田丸城の戦い(1575)
田丸城の戦いは1575年信雄入城と翌1576年「三瀬の変」北畠一門粛清。信長は伊勢掌握のため信雄に北畠家を継がせ、旧勢力を排除した。
田丸城の戦い(1575-1576)― 織田信長による伊勢完全掌握の最終局面 ―
序章:天正三年の「田丸城の戦い」を再定義する
天正三年(1575年)の「田丸城の戦い」という呼称は、日本の戦国時代の歴史を紐解く上で、特定の攻城戦を指し示すものではない。この年、田丸城において大規模な軍事衝突や籠城戦が行われたという記録は、主要な歴史資料には見出されない。むしろ、この年は織田信長の次男・信雄が、北畠家の家督を継承し「北畠信意」と名乗り、その本拠を伊勢の名門・北畠氏の伝統的な拠点であった大河内城から、戦略的要衝である田丸城へと移転させた画期的な年として記憶されている 1 。
しかしながら、「戦い」という言葉が想起させる劇的な緊張と流血の事態は、その翌年、天正四年(1576年)に、まさにこの田丸城を主たる舞台として現実のものとなる。世に言う「三瀬の変」である。これは、信長の周到な計画のもと、信意が実行者となり、旧北畠一門の主要人物を計画的に誘殺・粛清した事件であった 4 。
したがって、本報告書は、1575年の田丸城への本拠移転と、それに続く1576年の粛清事件を、分断された個別の事象としてではなく、織田家による伊勢国完全掌握という一つの大きな戦略的目標を達成するための、連続した政治的・軍事的キャンペーンとして捉え直すものである。なぜ信意は本拠を移したのか。そして、なぜその翌年に大規模な粛清が必要とされたのか。この二つの問いを解明することこそ、ご依頼の趣旨である「合戦中のリアルタイムな状態」の背景にある、より深く、生々しい歴史の力学を明らかにすることに繋がる。本報告は、この一連の出来事を「織田家による伊勢完全掌握プロセス」と再定義し、その詳細を時系列に沿って徹底的に解明するものである。
第一章:伊勢平定への道程 ― 織田信長の戦略と北畠氏の落日
尾張を統一し、「天下布武」を掲げて飛躍を続ける織田信長にとって、伊勢国(現在の三重県)の掌握は、単なる領土拡大以上の多岐にわたる戦略的価値を有していた。
第一に、地政学的な重要性である。美濃国を制圧した信長にとって、京へ上洛するためのルートは、北近江を経由する経路と、伊勢北部を通り南近江へ抜ける東海道の二つが存在した 5 。伊勢を支配下に置くことは、この南からの進軍路を確保し、背後の安全を保障する上で不可欠であった。
第二に、その抜きん出た経済的価値である。伊勢湾は海運の要衝であり、その港湾を支配することは、莫大な経済的利益、すなわち軍資金の確保に直結した 6 。これは、信長が長年にわたり伊勢長島の一向一揆と死闘を繰り広げた理由の一つでもあり、経済基盤の確立を重視する信長の戦略思想を色濃く反映している。
そして第三に、日本の精神的中心地である伊勢神宮を影響下に置くことの象徴的意味である 8 。神宮の権威を掌握することは、信長の天下人としての正統性を内外に示す上で、計り知れない効果をもたらした。
この伊勢平定を着実に進めるため、信長は周到な多段階戦略を実行した。まず、主力を美濃攻略に注ぎながら、並行して重臣・滝川一益を先鋒として北伊勢に派遣した 5 。一益は調略と武力を巧みに用い、「北勢四十八家」と称される在地小豪族群を次々と切り崩し、織田家の支配を着実に浸透させていった 11 。
北伊勢の制圧に目途が立つと、信長は満を持して南伊勢の支配者であり、南北朝時代以来の名門・北畠氏にその矛先を向けた。永禄十二年(1569年)、信長は七万ともいわれる大軍を動員し、北畠氏の本拠・大河内城を包囲した(大河内城の戦い) 6 。時の当主・北畠具房と、隠居後も実権を握る父・具教は、わずか八千の兵で天然の要害に籠城し、徹底抗戦の構えを見せた 7 。具教は塚原卜伝に師事した剣豪としても知られ、その武威は織田軍を大いに手こずらせた。
