一乗谷の戦い(1573)
一乗谷の戦い(1573年):名門朝倉氏滅亡の十日間、そのリアルタイムの軌跡
序章:落日の都
天正元年(1573年)八月、越前国(現在の福井県)に百三年の長きにわたり君臨した名門・朝倉氏。その本拠地であり、戦国の世にあって比類なき文化的繁栄を誇った城下町・一乗谷は、燃え盛る炎に包まれていた。織田信長が放った火は三日三晩燃え続け、かつて「北陸の小京都」と謳われた壮麗な都は、一宇残さず灰燼に帰した 1 。この出来事は、単に一地方大名の滅亡を意味するに留まらない。それは、旧来の権威と文化が、圧倒的な武力と冷徹な合理主義の前に脆くも崩れ去る、戦国という時代の苛烈さを象徴する悲劇であった。
何がこの栄華を極めた文化都市を、完全なる破壊という終局へと導いたのか。朝倉氏最後の当主・朝倉義景は、なぜかくも無残な敗北を喫したのか。本報告書は、栄華から滅亡へと至る朝倉氏最後の軌跡を、特に運命が定まった天正元年八月の十日間に焦点を当て、軍事的、政治的、そして人間的側面から、あたかもリアルタイムで事態が進行するかのように詳細に追跡・分析するものである。
第一章:栄華と斜陽 – 朝倉氏百年の治世と信長包囲網の崩壊
第一節:北陸の小京都、一乗谷の繁栄
朝倉氏の越前支配は、初代・朝倉孝景の時代にその礎が築かれた 1 。応仁の乱の動乱期を巧みに生き抜き、主家であった斯波氏に取って代わって越前一国を掌握した孝景は、一乗谷に本拠を構えた。以後、五代百三年にわたり、朝倉氏は越前に安定した治世をもたらす 1 。
その治世下で、一乗谷は他に類を見ない文化都市へと発展した。戦乱で荒廃した京の都を逃れ、多くの公家、僧侶、文化人たちがこの地に安住の地を求めた 6 。彼らがもたらした都の洗練された文化は、朝倉氏の庇護のもとで花開き、一乗谷では和歌や連歌、絵画、茶の湯、猿楽などが盛んに行われた 8 。発掘調査では、計画的に整備された道路網、壮麗な庭園を持つ武家屋敷や寺院、そして庶民の町屋が広がる、人口一万人を超える大都市の姿が明らかにされている 9 。その繁栄ぶりは「北陸の小京都」と称され、戦国の世にあって奇跡的な平和と文化を享受していたのである 6 。
第二節:信長との対立構造
しかし、この平和は尾張から急速に台頭した織田信長の存在によって脅かされる。永禄十一年(1568年)、室町幕府の将軍継嗣・足利義昭を奉じて上洛を果たした信長は、天下静謐を大義名分に、周辺大名に対して上洛と臣従を求めた 14 。しかし、朝倉義景はこれを再三にわたり無視する 15 。朝倉家は守護職、対する織田家は守護代の分家に過ぎず、家格の上では朝倉氏が上であった 15 。義景にとって、信長の命令に従うことは名門としての誇りが許さなかったのである。
この義景の態度は、信長に「将軍の命に従わぬ逆賊」として朝倉討伐の口実を与えた。元亀元年(1570年)、信長は三万の兵を率いて越前に侵攻。この「金ヶ崎の戦い」において、朝倉氏は信長の義弟であり、長年の盟友であった北近江の浅井長政の離反によって窮地を脱する 15 。信長は命からがら京へ撤退するが、この裏切りは信長に浅井・朝倉への消し難い怨恨を抱かせた 16 。同年六月の「姉川の戦い」では、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に辛勝するも、決着には至らず、両者の対立は長期化・泥沼化の一途を辿ることになる 4 。
第三節:信長包囲網の瓦解
信長の強引な勢力拡大は、各地の反信長勢力を結集させた。将軍・足利義昭を盟主として、浅井・朝倉の両氏に加え、甲斐の武田信玄、石山本願寺、比叡山延暦寺などが連携し、信長を東西南北から包囲する一大連合「信長包囲網」が形成される 1 。これにより信長は生涯最大の窮地、四面楚歌の状況に陥った 1 。
この膠着したパワーバランスを劇的に変化させたのが、天正元年(1573年)四月、信長が最も恐れた敵、武田信玄の病死であった 1 。西上作戦の途上で信玄がこの世を去ったことで、信長包囲網の最大の重石が外れたのである。この外部要因は、朝倉氏の運命を決定づける極めて重要な転機となった。それまで信玄の圧力を背景に、信長との戦線を維持してきた朝倉氏の戦略的基盤が、この瞬間に崩壊したからである。義景の優柔不断と評される態度の背景には、この信玄の力に依存する他力本願的な戦略があった可能性は否定できない。
