最終更新日 2025-08-27

鳥居峠の戦い(1584)

天正十二年、小牧・長久手の戦いにおける鳥居峠の攻防。木曽義昌は徳川方として鳥居峠を堅守し、森長可率いる羽柴軍の侵攻を阻止。森長可の戦死により羽柴方の攻勢は頓挫。徳川家の信濃支配を確立した。

天正十二年・鳥居峠の戦い:小牧・長久手戦役における信濃戦線の全貌

第一部:序章 - 天下分け目の前哨戦、信濃

天正十二年(1584年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。織田信長が本能寺に倒れて二年、その後継者を巡る争いは、羽柴秀吉と徳川家康という二人の巨頭による直接対決へと発展した。これが世に言う「小牧・長久手の戦い」である。この戦役は、単に尾張国小牧・長久手(現在の愛知県)における局地的な戦闘に留まらず、畿内から東海、北陸、四国に至るまで、全国の大名を巻き込んだ広域戦役の様相を呈していた 1 。その複雑に絡み合った戦線の一つが、信濃国と美濃国の国境に位置する鳥居峠であった。一見、中央の主戦場から離れたこの山深い峠での対峙は、戦役全体の戦略的均衡を左右する、極めて重要な意味を持っていたのである。

1-1. 天正十二年の天下情勢:秀吉対家康の構図

天正十年(1582年)の本能寺の変後、主君・信長の仇である明智光秀を山崎の戦いで討ち、続く清洲会議、そして翌年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った羽柴秀吉は、織田家中の実権を急速に掌握し、天下人への道を突き進んでいた 2 。しかし、その急進的な権力集中は、信長の次男・織田信雄の強い警戒心を招いた。自らの立場が秀吉によって脅かされることを恐れた信雄は、父・信長の旧同盟者であり、当時五カ国を領する大勢力となっていた徳川家康に助力を要請した 2

家康にとって、この要請は単なる信雄への助力に留まらなかった。それは、秀吉の台頭を阻止し、自らの勢力を拡大する絶好の機会であった 3 。家康は信長の同盟者として、その遺児である信雄を助けるという「大義名分」を掲げることで、秀吉を「織田家を簒奪する逆臣」と位置づける戦略的構図を描いた。この正統性の主張は、紀州の雑賀・根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政といった反秀吉勢力を糾合する上で、極めて有効に機能した 2 。小牧・長久手の戦いは、秀吉が築き始めた新たな天下秩序に対する、織田家の旧臣や同盟大名といった旧来勢力による、最後の組織的抵抗という側面を色濃く持っていたのである。

1-2. 戦略拠点としての信濃国

この全国規模の戦役において、信濃国は特異な戦略的価値を持っていた。天正十年、織田信長の死後に発生した旧武田領を巡る争乱「天正壬午の乱」を経て、甲斐・信濃の大部分を確保した家康にとって、信濃は本拠地である三河・遠江の北方を守るための広大な緩衝地帯であり、重要な防衛線であった 2

一方、秀吉の視点から見れば、信濃は家康の背後を脅かし、その勢力を東国にまで拡大するための楔を打ち込むべき最重要攻略目標であった。このため秀吉は、越後の上杉景勝と巧みな外交を通じて同盟を結び、北信濃から家康領を牽制させるという遠大な戦略を展開した 1 。これにより、家康は主戦場である尾張に全戦力を投入することが困難となり、常に北からの脅威に備えなければならない状況に置かれた。この秀吉による「対家康北方戦線」の最前線こそが、鳥居峠だったのである。

天正十二年の信濃は、徳川、羽柴(その代理人としての上杉)、そして関東の北条という三大勢力の影響力が複雑に交錯する、地政学的な火薬庫であった。家康は、先年の講和を発展させ、対秀吉の攻守同盟ともいえる関係を北条氏と結んでいた形跡がある 1 。もし、秀吉方の勢力が信濃を席巻すれば、家康は背後を突かれるだけでなく、同盟者である北条氏との連携を完全に断ち切られる危険性があった。したがって、信濃の在地領主である木曽氏や小笠原氏を確実に味方に引き入れ、鳥居峠をはじめとする防衛ラインを維持することは、徳川・北条同盟を機能させ、家康が尾張の主戦場に集中するための絶対条件だったのである。

第二部:発端 - 木曽義昌、徳川に付く

鳥居峠の戦いの主役は、木曽谷を支配する国衆・木曽義昌であった。彼が秀吉ではなく家康に与するという重大な決断を下した背景には、木曽氏が歩んできた苦難の歴史と、彼の現実的な生存戦略、そして隣接する猛将・森長可との深刻な確執が存在した。

