高島流砲術は、高島秋帆が西洋兵学を導入し確立。和流砲術の限界を打ち破り、徳丸ヶ原の演習でその威力を示した。鳥居耀蔵に弾圧されるも、ペリー来航で復権。近代軍事の礎。
「高島流秘伝書」と「戦国時代」という二つの主題は、日本の軍事史を考察する上で、極めて示唆に富んだ組み合わせである。まず明確にすべきは、高島流砲術の開祖・高島秋帆が活躍したのは、戦国時代から二百数十年を経た江戸時代後期、いわゆる幕末期であるという歴史的事実である 1 。したがって、高島流の秘伝書が戦国時代に存在したわけではない。
しかしながら、「戦国時代という視点」から高島流を分析することは、その歴史的意義を深く理解するために不可欠なアプローチである。なぜなら、高島流がもたらした衝撃と革新性は、比較対象となる巨大な伝統、すなわち戦国時代に鉄砲が伝来して以来、日本で独自に発展し、そして泰平の世で停滞した「和流砲術」の存在を抜きにしては語れないからである。本報告書は、この「伝統(和流)」と「近代(高島流)」の比較分析を主軸とし、「高島流秘伝書」が単なる一砲術流派の奥義書ではなく、日本の軍事思想そのものを根底から覆した知的革命の象徴であったことを論証するものである。
日本の火器の歴史は、天文12年(1543年)、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えたことに始まる 3 。その威力に着目した戦国の武将たちは、瞬く間にこれを模倣・量産し、合戦の様相を一変させた。この過程で、鉄砲を扱う技術は単なる操作法に留まらず、精神性をも含んだ「砲術」として体系化され、江戸時代にかけて荻野流、津田流、井上流といった数多の流派が誕生した 3 。
これらの「和流砲術」に共通する特徴は、その重点が個人の射撃技術の練磨に置かれていた点にある 5 。例えば、その相伝の要諦として「心を正しくして思邪なし」といった精神論が説かれたように、射手の心構えや身体操作が重視された 3 。しかし、二百数十年におよぶ平和な江戸時代において、砲術は実戦の場を失い、次第に武芸の一種として形骸化・様式化していく。技術は流派ごとに秘匿され、その伝授は閉鎖的な「秘伝」の形をとるようになった。この実戦からの乖離と、個人の技量に偏重した思想的限界こそが、幕末期に西洋の近代軍事力と対峙した際に露呈する、決定的格差の遠因となったのである。
高島流の誕生を理解するためには、その揺籃の地となった長崎の特殊性と、19世紀前半の国際情勢が日本に与えた衝撃を解き明かす必要がある。高島秋帆という人物は、鎖国体制が内包した矛盾と、外部からの脅威という二つの歴史的要因が交差する一点に生まれた、時代の申し子であった。
高島秋帆(名は茂敦、号が秋帆)は、寛政10年(1798年)、長崎の町年寄を務める高島家の三男として生を受けた 2 。高島家は代々、長崎奉行のもとで貿易事務や港湾警備の一環である鉄砲方を担う家柄であり、秋帆は幼少期から海外の情報に触れる機会に恵まれていた 7 。この環境は、彼の知的背景を形成する上で決定的な役割を果たした。
当初、秋帆は父から荻野流などの和流砲術を学んだ 9 。しかし、日本で唯一西洋に開かれた窓口であった出島を擁する長崎にあって、彼はオランダ人との交流を通じて、日本の砲術と西洋の軍事技術との間に横たわる圧倒的な格差を痛感するに至る 1 。鎖国という体制を維持するための象徴的な場所であった長崎が、皮肉にも、その体制を根底から揺るがす西洋知識の流入拠点となっていたのである。秋帆は、旧来の秩序(町年寄)に属しながら、その特権的な地位とアクセス権を最大限に活用し、新時代の知識(西洋砲術)を吸収していった。
