常陸太田城の戦い(1586~87)
天正十四年、佐竹氏は常陸太田城を拠点に、人取橋の戦いで露呈した国内の不安定要因を排除すべく、江戸氏を政治的・軍事的に孤立させ無力化。豊臣政権の権威を巧みに利用し、常陸統一を達成した。
天正十四年、常陸の相克 ―「常陸太田城の戦い」の真相と佐竹氏による覇権確立への道程―
序章:戦雲の予兆 ― 天正十三年(1585年)の関東
天正年間後期、関東地方は巨大な地殻変動の只中にあった。相模国小田原城を本拠とし、関東全域の制覇を目論む後北条氏と、常陸国太田城の佐竹氏を盟主としてこれに抗する宇都宮氏、結城氏らの反北条連合、通称「東方之衆(とうほうのしゅう)」との対立は、抜き差しならない段階に達していた 1 。この二大勢力の角逐は、常陸国内の諸勢力の動向を規定する根本的な要因となっていた。
この時期の佐竹氏当主、佐竹義重は、南の北条氏という巨大な脅威に加え、北からは奥州で急速に台頭する伊達政宗の圧迫にも晒されるという、極めて困難な二正面作戦を強いられていた 1 。佐竹氏は、北の伊達、南の北条という二大勢力に挟撃されかねない、まさに存亡の機にあったのである。
この危機的状況を象徴する出来事が、天正十三年(1585年)十一月に勃発した「人取橋の戦い」である。父・輝宗を非業の死で失い、弔い合戦に臨む若き伊達政宗に対し、佐竹義重は蘆名氏をはじめとする南奥州の諸大名と連合軍を結成して決戦に臨んだ 6 。兵力において
30,000対7,000と圧倒的に優位に立った佐竹連合軍は、政宗の本陣に肉薄し、あと一歩で壊滅へと追い込む 8 。しかし、まさにその雌雄を決する瞬間、義重の本陣に衝撃的な急報がもたらされた。「本国常陸にて、江戸氏らが不穏な動きあり」―この報を受け、義重は伊達政宗を滅ぼす千載一遇の好機を目前にしながら、全軍撤退という苦渋の決断を下さざるを得なかったのである 5 。
この撤退こそが、本報告書の主題である「常陸太田城の戦い」と称される一連の抗争の直接的な引き金となった。人取橋での経験は、佐竹義重・義宣父子に、北の伊達、南の北条という外敵と本格的に対峙するためには、まず自らの背後、すなわち常陸国内の完全なる平定が不可欠であるという事実を痛感させた。主力が出征した隙を突く国内の反抗勢力の存在は、佐竹氏にとって致命的なアキレス腱であった。したがって、翌天正十四年(1586年)から始まる江戸氏への一連の圧力は、人取橋の戦いで露呈した自国の脆弱性を克服するための、必然的な内政・軍事行動だったのである。それは単一の城を巡る攻防ではなく、常陸国全体の支配権を巡る、数年にわたる「戦い」の始まりであった。
【参考】天正13年~18年(1585~1590年)関東・奥州主要関連年表
年月 |
佐竹氏の動向 |
江戸氏・大掾氏の動向 |
後北条氏の動向 |
伊達氏の動向 |
豊臣政権の動向 |
天正13 (1585) |
11月: 人取橋の戦い。江戸氏らの不穏な動きにより伊達政宗を追い詰めながらも撤退。 |
佐竹氏の奥州出兵の隙を突き、不穏な動きを見せる。 |
北関東への圧力を継続。 |
10月: 父・輝宗が死去。11月: 人取橋の戦いで佐竹連合軍に大敗を喫するも、辛くも脱出。 |
7月: 秀吉、関白に就任。 |
天正14 (1586) |
8月: 府中合戦を「仲介」し、江戸氏に政治的圧力をかける。 |
8月: 府中合戦。大掾氏を攻撃するも撃退される。 |
下野国への侵攻を継続。 |
二本松城を開城させ、勢力を拡大。 |
12月: 秀吉、太政大臣に叙任。 |
天正15 (1587) |
豊臣政権との連携を強化。 |
佐竹氏と後北条氏の間で板挟みとなり、苦境に陥る。 |
惣無事令に対し、反発的な態度を示す。 |
蘆名氏への介入を強める。 |
12月: 関東・奥両国惣無事令を発令。 |
天正16 (1588) |
「神生の乱」に介入し、江戸氏の弱体化を図る。 |
重臣間の対立から内紛「神生の乱」が勃発。当主の子・通升が討死。 |
惣無事令を無視し、軍事行動を継続。 |
郡山合戦。佐竹・蘆名連合軍と対峙。 |
|
天正17 (1589) |
義重が隠居し、義宣が家督を継承(実権は義重が保持)。 |
神生の乱が終結するも、勢力は大きく衰退。 |
秀吉との対立が決定的に。 |
摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし、南奥州の覇権を握る。 |
|
天正18 (1590) |
4月~: 小田原征伐に参陣。秀吉より常陸一国を安堵される。12月: 水戸城を電撃的に攻略。 |