2-1. 木曽義昌の生存戦略

木曽谷に深く根を張る木曽氏は、源平合戦の英雄・源義仲の末裔としての誇りを持ち、極めて独立性の高い一族であった 9 。しかし、戦国時代中期、甲斐の武田信玄による信濃侵攻の前にその独立は脅かされる。義昌の父・義康は武田氏に降伏し、義昌自身は信玄の娘・真竜院を娶ることで、武田家の一門衆に準じる待遇を受け、その支配下に組み込まれた 10

だが、天正十年(1582年)、武田勝頼の代になると、義昌は織田信長に内通し、織田軍を自領に引き入れるという大胆な行動に出る。これが甲州征伐の直接的な引き金となり、名門・武田氏の滅亡を決定づけた 10 。この時、義昌は鳥居峠で勝頼が派遣した討伐軍を巧みな戦術で撃退しており、この成功体験は後の彼の防衛戦術に大きな影響を与えたと考えられる 9 。信長の死後、信濃が再び混乱(天正壬午の乱)に陥ると、義昌は新たな保護者を求めて徳川家康に接近し、その麾下に入った 12

義昌の行動原理は、一貫して「木曽谷の独立と安堵の維持」にあった。彼は、時々の最大勢力に従属しつつも、天下の情勢を冷静に見極め、生き残りのために主君を乗り換えることを厭わない、冷徹なリアリストであった。天正壬午の乱の際、彼は信長から与えられた深志城(現在の松本城)を、在地領主である小笠原貞慶によって早々に奪われている 14 。この出来事は、信長という絶対的な後ろ盾を失った国衆の脆さを彼に痛感させた。彼の家康への帰属は、単なる鞍替えではなく、混乱の時代を生き抜き、木曽谷という家門の地を守るための必然的な選択だったのである。

2-2. 鬼武蔵・森長可との確執

木曽義昌が徳川方につくことを最終的に決断させた最大の要因は、秀吉が信濃統治の尖兵として送り込んだ猛将・森長可の存在であった可能性が極めて高い。信長の小姓として名高い森蘭丸の兄である長可は、「鬼武蔵」の異名を持つほどの勇猛果敢な武将であった 15 。秀吉は、この長可を北信濃の海津城に配置し、信濃国衆の統制を委ねた。

長可の統治手法は、極めて強圧的であった。彼は信濃国衆に対し、その妻子を人質として海津城に住まわせることを義務付けるなど、力による支配を徹底した 17 。これは、独立を志向する在地領主たちの激しい反発を招いた。特に、自らの領地の安堵を最優先する木曽義昌にとって、隣接する東美濃と北信濃に拠点を置く長可の存在は、自らの権益を脅かす直接的かつ最大の脅威と映った。

この両者の対立関係は、本能寺の変後の動向によってさらに深刻化した。変報を受けた長可は、敵中に孤立した信濃の領地を放棄し、本領である美濃金山城へ命からがら帰還した 19 。しかし、その後、秀吉の家臣となった彼は美濃を与えられ、再び信濃に影響力を行使する立場となったのである 2 。義昌の視点からすれば、一度は去ったはずの厄介極まりない隣人が、今度は秀吉というさらに強大な後ろ盾を得て舞い戻ってきたに等しい。このまま秀吉の支配下に入れば、いずれ長可によって木曽谷が併呑されるのではないか。この強烈な危機感が、彼を家康との連携に走らせた最大の動機であったと考えられる。天下の覇権を巡る大局的な対立と、国境を接する二人の武将のミクロな関係性が結びついた瞬間であった。

第三部:対峙する両雄 - 信濃・美濃国境の軍事配置

天正十二年三月、小牧・長久手の戦いが開戦すると、信濃・美濃国境地帯は一気に緊張状態に陥った。徳川方は鳥居峠を中核とする防衛線を敷き、対する羽柴方は森長可を主軸とする攻撃態勢を整えた。両軍の布陣は、この戦線における互いの戦略的意図を明確に示している。