彼の探求は学問的な好奇心に留まらなかった。文政8年(1825年)に幕府が異国船無二念打払令を発した際には、いち早く上司の長崎奉行に砲術研究の重要性を上申している 7 。これが受け入れられないと見るや、彼は私財を投じてオランダ商館長デヒレニューらの協力を得ながら、オランダ語の軍事文献や、ゲベール銃、青銅砲といった最新の兵器を輸入し、その研究に没頭した 1 。この行動は、彼の危機意識がいかに早熟で、切実なものであったかを物語っている。
秋帆の危機意識を決定的なものとし、彼の行動を幕政の中心へと押し上げるきっかけとなったのが、天保11年(1840年)に勃発したアヘン戦争であった。当時、アジア随一の大国と見なされていた清が、イギリスの近代的な軍事力の前に為す術もなく敗北したという報は、オランダ風説書などを通じて日本にもたらされ、幕府首脳から知識人に至るまで計り知れない衝撃を与えた 14 。歴史的に文化・技術の先進地域であった中国の惨敗は、「このままでは日本も同じ運命を辿る」という強烈な国家存亡の危機感を呼び覚ましたのである 1 。
この機を逃さず、秋帆は行動に出る。彼は長崎奉行を通じて、幕府に対し西洋式軍備の導入を提言する意見書、通称「天保上書」を提出した 1 。この上書の核心は、単に新しい大砲を導入せよという兵器論に留まらなかった。それは、兵器の近代化と、それを運用するための組織・戦術、すなわち軍制全体の改革を訴える、包括的な海防策の提言であった 13 。これは、個人の武勇や精神論に依拠してきた日本の伝統的な防衛思想から、科学技術と合理的システムに基づく近代的な防衛思想へと、コペルニクス的転回を促すものであった。秋帆の行動は、もはや一介の地方役人の献策ではなく、時代の要請そのものであった。
利用者が関心を寄せた「高島流秘伝書」は、その名称が喚起する伝統的なイメージとは全く異なる実態を持つ。それは、日本の知のあり方が「秘匿された奥義」から「公開された科学」へと移行する、近代の幕開けを象徴する存在であった。
「秘伝書」という言葉は、師から弟子へと一子相伝で受け継がれる、神秘的で閉鎖的な知識体系を想起させる。これは、戦国時代以来の武芸諸流派において確立された、日本の伝統的な知識伝達の形態である。
しかし、現存する高島流の伝書や写本を分析すると、その内容は驚くほど合理的かつ体系的である。近年の研究により、これらの伝書の原典が、19世紀初頭のオランダの砲術士官ユリウス・ファン・ミュエレンが著した教範『Handleiding tot de Kennis der Artillerie』(砲術便覧)の翻訳であることが明らかにされている 4 。この事実は決定的である。「高島流秘伝書」とは、一個人の経験則や勘に頼る「術」の奥義書ではなく、弾道学、数学、物理学といった近代科学の成果に基づいた、普遍的で客観的な「科学技術」の教科書だったのである。
当時の日本人が、この全く新しい知識体系を理解可能な概念の枠組み、すなわち「秘伝書」という言葉に当てはめて呼んだこと自体が、前近代から近代への知のパラダイムシフトの困難さと、その過渡的様相を物語っている。高島流の最も革命的な側面は、この「秘伝から科学へ」という知識の質の転換を成し遂げた点にあった。
『砲術便覧』を基にした高島流の教えは、日本の人々がこれまで目にしたことのない、多様で強力な兵器群の知識をもたらした。
高島流が日本の軍事思想に与えた最大の衝撃は、兵器の性能以上に、その運用思想にあった。それは、戦国時代以来の「個人の武勇」を称揚する価値観から、兵士をシステムの一部として捉える「非人格的な集団の力」へと、戦争観そのものを根本的に転換させるものであった。
この新しい思想の根幹をなすのが、歩兵(ゲベール銃隊)、騎兵(偵察・機動打撃)、砲兵(火力支援)という異なる兵科を有機的に連携させて運用する、近代的な「三兵戦術」の概念であった 7 。これは、各兵科がそれぞれの持ち場で個別に戦っていた従来の戦術とは全く異なる、高度に体系化された戦闘教義である。