小田原に参陣せず、所領没収の対象となる。12月: 水戸城を追われ、結城氏のもとへ逃亡。 |
7月: 小田原城が開城し、滅亡。 |
小田原参陣が遅れ、所領を大幅に削減される。 |
1月~: 小田原征伐を開始。7月: 天下統一を達成。 |
第一章:主要勢力の動向と戦略
常陸の盟主・佐竹氏
天正十四年(1586年)頃、佐竹氏は当主交代の過渡期にあった。長年の戦歴を誇る父・義重から、嫡男・義宣へと家督が継承された 11 。しかし、隠居後も「鬼義重」「坂東太郎」と敵から恐れられた義重が軍事・外交の実権を握り続ける二頭政治体制が敷かれていた 4 。この強力なリーダーシップこそが、常陸統一という強硬策を推し進める原動力となった。
その本拠である常陸太田城は、佐竹氏が約470年間にわたり居城とした常陸北部の中心であり、関東七名城の一つにも数えられる名城である 14 。比高約
20mの台地上に築かれた平山城で、三代当主隆義が入城する際に鶴が城の上空を舞ったという伝承から「舞鶴城」の別名を持つ 14 。しかし、その防御機能には限界もあり、佐竹氏は大軍を迎え撃つ際には、より険阻な山中にある金砂山城に立て籠もるのが常であった 16 。この事実は、太田城が純粋な軍事拠点というよりも、領国経営と方面軍の指揮を執る政治的・戦略的中心地としての性格を強く帯びていたことを示している。
水戸の独立勢力・江戸氏
一方、常陸中部の要衝・水戸城を拠点とする江戸氏は、佐竹氏にとって長年の懸案であった。その祖先は佐竹氏と共に北朝方として戦った那珂氏に連なり、当初は佐竹氏に従属する一族であった 18 。しかし、応永年間に大掾氏から水戸城を奪取して以降、那珂川中下流域に勢力を拡大し、次第に佐竹氏からの独立を志向するようになっていた 18 。
当主・江戸重通の代にはその動きが顕著となり、佐竹氏の権威を無視して常陸南部の覇権を巡り大掾氏と激しく争うなど、独自の領土拡大政策を推し進めていた 18 。そして、佐竹氏の圧迫に対抗するため、重通は関東の覇者である後北条氏と密かに連携を深めていく。これは佐竹氏にとって、自らの喉元に突き付けられた匕首に等しい、看過できない脅威であった。
関東の巨龍・後北条氏
当時の関東において、後北条氏の勢威は絶頂に達していた。当主・北条氏政と嫡男・氏直は、関東全域の支配という壮大な目標を掲げ、佐竹氏を中心とする反北条連合への軍事的・外交的圧力を絶え間なく加えていた 2 。その戦略の要諦は、敵対連合の内部結束を乱すことにあった。北条氏は、佐竹連合の切り崩しを狙い、江戸氏のように連合内部で不満を抱える国人や、独立志向の強い勢力を積極的に調略した。天正十四年前後における江戸氏の不穏な動きの背後には、常にこの後北条氏の影がちらついていたのである。
【参考】天正十四年(1586年)時点における主要三勢力の比較
項目 |
佐竹氏 |
江戸氏 |
後北条氏 |
当主 |
佐竹義重(実権)・義宣 |
江戸重通 |
北条氏政(実権)・氏直 |
本拠地 |
常陸国 太田城 |
常陸国 水戸城 |
相模国 小田原城 |
推定石高 |
約25万石 |
約3万石 |
約240万石 |
主要武将 |
佐竹義久、和田昭為、車斯忠 |
江戸通澄、神生通朝 |
北条氏照、北条氏邦、大道寺政繁 |
同盟・敵対関係 |
同盟: 宇都宮氏、結城氏、上杉氏 敵対: 後北条氏、伊達氏 |
同盟: 後北条氏(非公式) 敵対: 佐竹氏、大掾氏 |
同盟: 伊達氏、江戸氏(非公式) 敵対: 佐竹氏、上杉氏、豊臣政権 |
第二章:天正十四年(1586年) ― 衝突への序曲
人取橋から撤退した佐竹義重の懸念は、翌天正十四年(1586年)八月、現実のものとなる。「府中合戦」の勃発である。江戸重通は、前年の佐竹軍主力が奥州に出払った際に見せた「不穏な動き」を具体化させ、常陸中南部で長年対立してきた大掾氏の拠点、府中に大軍を差し向けた 22 。これは単なる領土紛争ではなく、常陸国内における佐竹氏の盟主としての権威に対する、公然たる挑戦に他ならなかった。
しかし、江戸軍は大掾氏と、その援軍に駆けつけた真壁氏らの連合軍の前に苦戦し、撃退されるという失態を演じる 22 。この好機を、佐竹義重は見逃さなかった。義重は疲弊した両者の間に軍を進めると、武力による制圧ではなく、「仲介」という形で争いを収拾させたのである 22 。
