楽田城の戦い(1584)
楽田城の戦い(1584)は、小牧・長久手の戦いにおける秀吉と家康の対陣。秀吉は楽田城に本陣を置き、圧倒的兵力で小牧山の家康を包囲。家康は堅固な防御で対抗し、秀吉は「三河中入り」作戦を敢行。次代の戦争の形を予見させる戦略的戦いであった。
天正十二年、尾張の対峙 ― 楽田城をめぐる攻防と小牧・長久手への道程
序章:天下への岐路 ― 小牧・長久手の戦い、勃発の背景
本能寺後の権力構造の変化と羽柴秀吉の台頭
天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって織田信長とその嫡男・信忠が横死したことで、織田政権下に統一されつつあった天下は、突如として権力の中枢を失った 1 。この未曾有の危機に乗じ、驚異的な速度で京へ駆け戻り山崎の戦いで明智光秀を討伐したのが、羽柴秀吉であった 1 。続く清洲会議において、秀吉は信忠の遺児・三法師(後の織田秀信)を織田家の後継者として擁立し、自らはその後見役として実権を掌握する道筋をつけた 1 。
翌天正11年(1583年)、信長の三男・信孝を担ぐ筆頭家老・柴田勝家との対立が先鋭化し、賤ヶ岳の戦いでこれを破ると、秀吉の権勢はもはや織田家家臣団の中で突出したものとなった 1 。敗れた勝家と信孝は自害に追い込まれ 1 、秀吉は信長の事実上の後継者として振る舞い始める。その権威の象徴として、かつての石山本願寺の跡地に壮大な大坂城の築城を開始したことは、天下に新たな支配者の登場を印象付けた 3 。
織田信雄と徳川家康の同盟成立
この秀吉の急速な台頭に対し、強い警戒心と不満を抱いたのが、信長の次男・織田信雄であった 1 。信雄は当初、秀吉と協調して兄・信孝を岐阜城に攻め滅ぼすなど 2 、一定の協力関係にあった。しかし、三法師の後見として安土城に入ったものの、すぐに秀吉によって退去させられるなど 1 、その関係は急速に冷却化する。自身の存在が軽んじられ、織田家の家督が事実上秀吉に簒奪されつつある状況に、信雄は危機感を募らせた。
単独では巨大な秀吉勢に対抗できないと判断した信雄は、信長の旧同盟者であり、秀吉の懐柔にも屈しない東海の大実力者、徳川家康に救援を求めた 1 。この両者の接近は、単なる権力闘争に留まらず、二つの異なる正当性の衝突という側面を帯びていた。秀吉が「信長公の仇を討ち、織田家を安定させた」という実績に基づく実力主義の正当性を主張したのに対し、信雄・家康連合は「信長公の血筋」という血統主義の正当性を掲げたのである。この理念の対立は、全国の諸大名がどちらの陣営に与するかを判断する上で、極めて重要な要素となった。
打倒秀吉への大義名分
家康にとって、信雄との同盟は絶好の機会であった。これにより、「主君・信長の遺児を助け、織田家の秩序を乱す逆臣・秀吉を討つ」という、またとない大義名分を得ることができたからである 3 。これにより、秀吉対家康という、事実上の天下分け目の戦いの構図がここに成立した 7 。秀吉の戦略は、緒戦を尾張だけでなく、信雄の領国である伊勢でも同時に開始し 9 、敵の戦力を分散させて多方面から圧迫するという、彼の得意とするものであった。
開戦の引き金 ― 三家老誅殺
両陣営の緊張が頂点に達する中、秀吉は信雄の家老である津川義冬・岡田重孝・浅井長時の三名を内応させる調略を仕掛けた 1 。しかし、この動きを察知した信雄は、天正12年(1584年)3月6日、断固たる処置に出る。三家老を自らの手で誅殺したのである 2 。これは秀吉に対する事実上の宣戦布告であり、もはや外交的解決の道は閉ざされた。この日を境に、両軍は本格的な軍事行動へと突入し、小牧・長久手の戦いの火蓋が切られた。
第一章:尾張への電撃侵攻 ― 池田恒興の犬山城占拠と羽黒の戦い
天正12年3月13日:池田恒興、突如の離反と犬山城無血占拠の真相
戦端が開かれると、秀吉方は迅速に行動を開始した。その中でも、戦局全体に決定的な影響を与えたのが、織田家譜代の宿老・池田恒興の動向であった。恒興は信長の乳兄弟という特別な関係にあり、誰もが信雄方につくと見ていた 11 。しかし、天正12年3月13日、家康が信雄の居城・清洲城に到着したまさにその日、恒興は突如として秀吉方に寝返り、尾張北部の要衝・犬山城を奇襲したのである 11 。