この集団戦術を実現するための方法論もまた、革命的であった。兵士の統制には、「マルス(進め)」「ハルト(止まれ)」「セット(狙え)」「ヒュール(撃て)」といったオランダ語の号令が用いられた 12 。これは単に異国風を好んだのではなく、感情を排した即時的かつ正確無比な命令伝達を可能にするための、極めて合理的な選択であった。さらに、小太鼓(ドラム)が刻むリズムで歩調を合わせ、一糸乱れぬ行軍を行う訓練が重視された 19 。筒袖の上衣に裁着け袴、そして黒塗りの円錐形陣笠という画一的な服装も、個性を消し、集団としての均質性と効率性を最大化することを目的としていた 7 。
これらはすべて、個々の兵士の意志や感情を排し、指揮官の命令通りに寸分違わず動く、巨大で精密な「戦争機械」を創り出すための方法論であった。この思想は、個の武勇と名誉を誇りとしてきた武士の存在意義そのものを内側から揺るがす、深い文化的衝撃を伴う革命だったのである。
比較項目 |
和流砲術(戦国期~江戸中期) |
高島流砲術(幕末期) |
目的 |
個人の射撃技量の向上、武芸としての側面 |
組織的な戦闘力の最大化、戦争の勝利 |
主な兵器 |
火縄銃、小型の青銅砲(大筒) |
ゲベール銃、臼砲、榴弾砲 |
弾道 |
直射が主 |
直射に加え、曲射・擲射を駆使 |
戦術思想 |
個別兵科の運用、個人の武勇に依存 |
歩・騎・砲の連携(三兵戦術)、集団の力 |
訓練・指揮 |
精神論、流派ごとの口伝・秘伝 |
号令・太鼓による集団行動、規律重視 |
知識体系 |
経験則、秘匿された「術」 |
科学的理論、翻訳された「科学技術」 |
高島秋帆がもたらした新しい軍事学は、書物上の理論に留まらなかった。それは徳丸ヶ原の演習によってその威力を天下に示し、同時に、旧来の秩序を守ろうとする勢力との激しい政治的対立を引き起こすことになる。この過程は、先進技術が社会に変革をもたらす際に、既存の権力構造やイデオロギーといかに激しい摩擦を生むかという、普遍的な歴史の力学を浮き彫りにしている。
天保12年(1841年)5月、幕府の正式な命令により、江戸郊外の武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)において、日本史上初となる大規模な西洋式軍事演習が挙行された 6 。この演習は、高島流砲術の真価を問う、国家的なデモンストレーションであった。
高島秋帆が長崎から率いてきた門人や江戸で新たに入門した者たち、総勢100名以上がこの歴史的な演習に参加した 13 。観覧席には、老中首座の水野忠邦をはじめとする幕府の最高首脳、諸藩の大名や家臣、そして多くの蘭学者や知識人たちが詰めかけた 27 。後に幕府の海軍を率いることになる若き日の勝海舟も、その熱心な見学者の一人であったと伝えられている 19 。
演習の内容は、単なる大砲の試射に終わるものではなかった。それは、高島流が説く三兵戦術を具現化する、極めて体系的かつ実践的なものだった。臼砲や榴弾砲が轟音とともに実弾を放ち、騎兵が砂塵を巻き上げて偵察を行い、ゲベール銃を構えた歩兵部隊がオランダ語の号令と太鼓のリズムに合わせて一糸乱れぬ行軍と一斉射撃を披露した 7 。その圧倒的な火力、精密な統制、そして兵士たちの画一的な動きは、和流砲術しか知らなかった見学者たちに筆舌に尽くしがたい衝撃を与え、高島流の名声を不動のものとした。この演習の記憶はあまりに鮮烈であったため、後にこの地は秋帆の名にちなんで「高島平」と名付けられることになる 8 。
演目 |
使用兵器・部隊 |
内容詳細 |
臼砲(モルチール砲)実射操練 |
臼砲 |
榴弾(ボンベイ)、焼夷弾(ブランドコーゲル)を使用。秋帆やその子・浅五郎の指揮により、50メートルから120メートル先の目標へ正確に射撃 19 。 |
