天霧城の戦い(1585)
天霧城の戦い(1585)は、豊臣秀吉の四国平定における天霧城の無血開城。黒田官兵衛の戦略的判断により、豊臣軍は天霧城を迂回し、香川氏は戦わずして開城。
沈黙の要塞:天正十三年、天霧城はなぜ戦わなかったのか
序章:問いの再設定 ― 「天霧城の戦い」の実像を求めて
天正13年(1585年)、豊臣秀吉による天下統一事業の一環として行われた四国平定。この壮大な軍事行動の中で、讃岐国(現在の香川県)の阿讃山地に聳える要害、天霧城を巡る攻防は、四国中部の抵抗線を左右する重要な局面であったと一般に認識されている。峻険な地形に築かれ、難攻不落と謳われたこの城の帰趨は、まさしく讃岐、ひいては四国全体の運命を決定づけるかに思われた。
しかし、史料を丹念に紐解くと、驚くべき事実に突き当たる。この天正13年の四国平定において、天霧城では後世に語り継がれるような大規模な攻城戦、すなわち「合戦」と呼ぶべき武力衝突は発生しなかったのである 1 。城は豊臣の大軍を前に、ほとんど戦闘を交えることなく、その歴史的役割を終えた。
したがって、本報告書の目的は、当初の問いである「天霧城の戦い」を単に描写することではない。むしろ、より本質的な問い、すなわち「なぜ、西讃岐の要として、また長宗我部氏の重要拠点として堅固に守られていたはずの天霧城で、大規模な合戦が起こらなかったのか」という謎を解明することにある。この問いに答えるためには、天霧城という一点にのみ焦点を当てるのではなく、視座を大きく広げ、四国平定全体の戦略的構図、各方面から進撃した豊臣軍の動向、そして迎え撃つ長宗我部・香川方の防衛戦略とその瓦解の過程を、時系列に沿って詳細に再構築する必要がある。
本報告書は、この「戦われなかった戦い」の真相に迫るものである。それは、火花散る白兵戦の記録ではなく、圧倒的な物量と情報、そして高度な戦略思想が、いかにして一つの堅城を沈黙させたかを追う、知略と政治の物語である。
第一章:四国平定前夜 ― 長宗我部元親の覇権と秀吉の野望
第一節:長宗我部元親、四国統一への道
天霧城の運命を理解する上で、まずその背景にある四国の覇者、長宗我部元親の台頭を概観せねばならない。土佐国(現在の高知県)の小領主に過ぎなかった長宗我部氏は、元親の代に飛躍的な発展を遂げる。青年期にはその物静かな性格から「姫若子(ひめわこ)」と揶揄された元親であったが、初陣で獅子奮迅の働きを見せると、その評価を一変させた 3 。
元親の強さの源泉は、彼が巧みに組織した半農半兵の兵士団「一領具足(いちりょうぐそく)」にあった。普段は田畑を耕し、召集がかかれば一領の具足を携えて戦場に駆けつける彼らは、郷土防衛の意識が高く、精強な軍団を形成した。元親は、身分が低いとされる一領具足たちの意見にも耳を傾け、時にはその献策を戦略に採用するなど、柔軟な思考で軍の士気を高めた 3 。この独自の軍事・組織体制を武器に、元親はまず土佐を統一。その後、破竹の勢いで阿波(徳島県)、讃岐、伊予(愛媛県)へと進出し、天正13年(1585年)春には、四国のほぼ全域を手中に収めるに至った 3 。
第二節:中央政権との蜜月、そして対立へ
元親の四国平定事業は、当初、中央で覇権を握りつつあった織田信長と友好関係を結ぶことで、巧みに進められた。元親は信長に使者を送り、長男・弥三郎(後の信親)の烏帽子親になることを依頼し、信長はこれを受諾して自らの一字「信」を与えた 6 。この蜜月関係は、元親にとって四国における勢力拡大の大きな後ろ盾となった。
しかし、元親の勢力が四国全土に及ぶ勢いを見せると、信長はこれを警戒し始める。「四国切り取り次第」という当初の約束を反故にし、元親の所領を土佐と阿波南半に限定するよう要求したのである 6 。当然、元親はこれを拒絶し、両者の関係は急速に悪化。信長による大規模な四国侵攻軍の派遣が決定されるが、その矢先の天正10年(1582年)、本能寺の変が勃発し、侵攻は寸前で回避された 6 。
