最終更新日 2025-08-29

犬居城の戦い(1572)

犬居城の戦い(1572)は武田信玄の西上作戦に伴う天野藤秀の無血開城。武田軍は迅速に南下し、三方ヶ原の戦いの遠因に。

犬居城の戦い(1572)の史的再検証 — 無血開城から遠州攻防の最前線へ

序論:犬居城を巡る通説と史実の乖離

元亀三年(1572年)、武田信玄による遠江侵攻の過程で、要衝・犬居城が武田方の手に落ち、三方ヶ原の戦いの前夜における緊張を高めた、という見解は広く知られている。しかし、この出来事を「犬居城の戦い」と称する通説は、歴史の複雑な実態を必ずしも正確に反映しているとは言えない。史料を丹念に読み解くと、1572年における犬居城の移行は、戦闘を伴う「攻略」ではなく、城主・天野藤秀(景貫)による戦略的な恭順、すなわち「無血開城」であったことが明らかになる 1

一方で、実質的な戦闘行為を伴う「犬居城の戦い」と呼ぶにふさわしい攻防戦は、その二年後の天正二年(1574年)に、徳川家康が仕掛けた報復戦において発生している 2 。この戦いで徳川軍は、天候不順と地の利を活かした天野軍の前に手痛い敗北を喫した。

このように、犬居城を巡る歴史は、性質の全く異なる二つの重要な出来事がしばしば混同されて語られてきた。本報告書は、この元亀三年(1572年)の「無血開城」と天正二年(1574年)の「攻防戦」を明確に区別し、それぞれを詳細な時系列に沿って再構成することを目的とする。これにより、戦国時代の遠江国、特に北遠地域における地政学的要衝として、犬居城が果たした真の役割と、大国の狭間で翻弄された国人領主・天野氏の苦難に満ちた選択の実像を、多角的な視点から再検証するものである。

第一章:戦略的要衝・犬居城と国人領主・天野氏の苦境

第一節:北遠の地政学 — 犬居城の地理的・戦略的重要性

犬居城は、現在の静岡県浜松市天竜区春野町に位置し、遠江国と信濃国を結ぶ重要な交通路、通称「塩の道」を扼する戦略的要衝であった 5 。城は気田川と犬居川に三方を囲まれた標高約255メートルの行者山に築かれ、天竜川水系の交通を監視・支配する上で絶好の立地を誇っていた 6

この地理的条件は、戦国後期の二大勢力にとって極めて重要な意味を持っていた。甲斐の武田氏にとって、犬居城は遠江・三河方面へ南進するための橋頭堡であり、兵站線を確保する上で不可欠な拠点であった。一方、三河から遠江へと勢力を伸長する徳川氏にとっては、北からの武田軍の侵攻を防ぐ最前線の防波堤であり、北遠地域の国人衆を掌握するための鍵となる城であった 8 。犬居城の帰趨は、遠江全体の支配権を左右するほどの重みを持っていたのである。

第二節:山城の構造 — 天然の要害と武田流改修の痕跡

犬居城は、その構造においても特筆すべき堅城であった。城の東側は気田川に臨む断崖絶壁となっており、容易に兵を寄せ付けない「天嶮の要害」であった 6 。自然地形を巧みに利用した縄張りは、小規模ながらも高い防御力を有していた 6

さらに注目すべきは、武田氏の支配下に入った後に施されたとされる大規模な改修の痕跡である。城の防御の要となる東側の虎口(出入り口)周辺には、馬出し、横堀、竪堀、そして内枡形状の土塁といった、武田氏が得意とした築城術、いわゆる「武田流」の技巧的な構造が集中して見られる 7 。これらの改修は、明らかに南方の徳川軍との戦闘を想定したものであり、犬居城が単なる国人の居城から、対徳川戦線のための高度な軍事要塞へと機能転換されたことを物語っている 7 。特に、虎口の前面に設けられた「馬出し」と呼ばれる小郭は、出撃する兵の拠点となると同時に、敵の直線的な突入を防ぐための重要な防御施設であった 6

第三節:天野氏の系譜と苦悩 — 大国の狭間で揺れる国人領主

この要衝を本拠とした天野氏は、鎌倉時代に地頭としてこの地に入部して以来、数百年にわたり北遠地域に覇を唱えてきた名門国人領主であった 2 。戦国時代には駿河の今川氏に属し、その有力な被官として勢力を保っていた 7

しかし、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いで主君・今川義元が討死すると、天野氏の運命は大きく揺らぎ始める。今川氏の衰退というパワーバランスの激変は、遠江を徳川家康と武田信玄という二大勢力の角逐の場へと変えた。城主であった天野藤秀は、生き残りを賭けて絶妙かつ危険な外交を展開する。彼は今川領への侵攻を開始した徳川家康の調略に応じて従属する一方で 7 、北から遠江へ侵入した武田方の将・秋山虎繁(信友)を手引きするなど、武田方とも密かに通じていたのである 3

