最終更新日 2025-08-29

田原城の戦い(1548)

天文十六年、竹千代人質事件を機に、今川義元は太原雪斎に命じ田原城を攻撃。城主・戸田康光は裏切りにより滅亡。今川氏は東三河を掌握し、家康の運命を定めた。

田原城の戦い(天文十六年)全史:三河制覇を巡る今川・織田の激突と徳川家康の原点

序章:乱世の三河 ― 今川と織田の狭間で

戦国時代の三河国(現在の愛知県東部)は、二つの巨大な勢力の狭間で絶え間なく揺れ動く、まさに草刈り場であった。この混乱の渦中、天文十六年(1547年)に勃発した田原城の戦いは、単なる一つの城を巡る攻防戦にとどまらず、東海地方の勢力図を大きく塗り替え、後の徳川家康の運命をも決定づける重要な転換点となった。この戦いの全貌を理解するためには、まず、その背景にある三河国の深刻な権力の空白に目を向けねばならない。

かつて三河国は、松平氏三代当主・松平清康の卓越した指導力の下、統一への道を歩んでいた。しかし、天文四年(1535年)、尾張国守山における陣中にて清康が家臣に斬殺されるという悲劇「守山崩れ」が起こると、松平氏の求心力は一夜にして崩壊する 1 。当時、清康の嫡男・広忠(後の徳川家康の父)はわずか10歳であり、幼主の下で三河の国人領主たちは離散し、松平氏の支配力は著しく後退した 1

この権力の空白を好機と見たのが、東の駿河国を本拠とする「海道一の弓取り」今川義元と、西の尾張国で急速に台頭していた「尾張の虎」織田信秀であった。両者は、弱体化した松平氏に代わって三河の覇権を握るべく、競ってこの地へ侵攻を開始した 1 。特に織田信秀の動きは迅速かつ巧みであった。天文九年(1540年)には西三河の要衝・安祥城を攻略し、これを拠点として三河各地の国人衆を次々と自らの支配下に組み込んでいった 1

織田氏の圧倒的な軍事力の前に、若き松平広忠は存亡の危機に立たされる。単独での対抗が不可能と悟った広忠は、東の今川義元に救援を求め、その庇護下に入るという苦渋の決断を下した 1 。これにより、三河国は事実上、今川・松平連合軍と織田軍が激突する最前線と化した。田原城の戦いは、この十数年にわたる混乱と、二大勢力の熾烈な覇権争いが積み重なった末に発生した、必然の帰結だったのである。

第一章:海の回廊、渥美半島 ― 田原城の戦略的価値

田原城が、なぜ今川・織田双方にとってかくも重要な拠点であったのか。その答えは、城が位置する渥美半島の地政学的な特性にある。渥美半島は、伊勢湾と三河湾を隔てるように突き出した地形を持ち、古来より関東方面と伊勢・京方面とを結ぶ海上交通の最短ルート上に位置する「海の回廊」であった 3 。そして、その付け根に位置する田原城は、この回廊を物理的に支配し、監視する上で絶好の場所にあったのである。

この地理的な重要性は、経済的・軍事的な価値に直結していた。渥美半島の沿岸には、年貢米や各種物資を輸送するための湊が点在しており、活発な海運が行われていた 5 。田原城を支配することは、これらの湊を管理下に置き、海上交通路を通過する船舶から通行税(関銭)を徴収する権利を意味した 3 。これは、領国経営において極めて重要な財源であった。

軍事的な側面もまた、見過ごすことはできない。渥美半島には、間宮氏や糟谷氏といった、伊勢湾の海上交通に関わってきた有力な土豪、すなわち「船手衆」が存在した 6 。彼らを掌握し、田原城を水軍の拠点として機能させることができれば、三河湾内の制海権を確保し、敵対勢力への海上からの奇襲や、対岸の尾張国への上陸作戦さえも可能となる。今川方にとって田原城は、織田氏の背後である伊勢湾への出口を扼し、志摩の九鬼水軍といった伊勢湾の海洋勢力と連携を図る上での戦略的橋頭堡となり得た 6

