根来寺・雑賀攻め(1585)
天正十三年 紀州征伐 ― 中世の終焉を告げた鉄砲と水攻め ―
序章:紀ノ川流域の独立王国
戦国乱世の日本において、紀伊国(現在の和歌山県)は特異な光を放っていた。守護大名の支配が弱く、中央の権力から半ば独立した地域勢力が割拠する地。その中でも、紀ノ川流域に本拠を置く「雑賀衆(さいかしゅう)」と「根来衆(ねごろしゅう)」は、戦国大名すら一目置く強大な軍事力を有し、天下の動向にさえ影響を与える存在であった 1 。彼らは特定の主君を持たず、独自の社会構造と経済基盤に支えられた、まさに独立王国とも呼ぶべき勢力だったのである。
鉄砲を手に天下に名を轟かせた「雑賀衆」と「根来衆」の実像
彼らの力の源泉は、当時の最新兵器であった鉄砲の大量保有と、それを駆使した高度な戦術にあった。雑賀衆は一説に5,000挺以上もの鉄砲を保有していたとされ、これは並の大名のそれを遥かに凌駕する数であった 2 。一方の根来衆は、根来寺の僧兵集団でありながら、早くから鉄砲の重要性に着目していた。根来寺の僧・津田監物(つだ けんもつ)は、鉄砲伝来後まもなく自ら種子島に渡り、その製法を習得。これを紀伊に持ち帰り、本州で初めて鉄砲の国産化に成功したと伝えられている 1 。
彼らの強さは、単に鉄砲の数が多いというだけではなかった。雑賀衆も根来衆も、鉄砲を効果的に運用するための戦術を完成させ、「戦国最強の鉄砲集団」としてその名を全国に轟かせた 2 。さらに雑賀衆は、紀ノ川河口という地の利を活かし、巧みな操船技術を持つ水軍としても活動した。彼らは漁業や廻船、貿易に従事する一方で、有事には強力な海賊衆として瀬戸内海を席巻し、天正4年(1576年)の木津川口の戦いでは毛利水軍と連携して織田信長の水軍を壊滅させるなど、その軍事力は陸上にとどまらなかった 1 。
これらの武装集団は、戦国大名に雇われる傭兵集団として各地の合戦に参加することも多く、その独立性と専門性の高い軍事力は、彼らを戦国社会における特異な存在たらしめていた 2 。
信長を翻弄した軍事力と、その背景にある自治的社会構造
雑賀衆や根来衆が、天下布武を掲げる織田信長と長年にわたり対立し、時にはその大軍を退けることさえできた理由は、軍事力だけにあるのではない。その背景には、戦国大名の封建的な支配体制とは全く異なる、独自の自治的社会構造が存在した。
特に雑賀の地は、100年近くにわたって特定の支配者を持たない「自由のくに」であったとされる 2 。そこでは、民衆に選ばれた「年寄り衆」と呼ばれる代表者たちによって合議制で物事が決定され、身分による上下関係の薄い、水平的な社会が形成されていた 2 。これは、武力を背景としたピラミッド型の支配構造を築こうとする信長の「天下布武」とは、まさに正反対の社会理念であった。信長に屈することは、彼らが長年守り続けてきた自由で平等な社会の終わりを意味したのである 2 。
石山合戦において雑賀衆が石山本願寺に味方し、信長と10年にも及ぶ抗争を繰り広げたのは、単なる宗教的信条や傭兵としての契約関係を超えた、自らの生き方と社会を守るための存亡をかけた戦いであった 2 。また、僧兵、商人、農民、漁民といった多様な人々が一体となって武装する彼らの存在は、武士と農民を明確に分離しようとする信長の「兵農分離」政策を根底から否定するものでもあった 2 。
この戦いは、単なる領土や覇権をめぐる争いではなかった。それは、中世的な自治共同体社会と、近世的な中央集権国家という、二つの異なる世界の価値観がぶつかり合う、避けられない闘争であった。信長の後継者として天下統一事業を継承した羽柴秀吉にとって、自らが目指す新しい秩序を日本全土に確立するためには、この紀州の独立王国を解体することは、避けては通れない道程だったのである。紀州征伐は、単なる軍事遠征ではなく、新しい時代の到来を告げるための、政治的・社会的な構造改革の始まりを意味していた。
第一章:天下人への反旗 ― 合戦に至る道程
