花倉の乱(1526~27)
天文五年、今川氏輝急死で花倉の乱勃発。栴岳承芳(義元)が寿桂尼・雪斎の支援で玄広恵探を破り家督を継承。この勝利が後の甲相駿三国同盟へと繋がる外交転換の契機となった。
花倉の乱(天文五年):海道一の弓取り・今川義元、その血塗られた原点
序章:花倉の乱、再評価への序曲
戦国時代の東海地方にその名を轟かせた「海道一の弓取り」、今川義元。彼の治世は桶狭間の劇的な敗北によって語られることが多いが、その強大な権力の礎が、血族同士の凄惨な内乱によって築かれたことは、しばしば見過ごされがちである。本報告書が主題とする「花倉の乱」は、まさにその義元が歴史の表舞台に登場するきっかけとなった、今川家の家督を巡る内訌である。
まず、本乱の発生年について明確にしておく必要がある。一般に「1526年」という年は、乱の遠因となった今川家第8代当主・今川氏親の没年であり、直接的な軍事衝突が発生したのは、その10年後、天文5年(1536年)である 1 。この10年という歳月は、単なる時間の経過以上の意味を持つ。それは、偉大な父・氏親が遺した盤石な統治システムが、当主の予期せぬ死という一点の脆弱性によって崩壊し、新たな権力構造が模索される中で対立の根が深く育まれた期間であった。
花倉の乱は、単に今川家内部の「お家騒動」という枠組みに収まるものではない。それは駿河・遠江の領国体制を再編し、さらには甲斐の武田氏、相模の北条氏といった隣国を巻き込みながら、戦国期東海地方の勢力図を根底から塗り替える地政学的な転換点であった 2 。本報告書は、この花倉の乱を、今川氏親が築いた「安定化システム」の崩壊と、その後の再構築の物語として捉え、その詳細な経過と歴史的意義を多角的に分析するものである。氏親は、自らが経験した家督争いの苦難から、嫡子・氏輝への継承を確実なものとし、他の男子を出家させることで争いの芽を摘もうと図った 2 。しかし、その深謀遠慮は、氏輝兄弟の突然の死という「想定外の事態」によって水泡に帰し、皮肉にも争いを避けるために政治の舞台から遠ざけられた者たちが、内乱の主役となるのである。
第一章:嵐の前の静寂 ― 今川氏輝の治世と突然の死
父・今川氏親の偉大な遺産
花倉の乱を理解するためには、まずその父、今川氏親(1473-1526)が築き上げた遺産に目を向けなければならない。氏親は、父・義忠の戦死後に勃発した家中の内紛を、伯父である伊勢盛時(後の北条早雲)の支援を得て乗り越え、家督を相続した経緯を持つ 2 。この経験から、彼は領国の安定化を最重要課題と捉え、今川氏を守護大名から戦国大名へと脱皮させる数々の改革を断行した。
その集大成が、大永6年(1526年)に制定された分国法「今川仮名目録」である 4 。この法典は、家臣団の統制、土地所有権の規定、訴訟手続きなどを定め、当主の権力を法的に裏付けることで、属人的な支配から脱却し、領国を一元的に統治する体制を確立した 2 。氏親は、この法典を制定したわずか2ヶ月後の同年6月23日に病没するが 7 、彼の遺した統治システムは、次代の今川家にとって大きな財産となった。
氏親の死後、家督は嫡男の龍王丸が14歳で相続し、元服して氏輝と名乗った 9 。若年の当主を支えたのが、母であり氏親の正室であった寿桂尼である。公家の名門・中御門家の出身である彼女は、卓越した政治感覚を持ち、氏輝の後見人として政務を代行 10 。「歸」という文字が彫られた自身の印判を用いて公文書を発給するなど、その辣腕ぶりから「女戦国大名」とも称された 12 。
若き当主・氏輝の統治と外交