この「仲介」は、平和的な解決を意図したものでは断じてない。それは、佐竹氏こそが常陸国内における「最高裁定者」であることを内外に誇示し、江戸氏の自由な軍事行動を封じ込めるための、極めて高度な政治的パフォーマンスであった。佐竹氏の軍事力をもってすれば、この機に乗じて江戸氏を討伐することも不可能ではなかった。しかし義重は、北の伊達、南の北条という外敵を抱える中で国内での全面戦争を避け、また後北条氏に本格的な介入の口実を与えないという戦略的判断から、直接的な武力行使を避けた。そして、武力で滅ぼすよりも「仲介者」として君臨することで、佐竹氏の権威をより強固なものとする道を選んだのである。
この結果、江戸重通は「佐竹氏の許可なく領土紛争を起こし、その上敗北し、結局は佐竹氏に助けられる」という、これ以上ない屈辱的な立場に置かれた。この一件により、佐竹氏は江戸氏に対する政治的優位性を決定的なものとした。これこそが、天正十四年における「常陸太田城の戦い」の主たる内容であり、物理的な城攻めではない、政治的・心理的な攻囲戦だったのである。この時期、常陸太田城では、江戸氏やそれに同調する勢力への睨みを利かせるための情報収集、軍備増強、そして次なる一手、すなわち更なる圧力をかけるための計画が、静かに、しかし着実に進められていた。
第三章:天正十五年(1587年) ― 嵐の前の静寂
天正十五年(1587年)末、中央から発せられた一枚の文書が、関東の政治力学を根底から覆すことになる。関白豊臣秀吉による「関東・奥両国惣無事令」の発令である 24 。これは、大名間の私的な領土紛争を全面的に禁じるものであり、違反者は「天下」への反逆者として豊臣政権による討伐の対象となることを意味していた 27 。
この命令は、各勢力に全く異なる影響を与えた。
- 佐竹氏: いち早く秀吉に恭順の意を示し、中央政権とのパイプを築いていた佐竹氏にとって、惣無事令はまさに天恵であった。これまで私的な勢力争いであった常陸統一事業が、中央政権の権威によって「公認」され、正当化される道が開けたからである。
- 後北条氏: 秀吉への臣従を拒み、独自の関東支配圏確立を目指す後北条氏は、この命令を事実上無視する姿勢を見せた。これにより、彼らは「天下」の秩序に背く存在として、政治的に孤立していくことになる。
- 江戸氏: 江戸重通は、絶体絶命の窮地に立たされた。最大の後ろ盾であった後北条氏が「朝敵」となる可能性が浮上したことで、その存在基盤が揺らいだのである。佐竹氏に完全に臣従するか、あるいは後北条氏と運命を共にするか、破滅的な二者択一を迫られることになった。
惣無事令の発令により、佐竹氏と江戸氏の「戦い」の質も大きく変容した。露骨な軍事侵攻は、豊臣政権への反逆と見なされかねない危険な行為となった。そのため、天正十五年における両者の攻防は、水面下での外交交渉や調略、そして相手の「惣無事令違反」を誘発させ、それを中央に訴え出ることで失脚させるという、政治的・法的な駆け引きが主戦場となった。佐竹氏は、秀吉の権威という新たな武器を手に、江戸氏に「違反者」の烙印を押す機会を、常陸太田城で虎視眈々と狙っていたのである。
第四章:決裂と粛清 ― 常陸統一への最終段階
惣無事令によって張り詰めた緊張状態が続く天正十六年(1588年)、江戸氏の屋台骨を揺るがす内紛「神生の乱」が勃発する 28 。徳政令の実施を巡る重臣間の対立が原因とされ、この内乱で江戸重通の子・通升が討死するという悲劇に見舞われ、江戸氏の勢力は大きく削がれることとなった 29 。
佐竹氏はこの内乱に、表向きは主家である江戸重通を支援するという形で巧みに介入した 29 。しかしその実態は、江戸氏の内部対立を煽り、その力をさらに削ぐための巧妙な策略であった。この介入により、江戸氏は自力で内乱を収拾できないほどの弱体化を露呈し、佐竹氏に対してさらなる政治的な借りを負うことになった。
そして、運命の天正十八年(1590年)が訪れる。豊臣秀吉による小田原征伐が開始されると、佐竹義重・義宣父子は即座に小田原に参陣し、石田三成の指揮下で忍城攻めに加わるなど、豊臣方としての忠誠を示した 5 。その功により、秀吉から常陸一国54万石の支配を正式に認められる 5 。一方、最後まで去就を明らかにせず小田原に参陣しなかった江戸重通は、秀吉によって所領没収の対象と断じられた 31 。
もはや何の障害もなくなった。天下の公認という最大の大義名分を得た佐竹義重は、義宣が上洛している間に自ら軍を率いると、水戸城へ向けて電撃的に進軍した。長年にわたる佐竹氏の圧力と弱体化工作により、江戸氏に抗戦する力は残されていなかった。内応者もいたとされ、堅城であったはずの水戸城は、わずか二日で陥落したとも伝わる 32 。城主・江戸重通は、妻の兄である結城晴朝のもとへ落ち延び、ここに常陸国に勢力を誇った独立領主・江戸氏は事実上滅亡した 34 。