この奇襲が成功した背景には、周到な準備と幸運があった。当時、犬山城主の中川定成は、信雄の命令で伊勢方面へ出陣中であり、城内の守備は極めて手薄であった 14 。一説には、城兵はわずか20数名だったともいう 16 。恒興は夜陰に乗じて軍を進め、城をほぼ無血で占拠することに成功した 12 。
犬山城の戦略的重要性
犬山城は、木曽川を背にした断崖絶壁に築かれた「後堅固」の城であり 17 、美濃と尾張を結ぶ交通の結節点に位置する、極めて戦略的価値の高い拠点であった。この城を失ったことは、信雄・家康連合軍にとって、戦いの主導権を緒戦で失うに等しい痛手であった。秀吉は、家康が尾張に本格的に進出してくる前に、その進軍路上にある最重要拠点を先んじて確保することで、家康の行動の自由を奪い、戦場を自らが望む尾張北部に限定させることに成功したのである。これは、敵の接近を阻み、特定領域への侵入を拒否するという、高度な戦略思想の現れであった。
「鬼武蔵」森長可の南下と焦り
恒興の動きに呼応し、美濃金山城主で「鬼武蔵」の異名を持つ猛将・森長可も3,000の兵を率いて南下、恒興軍と合流した 18 。しかし、長可は犬山城の確保だけでは満足しなかった。手柄を立てることに逸り、さらに南下して、家康が本陣を構える前の小牧山を占拠しようと試みたのである 19 。この突出した行動が、徳川軍に反撃の機会を与えることになった。
3月17日「羽黒の戦い」:徳川軍の奇襲と森長可の敗走
森長可の功名心に駆られた突出と、それに対する家康の冷静かつ迅速な迎撃は、後の長久手の戦いにおける両軍の動きを予見させるものであった。長可の動きを即座に察知した家康は、酒井忠次、榊原康政、奥平信昌ら5,000の兵を羽黒へ急派した 20 。徳川軍は3月17日の夜明けと共に、羽黒・八幡林に布陣していた森軍の本陣を奇襲。不意を突かれた森軍は混乱に陥り、陣形を立て直そうと後退したものの、これが総崩れの引き金となった 20 。徳川軍は別動隊を迂回させて森軍を挟撃し、これを完全に打ち破った 20 。
この「羽黒の戦い」での敗北により 2 、森長可は犬山城へと敗走し、秀吉軍の南下は一旦阻止された。この戦いは、単なる前哨戦ではなく、両軍の指揮官の性格と軍の練度の差を露呈させた。徳川軍の組織的な対応能力の高さが示された一方、秀吉軍の猛将が持つ突出の危うさも明らかになったのである。この結果、両軍は小牧山と、後に秀吉の本陣となる楽田を挟んで対峙する膠着状態へと移行していく 13 。なお、信雄・家康はこの勝利を好機と捉え、実際の戦果を「敵兵1,000を討ち取った」などと誇張して各地に報じ、自軍の優勢を印象付けるためのプロパガンダとしても巧みに利用した 20 。
第二章:楽田対小牧 ― 両雄、対峙す
徳川家康の神速:小牧山への本陣設定
犬山城の失陥という凶報と、羽黒での勝利という吉報を受け、徳川家康は即座に行動を開始した。3月15日には早くも小牧山に駆けつけ 11 、18日には榊原康政に城の大規模な改修を命じた 9 。そして3月28日、家康は正式に小牧山へ本陣を移した 9 。
小牧山は、かつて織田信長が美濃攻略の拠点として築いた先進的な城であり 21 、濃尾平野を一望できる戦略的要衝であった。家康はこの信長の遺産を最大限に活用し、大規模な土塁や空堀を急ピッチで構築させ、小牧山を一大要塞へと変貌させた 23 。信長から軍事思想を継承した二人の武将による「築城術の応酬」が、ここから始まる。家康は、信長の築城術を「質」の面で継承し、堅固な防御陣地を構築することに注力した。
3月27日~28日:羽柴秀吉、大軍を率いて楽田城へ
一方の羽柴秀吉は、3月21日に3万の軍勢を率いて大坂城を出陣 9 。京や近江で兵を合流させ、その総兵力は10万に達したともいわれる 8 。3月27日、秀吉は先鋒隊が確保した犬山城に到着した 9 。しかし、秀吉はそこに留まらなかった。翌28日、本陣を犬山城から約5km南に位置する楽田城へと前進させたのである 4 。
