最終更新日 2025-08-29

長篠城の戦い(1575)

天正三年、織田・徳川連合軍と武田勝頼が長篠で激突。信長は馬防柵と鉄砲で武田騎馬隊を破り、戦国時代の戦術を革新。鳥居強右衛門の忠義も光る、武田家衰退の転換点となった戦い。

天正三年 長篠城の戦い:戦史的転換点の詳細分析

序章:天下布武の前に立ちはだかる甲斐の虎

天正3年(1575年)、日本の戦国時代は大きな転換点を迎えようとしていた。織田信長は、将軍・足利義昭を京から追放し、長年の宿敵であった浅井・朝倉両氏を滅亡させるなど、畿内における覇権をほぼ手中に収めつつあった 1 。しかし、その「天下布武」の前には、依然として巨大な障壁が立ちはだかっていた。西国の雄・毛利氏、北陸の上杉氏、そして難攻不落の石山本願寺を中心とする反信長勢力、いわゆる「信長包囲網」は、未だ健在であった。その中でも、東国に君臨する甲斐武田氏は、信長にとって最大の脅威であり続けた。

この年、各勢力はそれぞれの戦略目標を胸に、複雑な駆け引きを繰り広げていた。

織田信長 にとって、最大の関心事は大坂の石山本願寺攻略にあった 1 。武田氏との全面対決は、可能な限り避けたいというのが本音であった。しかし、同盟者である徳川家康を見捨てることは、自らの威信を損ない、東方の防波堤を失うことを意味する。信長は、この危機を好機と捉え、単なる救援に留まらず、武田家の軍事力を根底から覆すための決戦を決意することになる。

徳川家康 は、まさに存亡の危機に瀕していた。父祖伝来の三河国は武田の草刈り場と化し、動員可能な兵力はわずか8,000程度 3 。武田信玄亡き後、長篠城を奪還するなど失地回復に努めてはいたが 5 、単独で武田の大軍と渡り合う力はなく、信長の援軍こそが唯一の活路であった。

そして、偉大な父・武田信玄の跡を継いだ 武田勝頼 は、複雑な立場に置かれていた。信玄の急死という動揺を乗り越え、天正2年(1574年)には徳川方の高天神城を攻略するなど、その武威を示していた 7 。しかし、その内実では、信玄以来の宿老たちとの関係に苦慮し、自らの力量を「実績」によって証明し続けなければならないという強迫観念に駆られていた 1 。信長包囲網の一翼を担う大名としての責務と、父を超えるという個人的な渇望が、彼を三河の地へと向かわせたのである。

これら三者の思惑が交錯し、日本の軍事史を塗り替える一戦、「長篠城の戦い」の幕が上がろうとしていた。

第一部:開戦への道程

第一章:信玄亡き後の武田家

武田勝頼が長篠へと軍を進めた背景には、信玄という偉大な父の存在が色濃く影を落としていた。信玄は生涯にわたり最高権力者の座を譲らず、後継者である勝頼には、外交儀礼など限定的な役割しか与えなかった 1 。内政や軍事における実権の継承は不十分なまま、勝頼は突如として巨大な軍事国家の舵取りを任されたのである。

この権力基盤の脆弱性は、山県昌景や馬場信春といった、父とほぼ同世代の宿老たちとの関係に微妙な緊張感をもたらした 1 。彼らにとって、昨日まで戦場で同格に近かった若き勝頼を、心から主君として仰ぐには心理的な時間が必要であった。勝頼自身も、この宿老たちの存在を頼もしく思う反面、自らの権威を確立するためには、彼らを圧倒する軍功を挙げる以外に道はないと感じていた 1 。信玄の治世における強力な中央集権体制が、皮肉にも後継者の権力基盤を揺るがし、彼を性急な軍事行動へと駆り立てる遠因となったのである。この心理的圧力が、後の長篠におけるリスクの高い決断へと繋がっていく。

天正2年(1574年)の遠江・高天神城攻略は、勝頼の渇望を一時的に満たした。信玄ですら落とせなかった堅城を陥落させたことで、勝頼の武名は高まった 7 。しかし、この成功は、さらなる勝利への欲求を掻き立てる麻薬ともなった。

