岸和田城の戦い(1585)
天正岸和田合戦之実相:天正十二年防衛戦と十三年紀州征伐—城塞の役割転換と豊臣天下統一の序曲—
序章:天下人への最後の抵抗—紀州惣国と秀吉の対立構造
天正年間、日本の統一を目前にした羽柴秀吉の前に、一つの巨大な壁が立ちはだかっていた。それは、紀伊国(現在の和歌山県)に根を張る、中央の権力に屈しない独立勢力群であった。天正十二年(1584年)から十三年(1585年)にかけて岸和田城を舞台に繰り広げられた一連の攻防は、単なる一地方の合戦ではない。それは、秀吉が目指す中央集権的な天下統一事業と、それに抗う中世以来の自律的共同体との間の、思想と体制を賭けた最後の激突の序曲であった。
紀伊国は、守護大名の支配が及ばない特異な地域であり、独自の政治・軍事秩序を形成していた。その中核を成したのが、根来寺や粉河寺といった強大な寺社勢力、そして雑賀衆に代表される地侍や惣村が連合した「惣国」と呼ばれる共同体であった 1 。彼らは、天下人を頂点とする新たな支配構造に真っ向から対立する思想を体現しており、秀吉にとって看過できない存在であった 1 。
彼らの力を特異なものにしていたのは、その卓越した軍事力である。根来衆・雑賀衆は、当時最新鋭の兵器であった鉄砲をいち早く導入し、国内有数の生産地として、また熟練した射手団として名を馳せていた 2 。彼らは単なる武装農民ではなく、巧みな戦術を駆使する傭兵集団として各地の戦で活躍し、かつては織田信長をも石山合戦で大いに苦しめた実績を持つ 3 。その戦闘力は、天下統一を目指す秀吉にとって、物理的にも思想的にも最大の脅威の一つと認識されていた 1 。
この両者の緊張関係に火をつけたのが、天正十二年(1584年)に勃発した「小牧・長久手の戦い」である 8 。秀吉と、徳川家康・織田信雄連合軍が尾張で対峙する中、紀州勢は家康らと連携し、秀吉の本拠地である大坂城の背後を突くべく軍事行動を開始した 9 。この動きは、岸和田城を巡る戦いの直接的な引き金となった。秀吉にとって、岸和田での戦いは、東の家康と西の紀州勢に挟撃されるという最悪の事態を回避するための、国家戦略上、絶対に負けられない戦いであった。
この紀州勢の脅威を予見していた秀吉は、賤ヶ岳の合戦で勝利した翌年の天正十一年(1583年)、腹心の中村一氏を岸和田城主として配置していた 1 。一氏に与えられた直属兵力はわずか3,000、現地の和泉衆を与力に加えても5,000弱という寡兵であった 1 。これは、岸和田以南を勢力圏とする紀州勢に対し、岸和田城が常に敵意に晒される最前線の孤塁であったことを物語っている 1 。秀吉が一氏に与えた使命は、紀州勢を完全に制圧することではなく、彼らの大坂への侵攻を食い止めるための「防波堤」としての役割であった。この戦略的配置が、翌年の壮絶な防衛戦の舞台を整えることになる。
第一部:前哨戦—天正十二年 岸和田城防衛戦
ユーザーが求める1585年の「岸和田城の戦い」は、実際には秀吉が岸和田城を「出撃拠点」として紀州を攻めた戦役である。その前提として、前年の天正十二年(1584年)に、数倍の敵に包囲された絶望的な状況下で岸和田城が耐え抜いた防衛戦の存在を理解することが不可欠である。この戦いの勝利なくして、翌年の紀州征伐はあり得なかった。この籠城戦こそが、岸和田の地に今なお語り継がれる「蛸地蔵伝説」を生み出した、真の「岸和田城の戦い」であった。
年明けからの前哨戦と三月の大攻勢
天正十二年の年明けから、和泉国と紀伊国の国境地帯はすでに戦時下にあった。正月元旦には紀州勢による「朝駆け」と呼ばれる奇襲が行われ、三日には中村一氏率いる岸和田勢が報復として紀州側の付城(前線拠点)を攻撃するなど、一進一退の小競り合いが頻発していた 1 。兵力で劣る一氏は、正面からの決戦を避け、夜襲を多用して粘り強く抵抗を続けていた 1 。
戦局が大きく動いたのは三月である。秀吉が主力を率いて徳川家康との決戦のため尾張へ出陣した、まさにその隙を突いて、紀州勢は総力を挙げた大攻勢を開始した 1 。根来衆、雑賀衆、粉河寺衆徒に加え、日高郡の湯河氏や玉置氏といった国人衆も加勢。さらに淡路からは菅達長率いる水軍も参戦し、三月十八日には水陸両面から岸和田城へと迫った 1 。彼らの狙いは、手薄になった大坂城を直接攻撃することにあり、岸和田城はその進路上にある最大の障害物であった 11 。
城下の激戦と中村一氏の防衛戦術
