岡豊城の戦い(1585)
天正十三年、豊臣秀吉は大軍で四国征伐を開始。元親は三方面から攻められ、岡豊城は戦火を免れ降伏。四国は豊臣支配下となり、元親は土佐一国を安堵された。
天正十三年、岡豊城の虚実:豊臣秀吉の四国征伐、そのリアルタイム全記録
序章:『岡豊城の戦い』の真実 ― 四国全土を揺るがした天正の陣 ―
天正十三年(1585年)、土佐の岡豊城(おこうじょう)において、四国の覇者・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が天下人・豊臣秀吉の軍門に降った。この出来事は、しばしば「岡豊城の戦い」として語られる。しかし、この呼称は歴史の真実を正確に捉えているとは言い難い。岡豊城は長宗我部氏の揺るぎない本拠地であったが、この天正十三年の夏、その城壁が直接戦火に包まれることは一度もなかったのである 1 。
真実は、より広大で、より熾烈なものであった。この年、秀吉は弟の羽柴秀長を総大将として10万を超える空前の大軍を編成し、四国全土に対して組織的かつ同時多発的な侵攻作戦を展開した 3 。阿波、讃岐、伊予の三国を舞台に繰り広げられたこの一連の軍事行動こそが、後に「四国征伐(四国攻め)」、あるいは伊予の視点から「天正の陣」と呼ばれる戦いの実態である。長宗我部氏の降伏と岡豊城の開城は、この巨大な軍事作戦の最終的な帰結に過ぎない。
本報告書は、この「岡豊城の戦い」という象徴的な出来事の背後に隠された、四国全土を揺るがした軍事侵攻の全貌を解き明かすことを目的とする。天正十三年夏の約二ヶ月間にわたり、阿波、讃岐、伊予の三つの戦線で何が起こっていたのか。その戦況を可能な限りリアルタイムに近い形で時系列に沿って再構成し、長宗我部元親が岡豊城で降伏の決断を下すに至るまでの、息詰まるような攻防の軌跡を徹底的に追跡する。
第一部:嵐の前の静寂 ― 崩れゆく四国の覇権 ―
秀吉による四国侵攻は、突如として起こったわけではない。それは、天下統一という巨大な構想と、四国独立という野望が衝突する、歴史の必然であった。両者の関係が修復不可能な段階に至るまでの政治的・軍事的緊張の高まりを、まずは詳述する。
第一章:天下人と四国の雄
長宗我部元親の四国統一事業
土佐(現在の高知県)の一豪族から身を起こした長宗我部元親は、その生涯を四国統一の野望に捧げた武将であった。永禄三年(1560年)の初陣で「姫若子(ひめわこ)」の汚名を返上する武勇を示して以来 6 、破竹の勢いで土佐を平定 2 。その矛先は、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)へと向けられた 7 。天正十三年(1585年)春には、四国全土をほぼ手中に収めたとされ、その覇業は完成間近に見えた 5 。
しかし、その支配は盤石ではなかった。阿波の土佐泊城のように、豊臣方の支援を受けた三好氏の残存勢力が抵抗を続ける拠点も存在し、元親の四国統一が完全ではなかったとする見方も有力である 3 。このわずかな支配の綻びが、後に豊臣軍の侵攻を容易にする一因となる。
秀吉との関係悪化
かつて織田信長を介して、元親と秀吉は友好関係にあった。しかし、天正十年(1582年)の本能寺の変が両者の運命を大きく分かつ。信長の後継者として急速に台頭する秀吉に対し、元親は警戒を強めていく。その関係悪化の要因は複合的であった。第一に、元親が本能寺の変の首謀者・明智光秀と親密な関係にあったこと。第二に、元親が四国で激しく争った三好康長や十河存保(そごうながやす)といった旧敵が、秀吉に庇護を求めて接近したことである 10 。
さらに、秀吉が天下統一への歩みを進める中で起こった賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いにおいて、元親は一貫して反秀吉勢力に与する姿勢を見せた 5 。これらの行動は、秀吉の中に元親に対する根深い不信感を植え付け、両者の対立を決定的なものとした。
交渉決裂の経緯
