最終更新日 2025-08-29

吉田城の戦い(1590)

天正十八年、秀吉の小田原征伐において、吉田城では戦闘なし。連合軍の圧倒的圧力により、吉田城は戦わずして開城。家康の関東移封後、池田輝政が新城主となり、豊臣政権の東海道支配の要。

吉田城の戦い(1590年)の真相:戦闘なき戦略的攻防と新時代の幕開け

序章:問いの提示 ― 「戦い」なき合戦の真相

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げである小田原征伐が敢行された。この一大軍事行動の一環として、三河国吉田城(現在の愛知県豊橋市)が豊臣・徳川連合軍の前に開城した事実は、「吉田城の戦い」として知られている。一般的には、この出来事は「連合軍が攻囲し、城方が降伏。これにより東三河の拠点が制圧され、東海道の補給路が円滑になった」と要約される。

しかし、史料を丹念に紐解くと、この吉田城をめぐって物理的な戦闘、すなわち攻城戦や野戦が行われた記録は皆無である。本報告書は、この「戦いの不在」こそが、戦国という時代の終焉と、それに続く新たな支配秩序の確立を象明する、極めて重要な歴史的事実であるという視座に立つ。天正18年の吉田城で繰り広げられたのは、血で血を洗う武力衝突ではなかった。それは、圧倒的な軍事力を背景とした情報戦、心理戦、そして戦後秩序の構築を見据えた高度な政治的駆け引きであった。本報告書は、この戦闘なき「戦い」の本質を多角的に分析し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。

第一章:天下統一の最終章 ― 小田原征伐の勃発

吉田城をめぐる一連の事象は、小田原征伐という巨大な歴史の奔流の中に位置づけられる。この未曾有の大動員がいかにして開始されたのか、その背景を理解することが、吉田城の運命を解き明かす鍵となる。

1-1. 導火線となった「名胡桃城事件」

豊臣秀吉は天正15年(1587年)、九州平定後に「惣無事令」を発布した。これは、大名間の私的な領土紛争(私戦)を禁じ、すべての紛争裁定権を豊臣政権に帰属させるという、画期的な法令であった。この法令は、秀吉が単なる一戦国大名ではなく、天下の秩序を司る公権力であることを宣言するものであり、その後の天下統一事業の法的根拠となった。

この秩序に公然と異を唱える形となったのが、天正17年(1589年)10月に発生した「名胡桃城事件」である 1 。当時、上野国の沼田領をめぐっては、関東の雄・北条氏と、信濃の雄・真田氏との間で長年にわたる係争が続いていた。秀吉はこの裁定に乗り出し、沼田領の三分の二を北条氏に、残る三分の一(名胡桃城を含む)を真田氏に与えるという決定を下した 1 。北条氏も一旦はこの裁定を受け入れ、当主の北条氏直は上洛の意向を示していた 3

しかし、北条氏の家臣で沼田城代であった猪俣邦憲が、この秀吉の裁定を無視し、真田方の鈴木重則が守る名胡桃城を謀略を用いて奪取するという事件が起こる 2 。城を奪われた鈴木重則は責任を感じ自刃した 2 。この一報に接した秀吉は、自らが定めた天下の秩序への明確な挑戦と見なし、激怒したとされる 2 。この惣無事令違反は、秀吉にとって北条氏を討伐するための、またとない「大義名分」となったのである 4

1-2. 豊臣政権の論理と北条氏の誤算

秀吉は、この事件を単なる領土紛争としてではなく、天下の秩序に対する反逆行為と位置づけた。天正17年11月24日には北条氏への宣戦布告状を発し、その中で北条氏直を「天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ」逆賊であると断じ、朝廷の権威を背景とした「官軍」として誅伐を加えることを天下に宣言した 4 。これにより、小田原征伐は戦国大名同士の私闘ではなく、天下の公権力による秩序回復のための「正義の戦い」という性格を帯びることになった。

一方、北条氏は、かつて上杉謙信や武田信玄の猛攻をも退けた難攻不落の小田原城に絶対の自信を持っていた 4 。四代目当主・氏政と五代目・氏直は、城下町全体を巨大な堀と土塁で囲む「総構」を完成させており、長期籠城戦に持ち込めば勝機はあると踏んでいた 6 。北条氏と姻戚関係にあった徳川家康による和平交渉の仲介も試みられたが 3 、北条首脳部は秀吉が動員しうる兵力の規模、そして兵糧攻めも辞さない長期戦への覚悟を完全に見誤っていた。彼らが頼みとした籠城策は、もはや力と力がぶつかり合うだけでは決着がつかない、新しい時代の戦争の様相を読み違えた、旧時代の戦略に過ぎなかったのである。