織田信長の死は、日本の政治情勢に巨大な権力の空白を生み出した。その空白を埋めるべく、羽柴秀吉が急速に台頭する中、紀州の独立勢力は自らの存亡をかけた重大な岐路に立たされることとなる。彼らが選んだ道は、新たな天下人への徹底抗戦であった。
本能寺の変後の権力闘争と紀州勢の動向
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が横死すると、それまで信長の圧力によってかろうじて保たれていた雑賀衆内部の均衡は崩壊した。信長と和睦し、その権威を背景に雑賀衆をまとめようとしていた鈴木孫一らの親信長派は、信長という後ろ盾を失ったことで急速に力を失い、雑賀の地から追放されてしまう 1 。
代わって主導権を握ったのは、もともと信長への徹底抗戦を唱えていた土橋氏らの反信長・反中央集権派であった 1 。彼らは、信長の後継者として天下人の地位を確立しつつあった羽柴秀吉に対しても、服属を拒否する強硬な姿勢を崩さなかった。秀吉が目指す中央集権的な支配体制は、彼らが守ろうとする自治独立の理念とは相容れないものであり、両者の対立はもはや避けられないものとなっていた。
小牧・長久手の戦いにおける「反秀吉包囲網」への参加
天正12年(1584年)、秀吉と、織田信雄・徳川家康連合軍との間で小牧・長久手の戦いが勃発すると、紀州勢力はこの千載一遇の好機を逃さなかった。彼らは明確に反秀吉の旗幟を掲げ、家康・信雄と連携する 9 。これは、四国の長宗我部元親や北陸の佐々成政なども加わった、秀吉の支配拠点を東西南から包囲する広域的な「反秀吉包囲網」の一翼を担うものであった 11 。
紀州の根来衆・雑賀衆は、単なる同盟への参加に留まらず、具体的な軍事行動に出る。秀吉の主力軍が東の尾張国で家康と対峙している隙を突き、彼らは大軍を率いて和泉国へ侵攻。秀吉方の大坂防衛の拠点であった岸和田城を攻撃したのである 3 。これは秀吉にとって、本拠地である大坂を直接脅かす深刻な事態であり、背後を突かれた形となった。紀州勢のこの動きは、小牧・長久手の戦いにおいて秀吉を大いに苦しめ、家康が戦局を有利に進める一因ともなった 10 。
秀吉の怒りと紀州征伐の決断
自らが天下分け目の決戦に臨んでいる最中に、本拠地の喉元に刃を突きつけられたことに対し、秀吉は激怒した 11 。小牧・長久手の戦いが、家康との和議という形で政治的に決着し、東方の脅威が一旦沈静化すると、秀吉の目はすぐさま南の紀州に向けられた。
秀吉にとって、紀州勢力の存在はもはや看過できない脅威であった。彼らは、反秀吉勢力の格好の連携相手であり、大坂の安全保障を恒常的に脅かす存在である。さらに、次なる目標として見据えていた四国の長宗我部元親を征伐する上でも、背後に敵対勢力を残しておくことは戦略的に許されなかった 3 。秀吉は、「まず根来一山を滅ぼせば、紀州の他の豪族たちは戦わずして降伏するだろう」と考え、紀州の完全なる制圧、特にその中核である根来寺の徹底的な破壊を決意する 3 。
小牧・長久手の戦いは、秀吉に天下人としての地位を確固たるものにさせたが、同時に、その支配に公然と反旗を翻した紀州勢力の殲滅を、彼の最優先課題として浮上させた。紀州征伐は、小牧・長久手の戦いの延長線上にあり、秀吉が築き上げる天下統一事業において、避けては通れない戦略的必然だったのである。
第二章:両軍の対峙 ― 編成・戦略・そして開戦前夜
天正13年(1585年)3月、春の訪れとともに、紀伊国にはかつてない戦雲が垂れ込めていた。天下人・羽柴秀吉が、その総力を挙げて紀州の独立王国に襲いかかろうとしていた。迎え撃つ紀州勢もまた、存亡をかけて防衛体制を固め、両軍は決戦の時を待っていた。
羽柴秀吉の動員力:10万の大軍の編成と主要武将
秀吉がこの戦いに動員した兵力は、一説に10万とも号する未曾有の大軍であった 1 。これは、彼が織田信長の後継者として畿内を中心に確固たる支配権を確立し、絶大な動員力を手にしたことの証左に他ならない。この圧倒的な兵力は、単に紀州を軍事的に制圧するだけでなく、徳川家康をはじめとする全国の潜在的な敵対勢力に対し、自らの力を誇示する政治的な意図も含まれていた。