最大の脅威が消滅したことで、信長は戦略的な自由を獲得した。彼はすぐさま反撃に転じ、同年七月には将軍・足利義昭を京から追放し、室町幕府を事実上滅亡させる 1 。これにより信長包囲網は名実ともに瓦解。信長は、残る宿敵、浅井・朝倉の息の根を止めるべく、全戦力を近江・越前方面に集中させることが可能となった。朝倉氏滅亡へのカウントダウンは、信玄の死の報せと共に始まっていたのである。
第二章:破局への行軍 – 天正元年八月、運命の近江出兵
第一節:小谷城の危機と朝倉家の内情
天正元年八月、信長は満を持して行動を開始した。約三万の兵力で、浅井長政の居城・小谷城を完全に包囲 21 。風前の灯となった盟友から、朝倉義景のもとへ最後の救援要請が届く。
しかし、この時の朝倉家中の状況は、外部の脅威に一致団結して立ち向かえる状態ではなかった。姉川の戦い以降、度重なる出兵は領国と将兵を著しく疲弊させ、家臣団の間には深刻な厭戦気分が蔓延していた 9 。魚住景固をはじめとする重臣たちは、もはや勝ち目のない戦であるとして、義景の出陣命令に公然と反対、あるいは拒否するという異常事態に至る 9 。戦国大名家において、当主の軍令が重臣によって拒否されることは、その統制力が末期的な状況にあることを示していた。
第二節:義景、苦渋の決断
重臣たちの反発に遭い、義景は苦渋の決断を迫られる。ここで彼が下した決断は、自らが総大将として出陣することであった。当主の親征という形をとることで、ようやく約二万の兵を集めることができたのである 21 。しかし、この行動は君主としての強力なリーダーシップの発露というよりは、むしろ低下した求心力を糊塗するための最後の手段であった。自らが動かなければ軍を編成することすらできないほど、義景の権威は失墜していたのである。
こうして集められた軍勢は、もはや一枚岩ではなかった。士気は極めて低く、陣中には「どうせ今回も睨み合い程度で終わり、また一乗谷の優雅な生活に戻れるだろう」という楽観論、あるいは他人事のような空気が流れていたと伝えられる 9 。百年にわたり本拠地を敵に侵された経験のない平和が、彼らの危機感を致命的に麻痺させていた。この出兵は、勝利を目指すための戦略的行動ではなく、組織の崩壊を目前にして、名門としての最後の体面を保つための、絶望的な性格を帯びた行軍であった。
【表1:両軍の兵力と主要武将】
合戦開始前の両陣営の戦力は、以下の通りである。この数字と構成員の比較は、後の戦況を予見させるものであった。
項目 |
織田軍 |
朝倉軍 |
総大将 |
織田信長 |
朝倉義景 |
総兵力 |
約30,000 22 |
約20,000 9 |
主要武将 |
柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、佐久間信盛、滝川一益 など |
朝倉景鏡、山崎吉家、朝倉景健、鳥居景近、魚住景固 など |
この表が示すように、織田軍は兵力において朝倉軍を圧倒していた。さらに重要なのは、その質的な差である。織田軍には、後に天下の覇権を争うことになる錚々たる武将たちが顔を揃え、信長のもとで強固な指揮系統が確立されていた。対照的に、朝倉軍は重臣の出兵拒否に見られるように結束を欠き、士気も低かった 21 。この戦力と組織力の差が、続く刀根坂での一方的な展開の伏線となる。
第三章:刀根坂の激闘 – 織田軍、怒濤の追撃戦(天正元年八月)
朝倉氏滅亡に至る最後の十日間は、息つく暇もなく事態が展開した。その詳細な時系列は、この戦いの本質を理解する上で不可欠である。
【表2:一乗谷の戦い 詳細年表(天正元年八月)】
日付 |
場所 |
織田軍の動向 |
朝倉軍の動向 |
主要な出来事・備考 |
8月10日頃 |
近江・小谷城周辺 |
浅井長政の小谷城を3万の兵で包囲中。 |
浅井氏救援のため、義景自ら2万を率いて近江へ出陣。田上山などに布陣。 |
朝倉家臣団には厭戦気分が蔓延 9 。 |
8月12日 |
近江・大嶽砦など |
暴風雨に乗じ、朝倉軍の拠点である大嶽砦、丁野山城を奇襲・攻略。 |