天下の趨勢が秀吉に傾く中、両者は外交交渉による解決も模索した。秀吉は元親に対し、四国統一の既成事実を認めず、伊予と讃岐を返上した上で臣従するよう厳命した 5 。これは、元親が血と汗で手に入れた領土の大半を放棄せよというに等しい要求であった。元親は「伊予一国のみの返上」という妥協案を提示するが、秀吉はこれを一蹴 5 。元親はさらに、嫡男・信親を大坂に住まわせ事実上の人質とすることなどを条件に再交渉を試みたが、これも最終的に決裂する 11 。
この交渉決裂は、単なる領土紛争の行き詰まりではなかった。秀吉は、自らの許可なく大名間の私闘を禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を天下に示す過程にあり 12 、それに従わない元親の存在は、秀吉が構築しようとする新たな天下の秩序に対する明確な挑戦と見なされた。この時点で、軍事力による四国の再編成は、秀吉の国家構想において不可避の選択肢となっていたのである。
長宗我部氏の孤立化
交渉が決裂し、軍事的緊張が最高潮に達した天正十三年三月、秀吉は決定的な一手を打つ。紀州征伐を断行し、長宗我部氏の背後を支える強力な同盟者であった根来衆・雑賀衆といった傭兵集団を壊滅させたのである 11 。これにより、元親は四国外からの支援を完全に断たれ、軍事的に孤立無援の状態へと追い込まれた。四方を海に囲まれた島は、巨大な籠城戦の舞台と化した。
第二章:龍虎相搏つ ― 両軍の戦力と戦略 ―
豊臣軍の侵攻計画
天正十三年五月、秀吉は四国侵攻の最終準備に着手した。これは、秀吉軍にとって初となる大規模な渡海作戦であり、天下統一事業の成否を占う重要な試金石であった 11 。彼は和泉・紀伊の船舶を徹底的に調査・徴発させ、10万を超える兵員と物資を海を越えて輸送するという、当時としては驚異的な兵站計画を立てた 11 。このロジスティクス能力こそが、戦闘が始まる以前からの秀吉の最大の強みであった。
秀吉自身は病のため、和泉の岸和田城で采配を振るい、実戦の総指揮は弟の羽柴秀長、副将を甥の羽柴秀次に委ねた 5 。その戦略の核心は、長宗我部軍の防衛力を分散させ、同時に叩くことにあった。総兵力10万超 3 を三つの軍団に分割し、阿波・讃岐・伊予の三方面から同時に四国へ上陸・侵攻するという、壮大な包囲殲滅作戦であった 5 。
長宗我部軍の防衛体制
対する長宗我部元親は、動員可能な総兵力約4万 9 をもって、この未曾有の国難に立ち向かう。元親もまた、豊臣軍の主力が淡路島を経由して阿波に上陸すると予測しており、防衛力の大部分を阿波方面に集中させた。そして、四国の地理的中心に位置し、各方面への連絡が容易な阿波の要衝・白地城(はくちじょう、徳島県三好市)に本陣を構え、全軍の指揮を執った 2 。
阿波の主要な城には、木津城に東条関兵衛、一宮城に江村親俊と外交官としても知られる谷忠澄(たにただずみ)、岩倉城に比江山親興、脇城に長宗我部親吉といった重臣たちが配置され、幾重にもわたる防衛網が敷かれた 11 。しかし、三方向から同時に押し寄せる津波のような大軍を前に、その防衛線はあまりにも脆弱であった。
【表1:天正十三年 四国征伐における両軍の兵力編成比較】
派閥 |
方面 |
総大将/指揮官 |
主要武将 |
兵力(推定) |
侵攻ルート/防衛拠点 |
豊臣軍 |
阿波 |
羽柴秀長、羽柴秀次 |
筒井定次、蜂須賀正勝、黒田官兵衛、仙石秀久など |
約60,000 |
堺・明石 → 淡路島 → 阿波・土佐泊 |
豊臣軍 |
讃岐 |
宇喜多秀家 |
蜂須賀正勝、仙石秀久など |
約23,000 |
播磨 → 讃岐・屋島 |
豊臣軍 |
伊予 |
毛利輝元(総指揮) |
小早川隆景、吉川元長 |
約30,000 |
備後・安芸 → 伊予・今治 |
長宗我部軍 |
阿波 |
長宗我部元親(本陣) |
香宗我部親泰、谷忠澄、東条関兵衛など |
主力部隊 |
白地城、一宮城、岩倉城、木津城など |
長宗我部軍 |
讃岐 |
(元親の指揮下) |
戸波親武など |
不明 |
植田城など |
長宗我部軍 |
伊予 |
(元親の指揮下) |
金子元宅など |
約2,000以上 |
金子城、高尾城など |
第二部:四国蹂リン ― リアルタイムで追う天正十三年の夏 ―
天正十三年六月、ついに豊臣軍の侵攻が開始された。それは、四国の運命を決定づける、長く、そして暑い夏の始まりであった。ここからは、三つの戦線で繰り広げられた攻防を、日付を追ってリアルタイムで再現する。