軍団の編成は、秀吉配下の「オールスター」とも言うべき陣容であった。総大将は秀吉自身が務め、先鋒軍の主将には甥の羽柴秀次を抜擢。弟の羽柴秀長が後詰として全体を統括し、宇喜多秀家、堀秀政、筒井定次、細川忠興、蒲生氏郷といった有力大名がそれぞれの軍団を率いて参陣した 14 。さらに、小西行長率いる水軍も編成され、海陸両面から紀州を包囲する万全の態勢が整えられた 14 。この豪華な顔ぶれは、秀吉がこの紀州征伐をいかに重要視していたかを物語っている。
紀州勢の防衛戦略:和泉国に築かれた「近木川防衛線」
圧倒的な兵力差を前に、紀州の根来衆・雑賀衆は、自らの本拠地である紀伊国で迎え撃つのではなく、その手前の和泉国南部に前線の防衛ラインを構築する戦略を選択した。彼らは、和泉と紀伊の国境を流れる近木川(こぎがわ)沿いの丘陵地帯に、既存の城砦や館を改修・強化し、相互に連携する一大防衛網「近木川防衛線」を築き上げたのである 15 。
この防衛線の中心となったのは、千石堀城(せんごくぼりじょう)、積善寺城(しゃくぜんじじょう)、沢城(さわじょう)といった複数の城砦群であった 14 。これらの城には、根来・雑賀衆から選りすぐられた約9,000の兵が配置された 14 。彼らの狙いは、地の利を活かし、得意の鉄砲を駆使した籠城戦によって秀吉の大軍の勢いを削ぎ、多大な損害を強いることであった。紀州の地に一歩も踏み入れさせることなく、消耗戦に持ち込み、敵の戦意を挫こうという、寡兵が大軍に挑むための合理的な戦略であった 16 。
【表1:紀州征伐における両軍の兵力と主要指揮官】
軍勢 |
総大将 |
主要武将 |
推定兵力 |
羽柴軍 |
羽柴秀吉 |
羽柴秀次、羽柴秀長、宇喜多秀家、堀秀政、筒井定次、細川忠興、蒲生氏郷など 14 |
約100,000 14 |
紀州連合軍 |
(単一の総大将なし) |
大谷左太仁(千石堀城主)、太田左近(太田城主)など 1 |
和泉防衛線に約9,000、その他紀伊国内に兵力 14 |
この兵力比較は、紀州征伐が当初から一方的な戦力差のもとで始まったことを明確に示している。しかし、それは紀州勢の抵抗が無意味であったことを意味しない。むしろ、この絶望的な状況下で見せた彼らの熾烈な抵抗こそが、この戦いを戦国史に深く刻み込むことになった。秀吉の圧倒的な物量と組織力に対し、紀州勢は局地的な戦闘における武勇と戦術で一矢報いようとしていた。開戦前夜、和泉南部の丘陵地帯には、二つの時代の衝突を予感させる静かな緊張が張り詰めていた。
第三章:合戦の刻 ― リアルタイム・クロニクル(1585年3月〜4月)
天正13年3月21日、羽柴秀吉はついに紀州征伐の火蓋を切った。それは、中世的な独立勢力の息の根を止め、近世的な統一国家の礎を築くための、怒涛の進撃の始まりであった。
第一節:泉州の攻防(3月21日〜22日)
3月21日:千石堀城の激闘
この日、秀吉本隊は大坂城を出陣し、岸和田城に本陣を構えた 14 。一方、先鋒軍を率いる羽柴秀次は貝塚に進軍し、休む間もなく紀州勢の防衛ラインの中核である千石堀城への攻撃を開始した 14 。
若き総大将・秀次は功を焦ったか、城の守りが堅いのをみるや、力攻めを命じた。しかし、城将・大谷左太仁(おおたに さだに)に率いられた根来衆の守備兵は、周到に準備された防御陣地から、雨霰と鉄砲を撃ちかけた 15 。秀次軍は城に近づくことさえままならず、多くの死傷者を出して最初の攻撃は頓挫する 18 。
さらに紀州勢は、巧みな連携を見せる。千石堀城が攻撃を受けているのを見た近隣の高井城もしくは積善寺城から別動隊が出撃し、秀次軍の側面に回り込んで奇襲をかけたのである 18 。得意の鉄砲と弓矢による攻撃に、攻城軍は混乱し、一時的な撤退を余儀なくされた。紀州勢の防衛戦略が、机上の空論ではなかったことを証明した瞬間であった。
3月22日:火薬庫への火矢と防衛線の崩壊
