最終更新日 2025-08-29

松倉城の戦い(1582)

天正十年、織田信長は柴田勝家を総大将に越中松倉城・魚津城を攻めた。魚津城は壮絶な籠城戦の末に落城するも、その翌日、本能寺の変が勃発。信長の死により織田軍は撤退し、北陸の戦線は大きく転換した。

天正十年「松倉城・魚津城の戦い」の詳解:本能寺の変に揺れた北陸戦線の実像

序章:天下布武の最終局面―越中を巡る織田・上杉の角逐

天正十年(1582年)、越中国(現在の富山県)を舞台に繰り広げられた松倉城・魚津城を巡る攻防戦は、織田信長が進める「天下布武」事業の最終局面において、極めて象徴的な合戦であった。この戦いは、単なる一地方の城の争奪戦に留まらず、北陸の覇権を巡る織田氏と上杉氏の長年にわたる角逐の帰趨を決する、決定的な戦いであった。そして、その結末は日本史を揺るがす大事件「本能寺の変」によって、誰もが予期せぬ形で劇的な転回を迎えることになる。

上杉謙信死後の北陸情勢

全ての始まりは、天正六年(1578年)三月、越後の龍と謳われた軍神・上杉謙信の急死に遡る。謙信という絶対的な求心力を失った上杉家は、その遺言が不明確であったことから、謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎との間で家督を巡る激しい内乱、すなわち「御館の乱」へと突入した 1 。この内訌は上杉家の国力を著しく消耗させ、かつて謙信が築き上げた北陸における支配体制に深刻な動揺をもたらした。

この上杉家の混乱を、天下統一事業を推し進める織田信長が見逃すはずはなかった。信長にとって、それは北陸方面への勢力拡大、すなわち「天下布武」を完成させるための絶好の機会であった 2

柴田勝家率いる織田方面軍の進撃

信長は、織田家宿老筆頭の柴田勝家を北陸方面軍の総大将に任命し、北陸平定を着実に進めていた 3 。勝家の指揮下には、与力として府中三人衆と称された前田利家、佐々成政、不破光治らが配属されており、信長の北陸制圧にかける固い意志が窺える陣容であった 4 。この方面軍団制は、方面軍総司令官に大幅な裁量権を与えつつ、与力を配置して相互に協力と牽制をさせる信長独自の統治システムであり、その効率的な領土拡大戦略の完成形が、この北陸戦線に見て取れる。

天正八年(1580年)、柴田勝家は加賀一向一揆を平定し、その勢いを駆って越中へと侵攻を開始する 3 。翌天正九年(1581年)には佐々成政が越中に入国し、瞬く間にその西部を制圧した 1 。これにより、越中における上杉方の勢力は東部の新川郡へと追い詰められていったのである。

越中における上杉方の最後の砦

織田軍の圧倒的な物量と巧みな方面軍戦略の前に、上杉方にとって越中東部に位置する松倉城と魚津城は、本国・越後を防衛するための文字通り最後の防衛線となった 1 。天正十年(1582年)に火蓋が切られたこの戦いは、織田信長による北陸完全制覇と、上杉家の存亡をかけた最終決戦の前哨戦としての意味合いを色濃く帯びていたのである。

第一章:戦略的要衝、松倉城と魚津城

織田と上杉の雌雄を決する舞台となった松倉城と魚津城は、それぞれが異なる特性を持ちながら、一体として機能する高度な防衛拠点を形成していた。

越中三大山城・松倉城の構造と歴史

松倉城は、魚津市の南部に位置する標高約430メートルの城山に築かれた、越中三大山城の一つに数えられる名城である 8 。その歴史は古く、南北朝時代の史料にもその名が見え、戦国時代には越中新川郡の守護代であった椎名氏の本拠地として栄えた 10 。しかし、椎名氏が上杉氏に反旗を翻したことにより、永禄十二年(1569年)、上杉謙信の猛攻の前に落城。以降は上杉方の越中支配における最重要拠点とされ、謙信は河田長親ら重臣を城将として配置した 10 。天然の要害に加えて、無数の曲輪や堀切、竪堀が配されたその構造は、極めて堅固な山城であったことが、現存する遺構からも窺い知れる 14

