最終更新日 2025-08-26

太田城水攻め(1585)

『天正十三年、紀ノ川に沈んだ城 ― 羽柴秀吉「太田城水攻め」のリアルタイム戦史』

序章:天下統一への道、紀州の独立

秀吉の天下統一事業と紀州の位置づけ

天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が雌雄を決した小牧・長久手の戦いは、双方に決定的な打撃を与えることなく和睦という形で終結した 1 。この戦いは、秀吉に軍事力のみによる天下平定の困難さを痛感させ、以降、朝廷の権威や巧みな調略を駆使する、より高度な政治戦略へと舵を切らせる転換点となった。

和睦後、秀吉は自らの天下統一事業に公然と抵抗する勢力の掃討へと乗り出す。その最初の、そして最大の標的となったのが、紀州の雑賀衆・根来衆であった。彼らは小牧・長久手の戦いにおいて徳川家康と連携し、秀吉が主力を率いて尾張へ出陣した隙を突いて、和泉国に出兵。大坂近辺にまで迫り、岸和田城を攻撃するなど、秀吉の足元を揺るがす大胆な軍事行動に出ていた 3

戦略的に見ても、紀州は畿内に隣接し、秀吉の本拠地である大坂の背後を常に脅かす存在であった。この地を平定し、後顧の憂いを断つことは、秀吉が次なる目標として見据える四国、そして九州へと勢力を拡大していく上で、絶対に避けては通れない喫緊の課題だったのである。

「惣国」紀州の特異性 ― なぜ彼らは抵抗したのか

紀州が中央権力に対してこれほどまでに強固な抵抗を示した背景には、この地域の持つ特異な社会構造があった。戦国時代の紀州は、特定の戦国大名による一元的な支配が及ばず、地侍、農民、商人、そして強大な寺社勢力が複雑に絡み合いながら、地域的な連合体(惣)を形成して高度な自治を行う「惣国(そうこく)」としての性格を色濃く持っていた 1

彼らの独立志向を決定づけたのが、かつて織田信長と石山本願寺が10年にもわたり争った石山合戦である。この戦いにおいて、雑賀衆・根来衆は本願寺を支援する中核戦力として、信長の天下統一事業を大いに苦しめた 8 。この経験は、彼らの心に中央権力に対する根強い不信感と、自らの「自由」と独立を何としても守り抜こうとする強固な意志を深く刻み込んだ。

秀吉が目指す、全国の土地と人民を直接支配下に置き、厳格な身分制度を敷く中央集権的な国家体制は、彼らが長年にわたって享受してきた自治と独立を根本から覆すものであった。それゆえ、秀吉による紀州侵攻は、単なる領土を巡る紛争ではなく、彼らにとって自らの生き方そのものを賭けた、存亡の戦いとなったのである。

紀州征伐の多角的意図 ― 報復を超えた政治的デモンストレーション

秀吉が掲げた紀州征伐の表向きの大義名分は、小牧・長久手の戦いにおける裏切り行為への「報復」であった。しかし、その本質はより多角的かつ戦略的なものであった。秀吉の留守を狙った大坂への攻撃は、天下人としての秀吉の面目を完全に潰す、断じて許しがたい行為であり、厳罰をもって臨むことは当然の帰結であった 5

だが、それ以上に重要な意味があった。家康との和睦を経たとはいえ、秀吉の権威は未だ盤石とは言い難い状況にあった。このタイミングで、反抗する勢力を圧倒的な軍事力で、情け容赦なく蹂躙する様を全国の諸大名、特に依然として静観を続ける徳川家康、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らに見せつけることは、自らの権威を再確立し、彼らの抵抗の意志を削ぐための強力な「見せしめ」となったのである 1 。したがって、この紀州征伐は単なる報復合戦ではなく、秀吉の天下統一事業が新たな段階に入ったことを天下に知らしめる、高度に計算された政治的・軍事的デモンストレーションであったと結論付けられる。

第一章:紀州征伐の勃発 ― 鉄砲集団の強さと脆さ

雑賀衆・根来衆の実像 ― 戦国最強の武装集団

秀吉が対峙した紀州勢力の中核は、雑賀衆と根来衆という、当時日本最強と謳われた二つの武装集団であった。

根来衆 は、新義真言宗の総本山である根来寺を中心とした僧兵集団である。最盛期には寺領が72万石にも達したとされ、大大名に匹敵する強大な経済力を誇った 9 。寺内の僧は、教学を司る「学侶」と、武装して寺の防衛や軍事行動を担う「行人」に分かれており、根来衆の主体はこの行人であった 10 。彼らは早くから鉄砲の重要性に着目し、その導入と運用において他の勢力の追随を許さなかった 11

