木津川口の戦い(第二次・1578)
天正六年、織田信長は鉄甲船を投入し、木津川口で毛利水軍と激突。焙烙火矢を無効化し、大砲で敵船を粉砕。この勝利により石山本願寺は孤立、信長の天下統一を決定づけた。
第二次木津川口の戦い(1578年):信長の鉄甲船が日本の海戦史を塗り替えた一日
序章:大坂湾の戦略的価値 ― 石山合戦と海上補給路
天正4年(1576年)、織田信長と石山本願寺門主・顕如との間で再燃した石山合戦は、単なる一宗教勢力との局地的な紛争ではなかった 1 。信長に京都を追われた将軍・足利義昭を庇護する西国の大大名・毛利輝元を筆頭に、各地の反信長勢力が本願寺を支援する構図となり、戦いは全国規模の代理戦争の様相を呈していた 2 。この長期化する戦いの趨勢を決定づける戦略的要衝、それが大坂湾の木津川口であった。
石山本願寺は、現在の大阪城の地に広がる巨大な要塞寺院であり、数千の町屋を内包する一大城郭都市でもあった 3 。三方を河川に、一方を海に面したその立地は、陸路からの攻撃を極めて困難にする天然の要害であった。信長は本願寺を陸上から大軍で包囲し、兵糧攻めによる枯渇を狙ったが 3 、この戦略には致命的な欠陥が存在した。それは、織田家が強力な水軍を持たず、大坂湾の制海権を掌握できていなかったことである。
本願寺にとって、唯一にして最大の生命線は、毛利氏が支配する瀬戸内海から大坂湾へ至り、木津川を遡上して物資を搬入する海上補給路であった 1 。毛利氏は、当時日本最強と謳われた村上水軍をはじめとする強力な海賊衆を組織しており、その輸送能力と戦闘力は織田方を圧倒していた 4 。この「海の道」が機能する限り、信長がいかに陸上から圧力をかけても、本願寺は兵糧や弾薬の補給を受け、抵抗を続けることが可能であった。
したがって、石山合戦の本質は、陸上における攻城戦であると同時に、制海権の掌握を巡る「海上兵站戦」であったと言える。木津川口を制する者が、この10年以上にわたる大戦を制する。この戦略的認識こそが、日本の海戦史に類を見ない革新的な兵器を生み出し、歴史の転換点となる海戦へと繋がっていくのである。
第一部:敗北からの序章 ― 第一次木津川口の戦いとその屈辱
天正4年(1576年)7月13日、信長は石山本願寺への海上補給を遮断すべく、満を持して水軍を木津川口へ派遣した。しかし、この試みは織田家にとって屈辱的な惨敗に終わる。これが「第一次木津川口の戦い」である。
この海戦において、織田水軍は約300艘の艦隊を編成し、木津川口を封鎖しようと試みた 5 。対する毛利方は、村上水軍を中核とした700から800艘にも及ぶ大船団を組織し、大量の兵糧を積んで大坂湾に進入した 5 。兵力において圧倒的に不利な状況であったが、織田方の敗因は単なる数の差ではなかった。それは、毛利水軍が用いた戦術と兵器の圧倒的な優位性にあった。
瀬戸内海の覇者である毛利・村上水軍は、従来の海戦で主流であった敵船に乗り移っての白兵戦に加え、極めて効果的な焼夷兵器を駆使した 6 。それが「焙烙火矢(ほうろくひや)」である 7 。これは、素焼きの土器(焙烙)に火薬や油を詰め、導火線を付けて敵船に投げ込む手榴弾のような兵器であった 6 。当時の軍船はすべて木造であり、焙烙火矢は船体や帆に当たって炸裂すると、瞬く間に船を炎上させた 2 。毛利水軍は巧みな操船術で織田方の艦隊に接近し、焙烙火矢を雨のように浴びせかけた。結果、織田水軍は有効な反撃もできぬまま次々と炎上、壊滅的な打撃を受け、大敗を喫した 6 。勝利した毛利水軍は、悠々と石山本願寺への兵糧搬入を成功させ、その威信を天下に示したのである。
この惨敗の報は、信長に激しい怒りと屈辱を抱かせた。しかし、この稀代の革新者は、単に感情に身を任せることなく、敗因を徹底的に分析した。彼は、同じ土俵で船の数を増やして再戦するという安易な道を選ばなかった。それは、同じ戦術では再び焙烙火矢の餌食になることを見抜いていたからである。信長は問題の根源、すなわち「木造船は火に弱い」という、抗いようのない物理的原則そのものに目を向けた。そして、導き出された結論は、既成概念を根底から覆すものであった。焙烙火矢という敵の必勝戦術を完全に無効化する「燃えない船」を造る。この敗北こそが、信長の合理主義と革新性を最大限に刺激し、日本の海戦史における技術的飛躍(パラダイムシフト)を促す、創造的破壊の引き金となったのである 2 。