第二章:勝頼、三河へ

天正3年(1575年)、勝頼の三河侵攻は、当初より長篠城を目標としていたわけではなかった。彼の当初の計画は、徳川家康の嫡男・信康の側近であった大岡弥四郎らの内通を利用し、徳川家の本拠地・岡崎城を無血開城させ、一気に尾張へとなだれ込むという、壮大かつ奇襲的なものであった 1 。しかし、この密約は事前に露見し、内通者たちは処刑されてしまう。勝頼の野望は、戦わずして頓挫した 1

大軍を動員した手前、もはや手ぶらで甲斐へ帰ることはできない。勝頼の面目は丸潰れとなり、家臣団の信望を失いかねなかった。そこで急遽、目標として選ばれたのが、信玄死後に家康が奪い返していた奥三河の要衝・長篠城であった 1

この出陣には、複数の理由が複雑に絡み合っていた。第一に、石山本願寺からの救援要請に応えるという、信長包囲網の一員としての大義名分である 8 。これは単なる口実ではなく、武田家が反信長勢力の中核であることを示すための重要な政治的行動であった。長篠の戦いは、石山合戦の東部戦線という側面も持っていたのである。第二に、長篠城を再奪取することで、徳川領の奥三河における影響力を完全に排除し、対徳川戦線を有利に進めるという戦略的意図があった 1 。そして第三に、岡崎城計画の失敗を挽回し、大名としての面目を保つという、勝頼個人の動機があった 3

勝頼の三河侵攻は、練り上げられた大戦略というよりは、複数の動機が絡み合い、当初計画の頓挫によって修正を余儀なくされた、ある種の「場当たり的」な側面が強かった。この戦略的柔軟性の欠如が、後に彼を引くに引けない状況へと追い込んでいく。

第三章:迎え撃つ織田・徳川連合

その頃、徳川家康は絶望的な状況にあった。動員可能な兵力はわずか8,000 4 。対する武田軍は1万5,000の大軍であり、単独での野戦は自殺行為に等しかった 3 。家康は信長に対し、「もし織田殿の援軍が来ぬのであれば、我が軍は武田勢と共に尾張へ乱入する」と、半ば脅迫に近い形で救援を要請するほど、事態は切迫していた 3

この要請に対し、信長の決断は迅速かつ大規模なものであった。彼は、単に数千の援軍を派遣するのではなく、自ら3万の主力軍を率いて出陣することを決めたのである 4 。これは、単なる同盟者の救援という枠を遥かに超えていた。信長は、家康の脱落が対武田の防波堤の喪失を意味し、自らの領国が直接脅威に晒されることを理解していた。それ以上に、彼はこの勝頼の侵攻を、武田家の主力を野戦におびき出し、一挙に殲滅する千載一遇の好機と捉えたのである。信長の出陣は、防衛ではなく、東国最大の脅威を排除するための、極めて攻撃的な戦略的決断であった。彼は受動的に救援に向かったのではなく、能動的に決戦を仕掛けに行ったのだ。

第二部:長篠城攻防戦 ― リアルタイム・クロニクル

第四章:包囲下の孤城(天正3年4月下旬~5月13日)

天正3年4月12日、父・信玄の三回忌法要を終えた武田勝頼は、1万5,000の兵を率いて甲府の躑躅ヶ崎館を出陣した 8 。遠江・三河の諸城を次々と攻略しながら進軍し、4月末には長篠城を完全に包囲した 9 。武田軍は城の南、豊川の対岸に位置する鳶ヶ巣山に監視の拠点を置き、さらに中山砦、久間山砦など合計5つの砦を築いて、蟻の這い出る隙間もない包囲網を完成させた 10

対する長篠城は、城主・奥平貞昌(後の信昌)が率いるわずか500の兵が守るのみであった 4 。しかし、城は三方を豊川と宇連川の断崖に囲まれた天然の要害であり、200丁の鉄砲や大砲も備えられていた 4 。奥平軍は、この地形の利と決死の覚悟で、30倍もの兵力差を誇る武田軍の猛攻に耐え続けた。

