最終更新日 2025-08-28

一宮城の戦い(1585)

天正13年、羽柴秀吉の四国征伐において、阿波一宮城は長宗我部氏の重要拠点として豊臣軍の猛攻を受けた。秀長率いる大軍は水の手を断つ「もぐら攻め」で城を陥落させ、長宗我部元親は降伏。この戦いは四国平定を決定づけ、豊臣政権の先進的軍事力を示した。

天正十三年 阿波一宮城の戦い ― 四国平定を決した二十日間の攻防 ―

序章: 天下統一の奔流、四国へ

天正13年(1585年)の天下情勢

天正13年(1585年)、日本の政治情勢は、羽柴秀吉を中心として大きく動いていた。前年の天正12年(1584年)に繰り広げられた小牧・長久手の戦いを経て、東海の雄・徳川家康と実質的な和睦を果たした秀吉は、天下人としての地位を盤石なものとしつつあった 1 。織田信長の後継者としての立場を確固たるものにした秀吉の視線は、いまだその支配に服さぬ西国、すなわち紀伊、四国、そして九州へと注がれていた。天下統一事業は、まさに最終段階へと突入していたのである 3

この時期における秀吉の軍事行動は、単なる領土拡張を目的とするものではなかった。それは、織田信長が築き上げた天下布武の事業を継承し、自らが日本全土を統べる唯一無二の支配者であることを内外に誇示するための、極めて高度な政治的パフォーマンスでもあった。特に四国平定は、畿内に隣接し、瀬戸内海の制海権を確保する上で戦略的に不可欠であり、天下統一の総仕上げに向けた重要な布石と位置づけられていた。

四国の覇者・長宗我部元親の台頭と秀吉との対立

その四国において、一代で覇権を確立したのが「土佐の出来人」と称された長宗我部元親であった。土佐一国を統一した後、その勢いは留まることを知らず、阿波、讃岐、伊予へと破竹の勢いで進出。天正13年(1585年)春には、伊予の名門・河野氏を降伏させ、四国全土のほぼ完全な統一を成し遂げていた 5

元親と中央政権との関係は、織田信長の時代に遡る。当初、元親は信長の同盟者として、「四国は切り取り次第」との黙許を得て勢力を拡大していた 3 。しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が横死し、その後継者として秀吉が台頭すると、両者の関係は急速に冷却化していく。秀吉は、元親の際限なき勢力拡大を、自らが目指す天下統一への明確な障害と見なすようになった 1

対立を決定的なものとしたのが、二つの大きな出来事であった。一つは、小牧・長久手の戦いにおいて、元親が徳川家康・織田信雄方に与し、秀吉と敵対したことである 1 。もう一つは、秀吉が紀州征伐に乗り出した際、元親が長年の同盟者であった根来衆や雑賀衆と連携し、秀吉の背後を脅かす姿勢を見せたことであった 2 。これにより、秀吉にとって長宗我部元親は、単なる地方勢力ではなく、討伐すべき明確な敵対者として認識されるに至ったのである。

外交交渉の決裂

全面的な軍事衝突を前に、両者の間では最後の外交交渉が試みられた。元親は、重臣であり智謀の将として知られる谷忠澄を幾度となく秀吉のもとへ派遣し、和睦の道を探った 9 。元親は、四国統一の過程で多大な犠牲を払って得た伊予一国を割譲するという、最大限の譲歩案を提示したとされる 2

しかし、秀吉が元親に突きつけた条件は、元親の想定を遥かに超える苛烈なものであった。それは、元親の本領である土佐一国を除く、阿波・讃岐・伊予の三国すべてを朝廷に返上し、直ちに上洛して臣従せよというものであった 9 。これは、元親がそれまで築き上げてきた全てを否定するに等しい要求であり、到底受け入れられるものではなかった。かくして交渉は完全に決裂し、秀吉による四国征伐が決定された 10