信長亡き後、その後継者として天下人の地位を確立した羽柴(豊臣)秀吉は、元親が賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いといった重要な局面で、反秀吉勢力に与したことを問題視した 5 。秀吉にとって、元親は天下統一の秩序に従わない、看過できぬ存在となっていた。天正13年3月、秀吉は元親の有力な同盟者であった紀州の根来衆・雑賀衆を征伐し、これを壊滅させる 9 。これにより、元親は強力な軍事的後ろ盾を失い、四国は完全に孤立した。秀吉と元親の対立は、もはや避けられない段階に達していたのである。この対立は、単なる領土を巡る争いではなく、戦国時代における地域的自立性の象徴であった元親と、全てを中央集権体制の下に置こうとする秀吉の、新しい天下の秩序を巡る構造的なものであった。
第三節:天霧城主・香川氏の選択
この四国統一を巡る激動の渦中にあったのが、天霧城を本拠とする西讃岐の名門・香川氏であった。香川氏は、古くは讃岐守護・細川氏の配下として西讃岐に勢力を張り、天霧城を有事の際の詰城(つめのしろ)としていた 1 。
土佐から長宗我部元親の勢力が讃岐に及ぶと、当主であった香川信景(之景)は当初これに抵抗した。しかし、長宗我部軍の猛攻の前に、信景は一族の存続を賭けた苦渋の決断を下す。それは、元親の次男・親和(ちかかず、親政とも)を自らの養子として迎え入れ、長宗我部氏の軍門に降るというものであった 1 。
この養子縁組により、天霧城の性格は大きく変貌する。西讃岐の独立した国人領主の拠点から、長宗我部氏による讃岐支配、さらには伊予侵攻の最前線基地へとその役割を変えたのである。天正11年(1583年)には、元服した親和が正式に天霧城に入城し、城は名実ともに長宗我部勢力の一翼を担う重要拠点となった 1 。この香川氏の選択は、地域レベルでの生き残りを図るための現実的な戦略であったが、中央の秀吉から見れば、それは天下の秩序に対する反逆に加担する行為に他ならなかった。天霧城は、その意思とは関わりなく、巨大な政治的対立の最前線に立たされることになったのである。
第二章:豊臣軍の四国侵攻 ― 圧倒的物量と三方面同時作戦
第一節:秀吉の大動員令と戦略目標
天正13年(1585年)5月、長宗我部元親との交渉が決裂すると、秀吉は四国平定に向けた最終準備に取り掛かった。紀伊国の国人衆に軍船の調達を命じ、弟の羽柴秀長には和泉・紀伊の船舶数を調査させ、徴発した船を紀ノ湊(現在の和歌山市)に集結させるよう指示した 9 。これは、秀吉軍にとって初となる、海を越えた大規模な渡海遠征作戦であり、彼の天下統一事業が新たな段階に入ったことを示すものであった 9 。
動員された総兵力は、実に10万から12万という未曾有の規模に達した。対する長宗我部軍の最大動員兵力が約4万と推定されており、その兵力差は3倍にも及んだ 9 。この圧倒的な物量差は、戦いの始まる以前から、その趨勢をほぼ決定づけていたと言っても過言ではない。秀吉自身は、対岸の岸和田城にあって全軍の総指揮を執り、実戦部隊の総大将には最も信頼を置く弟の羽柴秀長を、副将には甥の秀次を任じた 9 。
第二節:四国を包囲する三つの刃
秀吉が立案した作戦は、単なる力押しではなかった。四方を海に囲まれた四国の地理的特性を最大限に利用し、三つの方面から同時に上陸・侵攻することで、長宗我部軍の防衛網を飽和させ、無力化することを狙った、高度な戦略思想に基づいていた。
- 阿波方面軍(主攻) :総大将・羽柴秀長(約3万)、副将・秀次(約3万)が率いる、計約6万の主力部隊。和泉・堺から淡路島を経由し、阿波の玄関口である土佐泊に上陸。長宗我部方の防衛戦略の中核を正面から突き崩す任を負った 9 。
- 伊予方面軍(西翼) :毛利輝元を総大将とし、歴戦の勇将である小早川隆景、吉川元長らが率いる約2万5千から4万の大部隊。安芸・備後から伊予の今治・新居浜に上陸。長宗我部方と同盟関係にある伊予の在地勢力を掃討し、元親の本拠・白地城の背後を脅かす役割を担った 9 。