勝頼は、この小城は数日で陥落すると高を括っていた可能性が高い。しかし、城兵の頑強な抵抗により、戦いは予想外に長引いた。さらに不運なことに、城内の兵糧庫が火災で焼失し、食料が底をつき始めた 4 。援軍の当てもなく、落城はもはや時間の問題という、絶体絶命の状況に追い込まれていった。この勝頼にとっての時間の浪費が、織田・徳川連合軍に大規模な救援部隊を編成し、設楽原で周到な準備を整えるための貴重な時間を与えてしまったのである。

第五章:不滅の忠臣、鳥居強右衛門(5月14日~16日)

【5月14日夜】

城内の兵糧が尽きかけ、兵の士気も限界に達する中、奥平貞昌は最後の望みを託し、岡崎城の家康へ援軍を要請する使者を送ることを決断する。武田軍の厳重な包囲網を突破するという、九死に一生の任務であった。この命がけの役に、一人の足軽が自ら名乗りを上げた。鳥居強右衛門である 12。彼は身分が低く敵に顔を知られていないこと、そして並外れた身体能力を買われ、この重大任務を託された 12。その夜、強右衛門は闇に紛れて城の下水口から豊川の濁流に身を投じ、武田軍の警戒網を潜り抜けることに成功した 12。

【5月15日】

強右衛門は夜通し走り続け、翌15日の午後、約65km離れた岡崎城に到着した 12。彼は家康に長篠城の窮状を報告し、そこで信じられないような吉報を耳にする。既に織田信長が3万の大軍を率いて救援に向かっており、徳川軍と合わせた総勢3万8,000の連合軍が、まさに出陣の準備を整えているというのだ 12。

【5月16日早朝~午前】

この吉報に、強右衛門は疲労を忘れ、一刻も早く城の仲間に伝えようと、家康の制止を振り切って長篠へと引き返した 12。しかし、16日の早朝、長篠城を目前にしたところで、度重なる狼煙を不審に思った武田の哨戒兵に捕らえられてしまう 12。

勝頼の前に引き出された強右衛門に対し、勝頼は取引を持ちかけた。「援軍は来ないと城に向かって叫べ。さすれば、お前の命を助けるだけでなく、武田家の家臣として厚遇しよう」 12 。強右衛門は、その場でこの条件を承諾した。

【5月16日】

強右衛門は、城からよく見える対岸の丘へ引き立てられた。城兵たちが固唾を飲んで見守る中、彼は約束を反故にし、ありったけの声で叫んだ。

「援軍は必ず来る!信長様、家康様が、大軍を率いてすぐそこまで来ておられるぞ!あと二、三日の辛抱だ!」 12

城内から、歓喜の雄叫びが上がった。激怒した勝頼は、即刻強右衛門を処刑するよう命じた。強右衛門は、城の仲間たちが見守る中、磔にされ、壮絶な最期を遂げた。享年36であった 12。

彼の行動は単なる美談ではない。もし強右衛門が失敗、あるいは裏切っていれば、長篠城は連合軍到着を待たずに開城していただろう。そうなれば、18日に設楽原に到着した連合軍は戦うべき「拠点」を失い、戦術的に極めて不利な状況に立たされていた。強右衛門の命を賭した行動が、設楽原決戦という歴史の「舞台」そのものを成立させたのである。

第六章:救援軍、設楽原へ(5月17日~20日)

鳥居強右衛門が岡崎城に到着する前日、5月13日に信長は岐阜を出陣していた 9 。14日に岡崎城で家康と合流すると 15 、連合軍は破竹の勢いで進軍。17日には野田城、そして18日、決戦の地となる設楽原に3万8,000の大軍が布陣を完了した 15 。信長は戦場全体を見渡せる西側の極楽寺山に、家康は南側の弾正山に本陣を構えた 16