後詰の拠点を失い、動揺が走る。 |
信長の狙い通り、朝倉軍の退路を脅かす 24 。 |
8月13日 |
近江→越前・刀根坂 |
朝倉軍の退却を察知し、信長自ら先頭に立ち全軍で猛追撃を開始。 |
拠点の陥落を受け、全軍撤退を決断。 |
追撃戦「刀根坂の戦い」が始まる 1 。 |
8月14日 |
越前・刀根坂 |
刀根坂で朝倉軍を捕捉。一方的な殲滅戦を展開。 |
組織的抵抗力を失い潰走。死者3,000人以上。山崎吉家ら多数の将が戦死。 |
朝倉軍の軍事力が事実上壊滅 21 。 |
8月15日 |
越前・一乗谷 |
- |
義景、わずかな手勢(約500)と共に一乗谷へ帰還。 |
援軍に駆けつける者は皆無 25 。 |
8月16日 |
越前・一乗谷 |
- |
朝倉景鏡の進言を受け、大野郡への脱出を準備。 |
この時点で景鏡は信長と内通か 25 。 |
8月17日 |
越前・府中 |
信長本隊が府中に着陣。将兵を休ませる。 |
義景、一乗谷を脱出し大野郡へ向かう。 |
- |
8月18日 |
越前・一乗谷 |
柴田勝家を先鋒に一乗谷へ侵攻。市街地を制圧し、放火を開始。 |
- |
三日三晩続く焼き討ちの始まり 1 。 |
8月19日 |
越前・一乗谷 |
焼き討ちを継続。 |
- |
- |
8月20日 |
越前・大野郡賢松寺 |
- |
景鏡の兵に宿所を包囲される。近習の奮戦も空しく、義景は自刃(享年41)。 |
名門・朝倉氏、滅亡 1 。 |
第一節:信長の罠
近江に出陣した朝倉軍に対し、信長は周到な罠を仕掛けていた。彼は朝倉軍の士気の低さを完全に見抜いており、「後方の支城が落ちれば、戦わずして必ず退却する」と読んでいたのである 21 。天正元年八月十二日、近畿地方を襲った暴風雨。信長はこの天候を味方につけ、朝倉軍が後詰の拠点としていた大嶽砦と丁野山城に電撃的な奇襲攻撃を敢行し、これを一日で陥落させた 21 。
第二節:潰走の始まり(八月十三日)
信長の読みは的中した。後方の拠点を失い、退路を脅かされた朝倉義景は完全に戦意を喪失。兵力で劣り、士気も低い状況では勝ち目がないと判断し、越前への全面撤退を決断した 21 。
しかし、信長はこの瞬間をこそ待っていた。朝倉軍が退却を開始するや否や、信長は自ら陣頭に立って全軍に猛追撃を命令 21 。これは単なる成り行きの追撃ではなかった。敵軍が再編成する時間と空間を与えず、その組織的戦闘能力を未来永劫奪い去ることを目的とした、計画された殲滅戦の開始であった。
第三節:刀根坂の殺戮
越前への入り口にあたる刀根坂(現在の福井県敦賀市)の隘路で、織田軍の追撃部隊は、混乱のうちに退却する朝倉軍の殿(しんがり)に追いついた 21 。ここから繰り広げられたのは、もはや「合戦」と呼べるものではなかった。組織的な抵抗を完全に失い、ただ我先にと逃げ惑う朝倉の将兵を、織田軍が一方的に斬り伏せていく凄惨な殺戮であった 24 。
この「刀根坂の戦い」で、朝倉軍は壊滅的な打撃を受けた。『信長公記』によれば、重臣の山崎吉家、鳥居景近、一族の朝倉景氏・景冬といった名のある武将三十八名、そして三千人を超える兵士が討ち取られたと記録されている 21 。この戦いこそが、「一乗谷の戦い」における軍事的なクライマックスであった。一乗谷城では大規模な籠城戦は行われておらず、朝倉氏の軍事力はこの刀根坂での追撃戦によって、事実上、完全に破壊されたのである。信長の戦術眼の真髄は、敵の退却を単なる勝利ではなく、敵対勢力の再起の芽を完全に摘む機会と捉える、その非情なまでの合理主義にあった。
第四章:灰燼に帰す文化都市 – 一乗谷、三日三晩の劫火(八月十五日~十八日)
第一節:絶望の帰還
八月十五日、朝倉義景はわずか五百騎の手勢とともに、命からがら本拠地・一乗谷へと逃げ帰った 25 。しかし、彼を待っていたのはさらなる絶望であった。主君の危機を聞き、馳せ参じる家臣は誰一人としておらず、百年の都は静まり返っていた 25 。刀根坂での大敗は、朝倉家臣団の心を完全に打ち砕き、義景は完全に孤立無援となったのである。
第二節:焼き討ちの命令
