最終更新日 2025-08-28

水俣城の戦い(1587)

天正十五年、九州平定にて水俣城は戦わずして開城。秀吉本隊の南下と秀長軍の根白坂での勝利、そして豊臣水軍の海からの包囲により、薩肥国境の要衝は孤立。島津の野望を挫き、戦国戦争の質的転換を告げし一戦なり。

天正十五年 水俣城の戦い - 九州平定における薩肥国境の戦略的転換点

序章: 天下人の視線、薩摩へ

天正15年(1587年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。織田信長が本能寺に倒れた後、その天下統一事業を継承した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いを経てライバルを次々と排し、関白に就任することで名実ともに日本の最高権力者の地位を確立していた 1 。四国を平定し、その視線は西の果て、九州へと注がれていた。

当時の九州は、長年にわたる動乱の末、三つの勢力に収斂されつつあった。北部の豊後国を拠点とする大友氏、西部の肥前国に覇を唱える龍造寺氏、そして南部の薩摩国から燎原の火のごとく勢力を拡大する島津氏である。しかし、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津軍に討たれ、また天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗を喫して以降、九州の軍事バランスは急速に島津氏へと傾斜していた 3

九州統一を目前にした島津義久の快進撃に対し、存亡の危機に立たされた大友宗麟は、最後の望みを託して大坂の秀吉に救援を要請する 1 。これに応じた秀吉は、天正13年(1585年)10月、関白の権威をもって九州の諸大名に対し「惣無事令」(私戦停止命令)を発した 2 。これは単なる停戦勧告ではなかった。全国の私的な戦闘行為を禁じ、領土問題はすべて豊臣政権の裁定に委ねるという、新しい天下の秩序を地方大名に認めさせるための高度な政治的手段であった 4

劣勢の大友氏はこの命令に飛びついたが、九州制覇の野望に燃える島津義久はこれを事実上黙殺し、「頼朝以来の名門たる島津が、秀吉のごとき成り上がり者を関白として礼遇しない」との強硬な姿勢を示した 2 。この返答は、秀吉に「朝廷の権威に背く逆徒を征伐する」という、この上ない大義名分を与える結果となる。ここに、戦国時代最後の、そして最大規模の方面作戦である「九州平定戦」の幕が切って落とされた。本稿で詳述する「水俣城の戦い」は、この壮大な戦略の中で、九州の覇者・島津氏の心臓部である薩摩本国への最終的な侵攻ルートを確保する上で、決定的な意味を持つ一局面であった。それは、物理的な戦闘の激しさではなく、戦わずして勝敗が決した戦略的転換点として、日本史にその名を刻むことになる。

第一章: 九州の覇者・島津氏と豊臣政権の対峙

水俣城での対峙に至る背景には、二つの巨大な力の衝突があった。一つは、南九州の地から実力で九州の頂点に立とうとする島津氏の軍事力。もう一つは、中央から圧倒的な物量と国家規模の戦略で天下を統一しようとする豊臣政権の総合力である。

1. 島津四兄弟による九州席巻の軌跡

島津氏の強大化を支えたのは、稀代の結束を誇った島津四兄弟の存在であった。当主として大局的な戦略と政治を司る長兄・義久、戦陣における勇猛さと指揮能力で「鬼島津」と恐れられた次兄・義弘、知略と粘り強い交渉力に長けた三兄・歳久、そして戦術の天才と評された末弟・家久。この四者がそれぞれの個性を発揮し、見事な連携を見せることで、島津家は破竹の快進撃を続けた 3

彼らの戦術的核となったのが、寡兵で大軍を破ることを可能にした得意戦術「釣り野伏せ」であった 8 。これは、中央の部隊が意図的に敗走して敵を誘い込み、左右に潜ませた伏兵で包囲殲滅するという高度な戦術であり、耳川の戦いや沖田畷の戦いにおいて、大友・龍造寺という九州の二大勢力を壊滅させる原動力となった 3

これらの勝利により、島津氏は薩摩・大隅・日向の「三州統一」を達成 3 。その後も北上を続け、天正15年(1587年)の時点では、九州のほぼ全域をその支配下に収めようとしていた 9 。その勢いはまさに頂点に達しており、彼らにとって豊臣政権の介入は、長年の宿願達成を阻む「横やり」に他ならなかった。