初日の手痛い反撃に、秀次と秀吉軍の諸将は、この城が容易ならざる敵であることを悟った。翌22日、秀吉軍は戦術を改め、総力を挙げた猛攻に転じる。秀次は自らの直属の精鋭部隊である馬廻り衆まで投入し、波状攻撃を仕掛けた 18 。
戦いは凄惨を極めた。秀吉軍は多大な犠牲を払いながらも、物量に物を言わせてじりじりと城壁に迫り、ついに大手門を突破して二の丸を占拠する 18 。この時点で、秀吉軍の損害は1,000人を超えていたともいわれる。
しかし、勝敗を決したのは、 brute force ではなく、一筋の火矢であった。筒井定次配下の伊賀者たちが、城の裏手である搦手(からめて)から本丸に忍び寄り、内部に向けて火矢を放った 18 。このうちの一本が、不運にも城内の火薬庫に命中したのである 15 。
次の瞬間、城は轟音とともに大爆発を起こし、巨大な炎と黒煙が天を突いた。火薬庫の誘爆は城の建造物を吹き飛ばし、守備兵を混乱の渦に叩き込んだ。この機を逃さず、秀吉軍は一斉に本丸へ突入。組織的な抵抗力を失った守備兵は、なすすべもなかった。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、この時、降伏は一切許されず、城内の兵士は一人残らず殲滅されたという 19 。
この千石堀城の、あまりにも劇的で凄惨な落城は、近木川防衛ラインの他の城砦の戦意を完全に粉砕した。最強の拠点が一日にして灰燼に帰す様を目の当たりにした積善寺城と沢城の守備兵は、抵抗を断念。相次いで降伏・開城した 17 。こうして、紀州勢が最後の希望を託した和泉国の防衛ラインは、わずか二日で突破されたのである。
第二節:根来寺炎上(3月23日)
和泉の防衛線を突破した秀吉軍の進撃は、もはや誰にも止められなかった。3月23日、軍勢は風吹峠と桃坂峠を越えて一気に紀伊国へとなだれ込み、根来衆の本拠地である根来寺に殺到した 20 。
しかし、そこに組織的な抵抗はほとんど存在しなかった。根来寺の主力部隊は、すでに前日の千石堀城の戦いで壊滅、あるいは四散していたからである 3 。残っていたのは、わずかな僧兵と非戦闘員の僧侶、そして寺に付属する人々だけであった。
秀吉軍は、この巨大な宗教都市に火を放った。一部には失火であったという説も残るが 21 、結果は同じであった。壮麗な伽藍を誇った大伝法堂や多くの院坊は次々と炎に包まれ、数世紀にわたって紀伊国北部に絶大な権勢を誇った根来寺は、わずか一日で焦土と化した 21 。国宝の大塔(だいとう)など、いくつかの建造物は奇跡的に焼失を免れたものの 24 、根来衆という一大軍事・宗教勢力は、この日をもって事実上、地上からその姿を消したのである。
第三節:太田城水攻め(3月26日〜4月22日)
根来寺が炎上し、紀州勢の主力が壊滅する中、雑賀衆の残存勢力や地域の地侍、そして秀吉軍の乱取り(略奪行為)を恐れた農民たちは、太田左近が城主を務める太田城に結集し、最後の抵抗を試みた 1 。
天下に示す水攻め
太田城は堅固な城であり、力攻めはさらなる損害を出すことが予想された。ここで秀吉は、自らの得意戦術であり、その圧倒的な動員力と組織力を天下に示すのに最も効果的な戦術を選択する。備中高松城、忍城と並び「日本三大水攻め」の一つに数えられる、太田城水攻めである 26 。
3月下旬、秀吉は諸将に命じ、太田城を包囲する巨大な堤防の建設を開始した。その規模は全長6キロメートルにも及び、紀ノ川の水を堰き止め、城の周囲に巨大な人造湖を出現させるという壮大な計画であった 27 。驚くべきことに、この大工事はわずか6、7日という驚異的な速さで完成した 27 。これは、秀吉配下の石田三成や増田長盛といった優れたテクノクラート(技術官僚)の存在と、競争原理を導入して諸大名に普請を競わせるなど、秀吉の巧みなマネジメント能力の賜物であった 29 。
堤防の決壊と攻防