一方、追撃の手を緩めぬ信長は八月十七日、越前の府中(現在の越前市)に本陣を置いた 25 。ここで将兵にしばしの休息を与えると、翌十八日、柴田勝家を先鋒として一乗谷への総攻撃を命じる 1 。
信長の命令は、単なる城下の制圧ではなかった。それは、朝倉氏が百年にわたり築き上げてきた居館、寺社仏閣、武家屋敷、町屋のすべてを焼き払い、一乗谷という都市そのものを地上から消し去るという、徹底的な破壊命令であった 1 。
第三節:三日三晩の劫火
八月十八日から二十日にかけて、織田軍は一乗谷の隅々にまで火を放った。炎は三日三晩燃え続け、壮麗な朝倉館も、信仰を集めた寺社も、文化人たちが集った屋敷も、すべてが紅蓮の炎に飲み込まれていった 1 。なおも朝倉氏に忠義を尽くそうとした数百名の兵が抵抗を試みたというが、大軍の前にその抵抗は儚く潰えた 25 。
この徹底的な焼き討ちは、軍事的な必要性をはるかに超えた行為であった。刀根坂で朝倉軍の主力はすでに壊滅しており、一乗谷に大規模な抵抗勢力は残っていなかった。信長の真の狙いは、朝倉氏の物理的な戦力だけでなく、その権威の源泉であった「文化都市・一乗谷」という存在そのものを消滅させることにあった。これは、越前の人々の心に朝倉の時代の完全な終わりを焼き付け、新たな支配者への抵抗意志を根絶やしにするための、計算され尽くした政治的・心理的な焦土作戦であった。
しかし、歴史の皮肉とでも言うべきか、この信長の徹底した破壊行為が、結果的に一乗谷を後世に残すことになった。焼き討ち後、越前を任された柴田勝家は、より交通の便が良い北ノ庄(現在の福井市)に新たな城を築き、一乗谷は放棄された 29 。そのため、灰燼に帰した都市は人の手が加わることなく田畑の下に埋もれ、あたかもイタリアのポンペイ遺跡のように、戦国時代の城下町の姿がそっくりそのままタイムカプセルとして保存されるという、奇跡的な結果を生んだのである 30 。
第五章:名門の終焉 – 朝倉義景、裏切りの果ての自刃(八月二十日)
第一節:従弟の甘言
一乗谷からの脱出を余儀なくされた義景に、一族の筆頭であり、従弟にあたる朝倉景鏡(かげあきら)が再起の策を進言した 21 。自身が郡司を務める大野郡は盆地で守りに堅く、同盟関係にある平泉寺の強力な僧兵集団を頼れば、必ずや再起を図れる、と 25 。もはや他に頼る術のない義景は、この言葉を信じた。
しかし、それは義景を死地に誘うための、裏切りに満ちた甘言であった。この時すでに、景鏡も平泉寺も、羽柴秀吉らによる織田方の調略に応じ、信長と内通していたのである 14 。
第二節:賢松寺の悲劇
景鏡の言葉を信じて大野郡へと落ち延びた義景は、八月二十日、景鏡が仮の宿所として指定した六坊賢松寺に入った 16 。義景が寺に入り、一息ついたその直後であった。景鏡は二百の手勢を率いて賢松寺を完全に包囲。主君に対する刃が、公然と向けられたのである 21 。義景と景鏡の間には、以前から権力争いを背景とした確執があったとも伝えられており、積年の不満がこの土壇場で最悪の形で噴出した 33 。
景鏡の裏切りは、単なる個人の野心や恐怖心から生じたものではない。それは、朝倉家という組織が末期的な崩壊状況にあったことの最終的な表出であった。すでに多くの家臣が織田方に寝返る中 33 、一族筆頭という重責を担う景鏡は、もはや沈みゆく本家と運命を共にするのではなく、本家を犠牲にしてでも自らの一族(大野朝倉氏)を新時代の覇者のもとで存続させるという、冷徹かつ合理的な選択を下したのである。
第三節:自刃と一族の末路
裏切りを悟った義景に残された道は、もはやなかった。高橋景業ら数名の近習が最後まで奮戦し、討死していく中、万策尽きた義景は自刃して果てた。辞世の句は「七顛八倒 四十年中 無他無自 四大本空」と伝えられる。享年四十一 1 。
景鏡は、主君であった義景の首を信長のもとへ持参し、降伏した 25 。信長は義景の髑髏に漆を塗り、金粉を施して杯とし、祝宴で披露したと伝えられる 3 。義景の嫡男・愛王丸や愛妾・小少将ら、捕らえられた近親者も、助命の約束を反故にされ、護送の途上で処刑された 3 。これにより、越前に百三年間君臨した名門・朝倉氏の嫡流は、完全に断絶したのである。
終章:戦後の越前と一乗谷の「第二の生」
第一節:束の間の支配と新たな混乱