三月二十一日、紀州勢の本隊が岸和田城に殺到した。その兵力は諸説あるが、2万から3万に達したとされ、対する岸和田城の守備兵は中村一氏の麾下5,000から8,000に過ぎなかった 9 。圧倒的な兵力差を前に、一氏が選択したのは徹底した籠城戦であった 16 。城郭の防御施設を最大限に活用し、敵の消耗を待つという、寡兵が大軍に抗うための定石である。
当時の一次史料に近い『宇野主水記』や『多聞院日記』には、三月二十一日に雑賀衆が城を攻め、一氏がこれを撃退したと簡潔に記されている 17 。この日が攻防の頂点であったと推測される。城兵は弓と鉄砲で激しく応戦し、城は落城寸前にまで追い込まれたと伝えられる 18 。この絶望的な状況を覆したのが、後に伝説として語り継がれることになる奇跡的な出来事であった。
伝説の誕生—「蛸地蔵縁起絵巻」の背景
岸和田城がまさに陥落せんとするその時、海の方から大蛸に乗った一人の法師が現れ、数千ともいわれる蛸の軍勢を率いて紀州勢に襲いかかり、たちまち撃退してしまった—これが、岸和田の天性寺に伝わる『蛸地蔵縁起絵巻』に描かれた「蛸地蔵伝説」の概要である 13 。戦いの数日後、城主の夢枕に立った法師は自らが地蔵菩薩の化身であると告げ、堀から傷だらけの地蔵像が発見されたことから、「蛸地蔵」として篤く信仰されるようになったという 20 。
この伝説は、単なる超自然的な奇譚として片付けるべきではない。寡兵が援軍の記録もないまま数倍の大軍を撃退するという、軍事的に極めて稀な事実の裏には、何らかの現実的な要因が存在した可能性が高い。伝説は、その要因を当時の人々が理解し、後世に伝えるための文化的な記憶装置として機能したと考えられる。
一つの可能性として、予期せぬ援軍の存在が挙げられる。「蛸」が海を象徴することから、秀吉方に属する淡路や播磨の水軍が、紀州勢の背後を突く形で海から来援したのではないかという説がある 9 。この「謎の援軍」の劇的な出現が、蛸の軍勢という超自然的なイメージに昇華された可能性は十分に考えられる。また、攻城戦の最中に嵐や高潮といった天候の急変が起こり、特に水軍を伴っていた紀州勢の作戦行動を著しく阻害した可能性もある。こうした自然現象が、「地蔵の神威」として解釈されたのかもしれない。
いずれにせよ、中村一氏率いる岸和田城守備隊は、この絶体絶命の危機を乗り越えた。城を落とせなかった紀州勢は、大坂周辺で略奪行為に及んだ後 1 、最終的に撤退を余儀なくされた。三月二十二日、勝利を収めた一氏は、謝意を伝えるためか、貝塚の本願寺に滞在していた顕如のもとを訪れている 17 。この岸和田城での勝利は、秀吉を東西挟撃の危機から救い、小牧・長久手の戦いを有利に進める上で、計り知れない戦略的価値を持つものであった。
第二部:紀州征伐の刻—天正十三年 岸和田城、出陣拠点となる
前年の防衛戦から一年、天正十三年(1585年)三月、岸和田城の役割は劇的に転換する。徳川家康との和議を成立させ、東方の憂いを断った羽柴秀吉は、満を持して紀州勢の完全殲滅へと乗り出した 7 。これは前年の岸和田攻撃に対する明確な雪辱戦であり、そのための巨大な前線基地兼総司令部として選ばれたのが、かつて孤立無援の砦であった岸和田城であった。ここからは、秀吉の大軍が岸和田城から出撃し、紀州の防衛線を粉砕していく様を、日付を追いながら再現する。
第一章:軍勢集結と戦略—天正十三年三月二十日・二十一日
秀吉がこの戦役に動員した兵力は、総勢10万ともいわれる未曾有の大軍であった 3 。甥の羽柴秀次を総大将格の先鋒とし、宇喜多秀家、小早川隆景、堀秀政、細川忠興、蒲生氏郷、筒井定次といった、後の豊臣政権を支える錚々たる大名が麾下に集結した 1 。さらに、小西行長を将とする大規模な水軍を編成し、陸路と海路から同時に紀州を圧迫する、水陸両面作戦を計画した 1 。兵站においても、堺の商人などと連携して物資を確保し、万全の体制を整えていた 24 。
三月二十日(出陣前日):
作戦は計画通りに開始された。この日、先鋒部隊を率いる羽柴秀次、堀秀政、筒井定次らが大坂を出発。紀州勢が前線拠点としていた和泉南部の城砦群に近い、貝塚の地に布陣した 1。決戦の火蓋が切られるのは時間の問題であった。
三月二十一日 午前~昼過ぎ(秀吉、岸和田入城):
翌二十一日、秀吉自身が率いる本隊が、夜明けと共に大坂城を出陣した。軍勢は昼過ぎまでに岸和田城に到着し、秀吉はここに本営を置いた 1。この瞬間、岸和田城は防衛拠点から、天下人の巨大軍団を統括する一大司令部へとその性格を完全に変えたのである。
三月二十一日 午後(軍議と即時開戦):