2. 九州征伐の発令と豊臣軍の動員

島津氏が惣無事令を無視し、大友領への侵攻を再開したことで、秀吉の決断は下された。天正15年(1587年)1月1日、秀吉は石田三成ら奉行衆に対し、兵員25万人、兵糧30万人分、馬飼料2万頭分という、前代未聞の規模の動員準備を命じている 2 。これは、島津氏を単なる一地方大名としてではなく、国家の総力を挙げて討伐すべき敵と認識していたことの証左である。

秀吉が立案した九州平定の基本戦略は、壮大な二正面作戦であった。秀吉自身が率いる約15万の主力部隊が筑前から肥後国を南下して薩摩の西側を目指す一方、異父弟の豊臣秀長を総大将とする約10万の別動隊が豊後から日向国を南下し、薩摩の東側を突くという計画である 11 。この二つの巨大な鉄の腕で、九州を南北に挟撃し、島津軍の兵力を分散させ、各個撃破を狙うという、極めて高度な戦略であった。

その陣容は、まさに「オール豊臣」と呼ぶにふさわしいものであった。秀吉本隊には蒲生氏郷、前田利家といった織田旧臣や子飼いの武将が連なり、秀長軍には黒田孝高(官兵衛)を軍監とし、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家といった中国・四国の巨大大名が組み込まれていた 1 。この対決は、もはや戦国時代に見られたような、戦術の巧拙で勝敗が決する合戦の次元を超えていた。それは、戦術的熟練度は高いが国力に限界のある「地域大国」島津氏と、個々の戦闘以上に圧倒的な兵力と兵站(ロジスティクス)で敵を圧殺する「中央集権国家」豊臣政権との、戦争の質そのものの違いを問うものであった。水俣城で繰り広げられる攻防は、この構造的差異が最も明確な形で現れることになる。

第二章: 肥後を呑み込む二つの潮流 - 豊臣軍の進撃

水俣城の運命は、豊臣軍の二つの巨大な進撃路、すなわち秀吉本隊が辿った西路と、秀長軍が進んだ東路の戦況によって、城に軍勢が到達する以前から決定づけられていた。島津軍の防衛線は、この二つの潮流によって、為すすべもなく無力化されていったのである。

1. 秀吉本隊の進路:筑前から八代へ至る道

天正15年(1587年)3月29日、秀吉本隊は九州の玄関口である豊前小倉に上陸した 11 。ここからの進撃は、圧倒的な物量と速度を誇った。4月1日、先鋒の蒲生氏郷と前田利長は、島津方に与する秋月氏の岩石城を攻撃。標高450メートルの堅固な山城であったが、豊臣軍は大量の鉄砲を投入し、わずか1日で陥落させた 11 。この報に衝撃を受けた秋月種実は、4月4日に戦わずして降伏。名物茶器「楢柴肩衝」を献上して恭順の意を示した 1

これを皮切りに、北九州の島津方勢力は雪崩を打って降伏し、秀吉本隊は肥後国へと進撃路を向けた。その進軍速度は驚異的であり、4月16日には肥後の中心地である隈本城(現在の熊本城)に、そして4月19日には肥後南部の拠点である八代城に無血で入城した 4 。島津氏が薩摩防衛の最後の砦と位置づけていた水俣城は、秀吉の大軍の前に風前の灯火となった。

2. 東路の激戦「根白坂の戦い」とその影響

秀吉本隊が肥後を南下している頃、東路を進む豊臣秀長軍は、九州平定戦における事実上の決戦に臨んでいた。4月6日、秀長軍は日向国の要衝・高城を10万の大軍で包囲 11 。これに対し、島津当主・義久と義弘は、救援のため約2万の主力軍を率いて出陣した。

島津軍の救援経路を正確に予測した秀長と黒田官兵衛は、高城の南方に位置する根白坂に堅固な砦を築き、鉄砲隊を配置して待ち構えた 15 。4月17日の夜、島津軍はこの砦に夜襲を敢行するも、豊臣軍の周到な準備と圧倒的な火力の前に大敗を喫した。この「根白坂の戦い」で、島津軍は一族の島津忠隣をはじめとする多くの将兵を失い、野戦における組織的抵抗能力を完全に喪失した 11