海陸交通の結節点・魚津城の役割

一方の魚津城は、角川の河口付近に位置する平城であり、その性格は松倉城とは大きく異なっていた 16 。魚津城は、越中と越後を結ぶ北陸道を押さえる陸上交通の要衝であると同時に、富山湾に面した湊を持つ海上交通の結節点でもあった 16 。この地政学的な優位性から、魚津城は松倉城の重要な支城として機能し、兵站の集積や経済活動の拠点としての役割を担っていたのである 9

一体として機能する防衛拠点群「松倉城塁群」

松倉城と魚津城の関係は、単なる本城と支城という主従関係に留まるものではない。松倉城を主城とし、魚津城、さらには升形山城や天神山城といった支城・砦が半径数キロ圏内に配置された広域防衛ネットワーク、すなわち「松倉城塁群」を形成していたのである 9 。堅固な山城である松倉城を「指揮・最終防衛拠点」とし、交通の便が良い平城の魚津城を「前線・兵站拠点」とする役割分担が明確になされた、有機的な防衛システムであった。

この防衛網を攻略するにあたり、織田軍が主攻撃目標を堅城である松倉城ではなく、平城の魚津城に定めたのは、極めて合理的な戦略判断であった。魚津城を落とすことは、松倉城の兵站線と神経系を断ち切り、山城を孤立無援に陥らせることを意味した。柴田勝家ら織田軍の指揮官は、この防衛システムの弱点を正確に見抜いていたのである。

第二章:天正十年、織田軍の越中侵攻

天正十年、春。雪解けを待った織田の北陸方面軍は、上杉方の最後の牙城を打ち砕くべく、満を持して越中東部へとその大軍を差し向けた。

織田軍の編成と兵力

この越中侵攻軍の総大将は、言うまでもなく柴田勝家である。その麾下には、織田軍団の中核を成す佐々成政、前田利家、そして不破光治、金森長近といった歴戦の武将たちが名を連ねていた 4 。その総兵力は4万とも5万とも伝えられ、上杉方を圧倒する規模であった 1 。この兵力差は、信長がこの戦いをもって越中を完全に平定しようとする、断固たる決意の表れに他ならなかった。

迎え撃つ上杉方の布陣と覚悟

対する上杉方は、この圧倒的な兵力差を前に、城を拠点とした籠城戦で対抗する以外に道はなかった。防衛の最前線となる魚津城には、城将として中条景泰が入り、吉江信景、山本寺景長といった上杉家譜代の勇将たち、総勢約3,800の兵が立て籠もった 1 。彼らの任務は、織田の大軍を可及的速やかに足止めし、主君・上杉景勝が率いる本隊の救援を待つことであった。

一方、後方の松倉城には、上杉一門であり、謙信の代から重用された上条政繁が城主として守りを固めていたと見られる 23 。また、後の史料には須田満親の名も見えることから、彼もまた松倉城塁群のいずれかの守将であった可能性が高い 26


表1:天正十年 越中攻防戦 両軍兵力比較

勢力

総大将

主要武将

推定兵力

織田軍

柴田勝家

佐々成政、前田利家、不破光治、金森長近

約40,000 - 50,000

上杉軍

上杉景勝(後詰)

【魚津城】中条景泰、吉江信景、山本寺景長 他

約3,800(魚津城籠城軍)

【松倉城】上条政繁、須田満親 他

不明


三月、魚津城包囲網の完成

天正十年三月、織田軍は魚津城に対する攻撃を開始し、城を幾重にも包囲した 9 。その作戦は単なる力押しではなかった。織田軍は、魚津城と松倉城との連携を物理的に分断するため、両城の中間に位置する升形山城などを奪取し、そこに付け城を構築した 28 。この「封鎖戦略」は、松倉城からの救援や挟撃を不可能にし、魚津城を完全に孤立させるための周到な戦術的布石であった。これにより、魚津城は一個の閉鎖空間となり、籠城する将兵は兵站の不安だけでなく、精神的にも極限まで追い詰められていくことになった。