なぜ楽田が本陣に選ばれたのか
秀吉が犬山城から楽田城へ本陣を移したことは、単なる前進ではなく、戦いのフェーズを「侵攻」から「包囲・殲滅」へと移行させるという明確な意思表示であった。木曽川という天然の要害に守られた犬山城に留まることは安全策だが、それでは家康を誘い出すことはできない。あえて平野部の楽田に本陣を構えることで、家康を小牧山に封じ込め、兵力差を活かして包囲下に置き、最終的には野戦に引きずり出して決着をつけるという、極めて攻撃的な戦略意図が読み取れる。
楽田城が本陣として選定された理由は、主に三点考えられる。
第一に、その戦略的位置である。楽田城は犬山城と小牧山城のほぼ中間に位置し、最前線を直接指揮する上で最適の場所であった 26。
第二に、防御力と収容力である。楽田城は永正年間(1504-1521)に築かれた古城を改修したものであり 27、秀吉の大軍を駐屯させる本陣としての十分な防御力とスペースを有していた 14。『武家事紀』には「秀吉ヤカテ楽田二営ヲカマヘ要害ヲナシテ」と記されており 14、堅固な陣地が構築されたことがわかる。また、城の周囲が沼沢地であった可能性も指摘されており、天然の防御地形としても機能したと考えられる 29。
第三に、心理的圧力である。最前線に本陣を押し出すことで、小牧山の家康に対し、秀吉自らが率いる大軍の威圧感を直接的に与える狙いがあった。
両軍の兵力配置と指揮系統
この時点での両軍の兵力差は歴然としていた。秀吉軍が総勢10万 2 とされるのに対し、織田・徳川連合軍は1万6千から2万程度に過ぎなかった 8 。秀吉はこの圧倒的な兵力を背景に、楽田の本陣から諸将を周辺に構築した砦に配置し、小牧山を包囲する指揮系統を確立した。ここに、尾張北部を舞台とした両雄の睨み合い、「楽田対小牧」の対陣が完成したのである。
表1:楽田・小牧対陣に至る詳細年表(天正12年3月6日~29日)
日付 (天正12年) |
羽柴軍の動向 (秀吉方) |
織田・徳川連合軍の動向 (信雄・家康方) |
3月6日 |
- |
織田信雄、秀吉に内通した三家老(津川・岡田・浅井)を誅殺。事実上の宣戦布告となる 9 。 |
3月8日 |
伊勢方面への進軍を開始 9 。 |
徳川家康、浜松城を出陣 9 。 |
3月10日 |
秀吉、大坂城を出陣 9 。 |
- |
3月13日 |
池田恒興・森長可ら、手薄な犬山城を奇襲し占拠 4 。 |
家康、信雄の居城・清洲城に到着。信雄と会同する 4 。 |
3月15日 |
- |
家康、小牧山城を本陣とすることを決定し、駆けつける 4 。 |
3月17日 |
森長可、羽黒に布陣するも、徳川軍の奇襲を受け敗走(羽黒の戦い) 4 。 |
酒井忠次・榊原康政ら、羽黒の森軍を撃破 9 。 |
3月18日 |
- |
家康、榊原康政に小牧山城の改修を命じる 9 。 |
3月21日 |
秀吉、3万の兵を率いて大坂を出発(再掲) 4 。 |
- |
3月27日 |
秀吉、犬山城に到着 4 。 |
- |
3月28日 |
秀吉、本陣を楽田城に移す。二重堀砦などの構築を開始 4 。 |
家康、改修の進む小牧山城に本陣を移す 4 。 |
3.月29日 |
- |
織田信雄、小牧山城に入る。家康、田楽砦を築き軍道を開く 4 。 |
第三章:砦の網と土塁 ― 尾張における陣地戦のリアルタイム展開
羽柴軍の砦ネットワーク
楽田城に本陣を構えた秀吉は、その圧倒的な動員力を駆使して、小牧山を包囲・監視するための広範な砦の網を構築した 14 。これは、信長の軍事革命を「量」の面で継承・発展させたものであり、彼の強大な経済的・政治的基盤を見せつけるデモンストレーションでもあった。