この征伐は、偶発的な事件への対応というよりも、秀吉が天下統一を完成させるために周到に準備した政治的・軍事的キャンペーンであったと言える。惣無事令という法的枠組みを先に構築し、それに従わない者を「秩序の破壊者」として討伐する論理を確立していた。猪俣邦憲による挑発的行動は、秀吉にとって待望の「引き金」であり、これを口実に全国の大名を動員する正当性を手にした。かくして小田原征伐は、豊臣政権が日本の唯一の中央政権であることを内外に宣言するための、壮大な儀式としての側面を強く持つことになったのである。

第二章:怒濤の進撃 ― 東海道方面軍と諸城の陥落

吉田城が無血開城という結論に至る直接的な背景には、豊臣軍の圧倒的な軍事力と、それによってもたらされた心理的圧迫が存在した。特に、北条方の防衛計画の要であった山中城の劇的な陥落は、東海道沿いの諸城の運命を決定づける出来事であった。

2-1. 空前の大軍勢とその編成

天正18年(1590年)3月1日、秀吉は京の聚楽第から出陣 7 。彼がこの征伐のために動員した総兵力は、水軍を含め20万を優に超えたとされ、陸路と水路から多方面にわたって北条領へ侵攻を開始した 3

その中でも主力となったのが、東海道を進む方面軍であった。この部隊は、豊臣秀次を名目上の総大将としつつ、先鋒を徳川家康が務め、池田輝政、堀秀政、長谷川秀一といった豊臣恩顧の大名が脇を固めるという編成であった 5 。その兵力は総計約7万に達し、まさに日本の歴史上でも類を見ない大軍であった 5 。この時、後に吉田城主となる池田輝政は、2,500の兵を率いる一将として、豊臣秀次麾下の右軍に属していた 5

2-2. 西の要衝、山中城の激突と崩壊

東海道方面軍の最初の目標となったのが、箱根の西の守りの要、山中城であった。北条方は城主・松田康長のもと、援軍を含め約4,000の兵で守りを固めていた 7 。長期の抵抗を前提とした堅城であったが、天正18年3月29日、豊臣秀次を総大将とする約6万7千の軍勢が城に殺到した 7

結果は、一方的な蹂躙であった。圧倒的な兵力差の前に、山中城はわずか半日、数時間の戦闘で陥落し、城主・松田康長をはじめとする多くの将兵が討死した 5 。この電撃的な陥落は、小田原城での籠城を主軸とし、箱根の山城群で敵の進軍を遅滞させるという北条方の防衛計画を、その根底から覆すものであった 5

2-3. ドミノ倒しとなる諸城の降伏

山中城の悲報は、凄まじい衝撃と恐怖となって東海道沿いの諸城に伝播した。「鉄壁のはずの山中城が半日で落ちた」という事実は、他の支城の城主たちに「抵抗は無意味であり、悲惨な結末を招くだけだ」という強力なメッセージを送った。これは単なる戦術的勝利に留まらず、後続の諸城の戦意を根こそぎ奪うことを意図した、一種の心理兵器として機能したのである。

この心理戦の効果は絶大であった。山中城陥落の同日には鷹ノ巣城が陥落 5 。その後、徳川家康による降伏勧告や調略が功を奏し、4月20日には玉縄城、22日には江戸城などが次々と戦わずして開城した 7 。時を同じくして、九鬼嘉隆らが率いる豊臣水軍も伊豆半島沿岸を制圧し、下田城などを攻略 5 。北条氏の防衛網は、あたかもドミノ倒しのように急速に瓦解していった。吉田城の城主・酒井家次が下すべき決断は、このような軍事的・心理的状況下で、事実上、選択の余地が奪われたものであったと言える。

以下の時系列表は、小田原征伐の主要な動向と、それに連動する吉田城の状況を対照的に示したものである。

【表1】小田原征伐と吉田城をめぐる時系列対照表

年月日

豊臣・徳川連合軍の動向

北条方の動向

吉田城および酒井氏の状況

天正17年10月

(背景) 秀吉、沼田領裁定

猪俣邦憲、名胡桃城を奪取

(城主:酒井家次) 徳川家康の支配下で平穏

天正17年11月

秀吉、北条氏へ宣戦布告

領内諸将に小田原への参陣を命令

主君・家康の動向を注視

天正18年2月25日

徳川家康、沼津城に着陣

小田原城での籠城体制を強化

連合軍の後方拠点として機能開始

天正18年3月29日

山中城を半日で攻略

防衛網の要が崩壊、将兵に衝撃

山中城陥落の報を受け、抵抗の無意味さを認識

天正18年4月上旬

小田原城の包囲を完成

諸城が孤立、戦意が低下

東海道の兵站拠点としての役割を担う

天正18年4月22日

家康の説得により江戸城が開城

防衛網が各所で瓦解

主君・家康の指示に従い、城を維持

天正18年7月5日

(小田原城開城)