一方の 雑賀衆 は、紀ノ川下流域に割拠する地侍たちが形成した連合体であった。彼らは瀬戸内海や明との海上交易によって莫大な富を築き、その潤沢な資金を元手に5,000挺以上ともいわれる膨大な数の鉄砲を調達していた 10 。彼らの真の強みは、単に鉄砲の数が多いことだけではなかった。射手と弾込め役を分ける、あるいは一斉射撃を行うといった、鉄砲の威力を最大限に引き出すための集団戦術を完成させていた点にある 15 。近年の発掘調査では、タイのソントー鉱山産の鉛を使用した鉄砲玉が出土しており、彼らの交易ネットワークが海外にまで及んでいたことを物語っている 16

この二つの集団は地理的に近接していることから人的な交流も盛んであり、利害が一致する際には協力して戦線に立った 10

秀吉軍の進攻と泉南での緒戦 (天正13年3月)

天正13年(1585年)3月、秀吉は甥の羽柴秀次を総大将に据え、自らも6万から10万ともいわれる大軍を率いて大坂を出陣。海陸両面から紀州へと侵攻を開始した 18 。これに対し紀州勢は、和泉国南部の千石堀城、沢城、積善寺城といった国境の城砦群に合計9,000余の兵を配置し、秀吉軍を迎え撃つ態勢を整えた 19

戦端が開かれると、特に千石堀城では壮絶な攻防戦が繰り広げられた。紀州勢の巧みな鉄砲運用により、秀次が率いる先鋒軍はわずか半時(約1時間)ほどの間に1,000人以上もの死傷者を出すという大損害を被った 19 。しかし、攻め寄せる筒井定次勢の放った火矢が、偶然にも城内にあった煙硝蔵(火薬庫)に引火、大爆発を起こすという不運に見舞われる。これが致命傷となり、千石堀城は炎上、落城した。この時、秀吉は城内にいた非戦闘員や馬、犬猫に至るまで、生きとし生けるもの全てを皆殺しにするよう厳命したと伝えられており、その凄惨さは、紀州の人々を恐怖のどん底に突き落とした 19

根来寺炎上 (3月23日)

泉南での激戦に主力を投入してしまったことが、紀州勢にとって命取りとなった。彼らの本拠地の一つである根来寺本体の守りは、極めて手薄になっていたのである。秀吉軍の別動隊が迫ると、寺に残っていた僧侶の多くは戦わずして逃亡。紀州勢の一大拠点は、ほとんど抵抗らしい抵抗もできないまま、あっけなく制圧された 19

その夜、寺から火の手が上がった。秀吉軍による放火か、あるいは敗走する根来衆が自ら火を放ったのか、その原因は定かではない。炎は3日間にわたって燃え続け、国宝に指定されていた大塔や南大門など、いくつかの貴重な建物を残して、壮麗を極めた伽藍のほとんどを灰燼に帰した 7 。現在も大塔の柱や扉には、この時のものとされる生々しい弾痕が数多く残されており、往時の激しい戦いの様子を物語っている 7

最強集団の構造的脆弱性

「戦国最強」とまで謳われた雑賀・根来の鉄砲集団が、なぜこれほどまでに脆くも崩れ去ったのか。その原因は、彼らが持つ組織構造そのものに内在する脆弱性にあった。彼らは、単一の強力な指揮命令系統を持つ戦国大名家とは根本的に異なり、あくまで利害と思惑が必ずしも一致しない地侍や寺社の「連合体」に過ぎなかった。

秀吉が動員した国家規模の圧倒的な大軍を前に、その結束は早々に揺らぎ始める。内部からは秀吉側に寝返る勢力が現れるなど、足並みの乱れが顕著となった 3 。彼らの強みは、地の利を活かしたゲリラ戦や拠点防衛といった局地戦において最大限に発揮されるものであった。しかし、秀吉が展開するような、圧倒的な物量と巧みな調略を伴う近代的な総力戦に対して、統一された大局的な戦略を描く能力を欠いていた。主力を前線の防衛に集中させすぎた結果、本拠地である根来寺をがら空きにしてしまうという戦略的失策を犯したことは、その典型であった 19 。彼らの「強さ」は特定の条件下でのみ有効なものであり、新しい時代の戦争の前には、その構造的脆弱性を露呈せざるを得なかったのである。