この砦ネットワークは、小牧山に対する多重の圧力線として機能した。最前線には、小牧山に最も近い二重堀砦(守将:日根野弘就) 31 が置かれ、その背後に岩崎山砦(稲葉一鉄) 11 、田中砦(蒲生氏郷、加藤光泰) 33 、小松寺山砦(丹羽長重) 14 などが配置された。さらに、青塚古墳を利用した青塚砦(森長可) 14 や、内久保・外久保砦、小口城、羽黒城などが連携し、鉄壁の包囲網を形成した。これらの砦は単なる防御拠点ではなく、敵陣の動きを昼夜問わず監視するための観測拠点、すなわち「情報戦における目」としても機能した。砦同士の連携により、小牧山と楽田の間の空間は完全に可視化され、大規模な部隊の移動は即座に敵に察知される状況が作り出された。これが、両軍が動くに動けない膠着状態を生み出した物理的な理由である。
徳川軍の防衛線
兵力で劣る家康は、小牧山城を中核とした徹底した防御戦略をとった。小牧山の東側、すなわち秀吉軍が迂回して三河方面へ進出する可能性のある経路上に、蟹清水砦、北外山砦、宇田津砦、田楽砦といった一連の砦(連砦)を構築し、強固な防衛ラインを形成した 20 。これにより、秀吉軍のいかなる侵攻も正面から受け止め、防衛戦に持ち込む態勢を整えた。
日々の攻防の再現(3月29日~4月5日)
楽田と小牧の対陣は、静的な睨み合いだけではなかった。その水面下では、敵の出方を探り、自軍の防衛線を強化するための熾烈な攻防が日々繰り広げられていた。
- 3月29日 : 家康は小牧山と前線をつなぐ兵站線確保のため、田楽砦を築き、軍用道路の整備に着手した 9 。
- 4月2日 : 秀吉軍が小牧山東方の姥ヶ懐に来襲 9 。これは小規模な威力偵察であり、徳川軍の防衛線の強度を探る目的があったと考えられる。
- 4月3日 : 今度は信雄・家康連合軍が動いた。秀吉軍の最前線拠点である二重堀砦に夜襲を敢行 9 。これもまた、敵の警戒態勢や兵の士気を見極めるための攻撃であった。
- 4月4日 : 徳川方の奇襲に対し、秀吉は驚異的な対応を見せる。岩崎山砦と二重堀砦の間に、二十余町(約2.5km)に及ぶ長大な土塁を、わずか一日で築き上げたのである 9 。これは、戦国時代における戦争が、兵士個人の武勇だけでなく、大量の人員を動員して巨大な建造物を構築する兵站・土木能力、すなわち「国力」そのものへとシフトしていることを象徴する出来事であった。
- 4月5日 : この秀吉の動きに対し、家康も即座に対抗。小牧山北麓から八幡塚にかけて土塁を築き、防御をさらに固めた 9 。両軍の対峙は、まさに土木工事の応酬という様相を呈した。
この時期の小競り合いは、決戦を意図したものではなく、互いに相手の戦力や配置を探るための偵察、士気を探るための挑発、そして自軍の防衛線を強化するための時間稼ぎという、複合的な目的を持っていた。
表2:羽柴・織田徳川両軍の主要砦と守将一覧
陣営 |
城・砦名 |
主要守将 |
戦略的役割・特記 |
羽柴軍 |
楽田城 |
羽柴秀吉 |
全軍の本陣 。前線指揮と後方支援の中核 14 。 |
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犬山城 |
池田恒興 |
尾張侵攻の橋頭保。美濃との連絡線確保 14 。 |
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二重堀砦 |
日根野弘就 |
小牧山に最も近い 最前線拠点 。小競り合いが多発 14 。 |
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岩崎山砦 |
稲葉一鉄 |
小牧山を監視する重要拠点。ここから長大な土塁が築かれた 14 。 |
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田中砦 |
蒲生氏郷、加藤光泰 |
小牧山東方を抑える拠点。長久手敗戦後、秀吉が一時入る 33 。 |
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小松寺山砦 |
丹羽長重 |
約8千の兵が駐屯する大規模拠点 14 。 |
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青塚砦 |