第一章:阿波の攻防 ― 豊臣本隊、怒濤の進撃 ―
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天正十三年六月十六日
総大将・羽柴秀長と副将・秀次が率いる豊臣軍本隊約6万は、堺と明石からそれぞれ出航。経由地である淡路島で合流し、阿波の玄関口である土佐泊への上陸作戦を開始した 11。約800艘ともいわれる大船団が紀伊水道を埋め尽くす光景は、長宗我部方の度肝を抜いたに違いない。 -
六月下旬
上陸した豊臣軍は、最初の攻略目標である木津城に殺到した。城主・東条関兵衛は奮戦するも、大軍に包囲され、わずか8日で水の手(水源)を断たれてしまう。抗戦不能となり降伏を余儀なくされた関兵衛は、土佐へ帰還したが、元親の逆鱗に触れ、責を問われて切腹させられた 14。この非情な処置は、元親の焦りと、徹底抗戦への固い意志の表れであった。 -
七月上旬
木津城のあまりにも早い陥落は、阿波東部の長宗我部方防衛線に致命的な動揺を与えた。牛岐城を守る元親の弟・香宗我部親泰、渭山城の吉田康俊らは、豊臣軍本隊と戦うことなく城を放棄し、土佐へと戦略的撤退を開始する 14。これにより、徳島平野は瞬く間に豊臣軍の支配下に入った。 -
七月中旬
豊臣軍の主力は、阿波における長宗我部方の最重要拠点、一宮城へと矛先を向けた。ここを守るのは、重臣の谷忠澄と江村親俊が率いる兵約5,000。対する豊臣軍は5万という圧倒的な兵力で城を幾重にも包囲し、兵糧攻めを開始した。さらに、城の地下に坑道を掘り進め、城内の井戸を枯渇させる「干殺し」戦術を展開 5。水と食料を断たれた城兵は、絶望的な状況下で20日近くも抵抗を続けたが、ついに力尽き、開城した 5。 -
七月下旬
一宮城への攻撃と並行し、羽柴秀次、黒田官兵衛、蜂須賀正勝らの別働隊が、岩倉城と脇城を攻撃していた。豊臣軍は当時最新兵器であった大砲をも投入し、城壁を揺るがす猛攻を加えた 11。この圧倒的な火力の前に両城は相次いで陥落 9。阿波における組織的抵抗はここに終焉を迎え、元親の本陣・白地城は、東から豊臣本隊の強大な圧力に直接晒されることとなった。
第二章:讃岐の平定 ― 黒田官兵衛の神算 ―
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六月下旬~七月上旬
阿波で激戦が繰り広げられている頃、讃岐方面では宇喜多秀家を総大将とし、黒田官兵衛、仙石秀久らを擁する約2万3千の軍勢が屋島に上陸していた。彼らは喜岡城、香西城、牟礼城といった沿岸部の諸城を、抵抗を許さぬ速さで次々と攻略していった 14。 -
七月中旬
豊臣軍の前に、長宗我部一門の戸波親武が守る堅城・植田城が立ちはだかった。元親はこの植田城を囮とし、城攻めに手間取る豊臣軍の背後を伏兵で襲うという迎撃作戦を練っていた 18。長宗我部軍にとって、一矢報いる最大の好機であった。 -
黒田官兵衛の判断
しかし、豊臣軍の天才軍師・黒田官兵衛は、この策を見抜いていたか、あるいは堅城の攻略に貴重な時間と兵力を費やすことを愚策と判断した。官兵衛は「植田城のごとき小城に構うべからず。これを無視し、速やかに南下して阿波の主力軍と合流すべし」と全軍に進言した 11。この極めて合理的な戦略的判断により、豊臣軍は植田城を完全に迂回。元親が仕掛けた会心の一策は、空しく不発に終わった。 -
七月下旬
讃岐をほぼ無抵抗で縦断した宇喜多・黒田軍は阿波国へ進出。秀長・秀次が率いる本隊と合流を果たした。これにより、一宮城や岩倉城に対する包囲の圧力はさらに増大し、阿波戦線の崩壊を決定づけた。戦術的勝利に固執せず、大局的な戦略目標を優先した官兵衛の判断は、四国征伐全体の帰趨を左右する重要な一手となった。
第三章:伊予の悲劇 ― 壮絶なる『天正の陣』 ―
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七月五日
西の伊予方面では、毛利輝元の名代として、知将・小早川隆景と猛将・吉川元長が率いる毛利軍約3万が今治沖に来着。直ちに軍議を開き、侵攻計画を練った 19。 -
七月六日~十一日