【18日~19日】

信長は、設楽原の中央を流れる連吾川を天然の堀に見立て、その西岸に沿って、大規模な野戦陣地の構築を命じた。全長約2kmにわたり、三重の馬防柵、空堀、土塁を組み合わせた、当時としては前代未聞の堅固な防御施設であった 1。柵に用いる丸太は、岐阜から兵士一人ひとりに運ばせたという逸話も残るほど、周到に準備されたものであった 18。この陣地は、単なる防御施設ではなく、武田軍を特定のキルゾーンに誘い込み、鉄砲の効果を最大化するための巨大な戦術的装置であった 19。

【19日~20日】

連合軍の予想を遥かに超える大軍の出現と、堅固な陣地の構築を目の当たりにし、武田軍の陣営は動揺した。軍議では、山県昌景、馬場信春ら信玄以来の宿老たちが、敵の術中にはまることを危惧し、即時撤退を強く主張した 4。しかし、勝頼と長坂光堅ら側近たちは、決戦を強硬に主張した。

この無謀とも思える決断の背景には、いくつかの要因があった。第一に、信長が陣地に籠もるのを「弱気」の表れと誤認したこと 4 。第二に、ここで戦わずして撤退すれば、「信玄の子は臆病者」と嘲られ、武田の名声が地に落ちるとの懸念。第三に、織田の重臣・佐久間信盛が内応するという、信長側が流した偽情報を鵜呑みにしていたこと 3 。そして最後に、今後、織田との経済力・国力差は開く一方で、今を逃せば二度と勝機はないという焦りがあった 4

勝頼は、目に見える「敵の堅固な陣地」という物理的情報よりも、「敵は弱気である」という希望的観測と偽情報に基づいて決断を下してしまった。物理的な戦闘が始まる前に、情報戦において信長は既に勝利を収めていたのである。

第三部:設楽原決戦 ― 運命の一日(天正3年5月21日)

決戦前夜、両軍の戦力はあまりにも対照的であった。連合軍が兵力と装備で圧倒的優位に立つ一方、武田軍は兵の練度と士気で勝っていた。しかし、戦いは武田軍が想定し得ない形で始まろうとしていた。


表1:設楽原決戦における両軍の戦力比較

項目

織田・徳川連合軍

武田軍

典拠

総兵力

38,000 (織田30,000, 徳川8,000)

15,000 (設楽原決戦投入は12,000-13,000)

4

主要指揮官

織田信長, 徳川家康, 滝川一益, 羽柴秀吉, 酒井忠次

武田勝頼, 武田信廉, 山県昌景, 馬場信春, 内藤昌豊

16

鉄砲数

1,000~3,000丁(諸説あり)

200~500丁程度

22

陣形

連吾川沿いの馬防柵・土塁・空堀による縦深防御陣地

鶴翼の陣(13段構えとも)

21

主力・戦法

鉄砲隊による防御射撃と、柵を利用した迎撃戦

槍隊を主力とした波状攻撃による中央突破

21


この戦力比較は、戦いの基本構造を明確に示している。連合軍が「地の利」と「装備の優越」を活かして、武田軍の「兵の精強さ」を無力化しようとしたのに対し、武田軍は伝統的な野戦の作法で、敵陣の中央突破を図ろうとしていた。この戦術思想の差が、勝敗を決定づけることになる。

第七章:夜明けの奇襲(午前2時頃~午前6時頃)

20日の軍議の席で、徳川の重臣・酒井忠次は、鳶ヶ巣山の砦群を奇襲する策を進言した。信長は一度、情報漏洩を恐れてこれを罵倒し却下したが、密かに忠次を呼び出し、作戦の実行を命じた 24

【20日夜~21日未明】

20日午後10時頃、酒井忠次率いる徳川勢に、信長配下の金森長近らを加えた約4,000の別働隊が、密かに設楽原の陣地を出発した 26。彼らは闇夜と雨に紛れ、豊川を渡り、吉川から松山峠を越える険しい山道を約12時間かけて夜通し行軍。武田軍に全く気付かれることなく、鳶ヶ巣山の背後への迂回に成功した 26。