このように、田原城の価値は、単なる陸上の城塞としての機能に留まらなかった。それは「海上支配の拠点」であり、この城を制する者は、交通路、経済利権、そして水軍という三つの戦略資源を同時に手にすることができた。今川義元とその軍師・太原雪斎が、後に起こる戸田氏の裏切りに対して、迅速かつ徹底的な報復措置をとった背景には、この城が持つ多角的かつ決定的な戦略価値への深い理解があったのである。

第二章:引き金 ― 松平竹千代、織田の手に渡る

田原城の戦いの直接的な引き金となったのは、戦国史上あまりにも有名な「松平竹千代(後の徳川家康)強奪事件」である。天文十六年(1547年)、織田信秀の圧迫に耐えかねた松平広忠は、今川義元への従属をより強固なものとするため、当時6歳であった嫡男・竹千代を人質として駿府へ送ることを決断した 1

この竹千代護送という重大な任務を任されたのが、田原城主・戸田康光であった。康光の娘は広忠の後妻であり、両者は姻戚関係にあったことから、広忠は康光を深く信頼していたとされる 9 。しかし、この信頼こそが悲劇の始まりであった。康光は、かつて今川氏によって吉田城にいた戸田一門を滅ぼされたという私怨を抱いていたとも言われ、その胸中には今川への憎悪が渦巻いていた可能性が指摘されている 9

事件の経緯については、今日、主に二つの説が並立している。

一つは、古くから伝わる**通説(誘拐・売却説)**である。これによれば、岡崎城を出立した竹千代一行に対し、戸田康光は「陸路は危険ゆえ、海路の方が安全である」と巧みに進言し、一行を自らの居城・田原城へと誘導した。そして、そこから船に乗せると見せかけて、一路尾張へと向かい、竹千代の身柄を敵である織田信秀に永楽銭千貫文(百貫文説など諸説あり)で売り渡した、というものである 8

もう一つは、近年の研究で注目される**新説(松平氏降伏説)**である。これは、天文十六年九月に松平広忠が織田信秀との戦に敗北し、岡崎城が攻略された結果、降伏の証として自ら竹千代を人質として差し出した、とする説である 12 。この場合、戸田康光は単なる裏切り者ではなく、織田方との交渉を仲介したか、あるいは織田方への鞍替えを主導した人物ということになる。

いずれの説が真実であったにせよ、竹千代が織田信秀の人質となった事実は動かない。信秀は早速、竹千代を人質として広忠に今川からの離反と織田への服従を迫った。しかし、広忠は「たとえ息子の命が失われようとも、織田に屈することはない」と、これを毅然と拒絶したと伝えられている 1

戸田康光の行動は、単なる金銭欲や私怨だけでは説明がつかない。当時の三河における織田氏の優勢な状況を鑑み、今川を見限って織田方につくことが自家の生き残りに繋がると判断した、戦国武将としての冷徹な戦略的計算があったと見るべきであろう。しかし、この賭けは、康光自身と田原戸田氏一門を破滅へと導く、命懸けの選択となったのである。

第三章:今川の激怒、雪斎動く ― 田原城への進軍

竹千代が織田の手に渡ったという一報は、駿府の今川義元を激怒させた 14 。これは、単に人質一人を奪われたという個人的な問題ではなかった。今川家の庇護下にある松平家の嫡男が、その護送役の裏切りによって敵の手に渡るという事態は、今川家の権威そのものに対する重大な挑戦であり、三河支配の根幹を揺るがす許しがたい背信行為であった。義元は、即座に戸田氏の討伐を決定する。

この重要な討伐軍の総指揮官として、義元は最も信頼を寄せる腹心中の腹心、「黒衣の宰相」こと太原雪斎を起用した 15 。雪斎は、かつて義元の家督相続を巡る内乱「花倉の乱」において、自ら陣頭指揮を執り義元を当主の座に押し上げた最大の功労者であった 16 。以来、今川家の政治・軍事両面における最高顧問として辣腕を振るっており、彼の投入は、この戦いが今川家の総力を挙げたものであることを内外に示すに十分であった。

雪斎の起用には、単なる裏切り者への懲罰以上の、高度な戦略的意図が込められていた。その目的は、第一に戸田氏を族滅し、裏切りがいかに高くつくかを三河の国人衆に見せしめること。第二に、海上交通の要衝である田原城を確実に奪取し、今川の直接支配下に置くこと。そして第三に、この一連の軍事行動を通じて、織田方になびきかねない三河の動揺する国人衆に対し、今川の圧倒的な力を誇示し、支配体制を再構築することにあった。これは、戦後統治までを見据えた、高度な政治・軍事作戦だったのである。

