「魚屋飯櫃高麗」は、朝鮮の雑器から大名物へ昇華した茶碗。堺の商人「魚屋」や千利休との関連、そして古田織部が愛した「歪み」の美が特徴。後に「さわらび」と命名された。
日本の戦国時代から桃山時代にかけて、武将たちは茶の湯という文化装置を通じ、自らの権威と個性を競い合った。当初、茶の湯の世界は中国渡来の精緻で豪華な「唐物」が至上とされたが、千利休が「侘び茶」を大成させるに至り、価値観は劇的に転換する。静寂、素朴、不完全さの中にこそ真の美を見出すという思想は、乱世を生きる武将たちの精神的支柱となった。
しかし、利休の死後、その弟子である古田織部(重然)は、師の美学を継承しつつも、それをさらに推し進め、大胆で奇抜、作為的ともいえる「へうげもの(剽げ者)」の美を天下に示した。本報告書が主題とする大名物「魚屋飯櫃高麗(ととやいびつごうらい)」は、まさしくこの美意識の転換期を象徴する一碗である。
この茶碗は、その名が示す通り、「高麗」すなわち朝鮮半島で焼かれた器であり、その名の由来には「魚屋」という商人の影と、利休伝説が交錯し、さらに「飯櫃(いびつ)」と称されるその歪んだ形状こそが、最大の魅力とされた。本報告書は、この一碗が、いかにして無名の雑器から発見され、数多の数寄者の手を経て、特に古田織部の美意識と共鳴することで「大名物」へと昇華したのか、その物語を多角的な視点から解き明かすものである。それは、単なる器物の来歴を追う作業に留まらず、戦国・桃山という時代の精神が、一つの茶碗にいかに凝縮されていったかを考察する試みである。
この茶碗の名称「魚屋飯櫃高麗」は、それ自体が重層的な歴史を内包している。ここでは、その名を構成する「高麗」「魚屋」「飯櫃」の三つの要素を個別に分析し、それぞれに秘められた物語と文化的意味を解き明かす。
この茶碗の出自を示す「高麗」という言葉は、それが朝鮮半島で焼かれた高麗茶碗の一種であることを示している。しかし、その本質を理解するためには、それがどのような器であったかを知る必要がある。この種の茶碗は、もともと朝鮮の地方の窯で、日常使いの食器として大量に生産されたものであった 1 。つまり、美術品として意図して作られたものではなく、名もなき陶工の手による、素朴で無作為な器物だったのである。
これらの雑器が、日本の茶の湯の世界で価値を見出されるようになるのは、侘び茶が大成される天正年間(1573-92)頃からである 1 。日本の茶人たちは、その完璧ではない形、均一ではない釉薬の調子、土の温かみといった要素に、計算され尽くした唐物の名品にはない、新たな美を発見した。これは「見立て」と呼ばれる、日本独自の美意識の精髄を示す現象である。本来の用途や文脈から切り離し、新たな価値と役割を与えるこの行為によって、朝鮮の民衆の飯碗は、日本の武将が魂を傾ける茶碗へと生まれ変わった。
戦国の武将たちが、なぜこのような「雑器」に価値を見出したのか。その背景には、既存の権威への挑戦という側面があった。中国渡来の豪華絢爛な道具が持つ既成の価値体系に対し、自らの審美眼で新たな価値を発見し、それを茶会という場で披露することは、武将としての文化的権威と鋭敏な個性を確立するための重要な手段であった。したがって、「高麗茶碗」の価値は、器物そのものの物理的な質だけでなく、それを見出し、価値を宣言した「眼」の力と分かちがたく結びついているのである。
「魚屋」という名称は、この茶碗の来歴において最も複雑で、物語性に富んだ部分である。その由来については、複数の説が絡み合い、歴史の霧の中に包まれている。
第一の説は、堺の豪商「魚屋(ととや)」、あるいは「渡唐屋(ととや)」が、この種の茶碗を朝鮮から一船分まとめて輸入したことに由来するというものである 2 。実際に、古い箱書きには「渡唐屋」と記された例も確認されている 2 。この説は、戦国時代の堺が、海外貿易の拠点として繁栄し、新たな文化の発信地であった事実を背景に持つ。