岸和田城の本営で、作戦開始を前に最後の軍議が開かれた。先鋒隊はすでに敵の城砦群に肉薄していたが、時刻は既に昼を過ぎていた。そのため、将帥たちの間では、攻撃を翌日に延期すべきか、それとも即日開始すべきかで意見が割れた。この時、議論の流れを決定づける発言をしたのが、前年の籠城戦の英雄であり、この地の地理と敵情を最もよく知る岸和田城主・中村一氏であった。一氏は「これだけの圧倒的な兵力差がありながら、攻撃を一日延期するような慎重すぎる姿勢は、他国の大名衆への示しがつかない」と、即時開戦を強く主張した 1。秀吉はこの意見を容れ、直ちに全軍へ攻撃開始の命令を下した。この決断が、紀州勢にとって予測不能な速度での防衛線崩壊を招くことになる。
表1:天正十三年 紀州征伐 豊臣軍主要部隊編成
役職・部隊 |
指揮官 |
備考 |
総大将 |
羽柴秀吉 |
岸和田城に本営を置く |
先鋒軍(総大将格) |
羽柴秀次 |
秀吉の甥。全軍の先頭に立つ |
先鋒軍(諸将) |
堀秀政、筒井定次、長谷川秀一、細川忠興、蒲生氏郷、池田輝政など 1 |
秀次麾下で泉南砦群の攻略を担当 |
中国方面軍 |
宇喜多秀家、小早川隆景 1 |
西国からの援軍として参陣 |
水軍 |
小西行長 1 |
海上からの作戦を担当 |
現地案内・遊撃 |
中村一氏、鈴木孫一 1 |
一氏は現地司令官、孫一は元雑賀衆指導者 |
対する紀州側 |
大谷左太仁法印、行左京、田中加足など 1 |
泉南防衛線に合計約9,000の兵を配置 |
第二章:泉南砦群の攻防—三月二十一日夕刻~二十二日
中村一氏の進言によって下された即時攻撃命令は、戦国時代の常識を覆す速度で紀州勢の防衛線を打ち砕いた。秀吉が展開したのは、圧倒的な兵力と速度で敵の心理的均衡を破壊する、さながら戦国版「電撃戦」とも呼ぶべき戦術であった。
紀州勢は、和泉南部から紀伊国境にかけて、千石堀城、積善寺城、沢城、畠中城といった複数の城砦を連携させ、縦深防御体制を構築していた 1 。これは本来、敵の進軍を遅らせ、消耗させるための有効な戦術であり、総兵力約9,000余をもって豊臣軍を迎え撃つ構えであった 1 。
三月二十一日 夕刻(千石堀城の電撃的陥落):
攻撃の火蓋は、防衛線の東端に位置する千石堀城で切られた。羽柴秀次を主将とする部隊に、筒井定次、堀秀政らの大軍が殺到する 1。城を守る根来衆は、得意の鉄砲で激しく応戦し、豊臣軍に1時間余りで千人もの死傷者を出すほどの損害を与えた 9。しかし、兵力の差は覆しがたい。豊臣軍の一部、中坊秀祐と伊賀衆が城の搦手(裏門)に回り込み、そこから放った火矢が、城内に備蓄されていた火薬庫に運悪く引火した 1。次の瞬間、千石堀城は轟音と共に大爆発を起こし、巨大な火柱を上げて炎上。堅固なはずの城は、攻撃開始からわずか数時間、一日も経たずに陥落した。
この劇的な結末は、他の城砦の兵士たちに計り知れない心理的衝撃を与えた。近木川を挟んで千石堀城と対峙していた高井城の籠城兵たちは、凄まじい爆発音と夜空を焦がす炎を目の当たりにし、なすすべもなく戦意を喪失したと伝えられている 9 。秀吉の戦術は、物理的な破壊力だけでなく、その光景を見せつけることによる心理的破壊効果を最大限に利用したものであった。
三月二十一日 夜~二十二日(積善寺城・沢城の開城):
千石堀城の末路は、防衛線全体の崩壊を決定づけた。防衛線の中核であり、三重の堀に囲まれた堅城であった積善寺城は、細川忠興や蒲生氏郷らの猛攻に耐えていた。しかし、千石堀城落城の報が届くと、これ以上の抵抗は無意味と判断された。翌二十二日、貝塚御坊の住職の仲介(扱い)によって、戦闘を停止し開城した 1。最も海側に位置する沢城も、高山右近や中川秀政の攻撃を受け、二の丸まで攻め込まれた末、二十三日に降伏・開城した 1。
結果として、紀州勢が年月をかけて築き上げた泉南防衛線は、秀吉の攻撃開始からわずか二日足らずで完全に瓦解した。これは、一城を徹底的に、かつ劇的に叩き潰すことで、他の拠点の抵抗意欲を奪うという、極めて合理的かつ冷徹な戦略の勝利であった。
第三章:根来寺炎上と雑賀荘の崩壊—三月二十三日以降
泉南地方の電撃的な制圧を見届けた秀吉は、いよいよ紀州勢の本拠地そのものの壊滅へと駒を進める。
三月二十三日(岸和田城からの出立と根来寺制圧):
この日、秀吉は本隊を率いて岸和田城を出立し、紀州勢の精神的・軍事的支柱の一つであった根来寺へと直接向かった 1。しかし、そこにはもはや抵抗する力は残されていなかった。根来衆の主力部隊は、前日までの泉南防衛線で壊滅、あるいは敗走しており、巨大な寺院都市はもぬけの殻に近かった 1。秀吉軍が到着すると、残っていた少数の僧侶たちも蜘蛛の子を散らすように逃亡し、根来寺は全くの無抵抗で制圧された。