この交渉過程は、両者の立場が根本的に異なっていたことを示している。元親の交渉が、独立した大名として現状の勢力圏を可能な限り維持しようとする「妥協案」の提示であったのに対し、秀吉の要求は、中央の天下人が地方の抵抗勢力に絶対的な服属を求める「最後通牒」であった。秀吉にとって、この交渉は元親に恭順の意を示す最後の機会を与えるための儀礼的な手続きに過ぎず、その主目的は、圧倒的な軍事力を行使するための大義名分を確保することにあった。すでに秀吉は、天正13年3月に紀州を平定し、元親の強力な同盟者であった根来・雑賀衆を壊滅させており 3 、軍事的に包囲網を完成させていた。この交渉は、対等な国家間の話し合いではなく、中央集権化を進める巨大権力が、地方の独立勢力をその体制下に組み込むプロセスの一環であり、決裂は必然であったと言える。

第一部: 四国征伐の開幕

第一章: 豊臣軍の侵攻計画 ― 三方面からの同時上陸作戦

外交交渉の決裂を受け、秀吉は四国全土を制圧すべく、未曾有の大軍を動員した。天正13年6月、その総兵力は10万を超えたと記録されている 11 。秀吉自身は、越中の佐々成政への警戒と、自身の病のため岸和田城に留まり直接指揮を執ることはなかったが 4 、総大将としてこの一大事業を託されたのは、彼が最も信頼を寄せる弟、羽柴秀長であった。

秀長は、温厚篤実な人柄で知られ、兄・秀吉の豪放磊落な性格を補い、諸大名との調整役として豊臣政権の安定に大きく貢献した人物である 13 。しかし、その穏やかな人柄の裏には、冷静な判断力と卓越した軍事能力が秘められていた。副将には甥の羽柴秀次が任命され、万全の指揮体制が敷かれた 15

秀吉が立案した作戦は、長宗我部軍の兵力を分散させ、各個撃破を狙う、極めて合理的かつ大規模なものであった。それは、阿波・讃岐・伊予の三方面から、同時に四国へ上陸侵攻するという壮大な計画であった 4

  • 阿波方面軍(主攻) :総大将・羽柴秀長が率いる大和・和泉・紀伊の兵3万と、副将・羽柴秀次が率いる摂津・近江・丹波の兵3万、合計6万の主力軍団 10 。堺や明石から淡路島を経由し、大小800艘もの船団で阿波の玄関口である土佐泊(現在の徳島県鳴門市)に上陸し、長宗我部軍の防衛網の中枢を突破する役割を担った 3
  • 讃岐方面軍 :宇喜多秀家率いる備前・美作の兵を中心に、播磨から蜂須賀正勝・黒田孝高、そして仙石秀久らが加わった計2万3千の軍勢 15 。讃岐の屋島に上陸し、現地の長宗我部勢力を制圧した後、南下して阿波へ転進し、主力の秀長軍と合流する計画であった 15
  • 伊予方面軍 :毛利輝元を総帥とし、その両翼を担う小早川隆景・吉川元長が率いる中国方面軍3万から4万 11 。安芸・備後から伊予へ渡り、西から長宗我部軍の背後を突き、阿波の主戦線から敵の兵力を引き剥がすことを目的とした。

この10万を超える大軍を、しかも海を越えて三方面に同時に展開させる作戦は、単に兵の数が多ければ実行できるものではない。兵員、馬、武具、弾薬、そして膨大な兵糧を滞りなく前線に供給し続ける、高度な兵站(ロジスティクス)能力が不可欠であった。この作戦の生命線を担ったのが、毛利水軍や九鬼水軍といった、瀬戸内海の制海権を完全に掌握していた豊臣方の強力な水軍であった 16 。彼らが海上輸送路を確保したことで、この大規模な渡海作戦は初めて可能となったのである。この四国征伐は、後の九州征伐や小田原征伐といった、さらに大規模な遠征の成功を予感させるものであり、豊臣政権が確立した広域兵站ネットワークと、それを支える国家的な動員力のデモンストレーションであった。それは、個々の武将の武勇や局地的な戦術に勝敗が左右された旧来の戦とは一線を画す、国家の総力を挙げて兵站を維持し、物量で敵を圧倒する「近代戦」の萌芽であったと言える。

