最終更新日 2025-08-29

高松城の戦い(1585)

天正十三年、秀吉の四国征伐において、喜岡城(旧高松城)は豊臣軍に包囲。城主・高松頼邑は絶望的な兵力差の中、忠義を貫き玉砕。秀吉の讃岐平定を加速させ、玉藻城築城の契機となった。

天正十三年、讃岐高松城の戦い:四国統一の夢、天下人の前に砕ける

序章:二つの「高松城」—歴史的誤解の解明と本報告の定義

天正13年(1585年)における「高松城の戦い」を詳述するにあたり、まず歴史研究上の重大な誤解を解き明かす必要がある。一般に「高松城」として知られる、現在の香川県高松市に存在する壮麗な水城「玉藻城」は、この戦いの舞台ではない。利用者様が当初想定されていた「玉藻城での攻防戦」は、歴史的事実とは異なる。本報告が対象とするのは、それ以前に存在し、この戦いによって歴史の表舞台から姿を消した、もう一つの「高松城」である。

この歴史的混乱の源泉は、三つの異なる「高松城」の存在に起因する。第一に、天正10年(1582年)に羽柴秀吉が水攻めを行ったことで天下に名を馳せた「備中高松城」(現・岡山県岡山市) 1 。第二に、本報告の主役であり、1585年の戦いの舞台となった「喜岡城(きおかじょう)」。この城こそが、当時「高松城」と呼ばれていた城である 3 。そして第三に、四国征伐が終結した後の天正15年(1587年)以降、新たな讃岐国主・生駒親正によって築城された、日本三大水城の一つに数えられる「讃岐高松城(玉藻城)」である 5

なぜこの混同が生じるのか。それは、戦後に築かれた生駒氏の玉藻城が、江戸時代を通じて高松藩の政治・経済・文化の中心として揺るぎない地位を築き、その圧倒的な存在感が、先行する喜岡城の歴史的記憶を上書きしてしまったからに他ならない 4 。玉藻城の輝かしい歴史が、その誕生の契機となった凄惨な戦いの記憶を覆い隠してしまったのである。

したがって、本報告が詳述する「1585年の高松城の戦い」とは、正確には「 喜岡城(旧高松城)の攻防戦 」である。これは単なる玉藻城攻略の物語ではなく、玉藻城が築かれる直接的な「原因」となった、忘れられた城を巡る戦いの物語である。本報告は、この歴史の深層に光を当て、戦国時代の四国における一つの時代の終焉を克明に描き出すことを目的とする。

第一章:決戦前夜—四国統一の夢と天下人の野望

天正13年(1585年)、四国は一人の男の手によって、まさに統一されようとしていた。土佐の雄、長宗我部元親である。同年春、元親は伊予の河野氏を降伏させ、長年の宿願であった四国平定をほぼ成し遂げた 7 。しかし、その覇業は薄氷の上にあった。阿波や讃岐には旧三好一族の残存勢力が抵抗を続けており、秀吉は彼らへの補給を続けることで、元親の支配が盤石ではないことを見抜き、介入の口実としていた 9

元親の軍事力の根幹をなすのは、「一領具足」と称される半農半兵の兵士たちであった。彼らは土佐統一においては絶大な力を発揮したが、農繁期には帰農せねばならず、また武具も豊臣軍のそれとは比較にならないほど粗末であった 11 。兵農分離を完了し、専門的な訓練を積んだ職業軍人集団である豊臣軍との間には、埋めがたい質的な差が存在していたのである。

一方、畿内では羽柴秀吉が天下人への道をひた走っていた。秀吉にとって、元親は看過できない存在であった。元親が、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家に、小牧・長久手の戦いでは徳川家康・織田信雄に与するなど、再三にわたり反秀吉陣営に与してきたからである 7 。天下統一を目前にする秀吉にとって、背後に独立勢力が存在することは許容できなかった。

秀吉は元親に対し、「伊予・讃岐両国の返上」という厳しい要求を突きつけた。元親は多くの犠牲の上に得た領土をやすやすと手放すことはできず、「伊予一国のみの割譲」を条件に和睦を探ったが、秀吉はこれを一蹴 7 。交渉は決裂し、天正13年5月、秀吉は弟の羽柴秀長を総大将に任じ、四国征伐の大号令を発した 15

この対立は、単なる二人の武将の領土争いではない。それは、戦国乱世を通じて各地で進行した「地方勢力による地域統一」という歴史の潮流と、織田信長から秀吉へと受け継がれた「中央集権的な天下統一」という、より巨大な潮流とが、四国という地で激突した必然的な出来事であった。元親の四国統一が完成に近づけば近づくほど、それは秀吉にとっての脅威となり、軍事介入を不可避なものとした。皮肉にも、元親の成功そのものが、彼の覇業の終焉を早めることになったのである。