慎重な性格で知られる隆景は、すぐには力攻めを行わなかった。数日をかけて上陸地点周辺の地理を把握し、情報収集に努めるとともに、伊予の国人衆(地侍)への調略を水面下で進めた。この巧みな工作が功を奏し、桑村郡の宇野氏が毛利方に寝返り、その後の進軍の道筋をつけた 19。 -
伊予の将・金子元宅の決断
この時、伊予東部(東予地方)で最大の勢力を誇っていたのが、金子城主・金子備後守元宅(かねこもといえ)であった。元宅は、毛利氏とは旧来から交流があり、降伏して家名を保つ道も十分に開かれていた 20。しかし、麾下の諸将を集めた軍議の席で、元宅は衆議を排してこう言い放ったと伝えられる。「昨日は長宗我部に頭を下げ、今日は小早川に腰を折る。所詮、肩をすぼめて世を渡るよりは、潔く討ち死にして名を後世に残すべし」22。彼は、長宗我部氏に人質を預けていたという事情もあったが、それ以上に、武士としての「義」を貫く道を選んだのである 21。この決断は、伊予東部を四国征伐における最大の激戦地へと変貌させた。 -
七月十二日~十六日
毛利軍は進軍を再開し、金子方の拠点である高尾城と丸山城を包囲。調略済みであった丸山城は戦わずして開城した 19。元宅は、本拠の金子城を弟の元春に託し、自らは高尾城に入って全軍の指揮を執った 20。毛利軍は高尾城への総攻撃に向け、着々と準備を進めた。 -
七月十七日
この日、毛利軍が高尾城への総攻撃を開始した。金子軍の兵力は長宗我部からの援軍を含めてもわずか800余り。対する毛利軍は1万5千以上ともいわれ、兵力差は絶望的であった 20。城兵は必死の抵抗を見せるが、衆寡敵せず、夕刻には城の各所から火の手が上がった。
もはやこれまでと覚悟を決めた元宅は、自ら城に火を放つと、残った兵600余りを率いて城外の野々市原(ののいちばら)へと討って出た。これは、玉砕を覚悟した最後の野戦であった。元宅は敵の大軍の中に幾度となく突撃を繰り返し、手勢が13人になるまで戦い続けた末、壮絶な討死を遂げた 21。その鬼神の如き戦いぶりは、敵将・小早川隆景をも感嘆させ、隆景は後に元宅らの亡骸を手厚く葬り、その霊を弔うために千人塚を建てたとされる 20。 -
七月十八日~二十六日
金子元宅の死によって、伊予東部における長宗我部方の組織的抵抗は完全に潰えた。毛利軍は勢いに乗って金子城を攻略。その後、抵抗を続ける残党が立てこもる城館や神社仏閣をことごとく焼き払う焦土作戦を展開し、伊予東部を完全に制圧した 19。
第三部:落日の土佐 ― 降伏と新たな秩序 ―
天正十三年七月末、四国の戦況は決した。阿波、讃岐、伊予の三国は豊臣軍の手に落ち、長宗我部元親に残されたのは、故国・土佐のみであった。
第一章:白地城の決断
戦略的包囲網の完成
七月末の時点で、元親が本陣を置く阿波・白地城は、完全な戦略的包囲下にあった。東からは阿波を制圧した羽柴秀長・秀次・宇喜多らの連合軍が、西からは伊予を平定した小早川隆景・吉川元長の毛利軍が、刻一刻とその距離を詰めていた 11 。四国の覇者の栄光は過去のものとなり、元親はもはや袋の鼠であった。
谷忠澄の説得
それでもなお、元親と麾下の重臣たちの多くは、土佐本土での徹底抗戦を叫んでいた 4 。土佐の険しい山々を盾に、ゲリラ戦を展開すれば勝機はあると信じていたのかもしれない。この主戦論が支配する白地城の空気を一変させたのが、一宮城の攻防戦を生き延び、帰還した谷忠澄であった。
忠澄は、20日間にわたり豊臣軍と直接対峙し、その圧倒的な実力を肌で感じていた。彼は元親の御前で、降伏こそが長宗我部家が生き残る唯一の道であると、涙ながらに、しかし断固として説いた 4 。
その説得内容は、極めて具体的かつ現実的なものであった。史書『南海治乱記』によれば、忠澄は次のように述べたとされる。「上方勢の武具や馬具は日に映えて光り輝き、馬もまたたくましく、兵糧も山と積まれて憂いなし。これに比べて味方は、10人のうち7人が貧相な土佐駒に乗り、鞍は歪み、木の鐙をかけている有様。鎧は古びて、麻糸で繕うております。このような有様で、どうして一戦を交えることができましょうか」 9 。
観念的な精神論ではなく、装備、兵站、士気の圧倒的な差という、戦場の生々しい「情報」を突きつけられた元親は、ついに徹底抗戦という非現実的な夢を断念する。