第二章: 長宗我部軍の防衛網 ― 阿波国を死守せよ

四国の覇者・長宗我部元親も、秀吉の大軍が迫り来るのを座して待っていたわけではない。彼は、豊臣軍の主力が淡路島を経由して阿波に侵攻してくることを正確に予測しており 15 、四国の地理的中心に位置する阿波西部の白地城に本陣を構え、自ら全軍の指揮を執った 4

元親の防衛戦略の基本は、阿波国の主要な城砦に一族や重臣を配置し、多層的な防衛線を構築して豊臣軍の進撃を食い止め、持久戦に持ち込むことであった。その防衛網の配置は以下の通りである 8

  • 木津城(最前線) :東条関兵衛。淡路島からの上陸地点に最も近く、豊臣軍を最初に迎え撃つ役割を担う 18
  • 牛岐城 :香宗我部親泰。元親の実弟であり、阿波南部の沿岸防衛を担う 8
  • 渭山城(後の徳島城) :吉田康俊。吉野川下流域の要衝 8
  • 一宮城(防衛網の中核) :江村親俊、谷忠澄。阿波中央部に位置し、府城である勝瑞城と元親の本陣・白地城を結ぶ線上にあり、防衛網の「要石」とも言うべき最重要拠点 8
  • 岩倉城 :比江山親興。吉野川中流域を押さえる重要拠点 8
  • 脇城 :長宗我部親吉。岩倉城と連携し、阿波西部への進攻を阻む 8

しかし、この防衛戦略には構造的な脆弱性が内包されていた。元親が動員できた兵力は最大で4万程度とされ、この兵力を四国全土、すなわち阿波・讃岐・伊予の三方面に分散配置せざるを得なかった 10 。これは、各方面において豊臣軍に対して圧倒的な兵力差で対峙することを意味した。特に、6万の大軍が投入された阿波方面では、長宗我部軍の兵力は各城に分散配置された数千の兵の集合体に過ぎず、豊臣軍の集中攻撃に対して極めて不利な状況にあった。元親の防衛網は、秀吉の「三方面同時侵攻」という戦略の前では、各個撃破される危険性が高く、一箇所の防衛線が突破されれば、将棋倒しのように連鎖的に崩壊する脆さを抱えていた。そして、その戦略的劣勢が戦術的敗北へと直結する過程を象徴するのが、これから詳述する一宮城の戦いであった。

第二部: 一宮城の攻防 ― 時系列による合戦の再構築

阿波東部の防衛線が瓦解し、豊臣軍の矛先は防衛網の中核である一宮城へと向けられた。ここでの戦いは、単なる一城の攻防に留まらず、四国の運命を決定づける天王山となった。攻城戦の詳細に入る前に、両軍の戦力を比較することで、この戦いの様相を明確にしたい。

表1:一宮城の戦いにおける両軍戦力比較

項目

豊臣軍(羽柴秀長軍)

長宗我部軍(一宮城籠城軍)

典拠

総兵力

約50,000 - 60,000

約5,000 - 9,000

15

総大将

羽柴秀長

(江村親俊・谷忠澄)

8

主要武将

羽柴秀次、筒井定次、藤堂高虎、蜂須賀正勝、増田長盛、黒田孝高ら

江村親俊、谷忠澄

8

装備・兵站

鉄砲・大砲を多数装備。兵站は潤沢で、武具・馬具は壮麗。

20年来の戦乱で武具は疲弊。兵糧も乏しい。

10

兵の質

兵農分離が進んだ専業兵士が中心。

兵農未分離の農民兵が多数。

2

この表が示す通り、両軍には5倍以上の圧倒的な兵力差が存在した。さらに、装備の質、兵站能力、兵士の練度といった質的な面においても、その差は歴然であった。一宮城の籠城軍は、絶望的とも言える状況下で、この大軍を迎え撃つことになったのである。

第一章: 戦いの舞台 ― 堅城・一宮城の実像

一宮城は、阿波国の中央部、現在の徳島市一宮町に位置する。吉野川下流域の平野部を一望できる戦略的要衝であり、阿波の府城であった勝瑞城と、元親が本陣を置く西部の白地城を結ぶ街道上にあり、阿波防衛網のまさに「要石」であった 24