第二部:信長の逆襲 ― 「鉄の船」の建造
第一次木津川口の戦いでの惨敗を受け、信長は直ちに次なる一手、すなわち革新的な新兵器の開発に着手した。その実行者として白羽の矢が立てられたのが、志摩国を本拠とする水軍の将、九鬼嘉隆であった 11 。
九鬼嘉隆への特命
九鬼嘉隆は、もともと志摩の小豪族(海賊衆)であったが、織田信長の伊勢侵攻の際にその家臣となり、水軍の将として頭角を現していた 13 。長島一向一揆の鎮圧などにおいて、海上からの攻撃で戦功を挙げており、信長の厚い信頼を得ていた 15 。彼の卓越した水軍指揮能力と、伊勢・志摩地域が有していた高度な造船技術の基盤が、この前代未聞の「燃えない船」建造計画の責任者として最適であると信長は判断したのである 17 。信長から嘉隆に下された命令は、焙烙火矢の猛威に耐えうる、全く新しい概念の軍船を建造せよ、というものであった。
鉄甲船の実像 ― 史料の比較検討と考察
信長の特命を受けて九鬼嘉隆が建造したこの新鋭艦は、後世「鉄甲船」として知られることになる。しかし、その実像については、いくつかの史料を比較検討する必要がある。
- 『多聞院日記』の記述: 奈良興福寺の僧、英俊が記した『多聞院日記』の天正6年7月20日条には、堺の港に現れたこの船について、「鐵ノ船也、テツハウトヲラヌ用意」(鉄の船であり、鉄砲の弾を通さない備えがしてある)という記述がある 18 。これが、船が鉄で装甲されていたとする説の唯一の直接的な文献的根拠となっている。しかし、同日記には船の大きさを「横へ七間、竪へ十二三間」(幅約12.7m、長さ約22〜24m)と記しているが、この比率は船の形状としては不自然であり、また英俊自身が実物を見ておらず伝聞に基づいて記している点も考慮せねばならず、その記述の正確性には慎重な吟味が必要である 18 。
- イエズス会報告の記述: 一方で、実際に堺でこの船を見学したイエズス会宣教師、パードレ・オルガンティノが本国へ送った書簡には、より客観的な観察が記されている。彼はこの船を「日本国中最も大きく、また最も華麗なるものにして、王国(ポルトガル)の船に似たり」と絶賛し、その巨大さと威容に驚嘆している 18 。さらに、武装について「大砲三門」と「無数の精巧にして大なる長銃」が搭載されていたと具体的に言及している 18 。しかし、彼の詳細な報告の中に、船の最大の特徴とされるべき「鉄の装甲」については一切触れられていない 18 。これは極めて重要な点であり、一般に想像されるような「船体全体を鉄板で覆った」というイメージは、やや過剰であった可能性を示唆している。
これらの史料を総合的に考察すると、鉄甲船の姿はより現実的なものとして浮かび上がってくる。船体全てを鉄で覆うことは、当時の技術や船の浮力を考えると非現実的であり、焙烙火矢や銃弾が集中しやすい喫水線付近や、射手を守るための上部構造物(総矢倉)といった重要箇所に部分的に鉄板(厚さ3mm程度と推定する説もある 19 )を張った「部分装甲艦」であった可能性が高い 20 。あるいは、「鐵ノ船」という表現は、物理的な装甲だけでなく、火に強い素材を用いたり、延焼を防ぐための工夫が凝らされたりした、総合的な防火・防弾構造を指した比喩的な表現であった可能性も考えられる 21 。
「浮かぶ城」の誕生 ― 防御力と攻撃力の融合
鉄甲船の真の革新性は、単なる防御力に留まるものではなかった。その本質は、全長約24m、幅約12.5mという、従来の大型軍船である安宅船を遥かに凌駕する巨大な船体を、安定した射撃プラットフォームとして活用した点にある 3 。この巨大な「浮かぶ城」には、一隻あたり三門の大砲(大鉄砲)と、数えきれないほどの鉄砲が装備されていた 17 。