力攻めの困難を悟った信長は、戦術を兵糧攻めに転換。約一ヶ月にわたる包囲の末、城内の飢餓が深刻化し、北畠氏はついに和睦を受け入れざるを得なくなった 6 。この時、信長が提示した和睦の核心的条件こそ、自身の次男・茶筅丸(後の信雄)を、具房の養嗣子として北畠家に送り込むことであった 14 。これは、武力で完全に滅ぼすのではなく、名門の家名を形式上存続させながら、内部からその実権を奪い取るという、より狡猾で確実な乗っ取り戦略であった。この手法は、後に神戸氏や長野氏に対しても息子や弟を養子として送り込むなど、信長が得意とした支配拡大の定石となる 17 。信長の伊勢攻略は、単なる軍事行動ではなく、「武力による恫喝」「内部からの乗っ取り」「抵抗勢力の物理的排除」という、冷徹な計算に基づいた三段階のプロセスであり、大河内城の戦いと信雄の養子入りは、その第一段階と第二段階の始まりを告げるものであった。
第二章:田丸城入城 ― 北畠信意の誕生と伊勢統治の新たな拠点
大河内城での和睦から数年、織田家の伊勢における影響力は決定的なものとなっていた。天正三年(1575年)、機は熟したと判断した信長は、伊勢支配の最終段階へと移行する。この年、養父・北畠具房の隠居に伴い、信雄は正式に北畠家の家督を相続した 3 。そして、この家督相続を機に、名をそれまでの「北畠具豊」から「北畠信意」へと改める 18 。北畠家代々の通字である「具」を捨て、織田家の通字「信」を名乗るこの改名は、もはや伊勢の支配者が誰であるかを内外に明確に宣言する、極めて象徴的な行為であった 19 。
支配者の交代をさらに可視化するため、信意は統治の拠点そのものを変革した。北畠氏が長年本拠としてきた、防御に優れた山城である大河内城を廃し、新たに平山城である田丸城を居城と定めたのである 1 。この本拠移転は、単なる引っ越しではなく、高度な戦略的判断に基づいていた。
田丸城は、伊勢神宮にほど近く、伊勢本街道、伊勢街道、初瀬街道、和歌山街道といった伊勢参宮の主要道が合流する交通の要衝に位置していた 9 。この地を抑えることは、人々と物資の流れを管理し、伊勢神宮への影響力を強める上で絶大な効果を発揮した。さらに、南伊勢から紀伊国へと通じる通路を扼する戦略的拠点でもあり、紀伊の雑賀衆など、潜在的な敵対勢力への睨みを利かせる上でも理想的な立地であった 8 。
新たな拠点とした田丸城に、信意は大規模な改修を施した。その象徴が、三層の天守の築城であったと伝わる 2 。天守は、単なる軍事施設に留まらず、織田政権の圧倒的な権威と、旧来の在地領主とは一線を画す先進的な統治能力を誇示する政治的シンボルであった。これは、信長自身が安土城築城へと向かう思想とも軌を一にするものであり、伊勢の支配体制が根本から刷新されたことを物語っていた 22 。
この一連の動きは、伊勢における支配のパラダイムシフトを意味していた。すなわち、山城に籠り領地を守る旧来の「守りの支配」から、交通の要衝を拠点に積極的に領国経営を行う「攻めの統治」へ。そして、土地に根差した伝統的な権威から、中央から派遣された絶対的な権力への転換である。1574年に長島一向一揆が壊滅し、1575年の長篠の戦いで武田氏が壊滅的な打撃を受けたことで、信長包囲網は事実上崩壊した 18 。この外的要因が整ったことで、信長は国内の支配体制固めに注力することが可能となり、その一環として、信意に伊勢の「総仕上げ」を命じたのである。1575年の田丸城入城は、戦国全体の大きな潮流の中で、織田家の新たな支配秩序が伊勢に確立されたことを示す、決定的な出来事であった。
第三章:粛清前夜 ― 緊張高まる伊勢と信長の非情なる決断
信意が田丸城に入り、新たな統治体制を築き始めた一方で、旧勢力の影は依然として伊勢国に色濃く残っていた。その中心にいたのが、隠居したとはいえ「大御所」として絶大な影響力を保持していた北畠具教であった 25 。具教は、塚原卜伝から秘剣「一之太刀」を伝授された当代随一の剣豪であり、その武威と名門北畠家の当主としてのカリスマ性は、旧臣たちの精神的支柱であり続けた 7 。