雪斎の指揮の下、今川軍は迅速に編成された。東三河における今川方の拠点・吉田城に在番していた天野景貫らが実行部隊の中核となり、田原城に向けて進軍を開始した 9 。吉田城から田原城までは目と鼻の先にあり、今川軍の電撃的な行動が可能であった。戸田康光の裏切りが明らかになってから、今川の報復の鉄槌が振り下ろされるまで、時間はほとんど残されていなかった。

第四章:天文十六年九月、田原城の攻防(合戦の再構築)

史料には田原城の攻防戦そのものの詳細な戦闘記録は乏しい。しかし、残された断片的な記述と状況証拠を組み合わせることで、その凄惨な戦いの様相を再構築することは可能である。利用者様が当初指定された天文十七年(1548年)は、この戦いの影響が顕在化した第二次小豆坂の戦いの年であり、田原城への攻撃自体は、戸田康光の裏切りが発覚した直後の天文十六年(1547年)九月に行われたとみられている 6

時期(推定)

出来事

主要人物

関連情報

天文16年(1547年)8月~9月上旬

戸田康光、護送中の松平竹千代を織田信秀へ引き渡す。

戸田康光、松平竹千代、織田信秀

報酬は永楽銭千貫文など諸説あり 8

同年9月中旬

今川義元、戸田氏の裏切りに激怒。太原雪斎を総大将に任命し、討伐を命令。

今川義元、太原雪斎

今川家の威信をかけた迅速な意思決定。

同年9月中旬~下旬

今川軍、吉田城を拠点に出陣。天野景貫らを先鋒に田原城を包囲。

太原雪斎、天野景貫

圧倒的な兵力差であったと推察される 19

同年9月下旬

今川軍による総攻撃。

戸田康光、戸田尭光

織田からの援軍は到着せず、孤立無援の籠城戦。

同年9月下旬(特定日不明)

田原城落城。城主・戸田康光、嫡男・尭光をはじめ一族の多くが討死。

(同上)

田原戸田氏の嫡流は事実上滅亡 14

太原雪斎率いる今川軍が田原城を包囲した時点で、城の運命は事実上決していた。「多勢に無勢」という記録が、その絶望的な状況を物語っている 19 。戸田康光が最後の望みを託したであろう、織田信秀からの援軍はついに現れなかった。

織田信秀が援軍を送らなかった、あるいは送れなかった理由は、当時の織田家が置かれた状況から推察できる。この時期、信秀は西の尾張・美濃国境において、斎藤道三との激しい抗争に多くの戦力を投入していた 20 。加えて、織田方にとって最大の利益である竹千代という価値ある人質は、既に確保済みであった。滅亡必至の戸田氏を救うために、美濃戦線から兵力を割き、今川の主力軍と三河で決戦を行うという巨大なリスクを冒すメリットは、信秀にはなかった。冷徹な損得勘定の結果、戸田氏は見捨てられたのである。これは、大国の間で生き残りを図る中小国人の悲劇を象徴する出来事であった。

孤立無援となった田原城に対し、今川軍は猛攻を加えた 14 。田原城は別名「巴江城」とも呼ばれ、城のすぐそばまで海が迫る、天然の要害であった 9 。この立地を考慮すれば、今川軍は陸上からの攻撃と並行して、水軍を用いて海上を完全に封鎖し、城兵の退路を断った上で総攻撃をかけたと考えるのが自然である。

圧倒的な兵力に三方から、あるいは海上からも包囲され、防戦の甲斐なく城は陥落。城主・戸田康光とその嫡男・尭光は城中で討死を遂げ、一族の多くもまた運命を共にした 14 。これにより、渥美半島に勢力を誇った田原戸田氏の嫡流は、歴史の舞台から姿を消すこととなった。

第五章:戦後の波紋 ― 三河支配の新たな局面

田原城の陥落は、三河国、そして今川・織田・松平の各勢力に大きな波紋を広げた。今川氏にとって、この勝利は三河支配戦略における決定的な一歩となった。

まず、今川義元は落城後の田原城に、現地の国人領主ではなく、自らの譜代家臣である伊東祐時を城代として送り込んだ 11 。これは、従来の国人領主を介した間接支配から、今川家による直接支配へと、東三河における統治体制を一段階強化したことを意味する。裏切りの温床となりかねない土着勢力を排除し、信頼できる家臣を配置することで、この戦略的要衝を完全に掌握したのである。