天文元年(1532年)頃より親政を開始した氏輝は、父の政策を継承し、遠江国で検地を実施するなど、領国経営に手腕を見せた 14 。外交面では、父の代からの同盟国である相模の北条氏綱と緊密に連携し、共通の敵である甲斐の武田信虎と対立する路線を維持した 16 。天文4年(1535年)には、駿河に侵攻してきた武田軍と国境の万沢口で交戦するなど、軍事的な緊張も続いていた 3 。この「親北条・反武田」という外交基軸は、当時の今川家にとって自明の国策であったが、これが後の運命を大きく左右することになる。
天文5年3月17日 ― 駿河を襲った激震
氏輝の治世は、盤石に見えた。しかし、天文5年(1536年)3月17日、駿河の今川館を未曾有の悲劇が襲う。当主・今川氏輝が、何の前触れもなく急死したのである。享年24という若さであった 9 。さらに驚くべきことに、氏輝のすぐ下の弟である彦五郎も、全く同じ日に命を落とした 10 。
当主とその後継者と目される弟が同日に死亡するという異常事態は、今川家中を震撼させた。公式な死因は不明であるが、その不自然さから疫病説のほか、毒殺や暗殺といった様々な憶測が飛び交った 9 。誰が、何の目的で、という問いに対する答えは歴史の闇に葬られたままである。しかし、確かなことは、この二人の死によって今川家の家督継承プランは完全に白紙に戻り、駿河国に巨大な権力の真空が生まれたことである。そして、その空白を埋めるべく、これまで歴史の陰にいた二人の禅僧が、否応なく政治の舞台へと引きずり出されることになった。
第二章:血の選択 ― 栴岳承芳と玄広恵探
氏輝兄弟の死によって、今川家の家督継承権は、出家していた他の弟たちへと移った。ここに、血筋と背景を異にする二人の後継者候補が対峙し、花倉の乱の対立構造が形成される。
正統性の継承者、栴岳承芳(後の今川義元)
栴岳承芳(せんがくしょうほう)、後の今川義元は、氏親の五男であり、正室・寿桂尼の第三子として生まれた 2 。その血筋は、嫡流に最も近い正統性を有していた。父・氏親は家督争いを未然に防ぐため、幼い承芳(幼名・芳菊丸)を出家させることを決意。京都五山の名刹・建仁寺から傑僧・太原雪斎を教育係として招聘し、英才教育を施した 2 。その後、承芳は富士郡の善得寺に入り、禅僧としての日々を送っていた 2 。
彼の最大の強みは、その強力な支持基盤にあった。まず、今川家における絶対的な権威であった母・寿桂尼が、我が子である承芳を全面的に擁立した 2 。そして、幼少期からの師であり、当代随一の知謀家であった太原雪斎が、軍師として彼の頭脳となった 20 。さらに、岡部親綱や興津清房といった、氏親の代から今川家に仕える譜代の重臣たちの多くも、正統性のある承芳を支持した 2 。この「寿桂尼・雪斎・譜代重臣」という三位一体の支持体制が、承芳派の力の源泉であった。
外戚の野望を背負う、玄広恵探
一方の玄広恵探(げんこうえたん)は、氏親の側室の子として生まれた 2 。彼の母は、遠江国の有力な国人領主であった福島助春の娘であり、恵探は福島一族の血を引いていた 19 。彼もまた兄たちと同様に出家し、花倉(現在の静岡県藤枝市)にある華蔵山遍照光寺の住持となり、「花倉殿」と呼ばれ敬われていた 1 。
恵探を後継者として担ぎ上げたのが、母方の一族である福島氏であった。特に福島弥四郎を中心とする一族は、恵探を当主の座に据えることで、外戚として今川家中の実権を掌握しようという強い野心を抱いていた 2 。彼らは遠江に強固な地盤を持ち、その軍事力は決して侮れないものであった。