第二の説は、より広く知られ、この茶碗の価値を飛躍的に高める要因となった、千利休との関連である。利休の生家は堺の商家であり、その屋号が「魚屋(ととや)」であったという伝承が存在する 3 。この説に基づけば、「魚屋茶碗」とは、茶の湯の始祖である利休その人に由来する茶碗ということになる。この物語は、小説や百科事典などを通じて広く流布し、通説として受け入れられる状況にある 3 。
しかし、近年の学術的研究は、この「利休屋号魚屋説」に慎重な立場をとる。当時の文献を調査すると、「魚屋」という屋号は「うをや」と読むのが一般的であり、「ととや」という読みは確認できない 3 。利休の家業が海産物を扱う商家であったことは確かだが、屋号が「魚屋(ととや)」であったとする史料的根拠は乏しいとされる 3 。茶会記を遡ると、「とゝや茶碗」という名称が初めて登場するのは、利休没後の寛永2年(1625年)、小堀遠州の茶会においてである 3 。このことから、まず「ととや」という音が存在し、後に「斗々屋」や「魚屋」といった漢字が当てられ、そこに利休の家業の逸話が結びついて、後世に「利休屋号魚屋」説が形成された可能性が指摘されている 3 。
この名称の由来に見られる「史実」と「伝説」のせめぎ合いこそが、この茶碗の文化史的な面白さである。「利休とゝや」という名物茶碗の存在が示すように、茶の湯の祖である利休と名物を結びつけたいという後世の人々の願望が、新たな物語を生み出した。この由来の曖昧さと、利休の影がちらつく神秘性こそが、茶碗の価値を増幅させる装置として機能したのである。したがって、一つの説に断定するのではなく、この「説の錯綜」自体を、道具の価値が物理的特性のみならず、それに付随する「物語」によって決定されることを示す文化現象として捉えるべきであろう。
「飯櫃」という名は、文字通り飯を入れる櫃を意味するのではなく、この茶碗の最大の特徴である「歪(いびつ)」な形状を音で表したものである 4 。ユーザー提供の情報にもあるように、この茶碗は形がやや歪んでおり、その不均衡な姿こそが名称の由来であり、価値の源泉となった。
この「歪み」を理解することは、桃山時代の美意識の核心に触れることと同義である。千利休が完成させた「侘び」の美学は、自然の成り行きとしての不完全さ、例えば窯の中で偶然に灰を被って生じた景色などを尊んだ。それに対し、利休の一番弟子でありながら独自の道を切り拓いた古田織部は、「へうげもの」と称される、より大胆で作為的な美を追求した 5 。彼が指導して美濃で焼かせた「織部黒」や「黒織部」といった茶碗には、意図的に形を歪ませた「沓形(くつがた)」と呼ばれるものが多く見られる 6 。
「魚屋飯櫃高麗」の歪みは、元来、朝鮮の陶工が意図しなかった偶然の産物であった可能性が高い。しかし、古田織部はこの無作為の歪みの中に、自らが追求する美学の真髄を見出した。彼にとってこの一碗は、自らの革命的な美意識の正当性を証明する、いわば「生きた証拠」であった。織部がこの茶碗を高く評価し、茶会で用いた行為そのものが、新しい時代の美の基準を天下に示す力強い宣言となったのである。
この一点において、「魚屋飯櫃高麗」は、桃山時代の二大潮流である「利休の侘び」と「織部のへうげ」の結節点に位置する、記念碑的な存在と言える。無作為の美が、作為の美を称揚する新たな感性によって発見され、価値づけられるという、美意識の弁証法的な発展を、この一碗は静かに体現しているのである。
一つの茶碗が「大名物」として語り継がれるためには、その造形的な魅力に加え、どのような人物の手に渡り、いかに評価されてきたかという「伝来」の物語が不可欠である。「魚屋飯櫃高麗」は、戦国の気風を体現する商人、天下の茶人、そして大大名家という、時代の中心人物たちの手を渡り歩くことで、その価値を不動のものとしていった。