これにより、渥美半島全域と、それに付随する海上交通路、そして経済的利権は完全に今川氏の手に落ちた。これは、三河支配を安定させる上で計り知れない成果であった。それまで岡崎の松平氏などを通じた「点」の支配であった今川の三河戦略は、田原城という「線(海上交通路)」の結節点を押さえることで、東三河という「面」の支配を確立するに至った。

この盤石な後方基地と兵站線の確保は、西三河への本格侵攻を可能にした。事実、田原城での勝利は、翌天文十七年(1548年)に起こる「第二次小豆坂の戦い」における今川方の大勝に直結する、重要な布石となったのである 1

一方、この戦いの引き金となった松平竹千代の運命もまた、この結果によって大きく動いていく。父・広忠の死後(天文十八年)、太原雪斎は西三河の織田方拠点・安祥城を攻略し、城将であった織田信秀の庶長子・織田信広を捕虜とすることに成功する。そして、この信広と、織田方の人質となっていた竹千代との人質交換を成立させたのである 12 。田原城の戦いにおける今川の勝利が三河での優位を決定づけ、それが安祥城攻略へと繋がり、巡り巡って竹千代が今川家の人質として駿府で幼少期を過ごすという、後の歴史を形作る遠因となったのである。

終章:歴史の転換点としての一戦

天文十六年(1547年)の田原城の戦いは、兵力規模だけを見れば、戦国時代に数多あった局地戦の一つに過ぎないかもしれない。しかし、その背景にある複雑な人間模様、城が持つ卓越した戦略的価値、そして戦いがもたらした大局的な影響を鑑みれば、この一戦が東海地方の勢力図を塗り替える上で極めて重要な意味を持っていたことは明らかである。

今川氏にとって、この戦いは三河を巡る織田氏との覇権争いにおいて決定的な優位を築く契機となった。東三河を完全に掌握し、西三河への圧力を強めることで、後の桶狭間の戦いに至る今川氏の最大版図を形成するための確固たる礎を築いたのである。

一方で、この戦いの発端となった戸田康光の裏切りは、幼い竹千代、すなわち後の徳川家康の人生を根底から揺さぶった。この事件を皮切りに、彼の過酷な人質生活が始まった。織田家、そして今川家で過ごした不遇の少年時代は、後の彼の忍耐強い性格や、人間不信にも似た慎重な判断力を形成する上で、少なからぬ影響を与えたであろう。その意味で、田原城の戦いは家康の人生の原点とも言える出来事であった。

一つの裏切りが、一つの城を血で染め、一つの名門を滅ぼし、そして二つの大国の力関係を変え、一人の少年の運命を大きく変えた。田原城の戦いは、戦国時代の非情な現実と、一つの局地戦が歴史全体に与えうる巨大な影響力を、我々に雄弁に物語っている。この戦いなくして、その後の今川、織田、そして徳川の歴史は、大きく異なったものになっていたに違いない。

引用文献

  1. 「小豆坂の戦い(1542, 1548年)」は本当に2度あったのか?今川 ... https://sengoku-his.com/640
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  13. 【重文級】徳川家康(竹千代)鶴図 竹千代署名・花押 検)豊臣秀吉 織田信長 - メルカリ https://jp.mercari.com/item/m15756041856
  14. 【松平氏の進出と戸田氏・今川氏】 - ADEAC https://adeac.jp/toyohashi-city/text-list/d100010/ht030080
  15. 名参謀とともに東海をまとめた今川義元の挫折|Biz Clip(ビズクリップ)-読む・知る・活かす https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-022.html
  16. 太原雪斎は何をした人?「義元を育てた宰相があと少し生きていたら歴史は違った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/sessai-taigen
  17. 太原雪斎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E9%9B%AA%E6%96%8E
  18. 戸田康光(とだ やすみつ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%85%89-1094763
  19. 『三河渥美田原 三河湾の制海権を背景に知多半島に勢力拡大で戸田 ... https://4travel.jp/travelogue/11151923
  20. 1560年 – 64年 桶狭間の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1560/
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