4月9日、満々と水を湛えた堤防は、凄まじい水圧に耐えきれず、一部が決壊するというアクシデントに見舞われる 30 。濁流は眼前に陣を構えていた宇喜多秀家軍を襲い、籠城していた太田城の兵士たちに一時の猶予を与えた。しかし、秀吉は工事担当者を罰することなく、冷静に即時修復を命令。堤防はすぐに元通りとなり、再び城は水の底に孤立した 30 。
秀吉は、この人造湖に安宅船(あたけぶね)などの大型軍船を浮かべ、城壁への砲撃や鉄砲による攻撃を開始した 29 。それは、もはや合戦というよりも、一方的な殲滅戦の様相を呈していた。さらに秀吉は、この光景を一種の政治ショーとして利用する。小牧・長久手の戦いで敵対した織田信雄や、徳川家康の次男で自らの養子とした結城秀康を陣中に招き、この水攻めを見物させたのである 30 。これは、自らの圧倒的な力を誇示し、逆らう者にはいかなる運命が待っているかを、天下に知らしめるための冷徹なパフォーマンスであった。
4月22日:太田城開城
水攻めが始まって約一ヶ月、城内の兵糧は尽き、救援の望みも完全に断たれた。4月22日、太田左近はついに降伏を決断する。開城の条件は、城内の兵士や農民たちの助命と引き換えに、城主・太田左近をはじめとする指導者53名が切腹することであった 31 。
降伏後、指導者たちは自刃し、その首は検分された後に晒された。城は焼き払われ、その跡地は徹底的に破壊されたという 30 。この太田城の陥落をもって、織田信長さえも最後まで屈服させることができなかった雑賀衆は、組織として完全に終焉を迎えた。秀吉の戦いは、単なる軍事的な勝利に留まらなかった。それは、兵站、土木技術、そして心理戦を駆使した、新しい時代の「戦争」の姿であった。紀州の独立王国は、伝統的な武勇ではなく、天下人の圧倒的な国力と組織力の前に、その歴史の幕を閉じたのである。
第四章:戦後処理と紀州の再編
太田城の陥落は、紀州征伐の軍事行動の終結を意味したが、秀吉の真の目的はここから始まった。それは、中世的な独立勢力が割拠した紀伊国を解体し、豊臣政権の支配下に組み込むための、徹底した社会システムの再構築であった。紀州で行われた戦後処理は、後に秀吉が全国で展開する政策の実験場、あるいは原型となったのである。
徹底した武装解除 ― 刀狩りの原型
太田城が開城した際、城内に籠もっていた一般の兵士や農民の命は助けられたが、その降伏条件には極めて重要な一項が含まれていた。それは、彼らが城を去る際に、生活に必要な食料や農具の持ち出しは許されるが、刀や鉄砲などの一切の武器を差し出さなければならない、というものであった 33 。
これは、武装した農民や地侍が自らの共同体を武力で守るという、中世以来の社会常識を根本から覆すものであった。この紀州で発せられた命令は、天正16年(1588年)に秀吉が全国に向けて発布する「刀狩令」の直接的な原型と見なされており、「原刀狩令」とも呼ばれている 34 。秀吉は、武器を武士階級に独占させ、農民を土地に縛り付けて耕作に専念させる「兵農分離」を、この紀州の地から強力に推し進め始めたのである。雑賀衆や根来衆のような、兵と農が一体となった武装集団の存在基盤そのものを、制度的に解体する狙いがあった。
近世城郭「和歌山城」の築城と豊臣政権の支配体制確立
次に秀吉が着手したのは、紀伊国支配の新たな拠点の建設であった。彼は、雑賀衆の本拠地を見下ろす紀ノ川河口の岡山(後の虎伏山)に、近世的な城郭の築城を命じた 35 。この城こそが、現在の和歌山城である。
普請奉行には、築城の名手として名高い藤堂高虎らが任命された 35 。和歌山城は、単なる軍事拠点ではなく、豊臣政権による紀州支配の象徴であり、行政の中心地として設計された。これにより、根来寺や雑賀の諸城といった分散的な権力拠点は過去のものとなり、和歌山城という単一で強大な中央権力のシンボルが、紀州の地に屹立することになった。
城の統治は、秀吉が最も信頼する弟の羽柴秀長に任され、実際の城代としては秀長の重臣である桑山重晴が配置された 35 。これにより、紀伊国は完全に豊臣政権の直轄支配下に組み込まれ、かつての独立性は完全に失われた。
解体された雑賀衆・根来衆のその後