降伏の決断
八月上旬、長宗我部元親は、豊臣秀長からの降伏勧告を受け入れることを決断した 27 。
第二章:戦わずして開く城門
講和成立と降伏条件
天正十三年八月六日、羽柴秀長と長宗我部元親の間で、正式に講和が成立した 11 。これにより、四国全土を巻き込んだ戦乱は終結した。岡豊城の城門は、戦わずして開かれた。
秀吉から元親に提示された降伏条件は、勝者による苛烈なものであった 4 。
- 土佐一国の支配のみを安堵する。
- 苦心して手に入れた阿波、讃岐、伊予の三国は全て没収する。
- 嫡男・長宗我部信親を大坂に住まわせ、秀吉に奉公させる(事実上の人質)。
- 次男の香川五郎次郎(病弱のため実際には三男の津野親忠が代行)、および家老を人質として差し出す。
- 豊臣政権への軍役を義務付ける。
- 潜在的な敵対勢力である徳川家康との同盟を禁ずる。
元親は、四国の覇者から、豊臣政権下の一大名へと転落したのである。
四国の国分(くにわけ)
戦後処理として、秀吉は四国の新たな支配体制を構築した。没収された三国は、この戦いで功績のあった配下の武将たちに分与された。阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久、そして伊予は小早川隆景が新たな領主となった 5 。これにより、四国は完全に豊臣政権の統制下に組み込まれ、戦国時代を通じて続いた独立状態に終止符が打たれた。
終章:岡豊城の黄昏 ― 一時代の終焉と遺されたもの ―
戦いの終結は、長宗我部氏の本拠地・岡豊城の運命をも大きく変えた。戦場となることはなかったこの城は、一つの時代の終わりを静かに見届け、歴史の表舞台から姿を消していくことになる。
戦場とならなかった本拠地・岡豊城
岡豊城は、鎌倉時代以来、長宗我部氏代々の居城であり、元親が生まれ育ち、そして四国統一の拠点とした、まさに彼の栄光の象徴ともいえる城であった 2 。しかし、天正十三年の戦役においては、決戦が土佐本土に及ぶ前に降伏が決定したため、その堅固な城壁が試されることはなかった。戦火を免れたことは幸いであったが、それは同時に、長宗我部氏の独立した権力が終焉を迎えたことを意味していた。
岡豊城の構造と栄華の痕跡
岡豊城は、標高97mの丘陵上に築かれた、典型的な戦国期の山城である。その縄張り(設計)は、最高所に本丸にあたる「詰(つめ)」を置き、そこから二ノ段、三ノ段、四ノ段といった曲輪(くるわ)が階段状に連なる連郭式を採用している 1 。
城内には、尾根を断ち切って敵の侵攻を阻む「堀切」、複雑な経路で敵を迷わせる出入り口「虎口(こぐち)」、そして急斜面を登る敵兵の足を止めるための無数の縦の溝「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」など、戦国時代後期の高度な築城技術の粋が見られる 30 。これらの防御施設は、この城が幾多の戦いを経て、実戦的に改良されてきたことを物語っている。
昭和六十年度(1985年)から始められた発掘調査は、この城の知られざる姿を明らかにした 34 。特筆すべきは、「詰」の曲輪から発見された瓦である。その瓦には「天正三年」「瓦工泉州」といった文字が刻まれており、元親が四国統一を推し進めていた天正三年(1575年)の時点で、畿内の和泉国(現在の大阪府南部)から瓦職人を呼び寄せるか、あるいは瓦そのものを輸入し、当時としては極めて先進的で豪壮な瓦葺きの建物を城内に有していたことが判明した 30 。
これは単に城の防御力を高めるだけでなく、元親の権威を内外に示すためのものであったと考えられる。当時、織田信長の安土城に代表されるように、城は権力の象徴としての「見せる」役割を担い始めていた。元親が明智光秀などを通じて中央の情報を得ていたことを考え合わせると 10 、彼が単なる地方の覇者にとどまらず、天下の動向を常に意識し、中央の進んだ文化や技術を積極的に取り入れようとしていた、進取の気性に富んだ大名であったことがうかがえる。岡豊城は、彼のその志向性を物理的に示す証拠なのである。
その後の岡豊城と長宗我部氏