- 讃岐方面軍(北翼) :備前の宇喜多秀家を主将に、軍師・黒田官兵衛、蜂須賀正勝、そして淡路を拠点とする仙石秀久らが加わった約1万5千から2万3千の部隊。備前・播磨から海を渡り、讃岐の屋島に上陸。讃岐を制圧しつつ、最終的には阿波の主力部隊と連携して、長宗我部軍を挟撃することが期待された 7 。
この三方面同時侵攻作戦は、長宗我部方の防衛戦略を根本から覆すものであった。元親の防衛計画は、敵の主攻方面を予測し、そこに兵力を集中させる「点と線」の防御であったのに対し、秀吉の作戦は、複数の上陸地点から同時に圧力をかける「面」での制圧であった。これにより、元親は防御の焦点を絞ることができず、限られた兵力を各地に分散させざるを得なくなり、各個撃破される危険に晒された。この時点で、天霧城を含む個々の城の運命は、城そのものの堅固さとは別の、より大きな戦略的次元で規定され始めていたのである。
両軍の兵力比較 |
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豊臣軍 |
総計:約100,000~120,000 |
阿波方面軍(羽柴秀長・秀次) |
約60,000 |
伊予方面軍(毛利輝元・小早川隆景ら) |
約25,000~40,000 |
讃岐方面軍(宇喜多秀家・黒田官兵衛ら) |
約15,000~23,000 |
長宗我部軍 |
総計:約40,000 |
(方面ごとの兵力配分は不明だが、主力を阿波方面に集中させていたと推定される) |
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9
第三節:迎え撃つ長宗我部軍の防衛戦略
長宗我部元親も、秀吉の侵攻を座して待っていたわけではない。彼は、豊臣軍の主力が淡路島を経由して阿波に上陸する可能性が最も高いと予測し、その防衛ライン上に重臣たちを配置して守りを固めた 7 。木津城、一宮城、岩倉城、脇城といった阿波の主要な城砦が、その防衛の中核を成していた 9 。
そして、元親自身は四国のほぼ中央に位置し、各方面への連絡が容易な阿波・白地城に本陣を構え、全軍の指揮を執った 7 。讃岐においても、新たに植田城を築城するなど、防備の強化に努めていた 7 。しかし、四国の長大な海岸線の全てを、4万という限られた兵力で完璧に守り切ることは物理的に不可能であった。必然的に、防衛線は広範囲に薄く引き伸ばされ、秀吉軍の多方面からの同時上陸に対して脆弱な状態にあった 9 。元親の戦略は、敵の狙いを読み切り、一点に戦力を集中させることで初めて成立するものであったが、秀吉はその前提自体を、圧倒的な物量と巧みな作戦で覆そうとしていたのである。
第三章:讃岐方面の攻防 ― 屋島上陸から植田城の看破まで
天霧城の運命を直接的に左右したのは、宇喜多秀家らが率いた讃岐方面軍の動向であった。彼らの一挙手一投足が、西讃岐の戦況、ひいては天霧城の戦略的価値を刻一刻と変化させていった。
第一節:電光石火の上陸と沿岸制圧(天正13年6月下旬~7月上旬)
天正13年(1585年)6月16日、秀吉が全軍に進発を命じると、四国平定の火蓋は切られた 7 。宇喜多秀家率いる讃岐方面軍は、備前から播磨灘を横断し、讃岐国の東部に位置する屋島に上陸した 7 。かつて源平合戦の舞台となったこの歴史的な地を最初の足掛かりとしたのは、軍の士気を鼓舞する象徴的な意味合いもあったのかもしれない 17 。
上陸後の豊臣軍の行動は迅速を極めた。彼らはまず、長宗我部方の兵わずか200が守る喜岡城(当時の高松城)に殺到し、これを攻略 7 。この戦いでは、仙石秀久が奮戦し、城の要所を抑え、水源を断つなどの功を挙げたとされる 18 。この勝利を皮切りに、豊臣軍は勢いに乗って香西城、牟礼城といった沿岸部の拠点を立て続けに陥落させ、短期間のうちに讃岐における確固たる橋頭堡を築き上げた 7 。