第二章:秀吉のグランドストラテジー—四国を呑み込む三方面同時侵攻

長宗我部元親は、秀吉の大軍が淡路島を経由して阿波に侵攻してくると予測していた。彼は四国の地理的中心に位置し、各方面への連絡が容易な阿波西端の白地城に本陣を構え、阿波沿岸の諸城に兵力を重点的に配置して迎え撃つ策を立てた 7 。元親が動員できた兵力は、最大で約4万であったとされる 13

しかし、秀吉の戦略は元親の想像を遥かに凌駕していた。秀吉は、四国を完全に包囲殲滅するため、三つの方面から同時に大軍を上陸させるという壮大な作戦を発動した。動員された総兵力は10万を超え、その兵力差は歴然としていた 10

表1:四国征伐における豊臣軍の編成

方面軍

総大将 / 主要指揮官

兵力

進軍経路 / 上陸地点

阿波方面軍 (主攻)

総大将:羽柴秀長 副将:羽柴秀次

約60,000

淡路島経由 → 阿波国

伊予方面軍

毛利輝元、小早川隆景、吉川元長

約30,000

安芸・備後 → 伊予国今治

讃岐方面軍

総大将:宇喜多秀家 軍監:黒田官兵衛 蜂須賀正勝、仙石秀久

約23,000

備前国 → 讃岐国屋島

この三方面同時侵攻作戦は、単なる物量に任せた力押しではない。それは、秀吉がすでに瀬戸内海の制海権を完全に掌握していたからこそ可能な、高度な兵站戦略であった。直前の紀州征伐を完了させ 15 、和泉・紀伊の水軍力を吸収し、さらに毛利水軍を麾下に収めていた秀吉にとって、10万の軍勢を海路で輸送することは造作もないことであった 10

この時点で、元親は戦略的に敗北していた。彼の軍勢は四国島内に完全に封じ込められ、外部からのいかなる支援も望めない。さらに、秀吉は反長宗我部勢力を通じて四国島内の情報を的確に把握しており、元親の防衛計画は筒抜けであった可能性が高い。戦闘が開始される以前に、兵站と情報という目に見えない戦場で、すでに勝敗は決してしまっていたのである。

第三章:讃岐戦線、開戦—宇喜多・黒田連合軍、屋島へ

天正13年(1585年)6月16日、秀吉は岸和田城から四国への出陣を正式に命令した 10 。これを受け、讃岐方面軍を率いる宇喜多秀家は、約2万3千の軍勢を率いて備前国から出航した 10

彼らが上陸地点として選んだのは、讃岐国東部に位置する屋島であった 9 。屋島は、かつて源義経が奇襲をかけて平家を破った、源平合戦の古戦場として名高い地である。この地を上陸地点に選んだことには、単に地理的に内陸への進軍拠点として優れているというだけでなく、輝かしい戦勝の記憶にあやかり、豊臣軍の士気を高揚させるという象徴的な意味合いも込められていたと考えられる。

讃岐方面軍の陣容は、まさに盤石であった。総大将の宇喜多秀家は秀吉の養子であり、この大役が初陣に近い若武者であったが 20 、その脇を固めるのは百戦錬磨の将たちであった。軍監として全軍の作戦を指導するのは、稀代の軍師・黒田官兵衛。さらに、阿波の地理に精通した蜂須賀正勝、そしてかつて讃岐で長宗我部軍に煮え湯を飲まされた経験を持つ仙石秀久が加わっていた 10 。若き総大将を経験豊富な宿将たちが補佐する、非の打ちどころのない指揮系統が構築されていたのである。

屋島に上陸した宇喜多・黒田連合軍は、ただちに内陸への進軍を開始した。彼らの最初の攻略目標は、屋島からほど近い平野に築かれた、高松頼邑が守る喜岡城、すなわち当時の「高松城」であった。

第四章:高松城(喜岡城)の攻防—二百の兵、二万の大軍に挑む

【開戦前夜】城主・高松頼邑と喜岡城

喜岡城主・高松頼邑は、美濃源氏土岐氏の流れを汲む名門・高松氏の末裔であった 4 。もともとは讃岐の有力国人である香西氏に属していたが、天正10年(1582年)に主君の香西佳清が長宗我部元親に降伏したことに伴い、頼邑もまた元親の麾下に入っていた 21 。彼は決して無名の武将ではない。天正11年(1583年)には、秀吉の命を受けて讃岐に侵攻してきた仙石秀久の軍勢を、この喜岡城で一度撃退したという実績を持っていた 4