降伏後、元親は天正十六年(1588年)に、より城下町の建設に適した大高坂山城(現在の高知城の場所)へ本拠を移転しようと試みる。しかし、治水の問題からこれを断念し、一時的に岡豊城へと戻った 1 。最終的に、天正十九年(1591年)に浦戸城へと本拠を移したことで、長宗我部氏累代の居城であった岡豊城はその役目を終え、廃城となった 1 。
豊臣政権下の一大名として組み込まれた長宗我部氏のその後の道のりは、苦難に満ちていた。翌年の九州征伐における戸次川の戦いで、元親は最愛の嫡男・信親を失うという悲劇に見舞われる 5 。この出来事は元親の精神を深く蝕み、長宗我部家の将来に暗い影を落としていくことになる。
歴史的意義の総括
豊臣秀吉の四国征伐は、単なる一地方の平定戦ではない。それは、圧倒的な物量と兵站能力、そして周到な戦略によって、強大な地方の独立勢力を中央政権の秩序下に組み伏せた、天下統一過程の典型的な事例であった。この戦いを経て、日本は戦国乱世の「力と力がぶつかり合う秩序」から、豊臣政権という中央集権体制下の「新たな秩序」へと大きく移行していく。
長宗我部元親の降伏と、彼の栄光の象徴であった岡豊城の放棄は、その歴史的な転換点を示す、象徴的な一幕であったと言えるだろう。岡豊城の静かな黄昏は、戦国という一つの時代の終焉を告げていたのである。
引用文献
- 岡豊城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E8%B1%8A%E5%9F%8E
- 【長宗我部元親・前編】土佐平定を経て、四国統一に迫った前半生ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 https://shirobito.jp/article/1562
- 長宗我部元親の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8098/
- 四国平定/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11099/
- 【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 第15回 - 城びと https://shirobito.jp/article/1577
- 長宗我部元親 - 高知市公式ホームページ https://www.city.kochi.kochi.jp/site/kanko/motochika.html
- 現場の声に耳を傾け、四国を統一した長宗我部元親|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-036.html
- 土佐武士の讃岐侵攻③(中讃侵攻) - ビジネス香川 https://www.bk-web.jp/post.php?id=2729
- 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
- 長宗我部の儚い夢~長宗我部三代記 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/dream-of-chosokabe/
- 「四国攻め(1585年)」秀吉の大規模渡航作戦!四国の覇者・長宗 ... https://sengoku-his.com/51
- 【秀吉の「惣無事令」】 - ADEAC https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht001040
- 【高校日本史B】「朝廷権威の利用と西の平定」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12782/point-2/
- 1585年 – 86年 家康が秀吉に臣従 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1585/
- 秀吉出馬・四国征伐 - 長宗我部盛親陣中記 - FC2 http://terutika2.web.fc2.com/tyousokabe/tyousokabetoha5.htm
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