鳥羽城の戦い(1582)
鳥羽城の戦いは1600年、関ヶ原の戦いに伴う九鬼嘉隆・守隆父子の争い。家存続のため敵味方に分かれ、嘉隆は鳥羽城を奪取するも敗報で自刃。九鬼水軍は終焉。
志摩の風雲:鳥羽城の戦い(1600年)の時系列的詳解と天正十年(1582年)の九鬼嘉隆
第一章:序論 ― 「鳥羽城の戦い」を巡る歴史的視座の再構築
日本の戦国時代史において、「鳥羽城の戦い」という呼称は、志摩国を拠点とした九鬼水軍の動向を語る上で重要な出来事として認識されている。しかし、その発生年を天正十年(1582年)とする見解には、史料に基づく慎重な再検討が必要である。本報告書は、利用者より提示された「1582年の鳥羽城の戦い」という主題を深く分析し、史実の解明を試みるものである。
調査の結果、詳細な戦闘記録が残り、九鬼家の運命を大きく左右した合戦としての「鳥羽城の戦い」は、天正十年(1582年)ではなく、その18年後の慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いに付随して発生した九鬼嘉隆・守隆父子間の戦闘であることが明らかとなった。1582年当時、後に九鬼水軍の拠点となる近世城郭としての鳥羽城はまだ築城されておらず、この地には古くからこの地を領有していた橘氏の居館や砦が存在するに過ぎなかった 1 。嘉隆による本格的な築城が開始されるのは天正十三年(1585年)頃であり、その完成は文禄三年(1594年)を待たねばならない 3 。
一方で、天正十年(1582年)という年が九鬼嘉隆にとって無意味であったわけではない。この年は、彼の主君であった織田信長が本能寺の変に倒れた激動の年である。この権力の空白期に、嘉隆は九鬼一族内の権力基盤を盤石にするための重要な行動を起こしている。利用者によって言及された「勢力整理」とは、この時期に起こったとされる、九鬼家の正統な家督継承者であった甥・九鬼澄隆の謎の死と、それに伴う嘉隆の権力掌握を指している可能性が極めて高い 6 。
以上の史実整理に基づき、本報告書は二つの時代を横断的に分析する構成をとる。まず第二章において、天正十年(1582年)を軸とした九鬼嘉隆の動向と、彼の権力掌握の過程を詳述する。次に第三章で、その権力を背景に築かれた「海の城」鳥羽城の構造と、豊臣政権下における九鬼水軍の最盛期を描写する。そして第四章では、本報告書の核心部分として、慶長五年(1600年)に実際に繰り広げられた「鳥羽城の戦い」を、可能な限り時系列に沿ってリアルタイムで再現・解説する。最後に、第五章で戦後処理と九鬼水軍の終焉を、第六章で全体の総括を行う。この構成によって、単一の合戦記録に留まらず、九鬼家の興亡と鳥羽城の歴史的意義を立体的に解明することを目的とする。
第二章:天正十年(1582年)の志摩国と九鬼嘉隆 ― 激動の中の権力掌握
本能寺の変と九鬼嘉隆
天正十年(1582年)六月二日、京都・本能寺において織田信長が家臣・明智光秀の謀反によって自刃するという、日本史を揺るがす大事件が発生した。この時、織田家お抱え水軍の将としてその名を馳せていた九鬼嘉隆は、信長の命令により堺の港に駐留していた 8 。彼の任務は、大坂湾の制海権を維持し、依然として燻る本願寺勢力や西国の毛利氏に対する睨みを利かせることであり、彼が信長直属の畿内における中核的な軍事指揮官の一人であったことを示している。
信長の突然の死は、織田政権という巨大な権力機構に致命的な空白を生み出した。これは、嘉隆にとって自身の後ろ盾を失う危機であると同時に、自らの支配体制をより強固なものへと再構築する好機でもあった。変後の混乱の中、嘉隆は極めて迅速かつ冷静な政治的判断を下す。彼はまず、信長の次男であり伊勢国を地盤とする織田信雄に仕え、足場を固めた 8 。しかし、信長の事実上の後継者として頭角を現し始めた羽柴秀吉の台頭を見抜くと、やがてその麾下へと転じる 11 。この時流を読む鋭敏な感覚と、時勢に応じて主を乗り換える柔軟性が、戦国の世を生き抜く彼の真骨頂であり、その後の九鬼家を大名へと押し上げる原動力となった。