第三章:魚津城攻防戦:リアルタイム詳解

三月に始まった魚津城の攻防は、約三ヶ月にわたって壮絶を極めた。その戦況の推移は、まさに息もつかせぬ展開を見せる。


表2:天正十年 越中攻防戦 主要時系列表

年月日(1582年)

織田方の動向

上杉方の動向

関連事項

3月11日頃

柴田勝家率いる連合軍、魚津城を包囲・攻撃開始。

中条景泰ら約3,800の兵が籠城し、徹底抗戦。

-

4月23日

猛攻を継続。

魚津在城衆十二名が連署し、直江兼続に窮状と玉砕の覚悟を伝える書状を送る。

-

5月6日

魚津城の二の丸を攻略。

-

-

5月9日

-

城内の弾薬が尽きたと伝わる。

-

5月15日

-

上杉景勝、救援のため天神山城に着陣。

-

5月26日

森長可らが信濃から、滝川一益が上野から越後国境へ侵攻。

松倉城の守備隊が撤退開始。同日夜、景勝本隊も天神山城から越後へ撤退。

景勝、本国の危機により魚津城救援を断念。

6月2日

-

-

京都にて 本能寺の変 が勃発。織田信長自害。

6月3日

魚津城に総攻撃をかけ、陥落させる。

中条景泰ら城将十三名が自刃・討死。

織田軍は信長の死を知らないまま攻撃を断行。

6月5日以降

信長の死の報が北陸に到達。軍を撤退させる。

須田満親らが無人となった魚津城を奪還。

戦局が完全に暗転する。


【三月~四月】:攻防の序盤と膠着状態

三月十一日頃、織田軍による魚津城への本格的な攻撃が開始された 20 。織田軍は圧倒的な兵力を背景に、鉄砲隊による猛烈な射撃を浴びせかけた。史料によれば、この戦いで北陸では初となる大砲が使用されたとされるが、不良品であったため修理が必要となり、実戦ではほとんど役に立たなかったという 20

一方、上杉方の守兵は固い団結力をもってこれを防ぎ、攻防は序盤から激戦となった。しかし、兵力と物量で劣る籠城側の消耗は激しく、その苦境は四月二十三日付で城将十二名が連署した、重臣・直江兼続宛の書状「魚津在城衆十二名連署書状」に克明に記されている 1 。書状には、昼夜を問わぬ銃撃で堀の際まで敵が肉薄している窮状と共に、「この上は全員討死と覚悟しています」という悲壮な決意が綴られており、この時点で既に玉砕を覚悟していたことがわかる。

【五月上旬~中旬】:二の丸陥落と景勝の出陣―救援への期待

五月に入ると、戦況は大きく動く。五月六日、織田軍の猛攻の前に、ついに魚津城の二の丸が陥落した 18 。さらに九日には城内の弾薬が底を尽きたと伝えられ、落城はもはや時間の問題かと思われた 18

この絶望的な状況下で、籠城兵に最後の希望の光が差し込む。主君・上杉景勝が、ついに自ら救援軍を率いて越中に出陣したのである。五月十五日(一説に十九日)、景勝は魚津城の東方、約5キロメートルに位置する天神山城に着陣した 9 。主君率いる本隊の出現は、死を覚悟していた将兵たちを大いに奮い立たせたことであろう。

【五月下旬】:背後からの脅威―景勝、苦渋の撤退決断

しかし、その希望は無情にも打ち砕かれる。景勝の越中出陣という、上杉本国の守りが手薄になった隙を、織田信長は見逃さなかった。信長の命令一下、別動隊である森長可の軍勢が信濃から、滝川一益の軍勢が上野から、それぞれ越後国境へと侵攻を開始したのである 1

この動きは、景勝を越中に釘付けにしている間に本国を脅かすという、信長得意の多方面同時侵攻戦略であった。魚津城の悲劇は、局地的な戦いの結果ではなく、織田軍の巨視的な戦略によって引き起こされた必然であったと言える。本国が危機に晒されたとの報を受けた景勝は、魚津城の救援を継続か、本国の防衛かという、究極の選択を迫られた。そして、五月二十六日、景勝は天神山城からの撤退を決断する 1 。これは事実上、魚津城の将兵を見捨てるに等しい、断腸の思いでの決断であった。