北条氏直、降伏

(戦闘なし)

天正18年7月13日

秀吉、家康に関東移封を命じる

(戦後処理)

酒井氏も家康に従い関東へ移封決定

天正18年中

池田輝政、吉田城に入城

(旧領は没収)

豊臣系大名・池田氏へ城を明け渡す

第三章:吉田城の「無血」攻防 ― 戦闘なき戦略的攻防の時系列

本報告書の中核として、天正18年における吉田城の「戦い」が、いかにして物理的な戦闘を伴わずに進行したのか、その過程を時系列に沿って再構成する。ここで明らかになるのは、降伏や敗北といった言葉では捉えきれない、新たな時代の支配権移譲の姿である。

3-1. 開戦前夜の吉田城:徳川支配の拠点

吉田城は、豊川を天然の要害とする東三河の戦略的要衝であった。永禄7年(1564年)に徳川家康が今川氏からこの城を奪取して以降、一貫して徳川氏の支配下にあった 9 。城主には、徳川四天王の一人に数えられる重臣・酒井忠次が任じられ、対武田氏の最前線として、また東三河統治の拠点として重要な役割を果たしてきた 9

その忠次は天正16年(1588年)に隠居し、家督は嫡男の酒井家次に譲られていた 11 。したがって、小田原征伐が開始された天正18年(1590年)時点での吉田城主は酒井家次であり、城は徳川家康の持ち城であった 12 。この事実は、吉田城の運命を理解する上で決定的に重要である。

3-2. 戦闘なき「戦い」のリアルタイム再現

  • 天正18年3月下旬 : 徳川家康率いる3万の軍勢は、東海道方面軍の先鋒として駿河国に進駐し、北条方の諸城へ圧力をかけ始める 5 。この時点で、三河国に位置する吉田城は、もはや「敵地」ではなく、味方である徳川軍の広大な兵站線の後方に位置する、安全な後方支援拠点となっていた。
  • 3月29日 : 山中城がわずか半日で陥落したという衝撃的な報が、遠江・三河にもたらされる。吉田城にいた酒井家次も当然この情報を入手し、北条方の組織的抵抗がいかに無力であるかを痛感したであろう。主君・家康が中核をなす連合軍の圧倒的な力を前に、戦うという選択肢はもはや存在しなかった。
  • 4月上旬~中旬 : 豊臣・徳川連合軍が小田原城の包囲を完成させ、長期戦の構えに入る 5 。これにより、京都から小田原に至る東海道は完全に連合軍の支配下に置かれ、膨大な兵員と物資を前線へ輸送するための大動脈として機能し始める。吉田城の役割は、この兵站を円滑に進めるための後方拠点として、その重要性を増していった。

この期間、吉田城に対して軍事的な圧力、例えば包囲や攻撃が行われたという記録は一切存在しない。城主の酒井家次は、主君である家康の指示系統の下、城の維持管理と連合軍への兵站協力に専念していたと推察するのが自然である。

3-3. 「開城」の本質:主君の命令と支配権の移譲

一般的に流布している「攻囲し開城」という表現は、この文脈においては正確性を欠く。吉田城は敵城として攻め落とされ、降伏して「開城」したのではない。そうではなく、戦後の領地再編、すなわち「国替え」という豊臣政権の行政命令の一環として、徳川家の家臣から豊臣家の家臣へと、城の支配権が平和裏に「引き渡された」のである。

酒井家次の行動は、敵に屈した降伏や敗北を意味しない。それは、主君・徳川家康の命令に従った、家臣としての忠実な職務遂行であった。主君自身が豊臣軍の中核として北条氏と戦っている以上、その家臣である家次が豊臣軍に抵抗する理由は一片たりとも存在しない。

天正18年の吉田城をめぐる事象は、戦国時代的な「城の奪い合い」という概念から、近世的な「領地の行政的移管」という概念への歴史的移行を象徴している。ここでの「戦い」とは、武力による雌雄を決する行為ではなく、新たな天下人たる豊臣秀吉が定めたルール(戦後処理)に従うか否かという、政治的服従のプロセスそのものであった。この城で起こったのは軍事行動ではなく、戦後処理という壮大な「行政手続き」の一コマだったのである。