天正13年 四国平定 主要日程表 |
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日付 |
全体の動向 |
阿波方面軍 |
讃岐方面軍 |
伊予方面軍 |
長宗我部方 |
5月4日 |
秀吉、紀伊国人に軍備・船舶手配を命令 |
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6月3日 |
秀吉、四国出陣を予定(病気等で中止) |
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6月16日 |
秀吉、岸和田城から全軍に進発命令 |
堺を出航、淡路島へ上陸 |
備前・播磨から出航 |
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白地城に本陣を設置 |
6月下旬 |
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淡路島から阿波・土佐泊へ上陸。木津城攻略開始 |
屋島に上陸 |
備後・安芸から出航 |
阿波諸城で防戦 |
7月上旬 |
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木津城を開城させる。一宮城の包囲を開始 |
喜岡城、香西城、牟礼城を攻略 |
今治・新居浜に上陸 |
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7月2日 |
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支城の丸山城を攻略 |
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7月中旬 |
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一宮城を「干殺し」により開城させる |
植田城を迂回し、阿波へ転進 |
高尾城を攻略、金子元宅ら討死 |
阿波防衛線が崩壊 |
7月下旬 |
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阿波の岩倉城、脇城も陥落。白地城へ迫る |
阿波方面軍との合流を図る |
東予地方を制圧 |
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8月6日頃 |
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元親、降伏を受諾 |
8月 |
秀吉、「四国国分」を指令 |
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伊予全域の制圧を継続 |
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7
第二節:防衛の要・植田城と元親の罠
沿岸部を制圧した豊臣軍の次なる目標は、内陸部への進撃路を抑える要衝、植田城であった。この城は長宗我部一門の戸波親武が守将を務めており、元親はこの城の防備を特に強化していた 7 。
元親の描いた策は、兵力で劣る側が地の利を活かす、巧妙なものであった。あえて植田城を堅固な防御拠点として豊臣軍の注意を引きつけ、大軍が城攻めに取り掛かり、その戦力と注意が城に集中した瞬間を狙って、周囲に潜ませた伏兵でこれを包囲し、夜襲をかけて一挙に叩くという迎撃策を準備していたのである 9 。これは、豊臣軍の進撃を食い止め、讃岐戦線を膠着させるための、元親にとっての切り札とも言える作戦であった。
第三節:軍師・黒田官兵衛の慧眼
しかし、この元親の策は、豊臣軍の天才軍師・黒田官兵衛によって見破られることとなる。植田城の堅固な守りに比して、その周辺に展開する長宗我部軍の動きが不自然なほど静かであることに、官兵衛は罠の匂いを嗅ぎ取った 9 。