天下統一を目前にする信長にとって、この具教の存在は看過できない潜在的脅威であった。猜疑心の強い信長は、具教が甲斐の武田氏をはじめとする反信長勢力と密かに連携し、再起の機会を窺っているのではないかと深く警戒していた 6 。信意が名目上の国主となっても、具教という強力な磁場が存在する限り、伊勢の国人衆が完全に織田家に靡くことはない。将来、織田家が窮地に陥った際、具教が反旗を翻せば、伊勢は再び混乱に陥る可能性があった。
天正四年(1576年)、信長はついに非情なる決断を下す。将来の禍根を断つため、北畠一門の物理的な抹殺である。この粛清計画は、信意個人の発案ではなく、織田政権の中枢、すなわち信長自身の明確な意思によって始動した 3 。信長は、信意の家老である滝川雄利に加え、かつて北畠氏に仕えていた長野左京亮、藤方朝成、奥山知忠といった旧臣らを呼び出し、具教の殺害を直接指示したという 4 。
この計画の巧妙かつ冷酷な点は、旧家臣に「汚れ役」を担わせたことにあった。これは、彼らの織田家への忠誠心を試す踏み絵であると同時に、伊勢の国人衆同士に拭い難い血の楔を打ち込み、彼らの連帯を断ち切るという高度な政治的狙いを含んでいた。この峻烈な命令に対し、奥山知忠は病と称して出家し、かろうじて計画から離脱した 4 。藤方朝成は旧主殺しを憚り、直接手を下すことを避けて自身の家臣を代理として参加させた 4 。しかし、長野左京亮は命令に従った。さらに、具教の最も身近に仕える近習の一人、佐々木四郎左衛門が内通し、暗殺当日の手引き役を務めることとなった 4 。
圧倒的な軍事力の前に旧主を裏切らざるを得なかった者、新たな支配者の下での立身出世を望んだ者。戦国乱世の現実的な利害関係が、かつての主従の絆を無慈悲に断ち切っていく。こうして、伊勢の名門を根絶やしにするための恐るべき罠は、水面下で着々と張り巡らされていった。その最終幕が切って落とされる舞台こそ、信意が新たな支配の象徴として築いた田丸城であった。
第四章:血塗られた饗応 ― 田丸城における北畠一門謀殺のリアルタイム再現
天正四年(1576年)十一月二十五日。伊勢国に冬の気配が漂い始めたこの日、歴史は血の記憶を刻むことになる。信意による北畠一門の粛清は、二つの場所で、あたかも一つの精密な機械のように連動して実行された。
表1:田丸城における北畠一門粛清の主要関係者
人物名 |
当時の身分・立場 |
粛清における役割 |
その後の動向 |
織田信意(信雄) |
北畠家当主、伊勢国主 |
総指揮官 :父・信長の意を受け、計画全体を主導 16 |
伊勢・尾張の大名となるが、後に秀吉により改易。徳川の世で大名として復活 19 |
長野具藤 |
北畠具教の次男、旧長野工藤氏当主 |
粛清の主要対象 :北畠本家と並ぶ有力一門の長として標的に 4 |
田丸城にて謀殺される 23 |
北畠親成 |
北畠一門(具教の三男) |
粛清の対象 :具教の息子として将来の禍根となる可能性から排除 4 |
田丸城にて謀殺される 4 |
大河内具良 |
北畠一門(大河内氏) |
粛清の対象 :北畠氏の有力庶流として標的に 4 |
田丸城にて謀殺される 4 |
坂内具義(具信) |
北畠一門(坂内氏) |
粛清の対象 :北畠氏の有力庶流として標的に 4 |
田丸城にて謀殺される 4 |
土方雄久 |
織田信意の家臣 |
実行部隊の指揮官 :田丸城内での謀殺を直接指揮した一人 28 |
信意の腹心として活躍。後に豊臣、徳川に仕え大名となる 30 |
日置大膳亮 |
元北畠家臣、信意に臣従 |
実行部隊の一員 :旧主の一族殺害に加担。弓の名手 4 |
旧領を安堵され、信意、後に家康に仕える 26 |
津川義冬 |
織田信意の家臣 |
実行部隊の一員 :田丸城内での謀殺に関与 28 |
後に信意の家老として松ヶ島城代などを務める 32 |
刻一刻:謀略の開始
【午前】
信意は「饗応」、すなわちもてなしの宴を開くという名目で、北畠一門の主だった者たちに田丸城への参集を命じた 16。招待を受けたのは、具教の次男で長野家の家督を継いでいた長野具藤、三男の北畠親成、そして一門の重鎮である大河内具良、坂内具義らであった 4。表向きは親睦を深めるための和やかな宴。しかしその裏では、城内の各所に信意の腹心である土方雄久、日置大膳亮、津川義冬らが率いる武装した兵たちが息を潜め、合図の時を今か今かと待ち構えていた 28。