第四章:戦後処理と新領主の入城 ― 豊臣政権の東海道戦略

小田原城の開城後、秀吉は日本の勢力図を根底から塗り替える大胆な戦後処理に着手する。その中で、吉田城に池田輝政が配置されたことは、秀吉の深謀遠慮に満ちた天下戦略を読み解く上で、極めて重要な意味を持つ。

4-1. 日本史上最大級の国替え:徳川家康の関東移封

天正18年(1590年)7月、北条氏が降伏し、100年にわたる関東支配に終止符が打たれた 7 。秀吉は戦勝に最も貢献した徳川家康に対し、論功行賞として、故地である三河・遠江・駿河などを召し上げる代わりに、北条氏の旧領である関東八州250万石を与えるという、前代未聞の「国替え」を命じた 3

これは、家康の功績を高く評価し、大大名としての地位を認める一方で、豊臣政権の中枢である京・大坂から遠ざけ、その強大な力を封じ込めるための高度な政治的判断であった 14 。この歴史的な大移封に伴い、徳川家臣団も主君に従って関東へ移ることになった。吉田城主であった酒井家次も例外ではなく、下総国臼井(現在の千葉県佐倉市)へ3万石で移封となった 11

4-2. 池田輝政の抜擢とその戦略的意図

家康が去った後の、徳川氏の旧領であり東海道の結節点という戦略的要衝・吉田城。秀吉はこの地に、自らの腹心であり、小田原征伐でも戦功を挙げた池田輝政を配置した 17 。輝政は、それまでの美濃国岐阜13万石から大幅に加増され、15万2千石という破格の待遇で吉田城主となった 19

この配置は、単なる論功行賞に留まるものではない。その背後には、秀吉の冷徹な地政学的戦略があった。家康の旧領の中心地に、最も信頼できる豊臣恩顧の大名を強力な「楔」として打ち込むことで、新たに関東の主となった家康を牽制し、東西を結ぶ大動脈である東海道を完全に豊臣政権のコントロール下に置く狙いがあったのである。

4-3. 支配の移行:酒井氏から池田氏へ

酒井氏の退去と池田輝政の入城は、天正18年(1590年)中に行われた 9 。この城の引き渡しは、単に城主が交代したという以上の意味を持っていた。それは、三河における徳川支配の時代の終焉と、豊臣政権による直接支配の時代の始まりを、誰の目にも明らかな形で示す象徴的な出来事であった。吉田城は、徳川の東三河経営の拠点から、豊臣の対関東政策の最前線拠点へと、その戦略的性格を180度転換させたのである。

池田輝政の吉田城配置は、秀吉が構築した広域的な「徳川家康包囲網」の重要な一角をなしていた。秀吉は家康の潜在的な脅威を常に警戒しており、関東移封もその一環であったが、関東で家康が野放図に力を蓄えることを許すつもりはなかった。吉田城は、関東へ向かう東海道の喉元に位置する。ここを抑えることは、物流、情報、そして有事の際の軍事行動の自由を掌握することを意味した。輝政に15万2千石という、酒井氏の5倍以上もの大領を与えたのは、彼が単独で家康の動きに対応できるだけの国力を持つことを意図してのことであった。後に吉田城跡から発見された、豊臣氏の家紋である桐紋をあしらった鬼瓦は、この城が単なる輝政の居城ではなく、豊臣政権の威光を示す出先機関としての役割を担っていたことを物語る物証と言えるだろう 23

【表2】吉田城主の交代と役割の変遷(1590年前後)

征伐前(~1590年)

征伐後(1590年~)

城主

酒井 家次(さかい いえつぐ)

池田 輝政(いけだ てるまさ)

所属(主君)

徳川 家康

豊臣 秀吉

石高

3万石(下総臼井移封時) 12

15万2千石 19

城と領地の役割

徳川氏による東三河統治の拠点。対武田氏防衛の歴史を持つ。

豊臣政権による東海道支配の要。関東の徳川家康を牽制する戦略拠点。

第五章:近世城郭への大転換 ― 池田輝政による吉田城大改修

新領主となった池田輝政は、吉田城とその城下町に大規模な改修を施し、その姿を劇的に変貌させた。この事業は、単なるインフラ整備に留まらず、新たな支配者の権威と統治能力を旧徳川領の民衆に示すための、象徴的な意味合いを強く帯びていた。

5-1. 新時代の城づくり:石垣と瓦

輝政は、与えられた15万2千石という大名の格式に相応しい大城郭を築くべく、吉田城の大規模な改修に着手した 20 。それまで土塁が主体であった中世的な城郭は、輝政の手によって、織田・豊臣政権下で飛躍的に発展した最新の築城技術が導入された近世城郭へと生まれ変わった 26