第二章:太田城籠城戦 ― 最後の砦

泉南の防衛線が崩壊し、根来寺が炎上する中、雑賀衆の多くは戦意を喪失し、降伏または敗走した。しかし、その中にあって最後まで抵抗の意志を捨てなかった者たちがいた。太田左近宗正に率いられた雑賀衆太田党である。彼らは、雑賀・根来の残党を糾合し、自らの居城である太田城に立てこもり、最後の決戦に挑む道を選んだ 20


表:太田城水攻め 主要関連人物一覧

本合戦に関わった人物は多岐にわたる。特に秀吉軍には錚々たる武将が名を連ねており、この戦いが秀吉にとってどれほど重要なものであったかを示している。

陣営

身分/役割

主要人物

備考

豊臣方

総大将

豊臣 秀吉

自ら紀州へ出陣し、水攻めを直接指揮した 25

副将

羽柴 秀長

秀吉の弟。戦後の紀州統治と和歌山城築城を担った 26

先鋒総大将

羽柴 秀次

秀吉の甥。泉南での緒戦で主力を率いた 19

軍団長

堀 秀政

斥候隊を率いるも、太田勢の伏兵に遭い撃退された 24

軍団長

宇喜多 秀家

堤防の北側を担当。後の堤防決壊で甚大な被害を受けた 19

水軍指揮官

小西 行長

安宅船を率いて水上からの攻撃を担当。「アゴスチニョ」と同一人物か 29

軍団長

筒井 定次

泉南の千石堀城攻めで活躍 19

交渉役

蜂須賀 正勝

降伏交渉の窓口となった 1

軍師

黒田 官兵衛

備中高松城水攻めを献策した人物。本戦にも参陣した可能性が高い 30

太田城方

城主・大将

太田 左近 宗正

雑賀衆太田党の頭領。最後まで抵抗し、城兵の助命を条件に自刃した 24

副将

亀井 対馬守

太田左近を補佐した 25

武将

太田 源二郎

左近の弟 25

尼法師

朝比奈 摩仙名

小舟で秀吉軍に突撃し、奮戦したと伝えられる女性 25


太田左近の決断と籠城する人々

太田城には、戦闘員である地侍たちだけでなく、戦火を逃れてきた周辺の農民、そして彼らの妻子を含む約5,000人もの人々が逃げ込み、運命を共にすることになった 3 。これは、この戦いが単なる武士同士の争いではなく、紀州の地域共同体そのものの存亡を賭けた総力戦であったことを明確に示している。

秀吉は降伏を勧告する使者を送ったが、太田左近はこれを毅然として拒絶。「我々の自治(惣国)を認めないのであれば、徹底的に戦うまでだ」と返答したと伝えられており、惣国の民としての誇りと、最後まで自由のために戦い抜くという悲壮な覚悟が窺える 25

斥候隊の撃退 (3月25日) ― 水攻めへの序曲

3月25日、秀吉軍の先鋒、堀秀政や長谷川秀一らが率いる部隊が紀ノ川を渡り、太田城への本格的な攻撃を開始した 3 。しかし、太田城方は地の利を最大限に活かした。城周辺の森や地形を巧みに利用して鉄砲隊を伏せ、秀吉軍を待ち伏せたのである。

太田勢の正確無比な鉄砲射撃は、大軍に油断していた秀吉軍の先鋒を的確に捉え、一説には51名(あるいは53名)の死者を出させて、これを撃退することに成功した 3 。この緒戦における手痛い敗北は、秀吉に太田城を力攻めで陥落させることがいかに困難であるかを痛感させた。そして、かつて備中高松城で毛利氏を屈服させた成功体験を持つ秀吉は、自軍の損害を最小限に抑えつつ、より確実に敵を追い詰めることができる「水攻め」へと作戦を転換する決断を下したのである 3

第三章:空前の大堤防築造 ― 水攻めのリアルタイム詳解

太田城を力攻めではなく水攻めによって屈服させるという方針が固まると、秀吉軍は前代未聞の巨大土木工事に着手した。その壮絶な攻防の過程を、時系列に沿って詳述する。


表:太田城水攻め タイムライン

日付 (天正13年)