しかし、彼が守る喜岡城は、丘陵を利用した平山城であり、石垣や天守を備えた近世城郭のような堅固な防御施設を持つ城ではなかった 4 。長宗我部氏の支配下に入ってから日が浅く、大規模な改修も行われていなかったと推測される。

【包囲】絶望的な兵力差

屋島から進軍してきた宇喜多・黒田連合軍は、瞬く間に喜岡城を幾重にも包囲した。城内に籠もる兵力は、頼邑自身の兵に加え、長宗我部からの援兵を合わせても、わずか200名余り。対する豊臣軍は約2万3千。その兵力差は、実に100倍以上という、絶望的なものであった 3

【攻城戦】忠義を貫いた玉砕

豊臣軍は、攻撃に先立って降伏を勧告した。これほどの兵力差を前に、降伏は理に適った選択であった。しかし、高松頼邑はこれを敢然と拒絶する。一説には、豊臣方への内応を勧められたものの、新たな主君である長宗我部元親への忠義を貫き、一戦も交えずに城を明け渡すことを潔しとしなかったと伝えられている 25

勧告が破られるや、豊臣軍の総攻撃が開始された。怒涛のごとく押し寄せる大軍に対し、城兵は必死の防戦を試みる。しかし、圧倒的な物量の前には、個々の武勇など意味をなさなかった。城の各所で防衛線は次々と破られ、城兵は一人、また一人と討ち取られていった。

壮絶な戦闘の末、城主・高松頼邑は討死。重臣の唐人弾正、片山志摩といった主だった武将たちもことごとく命を落とした 26 。最終的に、城兵200名余りは一人残らず玉砕し、喜岡城は落城した。

この戦いは、軍事的にはあまりにも無謀な籠城戦であった。しかし、そこには戦国武将としての「義」を貫くという、彼らなりの矜持があった。一方で、秀吉の側から見れば、この徹底的な殲滅戦は、讃岐の他の城主たちに対する強烈な心理的圧力となった。抵抗すれば、喜岡城と同じ運命を辿るという無言の恫喝である。高松頼邑が命を懸けて守ろうとした「忠義」は、結果として、秀吉の讃岐平定を加速させるための冷徹な戦略の駒として利用された。この戦いは、個人の武勇や義理が、巨大な天下統一という政治・軍事マシンの前ではいかに無力であるかを物語る、象徴的な出来事であった。

第五章:軍師官兵衛の慧眼—植田城の罠を見破る

喜岡城を鮮血で染め上げた豊臣軍は、次に讃岐南部の植田城へと駒を進めようとした。だが、この時、軍監・黒田官兵衛の双眸は、敵の巧妙な罠の兆候を捉えていた。

長宗我部元親は、讃岐方面軍を殲滅するための壮大な計略を巡らせていた。讃岐南部に新たに築いた植田城に、一門の勇将・戸波親武を配置し、そこを囮とする計画であった 14 。防備を手薄に見せかけて豊臣軍を城深くまで誘い込み、十分に引きつけたところで、阿波の白地城から元親自らが率いる本隊が背後を急襲。敵を挟撃し、一挙に葬り去るという、まさに乾坤一擲の策であった 14

しかし、官兵衛は戦場の些細な不自然さを見逃さなかった。喜岡城があれほど壮絶に玉砕したにもかかわらず、植田城周辺の長宗我部軍に動揺や撤退の気配が全くない。むしろ、防備は意図的に手薄にされているようにすら見える。この不自然な状況から、官兵衛は敵の狙いが単なる籠城ではなく、豊臣軍を誘い出すための罠であることを見抜いたのである 29

ここで官兵衛は、常人には下せないであろう戦略的決断を下す。彼は、目の前の植田城を攻略するという戦術的勝利を放棄し、軍の進路を大きく転換させることを宇喜多秀家に進言した。讃岐での深追いは危険と判断し、全軍を東へ転進させ、阿波方面で戦う総大将・羽柴秀長の主力軍と合流するべきだと説いたのである 9

この判断は、黒田官兵衛が単なる戦術家ではなく、戦争全体を俯瞰できる真の戦略家であったことを証明している。彼は、備中高松城の水攻めのような奇抜な戦術で知られるが 31 、この植田城での決断は、それとは質の異なる、より高次の戦略的思考の産物であった。「戦わない」ことによって敵の最大の計略を無力化し、自軍の損害を未然に防ぐ。この決断こそが、元親の四国における防衛計画全体を根底から覆し、四国征伐そのものの早期終結に決定的な貢献を果たしたのである。