主君を裏切り、信長に降った朝倉景鏡であったが、その栄華は長くは続かなかった。信長から本領である大野郡の支配は安堵されたものの、翌天正二年(1574年)、旧臣間の内紛をきっかけに越前で大規模な一向一揆が蜂起。景鏡は一揆勢の攻撃の前に為す術もなく討ち死にし、その一族もまた滅び去った 35 。裏切りによって得た束の間の安寧は、新たな混乱の中で潰えたのである。
この一向一揆を鎮圧するため、信長は天正三年(1575年)に再び越前へ大軍を派遣し、一揆勢を殲滅。その後、腹心の将である柴田勝家を北ノ庄城主として越前に封じ、ようやくこの地に新たな支配体制を確立した 2 。
第二節:土中に眠るタイムカプセル
歴史の表舞台から完全に姿を消し、四百年以上の長きにわたり田畑の下に眠り続けた一乗谷。その価値が再び見出されたのは、昭和四十二年(1967年)に本格的な発掘調査が開始されてからのことであった 8 。
発掘調査が明らかにしたのは、驚くべき事実であった。朝倉氏の館跡を中心に、武家屋敷、寺院、町屋、さらには道路や庭園に至るまで、戦国時代の城下町の全体像がほぼ完全な形で地中に保存されていたのである 11 。これは、日本の考古学史上初めての快挙であった。これまでに発掘された遺物は百七十万点以上にのぼり、当時の人々の生活や文化を、他に類を見ない解像度で現代に伝えている 38 。
第三節:結論
「一乗谷の戦い」は、織田信長の圧倒的な軍事力と、敵の心理まで読み切った冷徹な戦略の前に、百年の歴史を誇った名門・朝倉氏がわずか十日余りで滅亡へと追いやられた事件である。それは、家格や伝統といった旧来の権威が、武力と合理主義を前面に押し出す新しい時代の潮流によって駆逐される、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。
そして、その悲劇的な結末は、皮肉にも戦国時代の都市と文化の姿を比類なき形で現代に伝える「奇跡の遺跡」を生み出した。炎によって滅びた都は、土の中で時を止め、四百五十年後の今、我々にその栄華と悲劇の物語を静かに、そして雄弁に語りかけているのである。
引用文献
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- 朝倉氏の歴史 - 福井市 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/site/history
- 朝倉義景 - 歌舞伎美人 https://www.kabuki-bito.jp/special/knowledge/todaysword/post-todaysword-post-207/
- 一乗谷朝倉氏遺跡とは?日本のポンペイと呼ばれる貴重な遺跡は、大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場しました - 福いろ https://fuku-iro.jp/feature/11
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- 信長を土下座させた男!?朝倉氏最後の当主・義景が住んだ「一乗谷朝倉氏遺跡」 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/83724/
- 観光案内:一乗谷朝倉氏遺跡 https://www.fcci.or.jp/fsig/asakura.htm
- いよいよ「麒麟がくる」越前へ!なぜ朝倉義景の時代に越前の文化都市は滅ぼされたのか? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/98139/
- 信長に滅ぼされた幻の町【一乗谷】炎上編 朝倉家滅亡の跡 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=j9O5oslhyCc&pp=0gcJCa0JAYcqIYzv
- 朝倉孝景(敏景)・朝倉義景 | 歴史あれこれ | 公益財団法人 歴史のみえるまちづくり協会 https://www.fukui-rekimachi.jp/category/detail.php?post_id=30