3-1. 徳川方の防衛線

家康は、信濃方面において、在地領主を巧みに活用した多層的な防衛網を構築した。

  • 中核・木曽義昌軍: 本拠地である木曽福島城を拠点とし、美濃・飛騨方面からの侵攻ルートを扼する鳥居峠に堅固な防衛陣地を構築した 10 。兵力は明確ではないが、天正十年の武田軍迎撃戦では500騎程度であったことから、同規模かそれ以上の兵力を動員していたと推定される 9 。木曽氏にとって鳥居峠は、古来より敵を谷の奥深くまで誘い込んで撃破する、伝統的な防衛戦術の要であった 21
  • 後詰・遊軍: 家康は木曽氏単独での防衛に不安があったため、譜代の家臣や信頼できる国衆を後方に配置した。奥三河の国衆で国境防衛戦の経験が豊富な菅沼定利は、尾張・三河国境の守備と並行し、信濃方面への増援部隊としての役割を担った 23 。また、旧武田家臣で高遠城主の保科正直は、この戦役の頃に家康に帰属し、南信濃の安定化と木曽氏への後詰という重要な任務を託された 25
  • 同盟勢力・小笠原貞慶: 松本の深志城を拠点とする小笠原貞慶も徳川方として、北信濃の維持と上杉軍への備えを担った。ただし、彼はかつて木曽義昌から深志城を奪った経緯があり、両者の関係は必ずしも一枚岩ではなかった 14

3-2. 羽柴方の攻撃拠点

秀吉は、信濃方面において、直接的な軍事侵攻と間接的な戦略的圧力を組み合わせた二段構えの攻勢戦略をとった。

  • 主攻・森長可軍: 東美濃の金山城を本拠とし、北信濃の海津城をも前線基地とする森長可の軍勢が、攻撃の主力を担った。その兵力は5,000から8,000程度と推定される 1 。彼の任務は、鳥居峠を突破して木曽谷へ侵攻し、徳川領の側面を突き崩して攪乱することにあった。
  • 牽制・圧力・上杉景勝軍: 越後を本拠とする上杉景勝の大軍は、秀吉の強力な同盟者として、北信濃に睨みを利かせていた。景勝が実際に南下侵攻する素振りを見せるだけで、家康は信濃から兵力を引き抜くことができなくなり、小笠原貞慶らの軍勢を釘付けにすることができた 1

このように、徳川方が在地勢力を結びつけた「点と線」による縦深防御を試みたのに対し、羽柴方は森長可という鋭利な「槍」による直接攻撃と、上杉景勝という巨大な「重石」による間接的圧力という、二正面からの攻勢戦略を意図していた。そして、その「槍」の矛先が真っ直ぐに向けられたのが、木曽義昌が守る鳥居峠だったのである。

天正十二年 信濃・美濃国境における主要勢力配置

陣営

主要武将

拠点

推定兵力

役割・目的

徳川・織田連合軍

木曽義昌

木曽福島城、鳥居峠

1,000未満

鳥居峠の死守、木曽谷の防衛

小笠原貞慶

深志城(松本)

不明

北信濃の維持、上杉軍への備え

菅沼定利

奥三河

不明

信濃方面への後詰、遊撃部隊

保科正直

高遠城

不明

南信濃の安定化、木曽氏への後詰

羽柴軍

森長可

金山城、海津城

5,000 - 8,000

木曽谷への侵攻、徳川領の攪乱

上杉景勝

春日山城

10,000以上

北信濃への圧力、徳川・北条の牽制

第四部:鳥居峠の攻防 - 時系列で辿る戦いの軌跡

「鳥居峠の戦い」は、単一の大規模な合戦ではなく、数ヶ月にわたる対峙と、主戦場の動向に連動した緊張と緩和の繰り返しによって特徴づけられる。その戦いの軌跡を時系列で追うことで、信濃戦線のリアルタイムな状況が浮かび上がってくる。

三月:開戦、国境の緊張

戦いの火蓋は尾張で切られた。三月上旬、織田信雄が秀吉に通じたとして家老三名を処刑し、事実上の宣戦布告を行うと、家康はすぐさま浜松城を発ち、十三日には清洲城で信雄と合流、臨戦態勢を整えた 2

この動きに鋭敏に反応したのが、羽柴方の森長可であった。彼は信雄・家康連合軍の機先を制するべく、池田恒興が占拠した犬山城から出撃し、家康の本陣が置かれる小牧山を目指した。しかし三月十七日、羽黒(現在の愛知県犬山市)の八幡林に布陣していたところを、徳川軍の酒井忠次、榊原康政らが率いる部隊に奇襲される。不意を突かれた森勢は三百名もの死者を出し、惨敗を喫して犬山城へと敗走した(羽黒の戦い) 2

この羽黒での敗戦は、信濃戦線に直接的な影響を及ぼした。当初、長可は尾張での戦況次第では、速やかに軍を転進させて木曽谷へ侵攻する計画を持っていた可能性が高い。しかし、緒戦での手痛い敗北により、彼は主戦場から兵力を割いて鳥居峠へ大軍を差し向ける余裕を失った。一方、木曽義昌はこの報に接し、すぐさま鳥居峠の防備を一層固めた。天正十年の成功体験に基づき、隘路や森林といった鳥居峠の険しい地形を最大限に活用し、敵を少数ずつ引きずり込んで殲滅する防衛計画を練り上げていたと考えられる 21 。この時期、鳥居峠では大規模な戦闘は発生しなかったものの、両軍の斥候による情報収集や、威力偵察を目的とした小規模な部隊による前哨戦が、国境地帯で断続的に繰り広げられたと推測される。信濃の山々は、静かな、しかし張り詰めた緊張に包まれていた。