一部の史料には、この撤退に際して景勝と柴田勝家の間で一時的な和議が結ばれ、魚津城の開城交渉が行われた可能性も示唆されている 31 。しかし、その直後に信長から「城内の者を一人残らず討ち果たせ」という非情な命令が届いたため、織田方が和議を反故にし、総攻撃に転じたという説もある。もしこれが事実であれば、魚津城の悲劇は、信長の敵対勢力を根絶やしにするという徹底した殲滅方針が生んだ、より凄惨な物語となる。

【六月三日】:落城―玉砕した十二将の最期

主君からの救援という最後の望みを絶たれた魚津城の将兵は、それでも降伏することなく、最後まで徹底抗戦を続けた。景勝本隊の安全な撤退を確実にするため、自らが「捨て石」となって織田軍を引きつける覚悟であったのかもしれない。

そして天正十年六月三日、織田軍の総攻撃の前に、魚津城はついに陥落した 9 。中条景泰をはじめとする十三人の城将たちは、討ち取られた際に首が誰のものか判別できるよう、自らの耳に名札を通して自刃、あるいは討死するという壮絶な最期を遂げたと伝えられている 1

第四章:松倉城の動向と戦略的撤退

主戦場が魚津城であった天正十年の戦いにおいて、松倉城は直接的な大規模戦闘の舞台となることはなかった 28 。その役割は、魚津城への後方支援と、救援に駆け付けた景勝本隊の拠点(天神山城)をさらに後背から支えるという、戦略的なものであった。そして、その真価は上杉軍撤退の局面で発揮されることになる。

景勝本隊の撤退に伴う守備隊の計画的退去

五月二十六日、上杉景勝が天神山城からの撤退を決断した際、極めて秩序だった動きが見られた。前田利家が残した書状には、「昨日廿六日、松倉明退、同夜子ノ刻、喜平次(景勝)退散候」と記されている 28 。これは、二十六日の日中にまず松倉城の守備隊が城を明け渡して撤退を開始し、それを確認した上で、同日夜半に景勝の本隊が天神山城から撤退したことを意味する。

「戦わずして退く」―松倉城における1582年の真実

この一連の動きから、1582年における「松倉城の戦い」の実態は、戦闘を伴わない「計画的かつ戦略的な撤退作戦」であったと結論付けられる。松倉城守備隊の先行撤退は、景勝本隊が織田軍の追撃を受けることなく安全に越後へ帰還するための、露払いや退路確保の役割を担っていた可能性が極めて高い。

この秩序ある後退行動は、上杉軍の指揮系統が混乱に陥っていなかったことの証左である。景勝は、魚津城という戦術目標を放棄する代わりに、本隊という戦略的資産を無傷で維持することに成功した。これは、敗北の中にも次善の策を講じた、指揮官としての景勝の冷静な判断力を示すものであり、「見捨てて逃げた」という単純なイメージを覆すものである。

第五章:本能寺の変と戦局の暗転

魚津城の将兵が玉砕し、織田軍が越中東部の完全制圧という大勝利に沸く、まさにその裏側で、日本の歴史を根底から覆す大事件が起きていた。

京都の激震、北陸への伝播

魚津城が陥落する前日の六月二日早朝、京都の本能寺において、天下人・織田信長がその重臣である明智光秀の謀反によって襲撃され、自害して果てた 9 。この報は、通信手段の限られた当時、すぐには遠く離れた北陸の戦線には届かなかった。

情報なきまま遂行された魚津城総攻撃の悲劇

柴田勝家ら織田軍の将兵は、主君の死という驚天動地の事実を知らないまま、六月三日の魚津城総攻撃を断行し、籠城兵を一人残らず討ち果たした 1 。もし、この情報があと一日早く伝わっていれば、織田軍は攻撃を中止し、魚津城の将兵たちは命を落とすことはなかったかもしれない。歴史の残酷な皮肉が、この戦いの悲劇性を一層際立たせている。

織田軍の混乱と越中からの撤兵

信長の死の報が、北陸の柴田勝家のもとへ届いたのは、魚津城落城から数日後の六月五日以降であったとされている 16 。総大将を失った織田軍は、一転して深刻な混乱に陥った。指揮系統は麻痺し、作戦行動は完全に中止された。