この行動は、単なる日和見主義と断じることはできない。巨大な庇護者を失い、二つの大国に挟まれた在地領主が、自らの所領と一族を守るために取りうる、極めて合理的な生存戦略であった。どちらか一方に完全に与すれば、もう一方からの即時侵攻を招く。両者と通じることで、天野藤秀は一種の緩衝地帯としての地位を保ち、最終決断の時を先延ばしにしようと図ったのである。彼の「三枚舌外交」は、戦国時代の国人領主が置かれた普遍的な苦境と、彼らの政治的リアリズムを如実に示している。

第二章:元亀三年(1572年)— 武田信玄の西上作戦と犬居城の無血開城

第一節:西上作戦、始動(10月3日〜10日)

元亀三年(1572年)9月、将軍・足利義昭が発した織田信長討伐の呼びかけに応じる形で、武田信玄は遂に大規模な軍事行動を開始する 1 。世に言う「西上作戦」である。信玄は軍を三つに分け、山県昌景隊を三河へ、秋山虎繁隊を美濃へ先行させ、同年10月3日、信玄自らが率いる2万5千(一説には3万)の大軍本隊が甲府を出陣した 1

信玄本隊は信濃国から青崩峠を越え、10月10日には徳川家康の領国である遠江へと侵攻を開始した 1 。この圧倒的な軍事力の接近は、これまで両属の姿勢を保ってきた天野藤秀に対し、最後の決断を迫る直接的な圧力となった。

第二節:天野藤秀の決断(10月10日前後)

眼前に迫る武田の大軍を前に、天野藤秀は徳川方として犬居城に籠城し、抵抗するという選択肢を捨てた。それは、堅城である犬居城をもってしても、武田本隊の猛攻を防ぎきれる見込みが薄いという現実的な判断と、かねてより水面下で続いていた武田方からの誘いに応じるという戦略的判断が結びついた結果であった 2

藤秀は、武田軍が遠江に侵入すると即座に寝返り、信濃・遠江国境の青崩峠まで信玄を出迎えて恭順の意を示し、その軍勢の先導役を務めた 1 。これは、抵抗して滅ぼされるよりも、積極的に協力することで武田政権下での地位を確保し、領内の安寧を図ろうとする、国人領主としての現実的な選択であった。

第三節:武田軍、犬居城入城と前線拠点化(10月中旬)

天野藤秀の恭順により、犬居城は一切の戦闘なくして武田軍の手に渡った。これにより、犬居城は徳川領侵攻の最前線拠点へとその役割を劇的に変えることとなる。信玄はこの城をベースキャンプとし、ここから遠江・三河方面への侵攻作戦を指揮した 1

この無血開城は、武田信玄の西上作戦全体において、決定的に重要な意味を持っていた。もし天野藤秀が籠城していれば、武田軍は「要害」である犬居城の攻略に多大な時間と兵力を費やすことを余儀なくされたであろう。しかし、無血開城によって、信玄は攻城戦による兵力の損耗を回避し、補給路の安全を確保し、さらには現地に精通した天野氏という案内役を得ることができた。何よりも、作戦遂行に不可欠な「時間」を大幅に節約できたのである。

第四節:次なる一手へ — 二俣城への道

犬居城を確保した信玄は、間髪入れずに次の軍事行動に移る。彼は城内で軍議を開き、重臣の馬場信春に5,000の兵を預けて西方の只来城へ向かわせ、そのまま南進して遠江支配の要である二俣城の攻略を命じた 1

犬居城という安全な前進基地を得たことで、武田軍は徳川家康の予想を遥かに上回る速度で南下することが可能となった 1 。この迅速な進軍こそが、偵察に出た本多忠勝らの徳川軍を捕捉した一言坂の戦いを引き起こし、二俣城を迅速に包囲する成功へと繋がっていく。三方ヶ原の戦いに至る武田軍の圧倒的優位は、まさに犬居城の無血開城という、戦わずして得た大きな戦略的アドバンテージから始まっていたのである 19


表:「犬居城」を巡る二つの重要事象の比較

本報告書の中核をなす元亀三年(1572年)の「無血開城」と天正二年(1574年)の「攻防戦」の違いを明確にするため、以下の表にその要点を整理する。

項目

元亀三年(1572年)の出来事

天正二年(1574年)の出来事

通称

犬居城の 無血開城

犬居城の戦い

主要人物(攻勢側)

武田信玄

徳川家康

主要人物(城主)

天野藤秀(景貫)

天野藤秀(景貫)

結果

天野氏が武田方に恭順し、城を明け渡す

徳川軍が天候不順で攻撃を断念、撤退時に天野軍の追撃を受け敗退

戦闘の有無

なし(戦略的降伏)