出来事

詳細と考察

3月25日頃

斥候隊撃退と水攻め決定

堀秀政らの先鋒が太田勢の伏兵に遭い敗退。力攻めの困難を悟った秀吉は水攻めを決断し、太田城北方の黒田に本陣を設置 3

3月25日~31日

大堤防築造

全長約6~7km、高さ3~7m、基底幅30mの巨大堤防をわずか6日間で完成させる。延べ46万人以上を動員したとされる空前の突貫工事 29

4月1日

注水開始

完成した堤防内に、堰き止めた紀ノ川の水を引き込み始める 29

4月3日~

豪雨と水位急上昇

数日間にわたる大雨が降り続き、水位が急激に上昇。太田城は完全に水に囲まれ、「浮城」と化す 3

4月8日

城内堤防(横堤)の決壊

城方が水の侵入を防ぐために築いた内側の堤防(横堤)が増大する水圧に耐えきれず決壊。城内へ濁流が流れ込み、パニック状態に陥る 19

4月9日

秀吉軍堤防の決壊

今度は秀吉軍が築いた堤防の北側(宇喜多秀家担当区画)が約270mにわたり決壊。濁流が宇喜多勢の陣を襲い、多数の溺死者を出す大失態となる 1

4月10日~13日

堤防修復

秀吉は威信をかけ、60万個もの土俵を投入して決壊箇所を修復させる 19

4月13日以降

水上からの総攻撃

小西行長らが率いる水軍が安宅船を湖上に展開し、水上からの鉄砲射撃など直接攻撃を開始。籠城側も潜水して船底に穴を開けるなど必死の抵抗を試みる 1

4月17日・18日

織田信雄らの「見物」

秀吉は織田信雄や結城秀康を本陣に招き、水攻めの様子を見物させる。これは軍事的・政治的デモンストレーションの一環であった 1

4月22日

降伏勧告受諾

籠城側の兵糧が尽き、援軍の望みも絶たれる。太田左近は城兵の助命を条件に降伏を決断。女子供の退去が始まる 1

4月24日

開城・自刃

太田左近をはじめとする主導者53名が切腹。太田城は開城し、約1ヶ月にわたる籠城戦は終結した 1


【築堤開始:3月25日頃】天下人の設計図

秀吉は太田城から北へ約1km離れた黒田(現在の和歌山市黒田)に本陣を構え、自ら水攻めの詳細な計画を練り、指揮を執った 29 。計画された堤防の包囲線は、籠城側が撃ち出す鉄砲の弾が届かない、城から約300m離れた安全な距離に設定された 29 。これは、工事に従事する兵員や人夫の損害を最小限に抑えるための、極めて合理的かつ冷徹な計算に基づいた設計であった。

【工事期間:約6日間】驚異の普請能力と技術

かくして着工された堤防は、まさに壮大というほかない規模であった。全長は約6~7km、高さは平均して3~5m(高い所では7m)、そして土台となる基底部の幅は30mにも及んだと記録されている 25 。この規模は、3年前に秀吉が行った備中高松城水攻めの堤防 39 を遥かに凌駕するものであった。

さらに驚くべきは、その工期である。秀吉はこの巨大な土木構造物を、わずか6日間という信じがたいスピードで完成させたとされる 3 。これを可能にしたのは、第一に、延べ46万人以上ともいわれる圧倒的な労働力の強制動員である 25 。秀吉は参陣した諸大名にそれぞれの石高に応じた工区を割り当て、完成の速さを競わせることで、彼らの忠誠心を試すと同時に工事の効率を極限まで高めた 40 。技術的には、土を薄い層状に重ねて杵で突き固め、強度を高める古代中国由来の土木技術「版築」が用いられたと考えられ、これにより短期間での頑強な堤防建設が実現した 41

この常軌を逸した規模とスピードの土木工事は、単に城を一つ落とすという軍事的な合理性だけでは説明がつかない。むしろ、この工事自体が、秀吉が持つ絶対的な権力、他を寄せ付けない動員力、そして高度な技術力を全国の諸大名に見せつけるための壮大な政治的パフォーマンスであった。4月17日、18日には、織田信雄や養子の結城秀康をわざわざ本陣に招き、水に浮かぶ城を「見物」させているが 1 、これはその象徴的な行動である。太田城水攻めは、後の大坂城築城や聚楽第建設といった、諸大名に負担を強いる「天下普請」の時代の幕開けを告げる、予行演習としての側面を強く持っていたのである。