榴弾砲(ホーイッスル砲)実射操練 |
榴弾砲 |
柘榴弾(ガラナート)による対人攻撃、葡萄弾(ドロイフコーゲル)による広範囲制圧を実演。葡萄弾は400~700メートルの範囲に散着し、その威力を示した 19 。 |
乗馬小銃射撃操練 |
騎兵、ゲベール銃 |
騎乗した兵士が、鞍に備えた銃と手持ちの銃を巧みに操り、三方向へ連続して射撃する高度な技術を披露 19 。 |
ゲベール銃陣射撃 |
銃士79名 |
指揮官の号令一下、歩兵部隊が横隊を組んで一斉に射撃。凄まじい弾幕を形成し、集団射撃の威力を示した 19 。 |
行進訓練 |
銃士99名 |
ゲベール銃に着剣した状態で、小太鼓の歩調に合わせ、オランダ語の号令に従って整然と行進。近代軍隊の規律を体現した 19 。 |
徳丸ヶ原での大成功により、幕府は高島流砲術の正式採用を決定し、秋帆自身も幕臣に取り立てられるという栄誉を得た 1 。しかし、この華々しい台頭は、影で大きな反発と憎悪を掻き立てていた。
その中心人物が、徹底した西洋嫌いで知られる南町奉行の鳥居耀蔵であった 7 。鳥居にとって、西洋かぶれの「田舎役人」である秋帆が幕政の中枢に食い込んでくることは許しがたいことであった。また、高島流の採用によって既得権益を脅かされる和流砲術家たちや、秋帆の出自(武士と庶民の中間)を侮蔑する保守的な幕臣たちも、鳥居の背後で秋帆への反感を募らせていた 7 。
鳥居は、これらの勢力を背景に、秋帆を失脚させるための陰謀を企てる。彼は、秋帆が町年寄の立場を利用して密貿易を行い、その資金で兵器を買い集めて謀叛を企てている、という根も葉もない罪状をでっち上げたのである 7 。この讒訴は、徳丸ヶ原の演習のわずか1年後、天保13年(1842年)に現実のものとなる。秋帆は突如として逮捕・投獄され、輝かしい功績を築いた高島家は断絶の憂き目に遭った。彼は死罪こそ免れたものの、武蔵国岡部藩預かりの身となり、長きにわたる幽閉生活を強いられることになった 7 。これは、先進技術の正しさが、旧弊な政治権力とイデオロギーの力によってねじ伏せられた瞬間であり、日本の近代化がいかに困難な道を辿ったかを象徴する事件であった。
秋帆が歴史の表舞台から姿を消してから11年後の嘉永6年(1853年)、事態は急変する。アメリカのペリー率いる黒船艦隊が浦賀に来航し、開国を要求したのである。蒸気船から放たれる空砲の威力と、旧態依然とした日本の軍備の無力さを目の当たりにした幕府は、未曾有の混乱に陥った 7 。
この国家的な危機に際し、かつて秋帆が説いた海防論と西洋式軍備の重要性が、幕臣たちの脳裏に痛烈に蘇った。ここにきて、ようやく秋帆の先進性が再評価される。彼は幕府によって赦免され、江戸へと呼び戻された 10 。
復権後の秋帆は、幕府が新設した武官養成機関である講武所の砲術師範に任命され、幕府軍の砲術訓練の指導に全身全霊を傾けた 2 。彼は、長い幽閉生活を経てもなお、日本の未来を憂い、その軍事近代化の最前線に再び身を投じたのである。
高島秋帆の投獄は、彼の知識を封じ込めるどころか、皮肉にもその価値を一層高め、水面下で全国の先進的な藩へと拡散させる結果を招いた。幕府中央が守旧派の抵抗で近代化に足踏みする間に、高島流の教えは弟子たちや雄藩によって受け継がれ、発展し、やがて幕府を打倒する力の一部となっていく。
秋帆が不在の間、彼の蒔いた種は、優秀な弟子たちの手によって着実に育てられていた。
その筆頭が、伊豆韮山代官であった江川英龍(坦庵)である。彼は幕府の役人でありながら、幕命によって秋帆に入門し、高島流の免許を皆伝されていた 34 。秋帆が投獄された後も、江川はその教えを固く守り、伊豆韮山の自邸に「韮山塾」を開いて、全国から集まる藩士たちに西洋砲術を教授した 36 。その門下からは、佐久間象山、桂小五郎(後の木戸孝允)、大鳥圭介といった、幕末から明治維新にかけて日本の歴史を動かすことになる数多の人材が輩出された 1 。