その日の夜、原因は定かではないが根来寺から出火。国宝に指定されている大塔など一部の建物を除き、450以上あったとされる坊院のほとんどが炎に包まれ、その火は三日三晩燃え続けたと伝えられる 2 。これが秀吉軍による放火か、失火か、あるいは寺側の自焼であったのか、史料によって見解が分かれている 2 。時を同じくして、もう一つの寺社勢力であった粉河寺も炎上し、壊滅した 2 。
三月二十四日以降(雑賀荘への進撃と太田城水攻め):
根来寺を灰燼に帰せしめた秀吉は、翌二十四日には軍を西進させ、雑賀衆の本拠地である雑賀荘へと進撃した 1。しかし、雑賀衆もまた、指導者であった鈴木孫一が本能寺の変以降に勢力を失い、秀吉側に寝返る 1 など、深刻な内部分裂状態に陥っており、組織的な抵抗はもはや不可能であった 2。
太田左近を中心とする一部の強硬派と残党、そして惣の農民たちが、最後の拠点である太田城に籠城し抵抗を試みた 9 。しかし、秀吉はこれを力攻めにせず、城の周囲に長大な堤防を築き、川の水を流し込むという得意の「水攻め」戦術を選択した 1 。水没していく城内で籠城側は一ヶ月近く耐えたものの、四月二十二日、ついに降伏。ここに、信長さえも完全には屈服させられなかった紀州の独立勢力は、その歴史に幕を閉じたのである。
第三部:戦後の秩序—岸和田城の変容と紀州の平定
紀州征伐という軍事行動の終結は、新たな政治秩序の始まりを意味した。岸和田城と、平定された和泉・紀伊地方は、豊臣政権の支配体制下へと急速に組み込まれていく。城主の交代、城郭の大規模改修、そして新たな統治システムの導入は、この地域が軍事の時代から政治の時代へと移行したことを明確に示している。
新たな支配体制の構築
紀州平定後、和泉・紀伊の両国は、秀吉が最も信頼を寄せる弟、豊臣秀長に与えられた 12 。秀長は紀伊国の中心に和歌山城を新たに築城し 2 、この地を拠点として新領地の経営に着手した。
秀長がまず取り組んだのは、領内における検地の実施であった 36 。これは、土地の面積と生産高(石高)を正確に調査し、それに基づいて年貢と軍役を課すという、近世的な支配体制の根幹をなす政策である。これにより、中世以来の複雑な荘園制度や寺社領といった既得権益は解体され、すべての土地と人民が豊臣政権の直接的な支配下に置かれることになった。秀長が紀伊で行ったこの方法は、数年後に秀吉が全国で実施する「太閤検地」の先駆け、あるいはモデルケースになったと評価されている 34 。
城主交代に隠された秀吉の深謀—「武」の城から「政」の城へ
一方で、紀州征伐の功労者であった岸和田城主・中村一氏は、天正十三年のうちに近江国水口へ6万石という大幅な加増の上で転封となった 13 。これは、最前線での功績を最大限に評価されての栄転であった。
そして、一氏の後任として岸和田城主となったのは、秀吉の叔父(母の妹の夫という姻戚関係)にあたる小出秀政であった 12 。この城主交代は、単なる論功行賞以上の、秀吉の深慮遠謀を反映した戦略的な人事であった。中村一氏は、秀吉子飼いの歴戦の将であり、最前線での防衛戦を得意とする、いわば「武断派」の武将である。彼が城主であった時代、岸和田城に求められたのは純粋な軍事拠点としての機能であった。
対して小出秀政は、秀吉の親族として政権中枢にあり、戦闘よりも統治や行政に長けた「文治派」の人物であった。紀州という最大の脅威が排除された今、岸和田城に求められる役割は、もはや軍事的な砦ではなく、平定された和泉・紀伊を安定的に統治し、大坂を中心とする経済圏に組み込むための行政・経済の中心地としての機能であった。秀吉は、この役割の変化を的確に見抜き、武闘派の一氏を新たなフロンティアへと送り出し、後任には統治能力に優れた親族の秀政を配置したのである。この人事によって、岸和田城はその役割を「武」から「政」へと円滑に移行させることができた。
近世城郭への大改修と「軍港」機能の強化
小出秀政の入城と共に、岸和田城は本格的な近世城郭へと生まれ変わるための大改修期に入る 41 。秀政は、慶長二年(1597年)に五層の天守を完成させたのをはじめ 40 、城郭全体の設備を大幅に拡充。同時に、城の正面を紀州街道に向け、城下町の整備にも着手した 12 。
特に注目すべきは、その港湾機能である。1585年以前の岸和田城は、二の丸付近まで海水が直接入り込む天然の良港に面した「海城」であった 41 。紀州征伐において小西行長率いる水軍が重要な役割を果たしたこと、そしてその後の城下町整備において沿岸部の「浜町」が重点的に開発されたこと 43 は、豊臣政権がこの地の海上交通の要衝としての価値を高く評価していたことを示している。これは、来るべき四国征伐、九州征伐、さらには文禄・慶長の役といった、大規模な水軍の運用を前提とする対外作戦の拠点として、岸和田の「軍港」としての機能を強化していくという、壮大な構想の一端であった可能性が強く示唆される。