【同時刻・三瀬御所】
田丸城で偽りの宴の準備が進む中、もう一つの作戦が静かに進行していた。具教が隠居する三瀬御所では、滝川雄利、長野左京亮らが率いる部隊が、人知れず屋敷を完全に包囲。内部には既に、内通者である具教の近習・佐々木四郎左衛門が手引きの準備を整えていた 4。二つの作戦は、寸分の狂いもなく同期して実行される手筈となっていた。
刻二刻:城内の配置と罠
【昼頃】
田丸城に招かれた北畠一門は、何の疑いも抱かずに城内へと入る。彼らは広間に通され、やがて酒宴が始まった。和やかな談笑が交わされる広間の外では、抜き身の刀を隠し持った兵たちが、襖一枚を隔てて殺気を押し殺している。招かれた者たちは、自分たちが伊勢における織田支配を盤石にするための「最後の障害」として、排除の対象となっていることなど知る由もなかった。
刻三刻:惨劇の瞬間
宴が酣となった頃、信意(あるいはその代理人)から密かに合図が送られた。その瞬間、広間の空気は一変する。四方の襖が一斉に開き、武装した兵たちが鬨の声を上げてなだれ込んだ。酒宴の席で完全に無防備であった一門衆は、なす術もなかった。抵抗しようにも刀は遠く、杯を握る手ではあまりにも無力であった。阿鼻叫喚の中、彼らは次々と斬り伏せられていった 4 。田丸城の広間は、一瞬にして血の海と化した。
田丸城の惨劇とほぼ時を同じくして、三瀬御所でも暗殺の刃が具教に襲いかかっていた。長野左京亮らが具教に目通りした途端、いきなり槍を突き出した。剣豪・具教はこれをかわしたものの、反撃しようと腰の太刀に手をかけた時、異変に気づく。内通者・佐々木四郎左衛門によってあらかじめ細工が施され、刀が鞘から抜けなくなっていたのである 4 。しかし、ある説によれば、窮地に陥った具教は凄まじい抵抗を見せ、太刀を手に19人を斬り殺し、100人以上に手傷を負わせた後に討ち取られたとも伝わる 4 。剣豪国司の最期は、壮絶を極めた。
【午後】
田丸城と三瀬御所の両方で、主要な標的の殺害は完了した。城内は完全に信意の兵によって制圧され、殺害された一門の家族や家来衆もことごとく討たれたとされる 18。この一日のできごとにより、北畠家の主要な血筋と、それに連なる有力家臣団は、伊勢の地から物理的に消滅した。これは「戦い」ではなく、周到に計画された「政治的暗殺」であり、旧来の武士の作法を完全に無視した、冷徹な権力闘争の結末であった。信長と信意は、名誉ある死を与えることすら拒み、騙し討ちという最も不名誉な形で彼らを排除することを選んだ。それは、古い時代の価値観の終わりと、力のみが支配する新時代の到来を告げる、血塗られた号砲であった。
第五章:伊勢制圧の完了と田丸城のその後
天正四年十一月二十五日の粛清、すなわち「三瀬の変」によって、南北朝時代から約240年にわたり伊勢国司として君臨した名門・北畠氏の組織的抵抗力は、完全に、そして永久に失われた 34 。当主であった北畠具房のみは、その温厚な性格からか助命されたものの、伊勢長島城に幽閉され、二度と政治の表舞台に立つことはなかった 3 。
この事件後、信意は間髪入れずに伊勢国内の支配体制再編に着手した。北畠氏の旧領や要衝には、土方雄久や日置大膳亮といった、粛清に協力した自身の側近や旧北畠家臣らが配置され、織田家による直接的かつ盤石な支配体制が確立された 4 。興味深いことに、粛清の実行部隊に加わった重臣・津田一安(織田掃部助)が、事件の直後、信意によって同じく粛清されている 18 。これは、計画の口封じ、あるいは強大化しすぎた家臣への警戒心からくるものであり、信意が父・信長譲りの冷徹な手法で、自らの権力基盤をさらに固めようとしたことを示唆している。
一方、粛清の血塗られた舞台となった田丸城の運命もまた、大きな転換点を迎える。伊勢支配の拠点として栄華を誇るかに見えたこの城は、事件からわずか4年後の天正八年(1580年)、金奉行の放火により天守を含む主要な建造物が焼失するという悲劇に見舞われた 22 。