官兵衛は、諸将を前にして、この状況下で植田城を力攻めすることの危険性と非効率性を説いた。多大な兵の損耗を覚悟で讃岐の一城を落とすよりも、はるかに重要な戦略目標がある、と彼は主張したのである。『黒田家譜』や『元親記』といった後世の記録によれば、官兵衛は「讃岐の枝葉末節に構うのではなく、元親の本拠である阿波の根幹を直接叩くべきである」と力説したという 9 。この進言は、無益な戦闘を極力避け、最小の犠牲で最大の戦略的効果を上げることを理想とする、官兵衛の兵法思想(「戦わずして勝つ」)を如実に示すものであった 21 。
第四節:戦略的転進 ― 天霧城の運命を決定づけた一手
宇喜多秀家をはじめとする讃岐方面軍の諸将は、官兵衛の卓越した見識に同意した。軍議の結果、豊臣軍は植田城への攻撃を中止し、この城を完全に無視して迂回するという、大胆な決断を下した 7 。
軍は進路を東に転じ、阿讃山脈を越える「大坂越え」のルートから阿波国へと侵入。阿波で戦う羽柴秀長・秀次の主力部隊と合流し、長宗我部軍を挟撃する態勢を整えることを最優先とした 7 。この戦略的転進は、植田城に敵主力を誘い込むことを前提としていた長宗我部元親の防衛計画を、根底から覆すものであった。歴史家の山本大氏が「元親の防衛策は早くも失敗したのである」と評したように、この一手は讃岐方面における戦いの趨勢を決定づけた 7 。
そしてこの判断は、天霧城の運命をも間接的に、しかし決定的に左右した。もし豊臣軍が植田城攻めを行っていれば、讃岐での戦闘は長期化し、西讃岐に位置する天霧城にも戦火が及ぶか、あるいは防衛線の一翼として重要な役割を果たす余地があったかもしれない。しかし、方面軍全体の戦略目標である「阿波主力の挟撃」が最優先された結果、天霧城を含む西讃岐の防衛網は、主戦場から完全に切り離され、その存在意義そのものを失ってしまったのである。天霧城は、敵軍の脅威から、戦略的に「無視された存在」へとその立場を変え、静寂の中に置き去りにされた。
第四章:天霧城の「無血開城」 ― 戦わずして勝敗は決した
讃岐方面軍が阿波へと転進したことで、天霧城は直接的な軍事的圧力から解放された。しかし、それは束の間の安息に過ぎなかった。四国全土から刻一刻と届く敗報は、城が物理的な包囲よりも遥かに深刻な、戦略的な孤立に陥っていることを示していた。
第一節:崩壊する四国全域の防衛線(7月中旬~下旬)
- 阿波方面 :羽柴秀長率いる5万の主力部隊は、長宗我部方の最重要拠点である一宮城を完全に包囲。力攻めを避け、補給路と城の水源を断つ「干殺し」戦法によって、城兵の戦意を奪った。数に勝る長宗我部方の籠城兵は奮戦したものの、7月中旬にはついに開城を余儀なくされた 9 。これに続き、岩倉城、脇城も相次いで陥落。元親が最も頼みとしていた阿波の防衛線は、完全に崩壊した。
- 伊予方面 :小早川隆景率いる毛利軍は、長宗我部方の有力な同盟者であった金子元宅が籠る高尾城に猛攻を加えた。金子元宅は、かつて毛利氏と旧交があったにもかかわらず、長宗我部氏に預けた人質と武将としての信義を重んじ、徹底抗戦の道を選んだ 23 。しかし、衆寡敵せず、7月17日に城は陥落。元宅をはじめとする多くの将兵が討ち死にし、東予地方は豊臣方によって制圧された 9 。
これらの絶望的な戦況は、白地城の元親のもとへはもちろん、天霧城に籠る香川信景・親和父子のもとへも、即座に伝えられたはずである。東からは秀長・秀次・宇喜多の連合軍が、西からは小早川の毛利軍が、元親の本拠・白地城に迫る。天霧城が、もはや四国全体の防衛網から完全に切り離された孤島と化したことは、誰の目にも明らかであった。
第二節:戦略的孤立 ― 沈黙する西讃岐の要塞