この対立の本質は、単なる兄弟間の序列争いではない。それは、今川家の支配体制を巡る、二つの異なる政治勢力の衝突であった。承芳派が駿府を中心とする今川家の「中央政権」を代表するのに対し、恵探派は遠江の有力な「地方豪族連合」の利益を代弁していた。福島氏にとって、中央集権化を進める今川家の路線は、自らの自立性を脅かすものであり、恵探の擁立は、その流れに抗うための絶好の機会であった 3 。乱の戦域が駿府周辺だけでなく、遠江にまで及んだことは 2 、この対立構造を如実に物語っている。
【表1:花倉の乱における両陣営の比較】
項目 |
栴岳承芳(今川義元)派 |
玄広恵探派 |
総大将 |
栴岳承芳(後の今川義元) |
玄広恵探 |
出自 |
正室・寿桂尼の子(嫡流) |
側室・福島氏の娘の子(庶流) |
主な後見人/軍師 |
太原雪斎 |
福島弥四郎 |
主な支持武将 |
岡部親綱、興津清房など譜代重臣 |
福島一族、朝比奈千太郎など 2 |
外部支援勢力 |
北条氏綱 |
(特になし) |
推定兵力 |
約12,000(北条援軍含む) 2 |
約3,000 2 |
正統性の根拠 |
嫡流としての血筋、母・寿桂尼の権威 |
兄(年長)としての序列、外戚の支持 |
第三章:駿河を揺るがす十五日間 ― 花倉の乱・合戦詳報
天文5年5月25日から6月10日にかけての約15日間、駿河国は今川家の存亡を賭けた内乱の舞台と化した。以下に、その戦いの経過を時系列で詳述する。
【表2:花倉の乱 詳細年表(天文5年/1536年)】
日付(旧暦) |
日付(新暦) |
場所 |
出来事 |
3月17日 |
4月7日 |
駿府・今川館 |
今川氏輝、彦五郎が同日に急死。 |
5月25日 |
6月13日 |
駿府・今川館 |
玄広恵探派が今川館を襲撃するも失敗。 |
5月下旬~6月上旬 |
6月中旬 |
駿河・志太郡 |
義元派が花倉城・方ノ上城を包囲。北条氏綱に援軍を要請。 |
6月10日 |
6月28日 |
方ノ上城 |
義元派の岡部親綱が方ノ上城を攻略。 |
6月10日 |
6月28日 |
花倉城 |
義元派本隊と北条援軍が花倉城へ総攻撃、陥落。 |
6月10日 |
6月28日 |
普門寺 |
城を脱出した玄広恵探が自刃。乱は終結。 |
開戦前夜:5月25日まで
氏輝の死後、約2ヶ月間、両派は水面下で激しい調略合戦を繰り広げた。太原雪斎は、京の公家や室町幕府に働きかけ、承芳の家督相続の正統性を担保するための政治工作に奔走したとされる 3 。一方、寿桂尼は武力衝突を回避すべく、自ら福島越前守のもとを訪れて説得を試みたが、福島氏の決意は固く、交渉は決裂した 2 。
これにより軍事衝突は不可避となり、玄広恵探は支持勢力を率いて駿府を退去。自身の拠点である花倉(藤枝市)へ入り、遍照光寺や、背後の要害である花倉城(葉梨城)を拠点として臨戦態勢を固めた 1 。
第一撃:5月25日
天文5年5月25日、ついに戦端が開かれる。恵探派は、義元派の体制が整う前に勝敗を決するべく、先制攻撃を仕掛けた。兵を久能山に進め、そこを拠点として手薄と見た駿府の今川館を急襲したのである 21 。しかし、この奇襲は失敗に終わる。義元方では、雪斎が事前に攻撃を予期して備えを固めており、岡部親綱をはじめとする将兵が奮戦し、攻撃部隊を撃退した 22 。この初戦の敗北は、恵探派にとって大きな痛手であった。短期決戦の好機を逸し、戦略は防衛的な籠城戦へと移行せざるを得なくなった。
膠着と包囲網:5月26日~6月9日