城郭は、標高約144mの独立した山を利用して築かれた、徳島県内でも最大規模を誇る典型的な戦国時代の山城である 25 。その構造は極めて堅固かつ巧妙であった。

  • 連郭式の縄張り :山の頂に本丸を置き、そこから伸びる複数の尾根上に、明神丸、才蔵丸、小倉丸といった大小様々な曲輪(くるわ)を階段状に配置。これらの曲輪が相互に連携し、敵を多角的に攻撃できる重層的な防御体制を構築していた 25
  • 防御施設 :敵の進軍を阻むため、尾根を人工的に深く断ち切った「堀切(ほりきり)」や、山の斜面を垂直に掘り下げて兵士が駆け上がれないようにした「竪堀(たてぼり)」が城内各所に無数に設けられていた。これらの施設は、大軍の展開を著しく阻害し、少数の兵力で多数の敵を食い止めることを可能にした 25
  • 生命線たる水源 :城内には、馬蹄形に曲輪で囲まれた谷間に湧水(陰滝)と、それを堰き止めた貯水池が存在した。籠城戦において最も重要となる「水の手」を城内に確保していたことは、一宮城が長期の籠城を想定して築かれた堅城であることを物語っている 26

ところで、この戦いにおける一宮城の城主については、しばしば「一宮成助」であったと語られることがある。しかし、史料を精査すると、本来の城主であった一宮成助(成相)は、この戦いの3年前、天正10年(1582年)に、阿波支配を確実なものにしようとした長宗我部元親によって謀殺されたとする説が有力である 27 。元親は阿波を制圧する過程で、一宮氏のような旧来の国衆を粛清しており、一宮城は長宗我部氏の直轄拠点となっていた。

したがって、天正13年(1585年)の籠城戦において実際に指揮を執ったのは、元親が送り込んだ二人の重臣、**江村孫左衛門親俊(えむら まござえもん ちかとし) 谷忠兵衛忠澄(たに ちゅうべえ ただずみ)**であった 8 。江村氏は長宗我部一門の流れを汲む譜代の武将であり 28 、谷忠澄は元々土佐神社の神官であったが、その智謀と外交手腕を見込まれて元親の腹心となった人物である 20 。この二人の指揮官の下、長宗我部軍は絶望的な戦いに臨むこととなった。

第二章: 包囲下の二十日間 ― 攻防の詳細な経過

【前哨戦:6月下旬】木津城の陥落と一宮城の孤立

天正13年6月下旬、淡路島から阿波土佐泊に上陸した羽柴秀長・秀次率いる6万の大軍は、長宗我部方の最前線拠点である木津城に殺到した 18 。城将・東条関兵衛は寡兵ながらも奮戦したが、大軍による八昼夜にわたる猛攻と、蜂須賀正勝らによる水の手(水源)の遮断という的確な戦術の前に、ついに開城を余儀なくされた 30

木津城の陥落は、阿波東部沿岸の防衛線に致命的な打撃を与えた。この報に接した牛岐城の香宗我部親泰と渭山城の吉田康俊は、戦わずして城を放棄し、土佐へと撤退した 18 。これにより、長宗我部軍の沿岸防衛網は一挙に瓦解。豊臣軍の進撃路を阻むものはなくなり、防衛網の中核である一宮城は、後方の岩倉城・脇城と共に完全に孤立する形となった。

【攻防開始:7月初頭】秀長軍による包囲網の完成

木津城を制圧した豊臣軍は、二手に分かれた。羽柴秀次は別働隊を率いて西進し、岩倉城・脇城方面へと向かい、一宮城への援軍ルートを完全に遮断 15 。一方、総大将の羽柴秀長は自ら5万の主力を率い、7月初頭、ついに一宮城の眼前にその大軍を展開させた。