結論:岸和田城の戦いが残した歴史的意義
天正十二年から十三年にかけて岸和田城を舞台に繰り広げられた一連の攻防は、日本の歴史において画期的な意味を持つ出来事であった。それは単に一城、一地域の運命を決しただけでなく、中世という時代の終焉と、近世という新たな時代の到来を象徴する分水嶺であった。
第一に、根来・雑賀衆という強大な独立勢力の壊滅は、戦国時代を通じて各地に存在した寺社勢力や惣国一揆といった、中央権力から自立した中世的共同体の時代の終わりを決定づけた 1 。鉄砲という最新兵器で武装し、独自の秩序を維持してきた彼らの敗北は、いかなる勢力も天下人の下に組み込まれるという、新たな時代の到来を天下に知らしめた。
第二に、この勝利は豊臣政権の基盤を磐石なものにした。本拠地である大坂の背後に存在した最大の脅威を取り除いたことで、秀吉は後顧の憂いなく、四国、九州、そして小田原の北条氏へと、天下統一事業の最後の仕上げに邁進することが可能となった 26 。紀州平定は、全国統一という大事業を完成させるための、不可欠な一里塚であった。
第三に、この戦いは岸和田という都市の戦略的重要性を不動のものとした。防衛拠点として、そして出撃拠点としての役割を見事に果たした岸和田は、西国への玄関口として豊臣政権に認識され、小出秀政による大規模な城郭・城下町整備へと繋がった。これが、江戸時代を通じての岸和田藩の繁栄、そして現在の岸和田市の都市構造の基礎を築いたことは言うまでもない。
最後に、太田城の戦後処理に見られる農兵からの武器没収は、天正十六年(1588年)に全国で発令される「刀狩令」の原型ともいえる政策であり、兵士と農民を明確に分離する「兵農分離」を推し進める秀吉の国家構想の萌芽が見られる点でも重要である 2 。
岸和田城の戦いは、一つの城塞が時代の転換点において、防衛の砦から侵攻の拠点へ、そして統治の中心へと、その役割をダイナミックに変容させていった様を見事に示している。それは、秀吉による天下統一が、単なる軍事的な征服ではなく、社会構造そのものを変革する事業であったことを物語る、歴史の縮図なのである。
表2:岸和田城 関連年表(1583年~1597年)
西暦(和暦) |
出来事 |
1583年(天正11年) |
中村一氏、豊臣秀吉の命により岸和田城主となる 1 。 |
1584年(天正12年) |
紀州勢が岸和田城へ大攻勢をかける(岸和田籠城戦)。中村一氏が寡兵で防衛に成功 15 。 |
1585年(天正13年) |
3月:秀吉、岸和田城を前線基地として紀州征伐を開始し、紀伊国を平定 1 。 |
1585年(天正13年) |
戦後、中村一氏は近江水口へ加増転封。秀吉の叔父・小出秀政が新たな岸和田城主となる 15 。 |
1585年~ |
小出秀政の指揮の下、岸和田城の本格的な近世城郭化と城下町の整備が開始される 41 。 |
1597年(慶長2年) |
小出秀政によって築かれた五層の岸和田城天守が竣工する 40 。 |
引用文献
- 紀州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
- 「秀吉の紀州攻め(1585年)」紀伊国陥落!信長も成せなかった、寺社共和国の終焉 https://sengoku-his.com/711
- 雑賀合戦(紀州征伐)古戦場:和歌山県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kisyuseibatsu/
- 市長の手控え帖 No.175「日本は鉄砲大国だった!」 - 白河市 https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page008998.html
- まちかど探訪 : 信長も恐れた雑賀の人々 ~本願寺鷺森別院と雑賀衆 その1 https://shiekiggp.com/topics/%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%8B%E3%81%A9%E6%8E%A2%E8%A8%AA-%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%82%82%E6%81%90%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%9B%91%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85%EF%BD%9E%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA/