駿府攻略に失敗した恵探軍は、志太平野西方の山間部に防衛線を構築した。その中核となったのが、主城である 花倉城 (藤枝市)と、その南方に位置する支城の 方ノ上城 (焼津市)である 23 。この二つの山城は互いに数キロの距離にあり、晴れた日には双方を視認できた。この地理的条件を活かし、狼煙を上げることで情報を密に伝達し、連携して防衛にあたる戦略をとった 24 。
一方、義元軍は力攻めによる損害を避け、まずはこの二城を包囲し、兵站と相互の連携を断ち切る作戦を選択した。同時に、戦いを決定的なものにするため、寿桂尼を通じて同盟者である相模の北条氏綱に大軍の派遣を正式に要請した 2 。氏綱はこの要請を受諾し、大軍を駿河へと差し向けた。これにより、恵探派は外部からの救援の望みも薄い、絶望的な包囲下に置かれることとなった。
(コラム)山城の攻防 ― 花倉城・方ノ上城の戦術的価値
花倉の乱の主戦場となった二城は、戦国中期の山城の特徴をよく示している。花倉城は、南北に伸びる尾根上に本曲輪と二の曲輪を配置し、それらを「堀切(ほりきり)」と呼ばれる深い空堀で分断することで、敵の縦方向の侵攻を阻む構造となっていた 26 。また、急峻な斜面には「竪堀(たてぼり)」を設け、敵兵が斜面を横移動することを困難にしていた 26 。
一方の方ノ上城は、高草山から伸びる尾根の先端に位置し、志太平野から駿府方面を一望できる絶好の立地にあった 28 。しかし、城内の平坦地は極めて狭く、大軍が駐屯するには不向きであった 29 。このことから、方ノ上城は戦闘拠点というよりも、物見や情報伝達(狼煙台)に特化した前線の砦としての役割が強かったと考えられる 28 。恵探軍にとって、この二城の連携は、駿府への圧力を維持しつつ、遠江方面からの万一の援軍を待つための生命線であった。義元軍がこの連携を断ち切ることに全力を注いだのは、極めて合理的な戦術判断であった。
決戦の日:6月10日
天文5年6月10日、戦況は一気に動く。この日、義元軍は総攻撃を開始した。
黎明~午前:方ノ上城の陥落
夜明けと共に、義元軍の猛将・岡部親綱が率いる精鋭部隊が、方ノ上城へ殺到した 30。細い尾根上に築かれた城は、大軍による多方面からの猛攻に抗しきれず、激しい攻防の末、同日の午前中には陥落したとみられる 30。方ノ上城の陥落は、単なる支城の喪失以上の意味を持っていた。これにより、花倉城は完全に孤立無援となり、狼煙による情報伝達も、遠江からの援軍という万に一つの望みも完全に絶たれた。この一報は、花倉城に籠る恵探派の士気を根底から打ち砕いたであろう。戦いの趨勢は、事実上この時点で決した。
午後~夕刻:花倉城の崩壊
方ノ上城陥落の報を受けた義元軍本隊は、到着した北条からの援軍と合流し、満を持して孤立した花倉城へと一斉に攻めかかった 2。兵力で圧倒的に劣り、支城を失って士気も低下した恵探軍に、もはや抗う術はなかった。大手筋を中心に最後の抵抗を試みるも、寄せ手の大軍の前に次々と防衛線は突破され、城は炎に包まれた 21。
夜:終焉
万策尽きた玄広恵探は、城の陥落を悟り、僅かな供回りと共に燃え盛る花倉城を脱出した。追撃の手を逃れ、彼が向かった先は、自身の菩提寺であり、幼少期を過ごしたかもしれない瀬戸谷の普門寺(またはその前身である普門庵)であった 33。そこで彼は全ての望みが絶たれたことを悟り、静かに自刃して果てた。享年19(または20)であった 17。主君の死をもって、約15日間にわたる駿河の内乱は、ついに幕を閉じたのである。
第四章:盤上の駒と指し手 ― 乱を動かした者たち
花倉の乱は、二人の若き公子の悲劇であると同時に、彼らを駒として動かした老練なプレイヤーたちの戦略が交錯した戦いでもあった。
寿桂尼の決断 ― なぜ義元を選んだか?