これは、日本の海戦術における革命であった。従来の海戦は、小回りの利く船で敵船に接近し、乗り移って斬り合う白兵戦が主体であった 24 。しかし、鉄甲船は機動性を犠牲にする代わりに 25 、敵の攻撃を寄せ付けない圧倒的な防御力と、遠距離から敵艦を粉砕する絶大な火力を手に入れた。これは、海戦の主役を個々の「兵士」の武勇から、船という「兵器システム」の性能へと転換させる、時代を遥かに先取りした思想の萌芽であった 20 。
決戦前夜のデモンストレーション
天正6年(1578年)6月、九鬼嘉隆が建造した鉄甲船6隻と、信長の重臣・滝川一益が建造した白船1隻が、伊勢大湊の港を出航した 27 。艦隊が大坂湾を目指す途中、淡輪(現・大阪府岬町)沖で本願寺に味方する雑賀衆の迎撃を受けたが、鉄甲船に搭載された大鉄砲が火を噴き、これを難なく撃退 27 。その圧倒的な性能を実戦で証明した。
同年7月、艦隊は泉州堺の港に入港 22 。堺は当時日本最大の商業都市であり、全国から人や情報が集まる場所であった。信長は、この新兵器を単なる軍事力として秘匿するのではなく、プロパガンダと心理戦の道具として最大限に活用した。9月には信長自らが堺を訪れ、10月1日には多くの見物人を集めての観艦式とも言うべきデモンストレーションを挙行させた 22 。これは、味方の士気を高めると同時に、敵である毛利方や本願寺方に対し、「お前たちの時代は終わった」という強烈な無言の圧力をかける、計算され尽くした政治的・軍事的パフォーマンスであった。この巨大な黒船の威容は、毛利方に再戦への大きなプレッシャーを与えたに違いない。なお、この鉄甲船の建造と維持には莫大な費用がかかったが、信長は「九鬼兵糧」と称して堺の豪商たちにもその費用を負担させており 26 、彼の卓越した経済動員力をも示している。
第三部:決戦の刻 ― 第二次木津川口の戦い、リアルタイム詳解
天正6年(1578年)11月6日、大坂湾の制海権、ひいては石山合戦の雌雄を決する運命の日が訪れた。この日の海戦は、旧来の戦術思想と、技術革新によって生まれた新しい戦術思想が激突する、日本の海戦史における分水嶺となる。
主要諸元比較表
両軍の戦力、装備、そして根底にある戦術思想の違いは、以下の比較表に集約される。この質的な差こそが、圧倒的な数量差を覆す勝利の要因であった。
項目 |
織田水軍(九鬼艦隊) |
毛利水軍 |
総指揮官 |
九鬼嘉隆 9 |
村上水軍諸将(村上武吉、元吉など)、乃美宗勝、浦宗勝など 4 |
総兵力(推定) |
鉄甲船6隻、白船1隻、他中小の軍船数十隻 3 |
関船・小早船など 約600隻 3 |
主力艦種 |
鉄甲船(大型安宅船) 3 |
関船、小早船 24 |
主要武装 |
大砲(大鉄砲)3門/隻、大量の鉄砲 19 |
焙烙火矢、火矢、弓、鉄砲 6 |
基本戦術 |
遠距離からの圧倒的火力による敵艦の破壊・無力化(火力主義) 22 |
大船団による包囲、焙烙火矢による焼き討ち、接舷しての白兵戦(接舷斬込主義) 6 |
【天正6年(1578年)11月6日 未明〜払暁】霧中の対峙
淡路島の岩屋沖に集結していた毛利水軍の大船団、約600艘が行動を開始した。彼らの目的はただ一つ、石山本願寺へ大量の兵糧と弾薬を運び込むことである 22 。2年前の圧倒的勝利の記憶は、彼らに自信と、そして一抹の慢心をもたらしていたであろう。船団は大坂湾を一路北上し、木津川河口を目指した。
一方、迎え撃つ九鬼嘉隆率いる織田艦隊は、木津川の河口沖に布陣し、静かにその時を待っていた。この日の早朝、大坂湾には深い霧が立ち込めており、両軍は互いの全貌を捉えきれずにいた 22 。九鬼嘉隆は、第一次合戦のように河口を塞いで待ち受ける消極的な戦法ではなく、あえて外海で堂々と毛利水軍と激突する道を選んだ。これこそが真の海戦であるという、彼の自負の表れであった 22 。
【午前8時頃】衝突、毛利水軍の猛攻
立ち込める霧の中から、突如として巨大な黒い船影がぬっと姿を現した。毛利水軍の兵士たちは、初めて目にするその異様な船体に一瞬息を呑んだに違いない 22 。しかし、彼らはすぐに気を取り直し、2年前に織田水軍を焼き尽くした得意の戦術を開始した。