組織としての雑賀衆・根来衆は、この紀州征伐によって完全に消滅した 7 。彼らが持っていた土地や権益は没収され、豊臣政権によって再分配された。
しかし、そこに生きていた人々が全ていなくなったわけではない。生き残った者たちは、それぞれ異なる道を歩むことになった。多くは武器を捨てて農民として帰農した。一方、鉄砲の扱いや戦闘に長けた者たちは、その専門技術を新たな主君に買われることになった。例えば、根来衆の一部は後に徳川家康に召し抱えられ、江戸幕府の鉄砲隊「根来組」としてその名を残した 10 。「雑賀孫一」の名を継いだ人物を含む雑賀衆の一部も、羽柴秀長や他の大名家に仕官し、新しい封建秩序の中で個々の武士として生きていく道を選んだ 40 。
彼らのアイデンティティは、もはや「雑賀衆」「根来衆」という自治的な共同体の一員ではなく、新たな支配体制に組み込まれた個々の家臣へと変貌した。それは、中世的な「一揆」の時代の終わりと、近世的な「藩」の時代の始まりを象徴する出来事であった。紀州の戦後処理は、秀吉がこれから日本全土で作り上げていく新しい社会秩序の、鮮烈なモデルケースとなったのである。
終章:歴史的意義 ― 中世の終焉と近世の黎明
天正13年(1585年)の紀州征伐は、単に一地方を平定した戦いという枠を遥かに超え、日本の歴史における一つの時代の終わりと、新しい時代の幕開けを告げる画期的な出来事であった。この戦いの結果は、戦国時代を通じて日本各地で見られた権力構造を根底から覆し、秀吉による天下統一事業を決定的な段階へと進める上で、極めて重要な意味を持っていた。
寺社勢力・国人一揆の時代の終わり
中世から戦国時代にかけて、根来寺のような巨大寺社や、雑賀衆のような地縁・血縁で結ばれた国人一揆は、大名と並び立つ独立した政治・軍事勢力として、日本の歴史に大きな影響を与えてきた。彼らは独自の経済基盤と武力を持ち、時には中央の権力にさえ公然と反抗した。織田信長が石山本願寺との10年にわたる戦いに苦しんだように、これらの勢力は天下統一を目指す者にとって最大の障害の一つであった。
秀吉による紀州征伐は、この時代に終止符を打った。10万という圧倒的な兵力、そして水攻めという土木技術を駆使した戦術は、もはやいかなる寺社勢力や国人一揆も、統一政権の巨大な国力の前には無力であることを証明した 21 。この戦いは、中世的な自治共同体がその力を失い、近世的な中央集権国家がそれに取って代わる、歴史の大きな転換点として位置づけられる 2 。
秀吉の天下統一事業における紀州征伐の位置づけ
戦略的な観点から見ても、紀州征伐の成功は秀吉の天下統一事業にとって決定的に重要であった。紀州は、秀吉の本拠地である大坂の目と鼻の先にあり、反秀吉勢力にとってはこの上ない活動拠点であった。小牧・長久手の戦いで見られたように、秀吉が東や西に大軍を動かすたびに、背後の紀州勢力がその足元を脅かすという状況は、彼の全国制覇計画における致命的なアキレス腱であった。
紀州を完全に平定し、和歌山城という楔を打ち込むことで、秀吉はついに本拠地の安全を確保した 21 。これにより、彼は後顧の憂いなく、その巨大な軍事力を他の地域へと振り向けることが可能になったのである。
四国、そして九州へ ― 次なる戦いへの序曲
紀州征伐は、それ自体が目的であると同時に、次なる征服戦争への序曲でもあった。紀州勢力と連携していた四国の雄、長宗我部元親は、強力な同盟相手を失い、孤立した。秀吉は紀州平定からわずか2ヶ月後の天正13年6月、弟の秀長を総大将とする10万以上の大軍を四国へ派遣する 13 。背後を固められた今、秀吉の軍事行動に迷いはなかった。
紀州征伐は、秀吉の天下統一事業におけるドミノ倒しの、最初の一個を倒す行為であった。紀州の平定が四国征伐を可能にし、四国の平定がその後の九州征伐へと道を開いた。この一連の征服戦争を通じて、秀吉は名実ともにかつて誰も成し得なかった日本の統一を、現実のものとしていったのである。