寿桂尼が我が子・承芳(義元)を支持したことは、単なる母性によるものと見るべきではない。それは、今川家の未来を見据えた、為政者としての冷徹な政治判断であった。彼女が最も警戒したのは、恵探の背後にいる福島一族の台頭であった。もし恵探が当主となれば、福島氏が外戚として権力を掌握し、氏親が心血を注いで築き上げた今川家中心の中央集権的な統治体制が、有力国人の連合政権へと変質してしまう恐れがあった 2 。それは、彼女にとって容認できる未来ではなかった。
対して、承芳には太原雪斎という比類なき補佐役がいた。寿桂尼は、雪斎の能力を高く評価しており、彼がいれば承芳は既存の統治機構を円滑に継承し、領国の安定を維持できると確信したであろう 13 。彼女の選択は、血の情よりも、今川家の安寧と権力構造の維持を最優先する、極めて政治的なリアリズムに基づいていたのである。
太原雪斎の戦略 ― 黒衣の宰相の真価
太原雪斎の役割は、単なる軍師に留まらなかった。彼は、乱の勃発前から朝廷や幕府に働きかけるなど、外交・政治面での周到な根回しを行い、承芳の家督相続に「大義名分」という強力な武器を与えた 3 。また、合戦が始まると、今川館の防衛指揮から北条氏への援軍要請まで、軍事戦略全般を取り仕切った。彼の存在なくして、義元の勝利はあり得なかったであろう。花倉の乱は、雪斎が今川家の「黒衣の宰相」として、その類稀なる才覚を初めて天下に示した舞台であった 20 。
北条氏綱の野心 ― 援軍に隠された意図
北条氏綱が義元に送った大軍は、一見すると同盟国に対する誠実な支援に見える。事実、当時の北条氏は関東で小弓公方足利義明や里見氏との抗争を抱えており、背後である駿河の混乱が長引くことは国益に反するため、乱の早期終結を望む動機は十分にあった 37 。
しかし、この援軍派遣は、より複雑な政治的意図を内包していた。義元の目には、この大規模な軍事介入は、今川家の内政に対する「過剰な干渉」であり、弱体化した今川家への圧力を強め、かつて今川領であった河東地域(富士川以東)の奪還を狙う野心の表れと映った 2 。この不信感は、乱の終結後、今川家の外交政策に決定的な転換をもたらす。
乱を制し、家督を相続した義元は、背後の脅威となりうる北条氏を牽制するため、驚くべき一手を打つ。父の代からの宿敵であった甲斐の武田信虎と電撃的に和睦し、天文6年(1537年)には信虎の娘(定恵院)を正室に迎えることで、甲駿同盟を成立させたのである 38 。長年の同盟者であった今川家のこの行動は、北条氏綱にとって完全な裏切りであった。激怒した氏綱は直ちに駿河へ侵攻し、ここから約10年間に及ぶ大抗争「第一次河東一乱」が勃発する 38 。
結論として、花倉の乱における北条氏の援軍は、短期的には義元の勝利を確定させたが、長期的には今川・北条間の長年の同盟関係を崩壊させ、東海地方の外交秩序を根底から覆す引き金となったのである。
第五章:乱の遺産 ― 新たなる秩序の胎動
花倉の乱は、今川家の内部に深い傷跡を残したが、同時に新たな秩序を生み出す契機ともなった。
勝者・今川義元の誕生
内乱を血で制した栴岳承芳は、還俗して「義元」と名乗り、今川家第9代当主の座に就いた 2 。彼は直ちに太原雪斎を最高顧問として重用し、乱で疲弊した領国の再建に着手した 20 。まず、乱で敵対した福島氏や朝比奈千太郎らの所領を没収し、戦功のあった岡部親綱らに恩賞として与えることで、家臣団の再編成を断行 3 。これにより、自身の宗主権を絶対的なものとした。