船団の中から、機動力に優れた多数の小早船が分離し、猛スピードで6隻の鉄甲船に殺到した。あっという間に鉄甲船を取り囲むと、四方八方から焙烙火矢や火矢を雨のように射かけ、投げつけた 22 。毛利方にとっては、勝利の方程式通りの攻撃であった。しかし、今回は様子が違った。投げつけられた焙烙火矢は、鉄甲船の船体に当たると甲高い音を立てて弾かれるか、燃え広がることなく鎮火してしまう。彼らの必殺兵器が、全く効果をなさないのである 22 。業を煮やした兵士たちが船に乗り移ろうと鉤縄を投げても、高くそびえる船体と滑らかな鉄板に阻まれ、取り付くことすらできなかった 22 。
【午前9時頃】織田水軍の反撃 ― 大鉄砲の咆哮
敵を十分に引きつけ、その攻撃が無力であることを証明した九鬼嘉隆は、ついに反撃の狼煙を上げた。
鉄甲船の上部構造物に無数に設けられた銃眼から、一斉に鉄砲の火線が閃いた。それは、かつて長篠の戦いで武田の騎馬隊を打ち破った三段撃ちを彷彿とさせる、途切れることのない連続射撃であった 22 。鉄甲船の周囲に密集していた毛利方の小早船は、格好の的となった。漕ぎ手や兵士たちは次々と撃ち倒され、船は制御を失っていく。
そして、鉄甲船がその真価を発揮する時が来た。天を揺るがすほどの轟音と共に、船首に据えられた大砲(大鉄砲)が火を噴いた。撃ち出された巨大な弾丸は、脆弱な木造の関船や小早船の船体をいとも容易く貫き、粉砕した。致命的な損傷を受けた船は、瞬く間に浸水を始め、次々と波間へと姿を消していった 22 。これまで経験したことのない、一方的な破壊であった。
【午前10時頃】戦局の転換 ― 指揮系統の麻痺
九鬼水軍の攻撃は、無差別なものではなかった。嘉隆は、敵船団の中からひときわ大きく、華麗な装飾が施された指揮官座乗艦と思しき船を標的に定め、集中砲火を命じた 30 。6隻の鉄甲船から放たれる砲弾と銃弾が、その一隻に殺到する。
やがて、大砲の直撃を受けた毛利方の将官船が、巨大な水柱を上げて轟沈した 22 。これにより、毛利水軍の指揮系統は完全に麻痺し、統制を失った600艘の大船団は、烏合の衆と化した。指揮官を失い、何をすべきか分からなくなった船は、ただ右往左往するばかりであった。
【正午頃】潰走 ― 毛利水軍の崩壊と追撃戦
指揮官を失い、未知の兵器の圧倒的な威力に恐怖した毛利水軍の兵士たちは、完全に戦意を喪失した。彼らに残された選択肢は、ただ逃げることだけであった。戦いは、もはや一方的な追撃戦へと移行した 31 。
九鬼水軍は、潰走する敵船団を追撃し、逃げ惑う船を次々と撃沈、あるいは拿捕して戦果を拡大していった。この日一日で、西国最強を誇った毛利水軍は壊滅的な打撃を受け、惨敗を喫したのである 22 。大坂湾の海は、無数の残骸と将兵で埋め尽くされた。
第四部:戦後の潮流 ― 石山本願寺の孤立と海戦史の転換点
第二次木津川口の戦いは、わずか半日にして、しかし決定的な形で決着した。この一戦がもたらした影響は、単に一つの戦いの勝敗に留まらず、石山合戦全体の帰趨、さらには日本の軍事史の流れをも大きく変えるものであった。
両軍の損害と戦いの帰趨
この海戦における織田方の損害は極めて軽微であったと伝えられている。対照的に、毛利水軍は多数の将兵を失い、数百隻の船を撃沈または拿捕されるという壊滅的な被害を受けた 29 。この一方的な勝利により、織田信長と九鬼嘉隆は、長年の懸案であった大坂湾の制海権を完全に掌握することに成功したのである。
戦略的影響 ― 石山本願寺の終焉へ
この敗北は、石山本願寺にとって致命的な一撃となった。毛利氏による海上からの補給路が完全に、そして未来永劫にわたって遮断されたからである 9 。外部からの兵糧・弾薬の援助を絶たれた本願寺は、もはや難攻不落の要塞ではなく、ただの巨大な牢獄と化した。籠城を続けることは物理的に不可能となり、ついに2年後の天正8年(1580年)、信長との講和(事実上の降伏)を受け入れ、10年以上にわたって信長を苦しめ続けた石山合戦は、ここに終結した 30 。