江川の功績は、単なる砲術の伝達に留まらない。彼は高島流の教範を通じて学んだ冶金学の知識を応用し、旧来の青銅砲よりはるかに強力な鉄製大砲を国内で鋳造する必要性を痛感。そのための溶解炉である「韮山反射炉」の建設に着手した 38 。これは、高島流の「理論」が、日本の「産業技術革命」へと直接的に結びついたことを示す、極めて重要な事例である 39 。
江川英龍、そして同じく秋帆の高弟であった下曽根信敦、村上範致の三名は、後に「高島門下の三龍」と称され、高島流砲術の全国的な普及に絶大な貢献を果たした 1 。
高島流の知識は、幕府の統制を離れ、特に国防の最前線に立つ西南雄藩の軍事近代化を強力に後押しした。
中でも、佐賀藩の動きは群を抜いていた。藩主の鍋島直正(閑叟)と、その支藩である武雄の領主・鍋島茂義は、日本のどの藩よりも早く高島流の重要性に着目していた。天保3年(1832年)には家臣の平山醇左衛門を、そして天保5年(1834年)には茂義自身が秋帆に入門している 17 。
佐賀藩は、秋帆から直接学んだ技術と、彼がもたらしたオランダの技術書を基盤として、藩内に独自の反射炉を建設。ついには最新鋭の後装式ライフル砲であるアームストロング砲の模倣製造にまで成功し、幕末最強と謳われる軍事力を築き上げた 44 。これは、高島流という「ソフトウェア」が、藩という組織レベルで体系的に導入され、国内最高の「ハードウェア」を生み出した最も輝かしい成功例であった。
薩摩藩や長州藩といった他の雄藩も、江川塾や佐賀藩の動向に刺激され、あるいは直接的に高島流の影響を受けながら、軍備の近代化を急ピッチで進めた 2 。これらの藩が蓄積した軍事技術と、それを支える合理的思考こそが、後の戊辰戦争において旧態依然とした幕府軍を圧倒する力の源泉の一つとなったのである。秋帆の悲劇は、結果として幕府の軍事的優位性を相対的に低下させ、倒幕の遠因を形成したという歴史の皮肉がここにある。
高島秋帆が創始した西洋式砲術の命脈は、幕末維新の動乱を越えて、現代にまで受け継がれている。現在、東京都板橋区を拠点とする「西洋流火術鉄砲隊保存会」によって、その号令や操法、そして演武が忠実に継承されている 46 。
彼らの活動は、単に歴史的な技術を保存するという意味に留まらない。それは、日本の近代化の原点となった合理的精神と集団行動の様式を、現代に生きる我々が体感できる貴重な文化的遺産としての価値を持つ。徳丸ヶ原の地で鳴り響いた号令は、時を越えて、日本を変えた知の革命の記憶を伝えているのである。
高島秋帆と、彼がもたらした「高島流砲術」、そしてその理論的支柱であった「秘伝書」、すなわち西洋の科学的教範は、日本の軍事史、ひいては日本の近代史における決定的な転換点であった。
それは、戦国時代に端を発し、約250年間にわたって日本の軍事思想を支配してきた「和流」という伝統的・精神論的・個人技芸的なパラダイムに終止符を打ち、科学的・体系的・組織的な「近代軍事学」への扉を開いた、まさしく分水嶺であった。高島流は、戦争を「術」の世界から「科学」の世界へと引き上げたのである。
一人の先覚者が抱いた強烈な危機意識と、私財を投じてでも真理を探究しようとする情熱。それが、保守的な政治勢力による弾圧という悲劇を乗り越え、志を同じくする弟子たちや先進的な諸藩によって受け継がれ、増幅されていった。そして、その知の流れは、最終的に国家全体の変革である明治維新へと繋がる、巨大な伏流を形成した。
高島秋帆の業績は、一つの技術革新が歴史を動かすダイナミズムと、その過程に必ず介在する人間の意志、情念、そして時代の要請が織りなす壮大なドラマとして、現代の我々に多くの示唆を与え続けている。