四月:激震 - 森長可の死と戦線の崩壊

三月下旬、秀吉本隊が犬山城に着陣し、家康が陣取る小牧山と対峙する形勢となると、戦線は膠着状態に陥った 1 。この状況を打破すべく、羽柴方から大胆な作戦が提案される。池田恒興が献策した、徳川軍主力が小牧山に集中している隙を突き、別働隊を編成して手薄な家康の本拠地・岡崎城を直接攻撃するという「三河中入り作戦」である 20 。この奇襲部隊の主将には秀吉の甥・羽柴秀次が任じられ、池田恒興、堀秀政、そして森長可がこれを補佐した 1

四月六日夜半、約二万の兵を率いた別働隊は犬山城を発進した。しかし、この動きは篠木の農民からの密告により、事前に家康の知るところとなっていた 28 。家康は直ちに主力を率いて小牧山を出陣し、別働隊を追撃。九日早朝、両軍は長久手の地で激突することとなる。

戦いは熾烈を極めた。当初、羽柴軍の一部は徳川軍の先鋒を撃退するなど優勢に戦いを進めたが、家康本隊が戦場に到着すると形勢は逆転する 1 。九日午後二時頃、乱戦の中、自ら前線に立って奮戦していた森長可は、徳川四天王の一人・井伊直政が率いる部隊の鉄砲攻撃を受け、眉間を撃ち抜かれて即死した 6 。享年二十七。さらに総大将格の池田恒興も永井直勝に討ち取られ、羽柴軍別働隊は指揮官の多くを失い、壊滅的な敗北を喫した 1

森長可の死。この一報は、信濃戦線における「ゲームチェンジャー」となった。それは、単に一人の猛将が戦場に散ったという以上の、決定的な意味を持っていた。秀吉の信濃政策の実行者であり、木曽谷侵攻計画の「槍」そのものであった長可の戦死により、羽柴方の攻勢計画は根底から瓦解したのである。木曽義昌と徳川家康にとっては、信濃で一兵も動かすことなく、国境における最大の脅威が消滅するという、望外の戦略的勝利であった。長可ほど信濃の複雑な事情に精通し、国衆に睨みを利かせられる後任の司令官を、秀吉はすぐには用意できなかった。これにより、羽柴方の信濃国衆に対する統制力は著しく低下し、逆に徳川方の影響力が浸透する余地が生まれた。北の上杉景勝は依然として脅威であったが、彼が単独で大規模な南下侵攻を行う可能性は低く、信濃戦線は事実上、羽柴方の攻勢頓挫によって「凍結」されたのである。

五月~八月:膠着と沈黙

長久手での大敗と森長可の死により、東美濃・北信濃の羽柴勢は完全に守勢に回らざるを得なくなった。秀吉は尾張・伊勢方面の主戦場に注力しており、信濃戦線の再建は後回しにされた。これにより、鳥居峠における軍事的脅威は劇的に低下した。

この時期、利用者様の知る「小競り合いが続く」という状況が生まれたと考えられる。もはや大規模な侵攻の危険は去ったものの、国境線が確定したわけではない。両軍の支配領域が接する山林の入会権や、草刈場などを巡る小規模な領地争い、あるいは互いの動向を探るための斥候同士の散発的な戦闘は、依然として続いていたであろう。しかし、それは戦役全体の趨勢に影響を与えるものではなく、鳥居峠はつかの間の、しかし不安定な平穏を取り戻した。

家康はこの好機を逃さなかった。彼は軍事的な空白を埋めるように、政治的な工作を活発化させる。七月には、新たに味方に引き入れた高遠城主・保科正直に自身の異父妹・多却姫を嫁がせ、姻戚関係を結ぶことでその結束を強固なものにした 29 。これは、将来的な上杉景勝の南下に備えるとともに、信濃における徳川家の支配を既成事実化しようとする、深謀遠慮に基づくものであった。

九月~十一月:戦役の終結

夏が過ぎ、戦況は新たな局面を迎える。家康との直接対決での勝利が困難であると判断した秀吉は、戦略を転換。戦いの大義名分である織田信雄そのものへの圧力を強める方針を採った。秀吉軍は伊勢・伊賀といった信雄の領国へ侵攻を開始し、その城を次々と攻略していった 5