表1:「魚屋飯櫃高麗」の主要な伝来と関連人物
時代 |
所蔵者/関連人物 |
関連事項・特筆点 |
桃山時代(天正年間) |
亀屋栄仁(かめや えいにん) |
堺の商人。最初の所持者とされ、別名「栄忍茶碗」の由来となる 4 。商人の経済力と文化的影響力の高まりを象徴する。 |
桃山時代 |
古田重然(ふるた しげなり)(織部) |
利休亡き後の天下の茶人、武将大名 7 。この茶碗の歪みを「へうげもの」の美意識と共鳴させ、その価値を決定づけた 4 。 |
江戸時代初期以降 |
芸州浅野家 |
安芸広島藩主。大名家による秘蔵。茶道具が武家の権威と家格を象徴する「道具」へと変化していく様を示す 4 。 |
江戸時代中期 |
小堀政峯(こぼり まさみね) |
近江小室藩主、茶人。新たな銘「さわらび」を命名 1 。武将的な価値から文人的な価値へと転換させた。 |
この茶碗の来歴は、桃山時代の堺の商人、亀屋栄仁(かめやえいにん)から始まるとされる 4 。栄仁は永禄から天正年間(1558-92)にかけて活動した人物で、この茶碗は彼の名を冠して「栄忍茶碗」とも呼ばれた 4 。
最初の所有者が武将や公家ではなく商人であったという事実は、極めて象徴的である。当時の堺は、日明貿易や南蛮貿易によって莫大な富が集積する国際貿易都市であり、自治都市として独自の文化を育んでいた。堺の豪商たちは、その財力を背景に、唐物名物を収集する一方、千利休に代表されるように、新たな美意識である「侘び茶」のパトロンであり、また優れた実践者でもあった。彼らは、経済力のみならず、文化の担い手としての自負を持ち、時代の最先端を切り拓いていた。「魚屋飯櫃高麗」が、まずこうした進取の気性に富んだ商人の手に渡ったことは、この茶碗が持つ革新的な性格を物語る序章であったと言えよう。
亀屋栄仁の後、この茶碗は古田織部の所蔵となる 4 。古田織部(本名:重然)は、千利休の高弟でありながら、師の静謐な「侘び」の世界観とは一線を画し、大胆、非対称、そして歪みを積極的に取り入れた「へうげもの」の美学を確立した武将茶人である 5 。
織部にとって、「魚屋飯櫃高麗」は単なるコレクションの一つではなかった。それは、自らが提唱する革命的な美学を体現する、理想的な一碗であった。彼が自らプロデュースした「織部焼」に見られる意図的な歪みや破調は、まさにこの茶碗が持つ無作為の歪みと響き合うものであった 6 。織部が朝鮮の窯に対し、自らの好みを反映した意匠を発注して茶碗を作らせていたことからも 8 、彼の美意識が既存の枠組みにとらわれない、極めて創造的なものであったことがわかる。
織部がこの「いびつ」な高麗茶碗を愛で、天下に示すべく茶会で用いたとき、この茶碗の価値は決定的なものとなった。それはもはや単なる「珍しい高麗茶碗」ではなく、「新しい時代の美のイコン」へと昇華した瞬間であった。利休が静中の動を求めたとすれば、織部は動そのもの、すなわち奔放な生命力や破格の面白さを称揚した。この茶碗は、古田織部という稀代の数寄者の手によって、その真価を完全に見出され、「大名物」としての地位を確立したのである。
古田織部の後、茶碗は安芸広島藩主である芸州浅野家に伝来した 4 。これは、茶道具が持つ意味合いの、さらなる変化を示す出来事である。
戦国の世が終わり、徳川幕府による泰平の世が訪れると、茶の湯の役割も変容していく。かつては個人の審美眼を競い、新たな価値を創造するダイナミックな場であった茶の湯は、次第に大名家の格式や儀礼と深く結びつき、武家の社会秩序を維持するための一つの制度として洗練されていった。このような文脈において、所持する茶道具の由緒や格は、そのまま家の権威を裏付ける重要な「道具」となった。