勝家や利家、成政といった将たちは、来るべき織田家内部の主導権争いに備えるため、また、この機に乗じた上杉軍の追撃を警戒し、急ぎそれぞれの領国へと撤兵を開始した 9 。一大勝利からわずか数日で、織田軍は混乱の中での全面退却を余儀なくされたのである。この事件は、戦国時代において「情報」の価値と、その伝達速度がいかに決定的な重要性を持っていたかを浮き彫りにした。わずか数日の情報の遅れが、数千の将兵の運命を左右し、一大方面軍の作戦を完全に頓挫させたのである。

第六章:一時の奪還と佐々成政の再攻

本能寺の変による織田軍の撤退は、上杉方にとって絶好の反撃機会をもたらした。

須田満親による魚津城回復

織田軍が越中から引き上げた後の権力の空白を突き、上杉方はすぐさま行動を開始した。須田満親らが兵を率いて、無人となっていた魚津城を速やかに奪還したのである 35 。さらに、この混乱に乗じて北信濃にも侵攻するなど、上杉家は一時的に失地を回復することに成功した。

織田政権の再編と北陸情勢

しかし、その間に中央の情勢は目まぐるしく動いていた。羽柴秀吉が驚異的な速度の「中国大返し」を成功させて山崎の戦いで明智光秀を討ち、続く清洲会議で織田家内の実権を掌握していく 34 。これに対し、柴田勝家は信長の三男・信孝を擁して対抗するが、次第に劣勢に立たされていった。北陸の戦況は、この織田家内部の権力闘争と密接に連動していくことになる。

天正十一年、成政による越中平定と両城の終焉

翌天正十一年(1583年)春、ついに秀吉と勝家は近江・賤ヶ岳で激突。この戦いで勝家は敗れ、居城の北ノ庄城で自害して果てた 38 。これにより、北陸の織田系勢力は秀吉の下で再編される。

越中の支配を確固たるものにしようとする佐々成政は、この新たな中央権力の後ろ盾を得て、再び大軍を率いて越中東部に侵攻した。上杉方はもはやこれに抗する力はなく、同年春、須田満親は成政と和を結び、魚津城、そして松倉城を明け渡して越後へと退去した 9

天正十年の上杉方による失地回復は、あくまで本能寺の変という偶発的な事件によってもたらされた「一時的な揺り戻し」に過ぎなかった。日本の中心で新たな統一権力(豊臣政権)が形成される中、地方勢力である上杉家が単独でそれに抗い、越中を維持することは、もはや不可能な情勢であった。天正十一年の敗北は、歴史の大きな潮流から見れば必然的な帰結だったのである。これにより、両城を巡る長年の攻防は完全に終結し、名城・松倉城も後に廃城となり、その歴史に幕を下ろした 10

終章:歴史の転換点における悲劇

天正十年(1582年)の松倉城・魚津城の戦いは、織田信長の天下統一事業の総仕上げの段階で起こった、極めて重要な戦いであった。それは、信長が構築した方面軍団システムがいかに強力であったかを示すと同時に、本能寺の変という未曾有の激動が、いかに地方の戦線にまで劇的な影響を及ぼしたかを示す、格好の実例となった。

この戦いは、多くの武将たちの運命を翻弄した。圧倒的な兵力差の中で、主君への忠義を貫き、壮絶な最期を遂げた魚津城の将兵たち。そして、本国を守るという大局のために、彼らを犠牲にせざるを得なかった上杉景勝の苦悩。彼らの生き様は、戦国という時代の非情さと、その中で貫かれた武士の美学や忠誠心を我々に強く訴えかける。

最終的に、この戦いを経て越中は佐々成政、そして後に前田利家の支配下に入り、加賀百万石の礎が築かれていくことになる 20 。松倉城・魚津城の戦いは、北陸地方が織田・豊臣政権という新たな中央集権体制に完全に組み込まれていく過程における、一つの大きな転換点であった。歴史の巨大なうねりの中で、多くの血が流され、一つの時代が終わりを告げたのである。

引用文献

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