森長可 |
羽黒敗戦後に布陣。古墳を利用した砦 14 。 |
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内久保・外久保砦 |
蜂屋頼隆、金森長近 |
楽田城と前線を結ぶ中間拠点。外久保は「太閤山」とも呼ばれる 14 。 |
織田・徳川連合軍 |
小牧山城 |
徳川家康、織田信雄 |
全軍の本陣 。信長の城を改修した一大要塞 24 。 |
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蟹清水砦 |
- |
小牧山東方の防衛ライン(連砦)の一部 20 。 |
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北外山砦 |
- |
小牧山東方の防衛ライン(連砦)の一部 20 。 |
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宇田津砦 |
- |
小牧山東方の防衛ライン(連砦)の一部 20 。 |
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田楽砦 |
- |
小牧山と東方連砦を結ぶ拠点。軍道の起点 9 。 |
第四章:膠着を破る一計 ― 「三河中入り」作戦と長久手への道
動かぬ戦況と池田恒興の献策
楽田と小牧の対峙が始まってから約10日が経過した。家康が構築した小牧山の堅固な防衛線を前に、兵力で圧倒的に優位な秀吉軍も、正面からの力攻めは甚大な損害を被るだけだと判断し、攻めあぐねていた 34 。この膠着状態に、秀吉陣営、特に羽黒の戦いで敗走した池田恒興と森長可は焦りを募らせていた。
この状況を打破すべく、池田恒興が秀吉にある奇策を進言した。それが、後に戦局を大きく動かすことになる「三河中入り」作戦である 25 。その内容は、小牧山で徳川軍主力を引きつけている間に、精鋭からなる別働隊を編成し、大きく迂回して手薄になっているであろう家康の本拠地・三河岡崎城を直接攻撃するというものであった 11 。羽黒の戦いの汚名を返上したいという恒興の強い思いが、この大胆な献策の背景にあった 11 。
秀吉の決断とその戦略的分析
通説では、秀吉はこの作戦の危険性を察知し、当初は難色を示したものの、恒興の度重なる熱心な進言に押されて、ついに承認したとされる 35 。しかし、近年の研究では、この作戦は恒興個人の発案ではなく、秀吉自身が構想していた作戦を、恒興が意を汲んで進言したに過ぎないという説も有力視されている 11 。いずれにせよ、この作戦は、成功すれば家康を小牧山から引きずり出して野戦に持ち込める一方、失敗すれば別働隊が敵地で孤立し、壊滅する危険性を伴う、まさに諸刃の剣であった。
この作戦の承認は、秀吉の家康に対するある種の過小評価と、自軍の機動力への過信の表れであったとも分析できる。秀吉は、家康が小牧山の堅陣に籠る防御的な指揮官であり、敵地である尾張での情報収集能力も脆弱だろうと判断した可能性がある。しかし、家康は地元の地理と人心を完全に掌握しており、その情報網は秀吉の想定を遥かに超えていた。秀吉は、自軍の兵力と勢いを信じるあまり、敵地における情報戦の重要性を見誤るという、基本的な過ちを犯したのである。
4月6日夜半:別働隊、楽田の陣より出陣
天正12年4月6日の夜半、作戦は実行に移された。総大将には秀吉の甥である三好信吉(後の豊臣秀次)が任じられ、池田恒興・元助父子、森長可、堀秀政らを主力とする約2万の別働隊が編成された 36 。彼らは楽田周辺の陣から密かに出陣し、小牧山の徳川軍に察知されぬよう、東の丘陵地帯を大きく迂回して岡崎を目指す進軍を開始した 9 。
楽田の対陣の終焉
この別働隊の出陣をもって、約10日間にわたって続いた楽田と小牧の対峙は、事実上の終焉を迎えた。戦いの焦点は、もはや砦と土塁を挟んだ睨み合いではなく、敵地深くまで侵攻する別働隊の奇襲を防げるか否か、そしてそれに続く新たな決戦へと移っていく。この「三河中入り」作戦こそが、次なる「長久手の戦い」の直接的な引き金となったのである。