あり(撤退戦を含む攻防)


第三章:天正二年(1574年)— 徳川家康の逆襲と「犬居城の戦い」の実像

第一節:報復の時 — 家康、犬居城へ兵を向ける(4月)

元亀四年(1573年)4月、西上作戦の途上で武田信玄が病死するという劇的な情勢変化が訪れる 20 。これにより武田軍は甲斐へ撤退し、徳川家康は最大の危機を脱した。勢いを取り戻した家康は、反攻作戦を開始する。その最初の主要な目標の一つが、武田方に寝返った天野藤秀が守る犬居城であった。

天正二年(1574年)4月、家康は天野氏への報復と、遠江における武田方の重要拠点である犬居城を奪還し、武田氏との連絡路を遮断する目的で、浜松城から軍勢を北上させた 8 。この軍勢には、本多忠勝、榊原康政、大須賀康高といった徳川軍の主力が含まれており、家康のこの戦いにかける意気込みが窺える 9

第二節:天候の急変と攻撃頓挫

徳川軍が犬居城に迫り、いよいよ攻撃を開始しようとした矢先、予期せぬ事態が発生する。折からの長雨により、犬居城の天然の堀ともいえる気田川が氾濫したのである 4 。増水した川は徳川軍の行く手を阻み、城への本格的な攻撃を不可能にした。

この天候の急変は、地の利を知り尽くした天野方にとってまさに「天佑」であった。戦国時代の戦闘が、単なる兵力や将の勇猛さだけで決まるのではなく、「天の時」がいかに重要な要素であったかを示す象徴的な出来事であった 2 。徳川の精鋭部隊は、その力を発揮する機会すら与えられず、攻撃を断念せざるを得ない状況に追い込まれた。

第三節:撤退戦の悪夢 — 天野軍の追撃

攻撃を諦め、浜松への撤退を開始した徳川軍に対し、好機と見た天野軍が城から打って出て追撃を開始した。地理を熟知した天野軍の執拗な攻撃の前に、不案内な土地で撤退を余儀なくされた徳川軍は大きな混乱に陥り、多大な損害を被った 3

この撤退戦で殿(しんがり)を務めたのは、大須賀康高が率いる横須賀衆であった 9 。彼らの奮戦にもかかわらず、徳川軍はこの戦いで手痛い敗北を喫した。この結果は、家康にとって、遠江の山間部を支配する国人領主を力だけで屈服させることの難しさを改めて痛感させるものであった。

第四節:武勇伝の虚実 — 大久保忠世の逸話

この過酷な撤退戦の激しさを物語る逸話が残されている。徳川家の重臣・大久保忠世が、敵兵の激しい抵抗によって崖下へ転落させられたものの、そこから単身で這い上がり、待ち伏せていた敵兵3人を斬り捨てたという武勇伝である 3 。彼の愛刀「長義」が、この時に敵兵三人の両股を斬り払ったことから「六股切」と呼ばれるようになったとも伝わる 23

この逸話は、大久保忠世個人の武勇を称えるものであると同時に、徳川軍全体がいかに苦しい状況に追い込まれていたかを逆説的に示している。ただし、この話の主な出典は、忠世の弟・忠教が著した『三河物語』であり、一族の武功を顕彰する意図が含まれている可能性も考慮する必要がある 15 。しかし、そうした点を差し引いても、この逸話は天正二年の「犬居城の戦い」が、徳川方にとって忘れることのできない大敗であったことを象徴している。

第四章:天正四年(1576年)— 犬居城の落城と天野氏の流転

第一節:長篠の戦い以降の力関係の変化

天正二年(1574年)の戦いで徳川軍を撃退した天野氏であったが、その運命は遠江の一城を巡る攻防だけでは決まらなかった。天正三年(1575年)5月、長篠・設楽原の戦いで武田勝頼率いる武田軍は、織田・徳川連合軍の前に歴史的な大敗を喫する。この戦いの結果は、遠江における徳川・武田の軍事バランスを決定的に変化させた 4

武田氏が大きな打撃を受けたことで、その支配下にあった犬居城は、もはや甲斐からの有効な支援を期待できない孤立した拠点となってしまった。天野氏の命運は、風前の灯火であった。

第二節:徳川軍による再侵攻と犬居城の陥落

長篠の戦いから一年後の天正四年(1576年)、徳川家康は満を持して犬居城への再侵攻を開始した。二年前の失敗を教訓に、今回は周辺の支城砦を一つずつ着実に攻略し、犬居城を完全に包囲する作戦をとった 2

外部からの援軍もなく、兵力差も歴然とする中で、天野藤秀はついに滅亡か逃亡かの選択を迫られる。彼は籠城して玉砕する道を選ばず、一族郎党を率いて城を脱出する道を選んだ 2 。こうして、数百年にわたり天野氏の本拠地であった犬居城は、ついに徳川家康の手に落ちたのである 5