【注水と浸水:4月1日~8日】湖中の城と地獄絵図

4月1日、堤防が完成すると、堰き止められた紀ノ川の支流の水が、掘られた導水路を通って城の周囲へと引き込まれ始めた 29 。運命のいたずらか、あるいは梅雨の走りであったのか、4月3日頃から数日間にわたってこの地域を豪雨が襲う。これにより水位は急激に上昇し、太田城は瞬く間に周囲を広大な湖に囲まれた「浮城」と化した 3

城内では、水の侵入を少しでも食い止めようと、城壁の内側に防御用の堤(横堤)を必死に築いて抵抗を試みた 19 。しかし、増え続ける一方の水圧に、その場しのぎの堤が耐えられるはずもなかった。4月8日、ついに横堤が決壊。濁流が城内へと一気になだれ込み、籠城していた人々を未曾有の混乱に陥れた 19

当時の記録である『根来焼討太田責細記』には、その時の惨状が「鼠、鼬、獺、蛇など水に漂い、人の腰膝とも言わず匍のぼりければ 城中の老児女子ら大いに恐怖し…」と生々しく記されている 25 。腰まで冷たい泥水に浸かり、逃げ場を失ったネズミや蛇といった動物たちが、僅かな乾いた場所を求めて人々の体に這い上ってくる。それはまさに地獄のような光景であった。

【堤防決壊:4月9日】秀吉の失態と籠城側の希望

しかし翌9日、事態は誰もが予期せぬ方向へと転回する。今度は、秀吉軍が築いた大堤防そのものが決壊したのである。場所は北側、備前・美作の大名である宇喜多秀家隊が担当していた区域で、約150間(約270m)にもわたって崩れ落ちた 3 。突貫工事の脆弱性が露呈した結果であった。

堤防内に溜まっていた膨大な水が濁流となって宇喜多勢の陣営を直撃し、多数の兵が溺死するという、天下人秀吉にあるまじき大失態を演じた 1 。この予期せぬ出来事に、絶望の淵にいた籠城側は「これぞ神仏の助けである」と歓喜し、一時的に士気が大いに高揚した 1

【攻防の激化:4月13日以降】水上の戦い

面目を潰された秀吉は、威信にかけて堤防の修復を厳命。一説には60万個もの土俵を投入し、わずか数日で決壊箇所を塞ぎ直した(4月13日までに完了) 19

そして、今度は力による総攻撃に打って出る。小西行長(イエズス会日本年報に記される「海の司令官アゴスチニョ」と同一人物と推定される 29 )らに命じ、湖と化した城の周囲に安宅船をはじめとする大小の軍船を浮かべ、水上からの直接攻撃を開始したのである 1 。船上からの鉄砲射撃が、孤立した城の櫓や塀に絶え間なく浴びせられた。

これに対し、籠城側も最後の力を振り絞って抵抗した。泳ぎの得意な者たちが夜陰に乗じて水中に潜り、敵船の船底に工具で穴を開けて沈めるというゲリラ戦術で応じた 3 。またこの頃、朱柄の槍を手にした尼法師・朝比奈摩仙名が、たった一人で小舟を漕ぎ出して秀吉軍の船団に突撃し、獅子奮迅の働きをしたという逸話も伝えられており、絶望的な状況下での彼らの不屈の闘志を物語っている 25

第四章:落城と「惣国」の終焉

太田左近の決断と降伏 (4月22日~24日)

水上からの容赦ない攻撃が続く中、太田城は完全に孤立無援となった。約1ヶ月に及ぶ籠城戦の末、城内に備蓄されていた兵糧は底を尽き、外部から援軍が来るという万に一つの望みも完全に絶たれた 1 。これ以上の抵抗は、城内の女子供や農民たちを無駄死にさせるだけである。そう悟った城主・太田左近宗正は、苦渋の決断を下した。自らと、抵抗の主導者となった者たちの命を差し出すことを条件に、城に残る兵士、農民、そして女子供たちの助命を嘆願したのである 1

4月22日、秀吉はこの条件を受諾し、太田城の降伏が決定した。城門が開かれ、まず女子供たちが城を退去し始めた 1 。そして天正13年4月24日(一説には27日)、太田左近をはじめとする主だった城将53名が、城兵たちの目の前で潔く切腹して果てた 1 。彼らの首は、秀吉への抵抗がいかなる結末を迎えるかを示す見せしめとして、大坂の天王寺や安倍野の地で晒されたと伝えられている 3

戦後処理と「刀狩り」の萌芽

秀吉は、太田左近との約束通り、降伏した農民たちの命は助けた。しかし、それには一つの厳しい条件が付されていた。それは、彼らが所持する刀や鉄砲などの武器をすべて没収し、武装を解除することであった 1