この勝利は、単に本願寺を孤立させただけではない。信長の天下統一事業における、まさに「王手」であった。西国最強を誇った毛利水軍を正面から打ち破ったという事実は、毛利輝元の威信を大きく傷つけ、織田家との軍事バランスを決定的に織田方優位へと傾けた。これにより、信長は西国からの脅威という後顧の憂いを断ち切り、東方の武田氏や北陸の上杉氏といった他の敵対勢力に戦力を集中させることが可能になった。つまり、この海戦は、石山合戦という一つの戦役を終わらせただけでなく、信長の天下統一事業における最大の障害の一つを取り除き、最終的な勝利への道筋を確実にした、極めて重要な戦略的勝利であったと評価できる。
軍事史的意義 ― 日本海戦史の分水嶺
第二次木津川口の戦いは、日本の海戦史において画期的な分水嶺として記憶されるべき戦いである。
- 「火力主義」の勝利: この戦いは、従来の海戦の常識であった、敵船に乗り移っての白兵戦術が、遠距離からの圧倒的火力の前に全く無力であることを証明した 20 。海戦の主役が、個々の兵士の武勇や操船技術から、船という兵器システムが持つ火力と防御力へと移行する、大きなパラダイムシフトの瞬間であった。鉄甲船は、後の時代の「戦艦」の思想に繋がる、先駆的なコンセプトを体現していたのである。
- 技術革新の重要性: 第一次合戦の惨敗という苦い経験から、敵の戦術を冷静に分析し、それを無力化するための全く新しい技術(鉄甲船)を開発し、戦いのルールそのものを変えて勝利を掴む。この一連のプロセスは、戦いにおいて技術革新がいかに決定的な要因となりうるかを明確に示した。信長の合理主義と革新性が、旧態依然とした毛利水軍の戦術を凌駕したのである。
結論:天下布武を決定づけた一日の海戦
天正6年(1578年)11月6日の第二次木津川口の戦いは、単なる一海戦の勝利に留まるものではない。それは、織田信長という人物が持つ、卓越した合理主義、既成概念に囚われない革新性、そして戦局全体を俯瞰する戦略眼の結晶であった。
第一次合戦での屈辱的な敗北を糧とし、その原因を徹底的に分析し、技術革新という最も困難な手段によって課題を克服する。そして、敵の土俵で戦うことを拒否し、自らが作り出した新しい戦いのルールで敵を圧倒する。この一連の流れは、信長の「天下布武」が、単なる軍事力による旧勢力の制圧ではなく、旧来の価値観や常識そのものを破壊し、新しい時代を創造する事業であったことを象徴している。
この大坂湾での一日がなければ、石山合戦はさらに長期化し、毛利氏の脅威も持続したであろう。そうなれば、本能寺の変に至るまでの歴史の流れも、大きく異なっていた可能性がある。その意味において、第二次木津川口の戦いは、織田信長の天下統一事業を事実上決定づけた、極めて重要な一戦であったと結論付けられる。九鬼嘉隆の鉄甲船が上げた砲煙は、戦国時代の海戦の終わりと、新しい時代の幕開けを告げる狼煙だったのである。
引用文献
- [合戦解説] 5分でわかる木津川口の戦い 「毛利水軍の焙烙火矢に敗北した信長は巨大鉄甲船で立ち向かう」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=tCpQZIc-N5I
- 織田信長や徳川家康を苦しめた一枚岩の集団~一向一揆 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/nobunaga-versus-ikkoikki/
- 木津川口の戦い古戦場:大阪府/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kidugawaguchi/
- 毛利水軍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%B4%E8%BB%8D
- 織田信長をも悩ませた瀬戸内海の覇者・村上水軍のその後とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/12188
- 屈辱的な敗北を喫した織田信長が、背水の陣で生んだ「目からウロコのイノベーション」とは? https://diamond.jp/articles/-/347004