豊臣軍は、一宮城を麓から山頂まで幾重にも取り囲むように陣を敷き、完全な包囲網を完成させた。城の周囲には井楼(せいろう)と呼ばれる移動式の高櫓がいくつも組まれ、そこから城内の様子を偵察すると同時に、鉄砲による断続的な射撃で城兵に休みない圧力をかけ、徐々に消耗させていったと考えられる 32 。力攻めによる無用な損害を避け、まずは兵糧攻めによって敵の戦意を削ぐ。これは豊臣軍の常套戦術であった。

【攻防中期:7月上旬~中旬】籠城軍の頑強な抵抗

5千から9千の兵で5万の大軍と対峙するという絶望的な状況下で、一宮城の籠城兵は驚くべき粘り強さを見せた。彼らは、城が持つ地の利を最大限に活用し、豊臣軍の攻撃をことごとく跳ね返した 5

一宮城の複雑な地形と、無数に掘られた竪堀・堀切は、豊臣軍が得意とする大兵力を活かした力攻めを極めて困難にした。城兵は、尾根上に連なる曲輪から身を隠しつつ、狭い通路を攻め上ってくる敵兵に対し、弓矢や鉄砲を雨のように浴びせかけた。また、敵が特定の曲輪に取り付こうとすれば、隣接する別の曲輪から側面を突く(横矢をかける)という、山城ならではの巧みな防衛戦術を展開したと推測される 26 。この頑強な抵抗の前に、豊臣軍はいたずらに時を過ごすことになった。

【転換点】秀長の決断 ― 坑道掘削による水の手遮断作戦

約2週間に及ぶ攻防の末、羽柴秀長は、このまま力攻めを続けても多大な損害を出すだけで、容易に城は落ちないと判断した。そこで彼は、攻撃の主軸を、豊臣政権が誇る高度な工兵技術を駆使した戦術へと切り替える決断を下す。

その戦術とは、「もぐら攻め」とも呼ばれる坑道掘削作戦であった。秀長は、配下の金掘り衆(鉱山開発などに従事する技術者集団)を動員し、城兵に気づかれぬよう、麓から城内の生命線である貯水池の真下に向けて、秘密裏に坑道(トンネル)を掘り進めるよう命じたのである 8 。これは、敵の物理的な防御力を無力化し、最も脆弱な部分である生命線を直接叩くという、極めて合理的かつ効果的な戦術であった 35 。この戦術の選択は、兄・秀吉が備中高松城を水攻めで 37 、三木城を兵糧攻めで 13 落としたことに通じる、豊臣政権の先進的な戦術思想を体現しており、秀長の冷静沈着な指揮官としての能力の高さを示している。

【終局:7月中旬】生命線の断絶と開城

19昼夜 23 、あるいは20日間 5 に及んだとされる攻防は、ついに終局の時を迎えた。豊臣軍が掘り進めた坑道は、ついに城内の貯水池の水脈に到達、あるいは貯水池の堤そのものを破壊することに成功した。城の生命線であった水の手は断たれ、籠城兵の士気は一気に崩壊した。

時を同じくして、西方の戦線からも絶望的な報が届く。羽柴秀次率いる別働隊が、岩倉城に対して大砲を用いた猛攻を加え、これを陥落させたのである。岩倉城の落城を知った脇城も、抵抗を断念し開城した 18 。これにより、一宮城は戦略的にも完全に無力化され、救援の望みは完全に断たれた。

これ以上の抵抗は、いたずらに兵の命を失うだけであり、何の意味もなさない。城将・江村親俊と谷忠澄は、ついに開城を決断。天正13年7月中旬、20日間にわたる激しい攻防の末、堅城・一宮城は羽柴秀長軍の前に陥落した 15

第三部: 決断と終焉

第一章: 城将・谷忠澄の苦悩と進言

一宮城の開城後、城将の一人であった谷忠澄は、降伏の責任を一身に負い、主君・長宗我部元親が本陣を構える白地城へと向かった。彼が一宮城での20日間の攻防を通じて目の当たりにしたのは、単なる兵力差だけではない、豊臣軍と長宗我部軍との間に横たわる、埋めがたい「質」の差であった。