具体的には、高さ5メートルを超える「高石垣」が城の主要部に導入され、防御力と威容を飛躍的に高めた 27 。特に、現在もその一部が残る鉄櫓(事実上の天守)下の石垣は、輝政時代に築かれたものとされ、自然石を巧みに組み上げる「野面積み」という当時の最先端技術が見られる 25 。また、主要な建物には瓦が葺かれ、城は土と木の世界から、石と瓦が織りなす壮麗な姿へと変貌を遂げた 26 。この改修は、支配者が徳川から豊臣へと変わったことを、誰の目にも明らかな形で示す効果があった。

5-2. 城下町の整備と領国経営

輝政の事業は城郭内に留まらなかった。彼は城下町の整備も精力的に行い、武家屋敷と町人地を計画的に再編し、城を中心とした新たな都市空間を創造した 11

特筆すべきは、交通・治水インフラへの取り組みである。それまで洪水でたびたび流失していた豊川の土橋を、より強固な木造の「吉田大橋」(現在の豊橋の原型)として架け替えた 23 。これは地域の交通を安定させ、経済の発展に大きく寄与した。さらに、城と城下町を豊川の氾濫から守るため、上流の地に「霞堤(かすみてい)」と呼ばれる、意図的に遊水地に水を逃がす巧妙な治水施設を築いたと伝えられている 30 。これらの事業は、輝政が単なる武将ではなく、優れた土木技術と領国経営のビジョンを持つ、新時代の統治者であったことを雄弁に物語っている。この一連の事業は、武力による支配から、統治能力(経済力、技術力、行政力)による支配へと移行しつつあった時代の流れを体現していた。

第六章:結論 ― 吉田城の「戦い」が歴史に刻んだもの

天正18年(1590年)に吉田城で起こった出来事は、刀や槍が交わされる伝統的な意味での「合戦」ではなかった。それは、豊臣秀吉という絶対的な権力者の下で、武力ではなく政治的決定によって領地と支配権が移譲されるという、新しい時代の到来を告げる象徴的な一幕であった。この「戦いなき戦い」は、日本の歴史が中世から近世へと大きく舵を切る、そのうねりを凝縮した、静かなる一大事件だったのである。

本報告書の分析を通じて明らかになった、この出来事が持つ歴史的意義は、以下の三点に集約される。

第一に、 戦国時代の終焉の象徴 であること。山中城の電撃的陥落が示したように、もはや局地的な武力抵抗は無意味となり、天下人たる中央政権の命令が絶対となる近世的な政治秩序への移行を明確に示した。吉田城の平和的な引き渡しは、その象徴であった。

第二に、 豊臣政権による東海道支配の完成 を意味すること。徳川家康を関東へ移し、その旧領であり日本の大動脈である東海道の要衝に、池田輝政という信頼できる重臣を配置した。これにより、秀吉は物流と情報を完全に掌握し、天下の安定を盤石なものとした。

第三に、 徳川家康の関東経営の始動 の契機となったこと。故地三河を離れるという、家康にとっては屈辱的とも言えるこの決定が、結果として未開の地であった江戸を開発し、後の江戸幕府260年の礎を築く壮大な事業の始まりとなった。吉田城の引き渡しは、この巨大な歴史の転換点の、まさに始まりの瞬間に位置づけられる出来事であった。

したがって、「吉田城の戦い(1590年)」を単に「攻囲し開城」と捉えることは、その歴史的本質を見誤ることになる。それは、血を流さずして一つの時代を終わらせ、新たな秩序を打ち立てた、極めて高度な政治的・戦略的攻防の記録なのである。

引用文献

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  2. 小田原の役古戦場:神奈川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/odawara/
  3. 「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末 https://sengoku-his.com/999
  4. 小田原征伐 ~豊臣秀吉の北条氏討伐 - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/odawara-seibatu.html
  5. 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
  6. 小田原城の歴史-北条五代 https://odawaracastle.com/history/hojo-godai/
  7. 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
  8. 【合戦図解】小田原征伐〜全国の戦国大名が大集結!天下統一の総仕上げ〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=qF2CJXjvfy8
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  20. らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~ - 吉田城 (愛知県豊橋市今橋町) https://ranmaru99.blog.fc2.com/blog-entry-633.html
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  22. 吉田城(吉田城跡)の歴史や見どころなどを紹介しています https://www.sengoku.jp.net/tokai/shiro/yoshida-jo/
  23. 吉田城の歴史/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-castle/yoshidajo/
  24. 古城の歴史 吉田城 https://takayama.tonosama.jp/html/yoshida.html
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