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- 天正4年(1576)7月13日は第一次木津川口の戦いで毛利輝元の水軍が信長の水軍を破った日。毛利水軍は焙烙玉を駆使して織田水軍の大半を焼き払った。反信長で協力する石山本願寺に兵糧米を運び入れること - note https://note.com/ryobeokada/n/nb479ef10c318
- 天正6年(1578)11月6日は九鬼嘉隆率いる織田水軍が第二次木津川口の戦いで毛利水軍を撃破した日。織田水軍は石山本願寺を包囲して海上封鎖していたが2年前の第一次合戦で毛利水軍に敗れた。これ - note https://note.com/ryobeokada/n/n0e28978ec24b
- 信長の鉄甲船の復元模型、阿武丸 木津川口の戦いで活躍|信長と九鬼嘉隆の鉄甲船 | 鉄甲船の復元模型を狭山造船所京橋船台で建造 https://www.sayama-sy.com/
- 鉄甲船 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%94%B2%E8%88%B9
- 希望の道 : 御食国 答志島 - 鳥羽商工会議所 http://www.toba.or.jp/toushijima/04_info.html
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- 九鬼水軍の栄光と輝き - * 九鬼氏に関しては、嘉隆が織田信長に仕える以前の資料が少なく https://sbcbba15c4a9a9a63.jimcontent.com/download/version/1616050009/module/17748880896/name/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E6%B0%B4%E8%BB%8D%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89.pdf
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- 【やさしい歴史用語解説】「鉄甲船」 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1368
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- 【歴史のif】織田の巨大鉄甲船を沈める方法はある? こうすれば村上水軍は勝てた…かも!? https://www.youtube.com/watch?v=AYRraEcPFPg
- 戦国時代の軍船はどんな構造だった? - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/warship/
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- 荒木村重③ ~鉄甲船 - マイナー・史跡巡り https://tamaki39.blogspot.com/2020/05/blog-post.html
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- 「村上武吉」 毛利水軍の一翼を担った、村上水軍当主の生涯とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1187
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- 「石山本願寺合戦」~木津川口海戦 - 新庄まつり https://shinjo-matsuri.jp/db/2019_1
- 木津川口海戦(第一次・第二次)/ 雑賀攻め |失敗続きの信長、大規模海戦を決断!! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=UtnB3hwS__E
- The Battle of Kizugawa - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=APW9Vzq0UEA