- 根来衆と雑賀衆の最新兵器鉄砲の威力をいかした戦法! (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/22731/?pg=2
- 秀吉の紀州攻めは紀州有田郡ではどうだったとAIに聞いてみた。-ChatGPTなんで注意して読んで下さい - note https://note.com/ideal_raven2341/n/n521f2468fac6
- 小牧・長久手の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 秀吉に抗った紀州惣国一揆 - 団員ブログ by 攻城団 https://journal.kojodan.jp/archives/2544
- 根来と雑賀~その⑧ 紀泉連合軍の大阪侵攻 岸和田合戦と小牧の役 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2022/12/16/050650
- ~紀州征伐~ 雑賀衆たちの戦い - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=67HJjzcHQVY
- 大阪・尼崎・岸和田 三城同盟 参上めぐりキャンペーン https://www.osakacastlepark.jp/sanjou/
- 岸和田城主 中村一氏のその後をぶらぶら - 岸ぶら https://kishibura.jp/sotokara/2020/09/nakamura-kazuuji/
- 無数のタコが敵兵を撃退!なんとタコに命を救われた、大阪・岸和田に伝わる戦国武将・中村一氏の伝説 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/238911
- 岸和田城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kishiwada.htm
- 中村一氏 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97775/
- 歴史の目的をめぐって 中村一氏 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-21-nakamura-kazuuji.html
- 岸和田城から紀州征伐へ - わかやま新報 https://wakayamashimpo.co.jp/2019/03/20190317_85343.html
- 中村一氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%B8%80%E6%B0%8F
- 岸和田を巡る武将たちの攻防|わがまちヒストリー|岸和田市市制施行100周年 https://www.city.kishiwada.lg.jp/kinenshi/m100th_p10-11.html
- 天性寺|観光スポット検索 - 大阪ミュージアム https://www.osaka-museum.com/spot/search/?id=679
- 蛸地蔵(タコじぞう)を訪ねてみたら、甲冑姿の市長に遭遇(大阪府 岸和田市) https://ykydays.hatenablog.com/entry/2022/04/17/015537
- 岸和田城天守復興70周年記念 ~ 岸和田城冬の陣『岸和田城武者行列』&『きしわだ天正楽市』~ 及び岸和田城PR大使任命式のご案内 | 岸和田市観光振興協会のプレスリリース - PR TIMES https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000156894.html
- 豊臣政権のロジスティクス【戦国ロジ其の5】 - LOGI-BIZ online https://online.logi-biz.com/9631/
- 1585年 – 86年 家康が秀吉に臣従 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1585/