「大坂夏の陣」で豊臣家が滅亡し、古田織部もまた幕府に切腹を命じられて非業の死を遂げた後、彼が愛したこの茶碗が大大名である浅野家に秘蔵されたことは、その価値が完全に公認され、安定化したことを意味する。かつては個人の先鋭的な美意識の表明であった「歪み」は、今や揺るぎない権威の象徴として、大名家の蔵に鎮座することになったのである。この茶碗の旅路は、桃山時代の自由闊達な気風から、江戸時代の安定した封建社会へと、時代が移行していく様を映し出している。
大名物として浅野家に伝わった「魚屋飯櫃高麗」は、江戸時代中期に新たな光を当てられることになる。その立役者は、近江小室藩主であり、小堀遠州の流れを汲む茶人でもあった小堀政峯(こぼりまさみね、1689-1761)である。彼はこの茶碗に「さわらび」という、優美で文学的な新しい銘を与えた 1 。
この銘は、『金槐和歌集』に収められた鎌倉幕府三代将軍・源実朝の和歌に由来する。
さわらびの もえいづる春に 成りぬれば のべのかすみも たなびきにけり
(早蕨が萌え出る春になったので、野辺の霞も一面にたなびいていることだ)
政峯は、この和歌を自ら茶碗を納める箱の蓋裏に書き付け、この一碗に新たな物語を添えた 1 。この命名は、茶碗の価値評価における大きな転換点を示すものである。「魚屋」というその出自の謎めいた響き、「飯櫃(いびつ)」というその形状の奇矯さ。これらは、戦国・桃山時代の武将たちが好んだ、力強く、時には荒々しい価値観と結びついていた。しかし、「さわらび」という銘は、この茶碗を古典和歌の典雅な世界へと誘う。
「さわらび(早蕨)」は、硬い地面を突き破って萌え出る、若々しい生命力の象徴である。政峯は、この茶碗の歪んだ形を、冬の厳しさを乗り越えて芽吹く生命の躍動感として、極めて詩的に再解釈したのである。これにより、「魚屋飯櫃高麗」という、その素性と形状を即物的に示す名前に、「さわらび」という文学的で洗練されたペルソナが上書きされた。茶碗は、一つの物体でありながら、それを見る時代の価値観を映し出す鏡となり、その物語を幾重にも重ねていく。武将の豪胆さを映した器は、泰平の世の文人藩主の手によって、春の野の情景を詠む優雅な器へと姿を変えたのである。
本報告書で詳述してきた通り、大名物「魚屋飯櫃高麗」は、単に朝鮮半島から渡来した古い茶碗という一言で語り尽くせる存在ではない。その価値は、幾つもの歴史的・文化的階層が重なり合って形成された、極めて複合的なものである。
第一に、それは朝鮮の無名の陶工による日常雑器に美を見出す、日本の「見立て」の精神を純粋な形で示している。
第二に、「魚屋」という名称は、堺の商人の活力と、茶祖・千利休をめぐる伝説が交錯する豊かな「物語性」を内包している。
第三に、その「飯櫃(いびつ)」な形状は、古田織部が主導した「へうげもの」の美学革命を体現する、まさに「時代精神の象徴」であった。
第四に、大名・浅野家に伝来したことで、個人の趣味の対象から、家の権威を示す「道具」としての役割を担うことになった。
そして最後に、江戸中期に「さわらび」と命名されたことで、武将的な価値観から、和歌の世界観に根差した「文学的価値」が付与された。
この一碗の来歴を丹念に追うことは、日本の美意識が、時代の要請の中でいかに変遷し、社会の価値観が器物という媒体にいかに投影されてきたかを解き明かす旅に他ならない。「魚屋飯櫃高麗」の歪んだ形は、決して単なる欠点や偶然の産物ではない。それは、時代の変化を映し出し、数多の数寄者たちの思想と情熱を受け止めてきた、雄弁な歴史の証人なのである。この一碗は、その静かな佇まいの中に、戦国の激動と桃山の爛熟、そして江戸の泰平という、日本の文化史の豊潤な記憶を宿し、今なお我々に多くのことを語りかけている。