この敗北が持つ戦略的意味は計り知れない。西路で秀吉本隊の南下を食い止めるべき肥後国境の守備隊にとって、唯一の希望は後方の主力部隊による救援であった。しかし、その主力部隊が根白坂で壊滅したという情報は、数日のうちに肥後国境線に伝播したはずである。北からは秀吉の、南からは秀長の圧倒的な大軍が迫る中、後詰めの望みを完全に絶たれた水俣城の将兵は、戦略的に完全に孤立した。物理的な包囲が完成する以前に、情報戦と心理戦の段階で、水俣城の抵抗意欲は事実上、根こそぎ奪われていたのである。この絶望的な状況こそが、水俣城の「静かなる陥落」を準備した最大の要因であった。

第三章: 水俣城、静かなる陥落 - 時系列による再構成

利用者様の「合戦中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」というご要望に応えるべく、本章では水俣城が無血開城に至るまでの天正15年4月19日から26日にかけての8日間を、陸海両面からの動きを統合し、詳細な時系列で再構築する。この期間の出来事の連鎖は、大規模な戦闘がなくとも、いかにして城の運命が決定づけられたかを見事に示している。

1. 国境の要衝・水俣城の地政学的価値

水俣城は、肥後国と薩摩国を分かつ国境線上に位置する、極めて重要な戦略拠点であった。薩摩側から見れば本国を守る北の玄関口であり、肥後側から見れば薩摩侵攻の橋頭堡となる天然の要害である 18 。その重要性ゆえに、この城は古くから相良氏と島津氏による争奪の的となってきた。天正9年(1581年)、島津義久は大軍を率いてこの城を攻略し、当時の城主であった相良氏の重臣・犬童頼安を退け、島津の支配下に置いた 20 。以来、水俣城は島津氏による肥後支配と、さらなる北上作戦の重要拠点として機能していた。九州平定戦の時点では、島津義弘が城主であったとも、あるいは伊集院忠棟が地頭として在城していたとも考えられている 26

2. 水俣城の戦いにおける両軍の編成(推定)

正確な兵力数を示す一次史料は限定的であるが、各種記録から当時の両軍の戦力を推定すると、その差は歴然としている。

陣営

区分

指揮官・主要武将

推定兵力

備考

豊臣軍

陸上部隊(本隊)