天霧城は、その堅固さゆえに豊臣軍の直接攻撃を免れた。しかし、それは戦略的な死を意味していた。城から援軍を送ることも、また外部から援軍を受けることも、もはや絶望的な状況であった 16 。この時点で、天霧城に籠城し続けることは、勝利の可能性が全くないまま、兵と領民を無駄死にさせるだけの、単なる玉砕行為に等しくなっていた。
戦国末期、特に豊臣秀吉のような圧倒的な中央権力に対しては、局地的な武勇を示すことよりも、いかに被害を少なくして新しい秩序に組み込まれるかという、現実的な判断が優先されるようになっていた。無謀な抵抗は、もはや名誉ある死ではなく、一族郎党の根絶やしに繋がる「反逆」と見なされる時代へと移り変わっていたのである。
第三節:香川信景・親和の苦渋の決断
この絶望的な状況下で、城主である香川信景と、長宗我部元親の次男という立場にある香川親和は、究極の決断を迫られた。
老練な当主・香川信景は、かつて長宗我部氏の軍門に降った際も、家の存続を第一に考えた現実主義者であった 13 。今回もまた、勝ち目のない戦で家臣や領民を犠牲にすることを避けるという、合理的な判断を下したと推察される。
一方、当時まだ20歳であった親和の胸中は、複雑であったに違いない 8 。実父・元親への忠誠と、養父・信景および香川家の家臣団を守るという立場との間で、激しい葛藤があったかもしれない。しかし、四国全土の大局が既に決している以上、抵抗が無意味であることは明白であった。
最終的に、彼らは戦わずして城を明け渡すことを決断した。これは、後年の江戸城無血開城にも通じる、人命を最優先した賢明な選択であったと評価できる 24 。具体的な開城の日付を特定する史料は見当たらないが、一宮城が陥落した7月中旬から、元親が降伏を受諾した8月6日までの間に、事実上の降伏と城の放棄が行われたものと考えられる 9 。
第四節:「開城」の時系列
天霧城に「合戦」はなかった。しかし、そこには情報と心理が激しく交錯する、もう一つの「戦い」があった。そのリアルタイムな状況は、以下のように再構成できる。
- 7月中旬 :阿波・一宮城陥落の報が天霧城に届く。長宗我部方の防衛戦略が根底から崩れたことを知り、城内に動揺が走る。
- 7月17日以降 :伊予・高尾城が陥落し、金子元宅が討ち死にしたとの報が入る。西からの脅威も現実のものとなり、天霧城が完全に孤立したことが確定する。
- 7月下旬 :豊臣方から、おそらくは毛利軍か宇喜多軍を通じて、降伏勧告の使者が訪れる。圧倒的な兵力差と、抵抗が無益であることを説かれる。
- 評定 :城内で最後の評定が開かれる。籠城して玉砕すべきと主張する強硬派と、降伏して家臣領民の命を救うべきと主張する穏健派との間で激論が交わされる。最終的に、当主・香川信景が、養子・親和の同意を得て、開城を決断する。
- 開城 :城は武装解除され、豊臣方の管理下に置かれる。香川父子は、家臣と共に土佐へ退去する準備を始める。
この一連の過程こそが、「天霧城の戦い」の実像であった。それは、剣ではなく、情報と情勢判断が勝敗を決した、静かで、しかし決定的な戦いであった。
第五章:天霧城の構造と戦略的価値 ― 難攻不落の要塞はなぜ沈黙したか
天霧城が戦わずして開城したという事実は、この城が脆弱であったことを意味するものでは決してない。むしろ、その逆である。天霧城は、四国でも屈指の規模と堅固さを誇る、中世山城の傑作であった。
第一節:「天空の城」の地政学
天霧城は、讃岐平野の西端に位置する標高382メートルの天霧山に築かれていた 1 。その山頂からは、西に三豊平野、東に丸亀平野、そして北には多度津の港と瀬戸内海の島々までを一望できた 2 。この立地は、西讃岐一帯を支配下に置くだけでなく、海路と陸路の双方を監視し、伊予への連絡路を抑える上でも絶好の戦略的要衝であった 15 。平時に香川氏が居館を構えた本台山城(多度津城)に対し、天霧城は有事の際に立て籠もる完璧な詰城(つめのしろ)として、長年にわたり機能してきたのである 1 。
第二節:自然地形を活かした縄張り
天霧城の最大の特徴は、自然の峻険な地形を巧みに利用した、雄大かつ実戦的な縄張り(城の設計)にある。