- 紀州攻め(きしゅうぜめ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E6%94%BB%E3%82%81-1297841
- 孫一なる人物の正体 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/kisyu/magoichi2.html
- 根来寺 ~秀吉に抵抗し、灰となった根来衆の本拠 | 戦国山城.com https://sengoku-yamajiro.com/archives/jiin_negoroji.html
- 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑧ 紀州征伐後、それぞれのその後 - 根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2023/01/30/152233
- 「根来寺を解く」の本から見た「秀吉の紀州攻め」をAIに文句いいつつも納得。 - note https://note.com/ideal_raven2341/n/nff3be30fba2e
- 根来衆の終焉~秀吉の根来攻め~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/kisyu/negorozeme.html
- 信長・秀吉・家康が恐れた紀伊国...一大勢力「雑賀衆」の消滅とその後 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9886?p=1
- 信長と秀吉を悩ませた鉄砲集団の雑賀衆とは?|雑賀衆の成立・衰退について解説【戦国ことば解説】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1144169/2
- 豊臣秀長は何をした人?「あと10年生きていれば…有能な弟が秀吉を補佐していた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/hidenaga-toyotomi
- 豊臣秀長とは?兄・豊臣秀吉との関係やその活躍を紹介 - チャンバラ合戦 https://tyanbara.org/column/28751/
- 天下人を支えた縁の下の力持ち~豊臣秀長 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/toyotomi-hidenaga/
- 羽柴秀吉の紀伊平定 - 上富田町文化財教室シリーズ http://www.town.kamitonda.lg.jp/section/kami50y/kami50y14006.html
- 豊臣秀長(とよとみひでなが/羽柴秀長) 拙者の履歴書 Vol.385~兄と共に天下を支えし生涯 https://note.com/digitaljokers/n/n097f65fd9bdf
- 第6章 郷土の三英傑に学ぶ資金調達 - 秀吉、太閤検地で構造改革を推進 https://jp.fujitsu.com/family/sibu/toukai/sanei/sanei-23.html
- 和泉の中心城郭「岸和田城」 https://sirohoumon.secret.jp/kisiwada.html
- 岸和田城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%9F%8E
- 城下町エリアを巡る - 岸和田市公式ウェブサイト https://www.city.kishiwada.lg.jp/site/kishiwada-side/130030.html
- 大阪府の城下町・岸和田(岸和田市)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/castle-town/kishiwada/
- 岸和田 http://www.koutaro.name/machi/kishiwada.htm
- 紀州攻めから見る歴史の残る紀の川市へ 紀州攻め戦いの舞台を巡る - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/170309wakayama-kinokawa-5/
- 太閤検地と刀狩り - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/taikokenchi-katanagari/