【21日払暁】

夜が明け始めた午前6時頃、酒井の別働隊は、鳶ヶ巣山砦をはじめとする武田軍の5つの砦に一斉に奇襲攻撃を仕掛けた 10。完全に不意を突かれた武田の守備隊は大混乱に陥り、砦の主将であった信玄の弟・河窪信実をはじめ、多くの将兵が討ち死にし、砦は瞬く間に陥落した 11。

この奇襲成功は、設楽原で対峙する武田本隊にとって致命的な一撃となった。退路を断たれ、背後を脅かされ、さらに解放された長篠城兵という新たな敵が出現したことで、勝頼はもはや撤退の選択肢を失った。目の前の連合軍陣地を力ずくで突破するしか、活路はなくなったのである。酒井の奇襲は、武田軍を「攻めなければ全滅する」という状況に追い込む、完璧なチェックメイトであった。

第八章:血風の設楽原(午前6時頃~正午頃)

鳶ヶ巣山から上がる鬨の声と狼煙は、設楽原の武田本陣にも届いた。後顧の憂いを断つべく、勝頼は全軍に総攻撃を命じた 16

午前6時過ぎ、武田軍の第一陣、山県昌景率いる精鋭「赤備え」が、徳川軍の陣地めがけて突撃を開始した。続いて、内藤昌豊、馬場信春、原昌胤らの部隊が、波状攻撃を仕掛ける 22 。しかし、彼らの前には連吾川のぬかるんだ湿地と、堅固な馬防柵が立ちはだかった。

武田の兵たちは、泥に足を取られながら柵に殺到するが、柵の内側から放たれる鉄砲隊の猛烈な斉射によって、次々となぎ倒されていった 16 。突撃を繰り返すたびに、おびただしい数の死傷者が積み上がっていった。

この戦いを象徴する「鉄砲三段撃ち」と「武田騎馬隊」については、後世の創作という側面が強い。信頼性の高い史料である『信長公記』には「三段撃ち」の記述はなく、「さんざんに(=猛烈に)」鉄砲を撃ちかけたとあるのみである 33 。しかし、複数の部隊が交代で射撃し、途切れることのない火線を維持する、極めて組織的な鉄砲運用が行われたことは間違いない 34 。また、「武田騎馬隊」という騎馬武者だけの独立部隊は存在せず、軍全体の1割程度の騎馬武者は、主に指揮や伝令に用いられた 33 。設楽原のような湿地帯での騎馬による集団突撃は非現実的であり、実際には馬から下りて、足軽の槍隊と共に突撃したと考えられる 36

この戦いの革新性は、特定の戦法ではなく、「防御施設」「大量の火器」「兵の分業」を組み合わせた システムとしての集団戦法 を、史上初めて大規模な野戦で実践し、成功させた点にある 2 。それは、個人の武勇に頼る中世的な戦いから、兵站と合理性に基づいた近世的な戦争への、決定的な転換点であった。

第九章:名将たちの最期(正午頃~午後3時頃)

約6時間にわたる壮絶な消耗戦の末、武田軍の損害は限界に達していた。土屋昌次が第二柵まで突破するなどの鬼神の如き奮戦もあったが 38 、大勢を覆すには至らなかった。正午を過ぎる頃には、武田軍の敗色は誰の目にも明らかとなっていた。

【午後1時頃】

武田四天王筆頭と謳われた山県昌景は、徳川軍の陣地を猛攻するも、ついに銃弾に倒れた。両腕が利かなくなっても采配を口にくわえて指揮を続けたと伝わるが、壮絶な最期を遂げた。享年47 39。信長と家康は、戦いの勝利よりも山県を討ち取ったことを喜んだという。

【午後2時頃】

馬場信春らの必死の進言を受け、勝頼はついに退却を決断。わずかな供回りと共に、戦場からの離脱を開始した 16。中央で奮戦していた

内藤昌豊 は、主君の退却を見届けると、追撃してくる連合軍の中に突入し、獅子奮迅の働きを見せた末に討ち死にした。享年54 42

【午後3時頃】

殿(しんがり)という最も危険な役目を引き受けたのは、「不死身の鬼美濃」と恐れられた馬場信春であった。彼は、生涯で一度も傷を負ったことがないという伝説の猛将であったが、この日、自らの命を捨てることを決意していた。追撃軍を巧みに食い止め、勝頼が無事に落ち延びたのを確認すると、敵中に引き返し、「我こそは馬場美濃守なり。この首、手柄にせよ」と名乗りを上げ、傷一つない体で悠然と最期を迎えたという。享年61 45。