総大将:豊臣秀吉 主要武将:蒲生氏郷、前田利家、細川忠興、堀秀政など

100,000以上

肥後国を南下し、水俣城に直接圧力をかけた主力。

水軍部隊

九鬼嘉隆、脇坂安治、小西行長、加藤嘉明など

数千~10,000

海路から島津氏の背後を突き、戦略的包囲網を完成させた。

島津軍

水俣城守備隊

城将:伊集院忠棟(地頭)または島津義弘配下の城代

数百~1,500程度

根白坂の敗報により後詰めの望みは絶たれていた。

この表が示すように、城方の島津軍は、豊臣軍の陸海合わせた圧倒的な兵力の前に、戦術的な抵抗すら困難な状況に置かれていた。

3. 【時系列解説】天正十五年四月十九日~二十六日

  • 四月十九日: 豊臣秀吉本隊、八代城に入城 11 。水俣城まで直線距離で約40kmにまで迫り、城内の緊張は最高潮に達する。これに先立つ17日には、東路の根白坂で島津軍主力が壊滅しており、その報は既に水俣城にも届いていた可能性が高い。
  • 四月二十日~二十三日: 秀吉は八代に滞在。軍勢を休ませると同時に、肥後南部の戦後統治体制の構築に着手する。宇土城に加藤清正、八代城に福島正則を配置するなど、占領地の行政管理を迅速に進めた 4 。これは、単なる軍事行動ではなく、占領と同時に統治を確立していく秀吉の近世的な統治能力の高さを示すものであり、水俣城の将兵に「豊臣の支配は揺るがない」という心理的圧力を与えた。
  • 四月二十四日:【決定的瞬間① 海からの包囲】 秀吉の陸上部隊が八代に留まっている間に、戦局を決定づける動きが海で起こった。小西行長、脇坂安治らが率いる豊臣水軍の先鋒隊が、海路を南下して薩摩国出水(いずみ)の沿岸に到達したのである 13 。これは、水俣城を完全に飛び越えて、その背後、すなわち薩摩本国との連絡線を脅かす画期的な戦略機動であった。これにより、水俣城は北の陸路だけでなく、南の海路からも封鎖され、戦略的に完全に孤立した。
  • 四月二十五日:【戦略的価値の無力化】 豊臣水軍はさらに南下し、薩摩の中心部を流れる川内川(せんだいがわ)の河口、京泊港に到達。上陸して橋頭堡となる陣城の構築を開始した 13 。もはや水俣城は、薩摩防衛の最前線としての意味を失った。敵は既に城の遥か後方、本国の心臓部にまで達していたからである。この時点で、水俣城に籠城し続けることは、戦術的にも戦略的にも全く無意味となった。
  • 四月二十六日:【静かなる開城】 陸路を進んできた秀吉本隊が、満を持して水俣に到達 13 。城方は、北に秀吉の10万を超える大軍、南に出水・川内を抑える豊臣水軍という、絶望的な戦略的包囲下に置かれていた。抵抗は無意味と判断され、城は一切の戦闘を行うことなく開城。秀吉は無血で水俣城に入城し、薩摩侵攻の最後の障害は、一滴の血も流すことなく取り除かれた。

4. 九州平定戦(西路軍)と水俣城の戦い 主要時系列表

日付(天正15年)

場所

出来事

戦略的意義

4月17日

日向国 根白坂

豊臣秀長軍が島津義久・義弘の主力軍を撃破(根白坂の戦い)。

島津軍の野戦能力が壊滅。水俣城への後詰めの可能性が消滅。

4月19日

肥後国 八代城

豊臣秀吉本隊が八代城に入城。

水俣城への物理的圧力が開始される。

4月24日

薩摩国 出水沖

豊臣水軍の先鋒隊が海路から出水に到達。

水俣城が海路からも包囲され、戦略的孤立が決定的に。

4月25日

薩摩国 川内川河口

豊臣水軍が上陸し、陣城を構築。

水俣城が戦略的に無力化される。

4月26日

肥後国 水俣城

豊臣秀吉本隊が水俣に到達。水俣城は戦わずして開城。

薩摩本国への進撃路が完全に確保される。

第四章: 決着 - 島津の降伏と九州の新秩序

水俣城の無血開城は、九州平定戦の最終局面の始まりを告げる号砲であった。薩摩と肥後の国境が突破されたことで、戦局は島津氏の全面降伏へと一気に傾斜していく。

1. 薩摩本国への侵攻と最後の抵抗

水俣を越えた秀吉軍は、翌4月27日には薩摩国出水に到達 13 。いよいよ島津氏の本拠地への侵攻が本格化した。薩摩国内では、平佐城などで桂忠昉らが小西行長軍に対して激しい抵抗を見せるなど、散発的な戦闘は発生した 2 。城内の女性や子供までもが懸命に戦ったと伝えられるが、これらはもはや組織的な防衛とは言えず、大局を覆すには至らなかった。島津氏の防衛線は、根白坂の敗北と水俣城の開城によって、既に崩壊していたのである。

2. 泰平寺の会見:島津義久、秀吉に降る

5月3日、秀吉は薩摩の中心地である川内に進軍し、泰平寺に本陣を構えた 11 。万策尽きた島津義久は、降伏を決意する。5月8日、義久は自ら剃髪して僧形となり、家老の伊集院忠棟を伴って泰平寺の秀吉のもとへ出頭した 3 。この歴史的な会見において、義久は正式に秀吉に降伏。ここに、九州のほぼ全土を席巻した島津氏の野望は潰え、秀吉による九州平定は事実上、終結した。

3. 和平交渉の立役者:伊集院忠棟の功罪

この降伏交渉において、中心的な役割を果たしたのが、島津家筆頭家老の伊集院忠棟であった 3 。彼は早くから豊臣軍との圧倒的な兵力差を認識し、島津家の存続のためには早期の和睦が不可欠であると主張していた 30 。自ら人質となって上洛し、戦後処理にあたるなど、島津家の滅亡を回避するために奔走した。