第三節:天野氏の敗走とその後 — 歴史の舞台からの退場

犬居城を脱出した天野藤秀一行は、支城の勝坂城で最後の抵抗を試みた後、主君である武田勝頼を頼って信濃を経由し甲斐へと落ち延びていった 2 。しかし、彼らの苦難はこれで終わりではなかった。天正十年(1582年)、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏が滅亡すると、天野氏は再び庇護者を失う 2

その後、彼らは小田原の北条氏を頼ったが、天正十八年(1590年)、その北条氏も豊臣秀吉によって滅ぼされる 2 。鎌倉時代から続いた遠江の名門・天野氏のその後の行方は、歴史の記録から定かではなくなり、歴史の舞台から静かに姿を消していった 13

結論:遠江支配史における犬居城の歴史的意義

本報告書を通じて、「犬居城の戦い」として一括りに語られがちな歴史事象が、実際には性質の異なる複数の出来事から構成されていることが明らかになった。その歴史的意義は、以下の四点に集約される。

第一に、元亀三年(1572年)の出来事は戦闘ではなく、城主・天野藤秀による戦略的な「無血開城」であった。これは、大国の狭間で生き残りを図る国人領主の現実的な選択を示す典型例である。

第二に、この無血開城は、武田信玄の西上作戦において時間と兵力を大幅に節約させ、その後の迅速な南下を可能にした。結果として、一言坂の戦いや二俣城の攻略を有利に進めることに繋がり、徳川家康を窮地に陥れた三方ヶ原の戦いの重要な遠因となった。

第三に、実質的な戦闘が行われた天正二年(1574年)の「犬居城の戦い」では、地の利と天候を味方につけた天野氏が、本多忠勝ら徳川軍の主力を撃退した。これは、中央の論理だけでは地方の在地勢力を制圧できないという、戦国時代の力学を象徴する戦いであった。

第四に、犬居城と天野氏の最終的な運命は、長篠の戦いという大局的なパワーバランスの変化によって決定づけられた。一城の攻防がいかに激しくとも、より大きな戦略的枠組みの変化には抗えなかったのである。

結論として、犬居城の歴史は、戦国時代における国人領主の過酷な運命と、一つの城が戦略的価値の変化に応じてその役割を劇的に変えていく様を映し出す、極めて示唆に富んだ事例であると言える。それは、遠江支配史の一断面であると同時に、戦国という時代の縮図そのものであった。

引用文献

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  3. 【大河ドラマ連動企画 第20話】どうする藤秀(天野藤秀)|さちうす - note https://note.com/satius1073/n/n44763aa3b07c
  4. 【狂犬通信 Vol.90】遠江國周智郡・犬居城 - ヤァ!ヤァ!ヤァ! https://toei-sportif.hatenablog.com/entry/2020/12/22/183251
  5. 犬居城の見所と写真・100人城主の評価(静岡県浜松市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1252/
  6. 犬居城 笹ヶ嶺城 鶴ヶ城 光明城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/sizuoka/hamamatusitenryu.htm
  7. 犬居城(静岡県浜松市)の詳細情報・口コミ - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/4120
  8. 犬居城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-952.html
  9. 【犬居城攻撃】 - ADEAC https://adeac.jp/hamamatsu-city/text-list/d100020/ht000740
  10. 犬居城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1482
  11. 犬居城 https://tanbou25.stars.ne.jp/inuijyo.htm
  12. 遠江 犬居城[縄張図あり]-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/inui-jyo/
  13. 武家家伝_遠江天野氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/to_amano.html
  14. どこにいた家康 Vol.20 犬居城 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/11702
  15. 天野藤秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E8%97%A4%E7%A7%80
  16. 西上作戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B8%8A%E4%BD%9C%E6%88%A6
  17. 武田信玄との三方ヶ原の戦いで徳川家康には本当に勝ち筋はなかったのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26844
  18. 一言坂の戦い~本多忠勝の奮戦~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/hitokotozaka.html
  19. 二俣城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97320/
  20. 武田信玄の西上作戦、目的は信長討伐ではなかった? - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63489
  21. 武田信玄は、どこで、なぜ死んだか? - note https://note.com/senmi/n/n959783825f6f
  22. 大久保忠世 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E4%B8%96
  23. 六股長義 - 名刀幻想辞典 https://meitou.info/index.php/%E5%85%AD%E8%82%A1%E9%95%B7%E7%BE%A9
  24. 天野氏 尾上氏 奥山氏 - 浜松市立中央図書館-浜松市文化遺産デジタルアーカイブ:浜松市史 一 https://adeac.jp/hamamatsu-city/texthtml/d100010/mp010010-100010/ht010340