この措置は、単なる戦後処理に留まるものではなかった。天正16年(1588年)に秀吉が全国規模で発令する、かの有名な「刀狩令」の先駆け、あるいは最初の実例と見なされており、日本の社会史において極めて重要な意味を持つ出来事となった 1

近世社会への扉 ― 兵農分離の実験場

太田城における武装解除は、秀吉が構想する新しい社会秩序の実験的な適用であった。雑賀衆の本質は、地侍、農民、商人といった異なる階層の人々が一体となり、状況に応じて武器を取る「半士半農」の武装集団であった。これは、身分が未だ流動的であった中世社会の典型的な姿である。

これに対し、秀吉が目指したのは、武士を特権的な支配階級として城下町に集住させ、農民を土地に縛り付けて年貢を納める生産者階級として明確に分離する「兵農分離」社会の構築であった。農民から武器を取り上げることは、彼らが一揆などで為政者に抵抗する力を奪うと同時に、武士と農民という二つの身分を固定化し、新たな支配体制を盤石にするための決定的な第一歩であった。

太田城の跡地は、中世的な自治共同体である「惣国」が武力によって解体され、近世的な中央集権・封建社会へと移行する、まさにその歴史的な転換点となったのである。この悲劇は、一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げる象徴的な事件であった。

紀州の平定完了と和歌山城築城

太田城を陥落させた秀吉は、抵抗の象徴であった城に火を放って完全に破壊し、4月26日には大坂城へと凱旋した 1 。紀州の統治は、最も信頼する弟の羽柴秀長に一任された。秀長は、この地の新たな支配拠点として、太田城にも近い虎伏山に和歌山城の築城を開始する 26 。この壮麗な近世城郭の出現により、紀州が長きにわたって育んできた独立の歴史は、名実ともに終焉を迎えたのである。

結論:太田城水攻めが戦国史に刻んだもの

天正13年(1585年)の太田城水攻めは、日本の戦国史において、単なる一地方の攻城戦に留まらない、多岐にわたる重要な意義を持つ事件であった。

第一に、秀吉の天下統一事業における画期となった点である。この戦いは、秀吉に反抗する勢力がどのような運命を辿るかを、全国の諸大名にまざまざと見せつける強烈なメッセージとなった。圧倒的な物量と非情なまでの殲滅戦、そして度肝を抜く大土木工事によって紀州を平定したことで、秀吉の権威は不動のものとなり、その後の四国、九州、関東平定へと続く天下統一事業は大きく加速した。

第二に、日本の社会が中世から近世へと移行する大きな転換点であったことである。地侍と農民が一体となって自治を行った「惣国」という中世的な共同体の時代は、この戦いを以て終わりを告げた。戦後の武装解除は、後の刀狩りと兵農分離政策の先駆けとなり、武士が人民を支配する近世封建社会の到来を決定づけた。

そして第三に、戦国時代の土木技術と戦術の極致を示した戦史として記憶されるべき点である。備中高松城、武蔵忍城と並び「日本三大水攻め」の一つに数えられるが 30 、その堤防の規模において太田城水攻めは群を抜いている。これは、秀吉が持つ圧倒的な動員力、高度な土木技術、そして目的のためには手段を選ばない冷徹な戦略思想を体現するものであった。

現在も和歌山市出水には、この時に築かれた堤防の一部が、周囲の平野から小島のように浮かび上がる姿で残っている 16 。それは400年以上の時を超えて、天下人の野望の前に水底に沈んだ城と、最後まで自由のために戦った人々の記憶を、今に静かに物語っている。

引用文献

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  3. [合戦解説] 10分でわかる紀州征伐 「秀吉は得意の水攻めで太田城を包囲した」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=K6OGD4Jx-fM
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  41. 法隆寺や万里の長城に使われている共通の工法…版築とは - 街建 https://machiken-pro.jp/shop/pages/column032.aspx
  42. 版築(ハンチク)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%89%88%E7%AF%89-118324
  43. 版築 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%88%E7%AF%89
  44. 「秀吉の紀州攻め(1585年)」紀伊国陥落!信長も成せなかった、寺社共和国の終焉 https://sengoku-his.com/711
  45. 日本三大水攻め_紀伊・太田城址 | パナソニック松愛会 奈和支部 https://www.shoai.ne.jp/nara-nawa/2024/01/24/oota_castle/