しかし、彼の現実的な行動は、島津家内部、特に徹底抗戦を主張していた武断派からは「主君を裏切り、豊臣に媚を売った佞臣」と見なされた。薩摩藩が後に編纂した『本藩人物誌』では、忠棟は「国賊」として記録されている 32 。一方で、江戸時代中期の儒学者・新井白石は著書『藩翰譜』において、「九州征伐後の島津家の滅亡を救った忠義の者である」と高く評価しており、その評価は大きく分かれている 32

この評価の相克は、後に悲劇を生む。豊臣政権とのパイプ役として重用された忠棟は、家中で権勢を強めるが、これが島津家内部の軋轢を激化させた。結果として、慶長4年(1599年)、忠棟は島津義弘の子であり次期当主の忠恒(後の家久)によって、伏見の島津邸で斬殺されるのである 30 。外部の巨大な権力によってもたらされた和平が、旧来の家臣団内部の力学や感情の対立を解消できず、新たな悲劇の火種となったことを、この事件は物語っている。

4. 戦後処理:九州国分けと水俣城のその後

九州を平定した秀吉は、筑前博多において戦後処理、すなわち「九州国分け」を実施した。島津氏に対しては、当主・義久に薩摩一国、弟・義弘に大隅国と日向国の一部を安堵するという、比較的寛大な処分が下された 2 。これにより島津家は存続を許されたものの、九州の覇権は完全に失い、豊臣政権下の一大名として組み込まれることになった。

一方、薩肥国境の要衝であった水俣城の運命は、時代の変化を象徴していた。戦後、城は秀吉の直轄領とされ、その後、寺沢広高、小西行長、そして加藤清正と、目まぐるしく領主が変遷した 20 。しかし、天下が統一され、大名間の大規模な戦争が終焉を迎えると、国境の城としての軍事的価値は失われていく。そして慶長17年(1612年)、江戸幕府の命により、水俣城は宇土城などと共に破却され、その歴史的役割を終えた。戦国の争乱の中で幾多の攻防の舞台となった城は、新しい時代の到来と共に静かに姿を消したのである。

結論: 水俣城の戦いが持つ歴史的意義

天正15年(1587年)の「水俣城の戦い」は、その名に反して、大規模な戦闘が行われなかったという点において、極めて特徴的な歴史的事件である。しかし、その歴史的意義は、血なまぐさい攻城戦以上に深い。この一件は、戦国時代の終焉と近世の到来を告げる、いくつかの重要な転換点を象徴している。

第一に、 戦争の質的転換の象徴 であったことである。島津氏は、「釣り野伏せ」に代表されるように、戦場における戦術的熟練度では当代随一の軍団であった。しかし、豊臣秀吉が展開したのは、個々の戦闘の巧拙を超えた、総合的な戦争遂行能力であった。20万を超える圧倒的な兵力動員、東西二正面からの戦略的挟撃、陸上部隊と水軍部隊の巧みな連携、そしてそれらを支える巨大な兵站網。これらの前に、島津氏の勇猛さは発揮される機会すら与えられず、無力化された。水俣城の無血開城は、戦国時代的な「戦闘の勝利」を目指す戦争から、近世的な「戦略による勝利」を目指す戦争へのパラダイムシフトを明確に示した出来事であった。

第二に、 九州の軍事バランスの決定的崩壊点 であったことである。薩摩と肥後を分かつ最後の物理的・心理的障壁であった水俣城が戦わずして開かれたことで、島津氏の組織的抵抗は事実上終焉した。これは、九州統一という島津氏の長年の夢が完全に断ち切られた瞬間であり、九州全土が豊臣政権という中央の権力構造に組み込まれることを決定づけた。

総じて、「水俣城の戦い」は、華々しい合戦こそなかったものの、豊臣秀吉による天下統一事業が最終段階に入ったことを示す重要な一里塚であった。薩肥国境の要衝が静かにその門を開いたことは、一個の城の陥落に留まらず、一つの時代が終わり、新たな秩序が日本全土を覆い尽くしたことを告げる、静かな、しかし決定的な鐘の音だったのである。

引用文献

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