信意は、この焼失した田丸城を再建することを選ばなかった。代わりに、松坂の地に新たに松ヶ島城を築城し、そこを新たな本拠としたのである 22 。この決断の背景には、単なる物理的な城の喪失以上の意味があったと推察される。信意にとって、血腥い粛清の記憶が染みついた城を捨て、新たな城をゼロから築くことは、旧北畠氏の残滓を完全に払拭し、自らが創始者となる新しい支配の始まりを内外に示すための、極めて象徴的な行為であったのかもしれない。城の物理的な変遷は、支配者の心理と政治的意図を色濃く反映している。
こうして、信意の伊勢統治における過渡的な拠点としての役割を終えた田丸城は、その後、蒲生氏郷の配下である田丸直昌、次いで稲葉氏、そして江戸時代に入ると紀州徳川家の付家老である久野氏が城代として治めることとなり、歴史の表舞台から静かにその姿を移していくこととなる 20 。
伊勢支配の確立は、織田政権全体にとっても大きな戦略的意味を持った。第一に、紀伊の雑賀衆や熊野勢力への圧力を強化する南の拠点を確保したこと 27 。第二に、当時なお続いていた石山本願寺との戦いにおいて、海上からの補給路を断つための伊勢湾の制海権を完全に掌握したこと 6 。そして第三に、信意自身が伊勢一国を完全に手中に収め、本能寺の変後には尾張国も領有する大々名へと成長する礎を築いたことである 32 。田丸城で起きた一連の出来事は、信雄個人のキャリア、ひいては織田家の天下統一事業における、極めて重要な画期であった。
終章:歴史的意義 ― 田丸城の事件が戦国史に与えた影響
天正三年から四年にかけて田丸城を舞台に繰り広げられた一連の出来事は、単なる一地方の権力交代劇に留まらない、戦国時代の転換を象徴する深い歴史的意義を有している。
第一に、これは織田信長の冷徹かつ合理的な支配戦略の典型例である。信長は、敵対する可能性のある勢力に対して、徹底的な殲滅も辞さない姿勢を貫いた。伊勢長島や越前における一向一揆の根切り、比叡山の焼き討ちと同様に、伊勢の名門・北畠氏の粛清は、信長の「天下布武」が容赦なき力の行使によって成し遂げられたことを改めて証明した 24 。伝統や権威よりも、実利と将来の安定を優先するその姿勢は、旧来の価値観を根底から覆すものであった。
第二に、この事件は旧時代の権威の終焉と、実力主義に基づく新秩序の台頭を鮮やかに描き出している。南北朝の動乱期から伊勢に根を張り、公家大名という特殊な地位を保ってきた北畠氏の滅亡は、血統や家格といった中世的な権威が、純粋な軍事力と政治的謀略の前に脆くも崩れ去る戦国乱世の現実を浮き彫りにした 34 。田丸城の広間で響いた断末魔の叫びは、古い時代の終わりと、力による新たな秩序の始まりを告げる弔鐘だったのである。
結論として、当初の問いであった「田丸城の戦い(1575年)」とは、特定の城を巡る物理的な攻防戦ではなく、伊勢一国を賭けて織田家が展開した、緻密で多段階にわたる政治的・軍事的キャンペーンの最終局面であったと結論付けられる。1575年の田丸城入城はその高らかな宣言であり、1576年の血の粛清はその冷徹な完遂であった。この一連の出来事を通じて、伊勢国は完全に織田家の版図に組み込まれ、信長の天下統一事業はまた一つ、大きな前進を遂げたのである。田丸城の歴史は、戦国という時代が、いかにして旧秩序を破壊し、新たな支配体制を構築していったかを物語る、貴重な証言者と言えよう。
引用文献
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- 滝川一益-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44324/
- 川に囲まれた三角島を攻略:「織田信長の伊勢侵攻」を地形・地質的観点で見るpart2【合戦場の地形&地質vol.7-2】 - note https://note.com/yurukutanosimu/n/nd2ba8ec4f6bc
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