さらに、父・氏親の政策を継承・発展させ、領国内で大規模な検地を実施し、年貢徴収システムを整備した 43 。天文22年(1553年)には、雪斎の助力を得て「仮名目録追加二十一箇条」を制定し、分国法を時代の変化に合わせてアップデートした 20 。これらの施策により、駿河・遠江の支配体制は盤石なものとなり、今川氏は義元の治世下で最盛期を迎えることになる。
敗者・福島一族の流転
乱の首謀者とされた福島一族は、その勢力を完全に失った。一族の多くは討死、あるいは所領を没収され、今川領から追放された 3 。しかし、この没落した一族から、後に戦国史に名を刻む一人の武将が生まれる。
乱で討たれた福島弥四郎(一説には福島正成)の子・勝千代は、相模国へ逃れ、北条氏綱に庇護された 45 。その武才を見出された彼は、氏綱から「綱」の一字と北条姓を与えられて「北条綱成」と名乗り、さらには氏綱の娘婿として一門に迎えられた 46 。後に綱成は、北条軍の先陣を担う五色備の一つ「黄備え」を率い、「地黄八幡(じきはちまん)」の旗印と共に、北条家屈指の猛将としてその名を轟かせることになる 46 。今川家の内乱で敗れた一族の末裔が、後に今川家と敵対する北条家で栄達するという運命の皮肉は、人材の流動が激しかった戦国乱世を象徴する出来事と言えよう。
東海三国、関係激変の序章
花倉の乱がもたらした最大の地政学的影響は、今川・武田・北条という東海三国間のパワーバランスを劇的に変化させたことである。前述の通り、乱を契機として今川・北条の同盟は崩壊し、今川・武田が新たに手を結んだ。これにより、東海地方は「今川・武田」対「北条」という新たな対立軸で動くことになった。
しかし、河東一乱という長年の消耗戦を経て、やがて三国は互いに疲弊し、利害を調整する必要性に迫られる。特に、それぞれが西(尾張)、北(信濃)、東(関東)へと勢力を拡大するためには、互いに背後を安定させる必要があった 48 。この機運を捉え、三国の仲介役を果たしたのが太原雪斎であった。彼の外交手腕により、天文23年(1554年)、義元の娘が武田信玄の嫡男・義信に、信玄の娘が北条氏康の嫡男・氏政に、氏康の娘が今川義元の嫡男・氏真に嫁ぐという形で、歴史的な「甲相駿三国同盟」が成立する 49 。この同盟により、義元は東方の憂いを断ち切り、全精力を西の三河・尾張方面へと傾けることが可能となった。花倉の乱は、回りまわってこの三国同盟が成立するに至る、外交力学の出発点であったと位置づけることができる。
終章:海道一の弓取り、その原点
花倉の乱は、単なる家督争いではなかった。それは、禅僧として静かな生涯を送るはずだった一人の青年を、血と権謀術数が渦巻く戦国の修羅の道へと引きずり出し、後に「海道一の弓取り」とまで称される大大名・今川義元へと変貌させた、彼の真の「初陣」であった 24 。
この内乱の勝利によって、義元は駿河・遠江に盤石な支配体制を確立した。この強固な領国が、後の三河平定、そして尾張への大動員を可能にし、今川家の版図を最大化させる原動力となったのである 43 。もし花倉の乱で義元が敗れていれば、その後の東海地方の歴史は全く異なる様相を呈していただろう。武田信玄の西上作戦も、徳川家康の台頭も、そして織田信長の飛躍も、その形を変えていたかもしれない。
桶狭間の戦いにおける義元の最期は、彼の人生の終着点としてあまりにも有名である。しかし、その栄光と悲劇に満ちた生涯の出発点を理解するためには、この花倉の乱にこそ目を向けなければならない。兄の血を乗り越え、家臣の野望を打ち砕き、同盟国の思惑を退けて、自らの手で運命を切り拓いたこの戦いこそが、戦国大名・今川義元の全てが始まった場所なのである。
引用文献
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