- 規模 :城域は東西約1.2キロメートル、南北約0.6キロメートルにも及び、大小70以上の曲輪(くるわ)が確認されている、香川県内随一の規模を誇る巨大山城であった 12 。
- 構造 :山頂の最高所に本丸を置き、そこから三方に伸びる尾根に沿って二の丸、三の丸といった曲輪群が階段状に連続して配置される「連郭式(れんかくしき)」を基本としていた 1 。
- 防御施設 :山の周囲は断崖絶壁に囲まれ、特に「犬返しの険」と呼ばれる箇所は、人馬の侵入を許さない天然の要害となっていた 10 。さらに、土塁をずらして敵の直進を防ぐ「喰い違い虎口(くいちがいこぐち)」や、斜面を垂直に登る敵を阻止する「竪土塁(たてどるい)」など、戦国時代末期の最新の築城技術も取り入れられていた。これらの一部は、長宗我部氏による改修の可能性も指摘されている 12 。
第三節:籠城を支える備え
長期の籠城戦を想定した備えも万全であった。
- 石垣 :城内の各所、特に本丸や二の丸、三の丸の北側面には、堅固な石垣(石塁)が多用されており、防御力を高めていた 2 。
- 水の手 :籠城戦において生命線となる水の確保も、抜かりはなかった。城内には岩をくり抜いて造られた井戸や、「池窪」と地名が残る湧水池の跡が確認されており、豊富な水量を確保していたことがうかがえる 30 。城に伝わる「白米城伝説」(水が豊富にあるように見せかけるため、滝のように白米を流したという逸話)も、この城の水の手が堅固であったことの裏返しと解釈できる 33 。
このように、天霧城は物理的にはまさに難攻不落の要塞であった。しかし、皮肉なことに、その堅固さこそが、戦闘を回避させる一因となった可能性がある。黒田官兵衛のような合理的な戦略家にとって、天霧城のような堅城を正面から攻略することは、多大な時間と兵力の損耗を意味する。それよりも、城を戦略的に迂回し、政治的に孤立させ、戦わずして無力化する方が遥かに効率的であった。城が強固すぎたために、かえって敵の攻撃目標から外されるという逆説的な状況が生まれ、結果として「戦わずに終わる」という運命を導いたのである。これは、戦国末期の合戦が、単なる武勇のぶつかり合いではなく、コストパフォーマンスを重視する、極めて近代的な側面を持っていたことを示している。
第六章:戦後処理と香川氏の末路 ― 四国国分と天霧城の廃城
長宗我部元親の降伏により、約2ヶ月に及んだ豊臣秀吉の四国平定は終結した。戦いの後、秀吉は速やかに四国の新たな支配体制の構築に着手し、天霧城と香川氏もその激動の渦に飲み込まれていった。
第一節:長宗我-部元親の降伏と「四国国分」
阿波の主力拠点を次々と失い、豊臣の大軍によって完全に包囲された長宗我部元親は、もはや抵抗を続ける術を失っていた。一宮城の攻防戦で豊臣軍の実力を目の当たりにした重臣・谷忠澄の懸命な説得を受け入れ、ついに秀吉への降伏を決断した 9 。
秀吉が元親に示した降伏条件は、厳しいものであった。四国の覇者として君臨した元親であったが、安堵されたのは旧来の領国である土佐一国のみであった 9 。元親が苦心の末に手に入れた阿波、讃岐、伊予の三国は没収され、秀吉配下の諸将に新たに分配されることとなった。これは「四国国分(しこくこくわけ)」と呼ばれ、四国が完全に豊臣政権の支配下に組み込まれたことを天下に示すものであった。具体的には、阿波は蜂須賀家政、伊予は小早川隆景、そして讃岐は仙石秀久と、旧領回復を認められた十河存保に与えられた 9 。
第二節:香川氏の改易と離散
この四国国分の結果、長宗我部氏に与した西讃岐の名門・香川氏は、その所領を全て没収され、改易(かいえき)の処分を受けた 1 。当主の香川信景と、その養子であった長宗我部親和は、天霧城を明け渡した後、一部の家臣団を伴って土佐へと退去した 1 。鎌倉時代以来、数百年にわたって西讃岐に君臨した香川氏の支配は、ここに完全に終焉を迎えたのである。