水戸城攻略は、佐竹氏による常陸平定の序章に過ぎなかった。佐竹軍はその勢いのまま南下して府中城の大掾氏を滅ぼし 34 、翌天正十九年(1591年)には、太田城に常陸南部の国人領主たちを招き、その場で全員を謀殺するという「南方三十三館謀殺事件」を引き起こす 36 。この苛烈な粛清により、佐竹氏に敵対しうる常陸国内の勢力は一掃され、ここに佐竹氏による悲願の常陸統一が完成したのである。
この1590年の水戸城攻略は、突発的な事件では決してない。それは、1586年の府中合戦から始まり、4年間にわたって続けられた、江戸氏を政治的・軍事的に孤立させ、弱体化させる一大キャンペーンの総仕上げであった。府中合戦後の「仲介」で政治的に支配下に置き、惣無事令で外交的に孤立させ、神生の乱への介入で内側から弱体化させる。これらの周到な段階を経て、もはや抵抗力を失った江戸氏を、小田原征伐という絶好の機会(大義名分)を利用して「合法的」に排除する。水戸城の攻略は、この長期間にわたる佐竹氏の冷徹な戦略の、論理的な帰結だったのである。
結論:「常陸太田城の戦い」の歴史的意義
本報告書で詳述した通り、「常陸太田城の戦い(1586~87)」とは、特定の城を巡る大規模な攻城戦を指すものではない。それは、佐竹氏が本拠・常陸太田城から指揮を執り、人取橋の戦いで露呈した国内の不安定要因、すなわち江戸氏の親北条・独立路線を、武力的な恫喝、政治的圧迫、外交的孤立化といったあらゆる手段を駆使して封じ込め、無力化していった一連の戦略的攻防期間の総称と再定義することができる。
この二年間にわたる相克は、佐竹氏が単なる常陸北部の盟主から、常陸国全域を支配する「国主」へと脱皮するための決定的な転換点であった。この期間に江戸氏を実質的に屈服させ、その後の豊臣政権下における常陸統一の大義名分と布石を築いたことが、佐竹氏が54万石の大名へと飛躍する直接的な要因となった。この「戦い」なくして、佐竹氏の戦国大名としての全盛期はあり得なかったであろう。
さらに、この一連の出来事は、中央政権の権威が地方の勢力図を塗り替えていく、戦国時代末期から安土桃山時代への移行期における権力闘争の典型的な縮図でもある。佐竹氏が巧みに豊臣政権の権威を利用し、江戸氏が旧来の関東の力学に固執して没落した様は、地方の論理から「天下」の論理へと、時代の価値観が大きく変動していく様を、常陸国という舞台を通して鮮やかに描き出している。常陸太田城から放たれた佐竹氏の戦略は、まさしく新しい時代の到来を告げるものであった。
引用文献
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- [合戦解説] 10分でわかる人取橋の戦い 「伊達政宗が佐竹義重・蘆名亀王丸相手に九死に一生を得る!」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=yHN5ZtFk9QM
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- コーエーテクモ、『信長の野望 出陣』で列伝イベント「人取橋の戦い」を開催 SSR【独眼竜】伊達政宗などが特別登用に登場! | gamebiz https://gamebiz.jp/news/376699
- 「人取橋の戦い(1586年)」政宗が最も苦戦したという、父輝宗の弔い合戦! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/110
- (佐竹義宣と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/33/
- 石田三成が佐竹義宣へ思いを託した薙刀/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7132/
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- 常陸江戸氏 | 水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう https://mito-ibaraki.mypl.net/article/kankou_mito-ibaraki/30608
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