扉を開く一助となれば、望外の喜びである。