武田軍の敗北は、組織としての戦術的敗北であった。しかし、山県、内藤、馬場といった宿将たちの最期は、組織が崩壊する中でなお個人の武勇と忠義を貫き通す、戦国武士の美学を体現していた。彼らの死は、武田家の軍事的中核の喪失であると同時に、一つの時代の終わりを象徴するものであった。

第四部:戦いの後

第十章:歴史の転換点

設楽原の戦いは、わずか半日で決着した。しかし、その結果は戦国時代の勢力図を根底から覆すものであった。

武田軍の損害は、死者1万人以上、一説には1万2,000人に達した 8 。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟といった、信玄の代から武田家を支えてきた譜代の重臣のほとんどが、この設楽原に骨を埋めた。これは単なる兵の損失ではない。武田家の軍事・統治システムそのものを支えてきた、かけがえのない人的資源の壊滅的打撃であった。一方、連合軍の損害も6,000人程度と決して少なくはなかったが、武田軍の受けた損害とは比較にならなかった 8

この一戦の歴史的意義は、大きく二つある。第一に、 戦術の革新 である。鉄砲の組織的・大量運用と野戦築城を組み合わせた信長の戦術が、従来の騎馬と槍を主体とした戦法を完全に凌駕することを証明した 2 。これにより、合戦の様相は大きく変化し、個人の武勇よりも、兵站や経済力、組織力が勝敗を左右する時代へと移行していく。

第二に、 勢力図の激変 である。この致命的な敗北により、武田家は急速に衰退の一途をたどることになる 2 。逆に、勝利した織田信長は、東国における最大の脅威を排除し、天下統一事業を大きく、そして決定的に前進させた 6 。長篠での大敗後、勝頼は領国の立て直しに奔走するが、失われた重臣たちの穴はあまりにも大きく、国人衆の離反が相次ぐ。そして天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍による本格的な甲州征伐によって、名門・武田家は滅亡の時を迎える。長篠の戦いは、武田家滅亡の直接的な引き金となったのである。

結論として、長篠の戦いにおける武田軍の敗北は、単なる戦術ミスや兵力差によるものではなかった。それは、経済力(鉄砲や火薬の原料を安定的に輸入できる堺などの港の支配 48 )、情報力(敵情分析と偽情報の活用)、そして新旧の戦争観(システム化された集団戦法 対 個人の武勇に依存した戦法)といった、国家の総合力の差が顕在化した、必然的な結果であったと言える。武田勝頼は、父・信玄という偉大な過去の幻影と戦い、織田信長という未来の戦争の形と戦い、そして敗れたのである。この戦いは、戦国という時代の大きな分水嶺として、日本の歴史に深く刻まれている。