戦国最強の鉄砲集団と謳われた雑賀衆・根来衆が、銃弾の応酬ではなく、圧倒的な物量と土木技術によって築かれた堤防の前に屈したという事実は、時代の変化を象徴している。それは、個々の武勇や局地的な戦術の優位性が、国家規模の組織力と経済力の前ではもはや通用しなくなったことを示していた。紀州征伐は、戦国の論理が終わり、近世の論理が始まる瞬間を、鮮やかに切り取った歴史的な戦いであったと言えるだろう。
引用文献
- 織田信長に勝利した戦国一の地侍集団・雑賀衆とは? 紀州の民の力 ... https://www.rekishijin.com/18645
- 紀伊国・雑賀の里 - 和歌山市観光協会 https://www.wakayamakanko.com/img/pdf_saika.pdf
- 根来寺の歴史 - 岩出市 https://www.city.iwade.lg.jp/kanko/negoroji/rekishi.html
- 市長の手控え帖 No.175「日本は鉄砲大国だった!」 - 白河市 https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page008998.html
- 信長と秀吉を悩ませた鉄砲集団の雑賀衆とは?|雑賀衆の成立・衰退について解説【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1144169
- 根来衆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%9D%A5%E8%A1%86
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- 根来衆と雑賀衆の最新兵器鉄砲の威力をいかした戦法! (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/22731/?pg=2
- 淡輪の歴史 織豊時代 - ときめきビーチ http://www.tannowa.or.jp/history06.html
- 根来と雑賀~その⑧ 紀泉連合軍の大阪侵攻 岸和田合戦と小牧の役 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2022/12/16/050650
- 小牧・長久手の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11063/
- ~紀州征伐~ 雑賀衆たちの戦い - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=67HJjzcHQVY
- 秀吉出馬・四国征伐 - 長宗我部盛親陣中記 - FC2 http://terutika2.web.fc2.com/tyousokabe/tyousokabetoha5.htm
- 紀州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
- 秀吉に抗った紀州惣国一揆 - 団員ブログ by 攻城団 https://journal.kojodan.jp/archives/2544
- 千石堀城跡:水間鉄道名越駅から徒歩30分 | 貝塚観光ボランティアガイド協会(大阪府) https://kaizukacity-guide.jp/senngokuborizyou/
- 千石堀城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1917
- 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その② 千石堀城攻防戦 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2022/12/26/131837
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