- 遺跡のご紹介 - 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/site/
- 歴史ファンにはたまらない!一乗谷朝倉氏遺跡の魅力とは? | ツアーマスター Tour Master https://tourmaster.jp/archives/2727/
- 【日本名城シリーズ】 かつて「北陸の小京都」と呼ばれる山城・福井「一乗谷城」 - FUN! JAPAN https://www.fun-japan.jp/jp/articles/13170
- 信長を敗北寸前にまで追い込んだ男!朝倉義景とは一体どんな人物だったのか? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/99054/
- 朝倉義景は何をした人?「信長の背後をねらうヒット&アウェイでマジギレされた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikage-asakura
- 一乗谷城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11096/
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- 姉川の戦|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2375
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- よみがえる戦国城下町 - 一乗谷朝倉氏遺跡 小野 正敏 氏 - こだわりアカデミー https://www.athome-academy.jp/archive/history/0000000188_all.html
- 日本のポンペイ!一乗谷朝倉氏遺跡で戦国時代へタイムスリップ! - 福井県観光連盟 https://www.fuku-e.com/feature/detail_191.html
- [合戦解説] 10分でわかる一乗谷城の戦い 「織田信長猛追撃、朝倉義景は裏切られる」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=TaSJpppfgs8
- 主君を盛大な罠にはめ自害にまで追い込んだ裏切者「朝倉景鏡」…そして朝倉家は滅亡へ https://mag.japaaan.com/archives/169859
- 主君を裏切った朝倉景鏡!団結力に欠けた朝倉家は織田信長に敗北! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=GmexUUkzDY4
- 朝倉景鏡と朝倉氏の末裔 - 日本実業出版社 https://www.njg.co.jp/column/column-33829/
- 朝倉景鏡関係史跡 境寺居館跡 http://fukuihis.web.fc2.com/memory/me401.html
- 一乗谷朝倉氏遺跡 - 滋賀県立大学 人間文化学部 地域文化学科 石川研究室<保存修景計画学> http://www.shc.usp.ac.jp/profile/ishikawas/2014/06/post-42.html
- 考古資料検索システム - 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/database_list/046_archaeologicaldata/detail.php?id=83
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- 特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡を中核とする 地域文化観光推進地域計画 - 文化庁 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunka_gyosei/bunkakanko/pdf/92441401_05.pdf