引用文献

  1. なぜ勝頼は「長篠合戦」へ出陣し、敗北に至ったのか? | 歴史人 https://www.rekishijin.com/20324
  2. 長篠の戦|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2376
  3. 長篠の合戦の真相~武田勝頼はなぜ無謀な突撃を繰り返したのか https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3918
  4. 長篠の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7124/
  5. 長篠城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/67/memo/4330.html
  6. 長篠の戦い/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-kosenjo/nagashino-kosenjo/
  7. 年表で見る「長篠の合戦」 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/digest/nagashino.html
  8. 長篠の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  9. 時系列で検証する長篠・設楽原の戦い | 武田信玄軍団 最強武将~山縣三郎右兵衛尉昌景 https://ym.gicz.tokyo/nahasino?id=
  10. 連合軍鳶ヶ巣山砦奇襲攻撃コース ―織田信長・徳川家康 - IKOMAI東三河 武将トリップ https://www.higashimikawa.jp/busyo/course5.html
  11. 酒井忠次が奇襲した【鳶ヶ巣山砦】から【長篠城】を見下ろしてみた|愛知県新城市 https://delight-net.biz/archives/6829
  12. 鳥居強右衛門 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97492/
  13. 鳥居強右衛門は実在したのか?「逆さ磔」にされた話は本当? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/torii-suneemon/
  14. 鳥居強右衛門 - 新城市ホームページ https://www.city.shinshiro.lg.jp/kanko/hito/torisuneemon.html
  15. 【信長公記】長篠の戦い - 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/historical-material/documents7/
  16. 長篠・設楽原の戦い - 新城市ホームページ https://www.city.shinshiro.lg.jp/kanko/meisyo/nagashino-shitaragah.html
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  18. 馬防柵|新城市 - 東三河を歩こう https://www.net-plaza.org/KANKO/shinshiro/shitaragahara/babosaku/index.html
  19. 馬防柵 - 新城市 - キラッと奥三河観光ナビ https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=516
  20. 長篠合戦図屏風(大阪天守閣蔵)(050号表紙) - 徳島県立博物館 https://museum.bunmori.tokushima.jp/museum_documents/museumnews/mnews050/050_1_top.html
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  23. 武田勝頼は鉄砲をナメていたから負けたのではない…教科書が教えない「長篠の戦いで信長が勝った本当の理由」 最新の研究が明かす武田軍と織田軍の決定的な違い - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/70284?page=1
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  26. 1575年 – 77年 長篠の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1575/
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  30. 鳶ヶ巣山砦 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1623
  31. 戦いの経過 http://www.shinshiro.or.jp/battle/keika.htm
  32. 長篠合戦図屛風 - 名古屋・徳川美術館 | The Tokugawa Art Museum https://www.tokugawa-art-museum.jp/collections/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E5%90%88%E6%88%A6%E5%9B%B3%E5%B1%8F%E9%A2%A8/
  33. 「織田徳川vs武田」長篠の戦い、通説の9割は嘘 「騎馬隊も3段撃ちも…」最新の日本史を紹介 https://toyokeizai.net/articles/-/197322
  34. 設楽原の戦い~大量の火縄銃(鉄砲)を使用した織田信長~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/nagasino-nobunaga.html
  35. 長篠の戦い 三段撃ちの真実とは? - WAM ブログ https://www.k-wam.jp/blogs/2023/06/post113880/
  36. 意外と知らない戦国時代の事実。戦国最強の「武田騎馬軍団」にはウソがいっぱい? https://ddnavi.com/article/d350161/a/
  37. www.mlit.go.jp https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R4-00138.html#:~:text=%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AB%E6%AE%8B%E3%82%8B%E9%89%84%E7%A0%B2%E6%88%A6,%E5%A4%89%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%8D%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
  38. 武田軍武将たちの碑〈長篠の戦い⑿〉(徳川家康ゆかりの地28) - 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 https://wheatbaku.exblog.jp/32849386/
  39. 山県三郎兵衛昌景の墓 - 新城市 - | キラッと奥三河観光ナビ https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=347
  40. 山県昌景陣地 - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/yamagata-haka.htm
  41. 山県昌景は何をした人?「身長が低い最強の小男の赤備えが家康を震えあがらせた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/masakage-yamagata
  42. 内藤昌豊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%98%8C%E8%B1%8A
  43. 「内藤昌秀(昌豊)」武田家中で副将格に評された闘将 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/546
  44. 内藤修理亮昌豊陣地・墓 - 東三河を歩こう https://www.net-plaza.org/KANKO/shinshiro/shitaragahara/naito-masa/index.html
  45. 馬場信春 戦死の地 - 戦国女士blog https://rekijoshi.hatenablog.com/entry/2020/04/16/080625
  46. 馬場信春 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E4%BF%A1%E6%98%A5
  47. 馬場信房殿戦忠死之碑 - IKOMAI東三河 武将トリップ https://www.higashimikawa.jp/busyo/spot4.html
  48. 火縄銃と長篠の戦い/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/hinawaju-nagashino/