後世の軍記物である『南海治乱記』や『南海通記』には、忠澄が元親に降伏を勧告した際の言葉が、生々しく記録されている。彼は、光り輝く武具や壮麗な馬具を揃え、兵糧も潤沢で士気も高い豊臣の「上方勢」の姿を詳細に語った。それに対し、長宗我部軍の兵士たちは、20年来の戦乱で疲弊しきっており、小さな土佐駒に乗り、麻糸で辛うじて繕った古い鎧を身に着けている。国には兵糧もなく、これ以上長く戦うことは到底不可能である、と 10 。これは、兵農分離を完了した中央の職業軍人集団と、いまだ兵農未分離の状態にある地方の農民兵との歴然とした差でもあった。

忠澄は、この見たままの厳しい現実を元親に突きつけ、これ以上の抗戦は長宗我部家の滅亡を招くだけであると、涙ながらに降伏を進言したのである 5

四国統一を目前にしながら、全てを覆されようとしている元親にとって、腹心からのこの進言は、到底受け入れられるものではなかった。「未練者め、一宮城に帰って腹を切れ」と激しく罵倒したという逸話は、彼の絶望と、武将としての矜持との間での激しい葛藤を物語っている 5

しかし、この一連のやり取りは、戦国時代の主従関係のあり方を深く示唆している。忠澄の行動は、単なる弱腰や裏切りではない。主君と家門の存続という大局を見据え、自らの命を懸けて耳の痛い真実を直言する、これこそが家臣としての最高の忠義の発露であった。そして、元親が最終的にその諫言を受け入れたという事実は、彼が単なる激情家の猛将ではなく、現実を冷静に見つめ、家臣の忠言に耳を傾けることのできる優れた君主であったことを示している。一宮城の敗戦は、軍事的な終結点であると同時に、長宗我部家の運命を決定づける、重厚な政治的ドラマの幕開けでもあった。

第二章: 長宗我部元親の降伏と四国の平定

谷忠澄の進言と、刻一刻と悪化する戦況が、元親に最終的な決断を迫った。一宮城、岩倉城、脇城という阿波防衛の三大拠点が陥落したことで、阿波方面における長宗我部軍の組織的抵抗は完全に終焉した。西進する羽柴秀長軍は、伊予から東進してくる小早川隆景率いる毛利軍と合流し、元親の本陣・白地城を挟撃する態勢を完成させつつあった 8

もはや、打つ手は残されていなかった。谷忠澄をはじめとする重臣たちの必死の説得と、この絶望的な戦況を前に、元親もついに徹底抗戦を断念。天正13年(1585年)7月25日、羽柴秀長の和睦勧告を受け入れ、降伏の意を示した 2

蜂須賀正勝らの仲介を経て、同年8月6日までに講和が正式に成立した 15 。その条件は、戦前の交渉で秀吉が提示したものとほぼ同じであった。

  • 長宗我部氏は、苦心の末に手に入れた阿波・讃岐・伊予の三国をすべて没収される。
  • 長宗我部元親は、その本領である土佐一国のみの領有を安堵される 2

戦後、秀吉は「四国国分」と呼ばれる戦後処理を行い、阿波国は蜂須賀家政、讃岐国は仙石秀久、伊予国は小早川隆景にそれぞれ与えられた 2 。これにより、四国全土は完全に豊臣政権の統治体制下に組み込まれることとなった。わずか2ヶ月足らずで、四国の政治地図は劇的に塗り替えられたのである。

表2:天正13年 四国征伐 主要日程表

年月日

出来事

関連地域

典拠

天正13年3月

秀吉、紀州征伐を完了。元親の同盟者を排除。

紀伊

3

6月16日

秀吉、秀長・秀次らに四国侵攻を命令。

大坂

2

6月下旬

秀長・秀次軍(6万)が阿波土佐泊に上陸。木津城攻撃開始。

阿波

10

7月上旬

木津城、水の手を断たれ開城。周辺城主は逃亡。

阿波

18

7月上旬

秀長軍、一宮城を包囲。攻城戦開始。

阿波

15

7月14日

毛利軍、伊予丸山城を攻略。

伊予

15

7月中旬

一宮城、約20日の籠城の末、水の手を断たれ開城。

阿波

5

7月中旬

岩倉城・脇城も相次いで陥落。阿波戦線が崩壊。

阿波

18

7月17日

毛利軍、伊予高尾城を攻略。

伊予

15

7月25日

長宗我部元親、秀長の勧告を受け入れ降伏。

阿波(白地城)