自領を切り取られ、窮地に陥った信雄は、ついに家康に無断で秀吉との単独講和に踏み切る。十一月十一日、信雄は伊賀・伊勢南部の割譲を条件に秀吉に屈服した 4 。これにより、家康は「信雄を助ける」という戦いの大義名分を完全に失った。もはや戦を続ける理由がなくなった家康は、次男・於義伊(後の結城秀康)を秀吉の養子として差し出すことを条件に和議に応じ、浜松城へと帰還した 5

主戦場における和議の成立に伴い、鳥居峠での対峙も自然消滅した。木曽義昌は、徳川方として最後まで鳥居峠を守り抜き、羽柴軍の侵攻を許さなかった。この功績により、彼は徳川家臣団の中における地位を確固たるものにしたのである。

第五部:結論 - 鳥居峠の戦いが歴史に刻んだもの

天正十二年(1584年)の「鳥居峠の戦い」は、その名から想起されるような大規模な野戦が行われたわけではない。その本質は、数ヶ月にわたる「対峙」と「牽制」、そして主戦場の動向に鋭敏に連動した戦略的な駆け引きであった。しかし、この戦いが小牧・長久手の戦い全体、ひいてはその後の日本の歴史に与えた影響は、決して小さくはない。

5-1. 戦いの総括:戦わずして勝つ

木曽義昌が鳥居峠を堅守し、森長可率いる羽柴方の侵攻を未然に防いだことは、この戦役における徳川方の勝利に大きく貢献した。家康は、背後である信濃の憂いなく、全神経を尾張の主戦場に集中させることができた。この一点において、鳥居峠の防衛戦は、戦術的には小規模な対峙に終始したものの、戦略的には極めて大きな価値を持つものであった。

そして、この戦線の趨勢を決定づけたのは、長久手における森長可の戦死という、ある種の偶発的な要素であった。これは、戦国時代の戦いにおいて、一個人の傑出した武将の存在が、全体の戦況をいかに大きく左右しうるかを示す好例である。木曽義昌は、最大の脅威が自らの手を汚すことなく消え去るという幸運に恵まれた。まさに「戦わずして勝つ」を体現した戦いであったと言えよう。

5-2. 木曽義昌のその後

戦後、義昌は徳川家康の有力な与力大名として遇された。しかし、彼の運命は、戦国時代の終焉という大きな時代のうねりの中に飲み込まれていく。天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、家康が関東へ移封されると、義昌もそれに従い、先祖代々の地である木曽谷を離れ、下総国網戸(現在の千葉県旭市網戸)へ一万石で移封されることとなった 10

生涯をかけて木曽谷の独立と安堵を守ろうと戦い続けた義昌が、最終的にその地を離れなければならなかったという結末は、極めて象徴的である。それは、在地に深く根差した「国衆」がその土地との結びつきを断ち切られ、大名の家臣団に完全に組み込まれていく、戦国時代から近世的支配体制への移行期を象徴する出来事であった。家康にとって、もはや木曽谷は義昌個人の領地ではなく、良質な木材資源(木曽檜)や交通の要衝(中山道)として、徳川家が直接管理すべき重要な戦略拠点となっていた 10 。義昌を関東に移封することで、家康は木曽谷の直接支配を確立したのである。義昌は、自らの巧みな生存戦略によって戦国の世を生き抜いた。しかし、その結果として到来した新しい時代においては、旧来の「国衆」としての生き方はもはや許されなかった。これは、戦国の終焉を告げる、一つの皮肉な結末と言えるだろう。

5-3. 歴史的意義

鳥居峠の戦いは、小牧・長久手の戦いという全国規模の戦役において、一地方の国境紛争がいかに全体の戦略に影響を与えうるかを示す貴重な事例である。それは、徳川家康が在地勢力(国衆)を巧みに味方につけ、自らの防衛線を構築するという、後の天下取りにも繋がる戦略の一端を明確に示している。

この戦いを通じて、信濃における徳川家の影響力は決定的なものとなった。秀吉がこの地域に直接的な楔を打ち込むことに失敗したことは、その後の東国情勢に長く影響を及ぼした。家康が築いた信濃の支配基盤は、後の上田合戦で真田氏と対決する際の土台となり、最終的に彼が東国の覇者として君臨する礎となったのである。鳥居峠の静かなる対峙は、間違いなく日本の歴史を形作った、重要な一ページであった。

引用文献

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  2. 小牧・長久手の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11063/
  3. 「小牧・長久手の戦い」は、誰と誰が戦った? 場所や経緯もあわせて解説【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/470311
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