結論:楽田の対陣が残した遺産 ― 戦略的意義と後世への影響
「楽田城の戦い」として知られるこの対陣は、大規模な野戦が行われなかったために、しばしば小牧・長久手の戦い全体における前哨戦として扱われがちである。しかし、その戦略的意義を深く考察すると、この対峙こそが戦役全体の帰趨を決定づけた、極めて重要なフェーズであったことがわかる。
第一に、この対陣は戦国時代後期における大規模な 陣地戦・消耗戦の一つの完成形 であった。武将個人の武勇や奇策だけでなく、組織的な動員力、高度な築城・土木技術、そしてそれを支える兵站能力といった総合的な国力が勝敗を左右する時代の到来を象徴していた。秀吉が見せた圧倒的な動員力と、それに対し家康が示した堅実な防御戦術の応酬は、まさに次代の戦争の形を予見させるものであった。
第二に、この対陣は、結果として 徳川家康の戦術的勝利を誘発した 。圧倒的兵力差を前に、家康は冷静に防御を固め、決して焦らなかった。一方、攻めあぐねた秀吉方は、この膠着状態を打開するために「三河中入り」というハイリスクな作戦を選択せざるを得なくなった。家康は、この敵の焦りを誘い、巧みに反撃の機会を掴んだのである。楽田での粘り強い防御がなければ、長久手での劇的な勝利はあり得なかった 35 。
この長久手での局地的な勝利により、家康は天下にその武威を知らしめることに成功した。最終的に政治的には秀吉に臣従することになるが、軍事的には一度も敗れなかったという事実が、豊臣政権下において彼が別格の地位を保つための大きな礎となった 18 。
徳川家康にとっては、圧倒的劣勢の中で冷静に戦況を分析し、敵の焦りを誘って好機を掴むという、彼の真骨頂が存分に発揮された戦いであった。一方、羽柴秀吉にとっては、物量で圧殺する戦い方が常に通用するわけではないという貴重な教訓を得た戦いであった。この経験が、後の彼の対家康政策に、より慎重で周到なアプローチをもたらしたことは想像に難くない。
結論として、「楽田城の戦い」は、長久手の戦いの影に隠れた単なる睨み合いではない。それは、天下統一への道程における、両雄の知略、戦略、そして国力が激突した、静かながらも熾烈な戦場だったのである。
引用文献
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- 小牧・長久手の戦い|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents2_01/
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- 小牧・長久手の戦い - 一般社団法人 長久手市郷土史研究会 https://nagakutekyoudoshi.hatenablog.com/entry/2023/09/16/192208
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- 小牧・長久手の合戦 http://www.city.komaki.aichi.jp/admin/soshiki/kyoiku/bunkazai/1_1/2/bunkazai/9162.html
- 長久手古戦場物語 https://www.city.nagakute.lg.jp/soshiki/kurashibunkabu/shogaigakushuka/4/nagakutenorekisibunnka/3915.html
- 小牧・長久手の戦い https://www.city.nagakute.lg.jp/material/files/group/14/sisekimeguriomote.pdf
- 小牧長久手の戦い - 名古屋市博物館 https://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/owari_joyubi_news/komaki_nagakute/