10

8月6日

講和成立。四国平定が完了。

15

結論: 一宮城の戦いが持つ歴史的意義

天正13年(1585年)夏に繰り広げられた一宮城の戦いは、日本の戦国史において、単なる一地方の攻城戦に留まらない、重大な歴史的意義を持っている。

第一に、 この戦いは豊臣秀吉による四国平定の帰趨を決した決定的な戦いであった 。阿波防衛網の要石であった一宮城が、20日間の頑強な抵抗の末に陥落したことは、長宗我部氏の阿波における組織的抵抗の終焉を意味した。この敗北が、四国統一の夢を目前にしていた長宗我部元親に、抗戦の継続が不可能であることを悟らせ、降伏を決断させた直接的な要因となった。一宮城の陥落なくして、これほど迅速な四国平定はあり得なかったであろう。

第二に、 この戦いは戦国末期における「新しい戦争」の姿を象徴している 。一宮城の攻防は、兵力、兵站、技術力、そして情報といった、国家の総力が勝敗を左右する時代の到来を明確に示した。特に、羽柴秀長が最終的に選択した坑道掘削による水の手遮断という高度な工兵戦術の成功は、個々の武将の武勇や、山城が持つ地の利といった伝統的な要素だけでは、もはや覆すことのできない技術力の差が存在することを見せつけた。これは、豊臣政権が、軍事力とそれを支える経済力・技術力を一体として運用する、先進的な戦争遂行能力を有していたことの証左である。

第三に、 長宗我部氏の野望の終焉と、それに伴う四国の政治的再編の起点となった 。この敗戦により、元親が一代で築き上げた四国統一の野望は潰えた。戦後、秀吉の配下大名である蜂須賀氏、仙石氏、小早川氏が阿波・讃岐・伊予に封じられ、四国は完全に豊臣政権の統治体制下に組み込まれた。一宮城の戦いは、四国という地域が、群雄割拠の戦国乱世から、中央集権的な織豊の天下へと移行する、大きな歴史の転換点に位置づけられるのである。

総じて、一宮城の戦いは、秀吉の天下統一事業における重要な一里塚であり、戦国という時代の終焉を告げる戦いの一つとして、深く記憶されるべき合戦であると言える。

引用文献

  1. 第48回「シリーズ秀吉② 四国攻めと長宗我部元親」 | 偉人・敗北からの教訓 https://vod.bs11.jp/contents/w-ijin-haiboku-kyoukun-48
  2. 四国征伐(シコクセイバツ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%BE%81%E4%BC%90-73053
  3. [合戦解説] 10分でわかる四国征伐 「秀吉に打ち砕かれた長宗我部元親の夢」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=yymhdsME8Kk
  4. 【陣触れ】決戦に備えよ(2024年07月) | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ https://ameblo.jp/cmeg/entry-12858405688.html
  5. 【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 第15回 - 城びと https://shirobito.jp/article/1577
  6. 4コマで長宗我部元親〜すぐわかる戦国武将シリーズ〜|Historist(ヒストリスト) https://www.historist.jp/articles/entry/themes/049008/
  7. 四国攻めとは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81-3132294
  8. 「四国攻め(1585年)」秀吉の大規模渡航作戦!四国の覇者・長宗我部氏との決着 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/51
  9. 一宮城の戦い - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/IchinomiyaJou.html
  10. 秀吉出馬・四国征伐 - 長宗我部盛親陣中記 - FC2 http://terutika2.web.fc2.com/tyousokabe/tyousokabetoha5.htm
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  29. 谷忠澄(たに ただずみ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%B0%B7%E5%BF%A0%E6%BE%84-1090438
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  34. 四国の城(一宮城) https://tenjikuroujin.sakura.ne.jp/t03castle08/085502/sub085502
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