第三節:香川父子のその後
故郷を追われた香川父子の後半生は、悲劇的なものであった。
養子の香川親和は、四国平定後に長宗我部家の人質として大和郡山へ送られた後、土佐への帰国を許された。しかし、翌天正14年(1586年)の戸次川の戦いで、長兄であり長宗我部家の世継ぎであった信親が戦死すると、家中の後継者問題に巻き込まれる。その心労がたたったのか、親和は病に倒れ、天正15年(1587年)に22歳の若さでこの世を去った 8 。
一方、養父の香川信景の最期については、諸説あり判然としない。土佐で失意のうちに生涯を終えたという説、戸次川の戦いで戦死したという説など、その足跡は歴史の中に埋もれている 13 。確かなことは、彼が二度と讃岐の地を踏むことはなかったということである。
第四節:天霧城の廃城
新たな領主として仙石秀久が入国し、豊臣政権による新しい支配体制が確立されると、天霧城はその戦略的価値を失い、歴史の舞台から静かに姿を消した。城は公式に廃城とされ、二度と軍事拠点として使われることはなかった 1 。
現在、城跡は国の史跡に指定され、その雄大な遺構は往時の姿を今に伝えている 1 。しかし、南東側の山腹は大規模な採石によって大きく抉られており、かつての威容の一部は永久に失われてしまった 1 。それはあたかも、中世以来続いてきた国人領主の時代が終わりを告げ、新しい時代の波に飲み込まれていった香川氏の運命を象徴しているかのようである。
結論:「天霧城の戦い」が示すもの ― 戦国末期の戦略思想と権力構造の変化
天正13年(1585年)の「天霧城の戦い」を巡る調査は、当初の想定とは異なり、火花散る攻防戦ではなく、一つの堅城が戦わずしてその役割を終えるまでの静かな、しかし決定的な過程を浮き彫りにした。この「戦われなかった戦い」は、戦国時代の終焉期における合戦のあり方と、社会の権力構造そのものの劇的な変化を象徴する、極めて重要な事例であると言える。
第一に、 「合戦」概念の変容 が挙げられる。天霧城の事例は、戦国末期の「合戦」が、もはや城を巡る直接的な武力衝突だけを意味するものではなくなったことを示している。羽柴秀長や小早川隆景が率いた方面軍による広域制圧作戦と、それに伴う戦略的な包囲・孤立化によって、個々の城は戦わずしてその帰趨が決まる「戦略的決着」が、合戦の重要な形態となった。天霧城は、物理的な攻撃を受けることなく、戦略的に無力化されたのである。
第二に、それは 合理主義的戦略思想の勝利 であった。黒田官兵衛が植田城の罠を見破り、無益な損耗を避けて敵の中枢を叩くことを優先した判断は、その象徴である。旧来の武勇や名誉を重んじる戦術思想は、兵力の損耗を計算に入れ、大局的な勝利を最小のコストで目指す、新しい時代の合理主義的な戦略思想の前に圧倒された。天霧城の沈黙は、この新しい戦略思想の前に、伝統的な籠城戦術がいかに無力であったかの証左に他ならない。
第三に、この出来事は 中央集権化の奔流と国人の運命 を物語っている。秀吉による天下統一事業は、各地の国人領主が保ってきた地域的自立性を許さない、巨大な権力の奔流であった。香川氏のように、大勢力の間で巧みに立ち回り、生き残りを図ってきた地域権力も、最終的にはこの抗いがたい流れに飲み込まれ、解体・再編されていった。天霧城の廃城は、中世以来、数百年にわたって続いてきた国人領主の時代の終わりを告げる、象徴的な出来事であった。
結論として、利用者様の当初の問いであった「天霧城の戦い」とは、城門前での兵士たちの衝突ではなく、作戦室の地図の上で繰り広げられた、圧倒的な戦略と情報、そして政治力による「戦い」であった。その「戦い」の様相を時系列で解き明かすことこそが、この歴史的事件の実像に迫る唯一の道である。天霧城は、沈黙することによって、戦国という一つの時代の終焉を、何よりも雄弁に物語っているのである。
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