第六章:讃岐平定と戦後処理

黒田官兵衛の慧眼によって元親の計略が見破られ、讃岐方面軍が阿波へと転進したことで、讃岐における長宗我部方の戦線は事実上崩壊した。切り札であった挟撃作戦が水泡に帰し、抵抗の精神的支柱を失った諸城は、戦意を喪失した。喜岡城の玉砕という凄惨な前例も、彼らの決断を早めさせたであろう。香西城、牟礼城といった讃岐東部の拠点は、次々と豊臣軍の手に落ち、讃岐は完全に平定された 8

一方、主戦場であった阿波方面でも、元親の防衛網は限界に達していた。羽柴秀長率いる6万の大軍に包囲された一宮城は、水の手を断たれるなどの猛攻の末に開城 7 。伊予方面も、毛利軍によって完全に制圧されていた 9

四方の全てを敵に囲まれ、万策尽きた元親は、ついに降伏を決意する。重臣・谷忠澄が、豊臣軍の圧倒的な軍備と兵站能力を説き、これ以上の抗戦が無益であることを涙ながらに訴えた結果であった 13 。天正13年8月6日、元親は白地城を開き、秀吉に降伏した 9

講和の条件は、元親にとって屈辱的なものであった。長年をかけて切り取った阿波・讃岐・伊予の三国は全て没収され、長宗我部氏に安堵されたのは、発祥の地である土佐一国のみであった 7

戦後、讃岐国は論功行賞により、当初は仙石秀久に与えられた。しかし秀久は、翌年の九州征伐における戸次川の戦いで大失態を演じ、秀吉の勘気に触れて改易される 5 。その後、一時的に尾藤知宣が統治したが、最終的には織田信長の頃からの宿老である生駒親正が15万石をもって入封し、新たな国主となった 35 。讃岐の戦国時代は、ここに終わりを告げたのである。

終章:玉藻城の誕生と戦いの遺産

天正13年の「高松城(喜岡城)の戦い」は、単に一つの城が落ちたというだけの出来事ではない。それは、戦国的な地方分権の時代の終わりと、豊臣政権による中央集権的な支配体制の確立を、四国という舞台で象徴する戦いであった。長宗我部元親の四国統一の夢は、天下人の圧倒的な力の前に砕け散った。

この戦いは、戦略的な教訓をも残した。讃岐沿岸部が瀬戸内海の海上交通を扼する軍事・経済上の要衝であることを改めて証明した一方で、喜岡城のような内陸に位置する旧式の城では、この要衝を完全に支配・活用することは不可能であることも明らかにした。

新たな讃岐国主となった生駒親正は、この教訓を深く理解していた。彼は、豊臣政権の西国支配の拠点として、また瀬戸内海航路の安定化という国家戦略の一翼を担うべく、より港湾機能に優れ、防御力の高い新たな城を必要とした。その結果、彼は喜岡城を廃し、海に直接面した「野原」と呼ばれた地に、海水を直接堀に引き込む壮大な水城の築城を開始する 6 。これが、後に「玉藻城」と謳われ、日本三大水城の一つに数えられる名城・高松城の誕生であった。

かくして、1585年の喜岡城の戦いは、近世高松藩の礎となる玉藻城を生み出す直接的な契機となった。歴史の表舞台から消え去った喜岡城と、そこで忠義に殉じた高松頼邑ら200余名の兵士たちの流した血の上に、現在の高松市の繁栄の礎が築かれたのである。忘れられた戦いの記憶を辿ることは、歴史の連続性と、一つの出来事が未来に与える深遠な影響を我々に教えてくれる。

引用文献

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  3. 高松寺は、戸塚駅より徒歩10分にある文禄2年(1593)に開山創建した寺院です。 http://www.kosyoji.org/profile.html
  4. 喜岡城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kioka.htm
  5. 高松城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/shikoku/takamatsu.j/takamatsu.j.html
  6. 生駒親正が玉藻の浦に築いた名城 高松城 - きままな旅人 https://blog.eotona.com/takamatsu-castle-a-famous-castle-built-by-ikoma-chikamasa-at-tamamo-no-ura/
  7. 【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 第15回 - 城びと https://shirobito.jp/article/1577
  8. 秀吉軍と戦った讃岐武士 - ビジネス香川 https://www.bk-web.jp/post.php?id=2875
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