九鬼家内の権力闘争 ― 甥・九鬼澄隆の死
信長の死がもたらした混乱は、嘉隆に九鬼一族内部の長年の懸案を解決する機会を与えた。当時の九鬼家は、織田信長の後ろ盾を得て志摩一国を実効支配する実力者の叔父・嘉隆(分家)と、家督を継承する正統な血筋を持つ甥・澄隆(本家)という、複雑な二重権力構造にあった 6 。
澄隆は嘉隆の兄・浄隆の子である。永禄三年(1560年)、志摩の地頭衆が伊勢国司・北畠具教の支援を受けて九鬼氏の居城・田城を攻めた際、城主であった浄隆は戦死した。この時、嘉隆は幼い澄隆を助けて落ち延び、以来、その後見人として九鬼家を支えてきた 10 。実力主義者であった信長は、第二次木津川口の戦いなどで鉄甲船を率いて多大な戦功を挙げた嘉隆を高く評価し、彼に志摩一国の支配権を公式に認めていた 6 。しかし、あくまで九鬼一族の惣領(家督)は澄隆であり、嘉隆は分家の立場に過ぎなかった。この「実権」と「正統性」のねじれ構造は、信長という絶対的な権威が存在する間はかろうじて維持されていたが、その庇護者が消滅したことで、もはや限界に達していたのである。
このねじれを解消するかのように、澄隆は本能寺の変の直後にその生涯を終える。彼の死には複数の説が存在し、真相は定かではない。
- 暗殺説: 最も有力視されるのが、嘉隆による暗殺説である。その時期については、天正十年(1582年) 6 、十一年(1583年) 7 、あるいは小牧・長久手の戦いが終結した十二年(1584年) 12 など諸説あるが、いずれも嘉隆が九鬼家の家督を完全に掌握するため、田城城にいた澄隆を毒殺したという内容である。かつての田城城跡に、澄隆の怨霊を鎮めるために九鬼岩倉神社(九鬼総領権現)が建立されているという事実は、暗殺が地元で固く信じられていたことを示唆しており、この説の信憑性を補強している 6 。
- 病死説: 一方で、公式な記録や系図上は病死として扱われている 15 。
澄隆の死は、単なる叔父の野心や権力欲の発露として片付けることはできない。それは、織田信長の死によって生じた政治的空白を乗り切り、九鬼家を存続させるための、嘉隆による冷徹な権力基盤の再構築作業であったと解釈できる。信長政権下では、彼の絶対的な権威によって嘉隆の「志摩国主としての実権」と澄隆の「九鬼惣領としての正統性」は両立し得た。しかし、その権威の源泉が失われた今、この二重権力構造は一族内の対立の火種であり、北畠氏の残党など外部勢力に付け入る隙を与える致命的な弱点となり得た。特に、織田家の後継者を巡って信雄・家康連合と秀吉が激突した小牧・長久手の戦い(1584年)のような情勢の流動化の中では、一族が分裂する危険性すらあった。したがって、澄隆の排除は、嘉隆が激動の時代を生き抜き、九鬼家を近世大名として確立させるための、非情ではあるが政治的に合理的な一手であった可能性が高い。その死の時期が1582年から1584年の間に集中していることは、この政治的背景と完全に符合するのである。
志摩統一の完成と鳥羽への着目
嘉隆は織田信長に仕える以前から、志摩国内の地頭衆(嶋衆)との間で激しい抗争を繰り広げていた。一度は敗れて志摩を追われたものの、信長という強力な後ろ盾を得て帰還すると、その圧倒的な軍事力を背景に次々とライバルを平定していった 18 。
その統一事業の最終段階において、彼は巧みな政略を用いた。志摩の海上交通の要衝である鳥羽を領有していた橘宗忠に対し、嘉隆は武力で攻め滅ぼすのではなく、宗忠の娘を娶る(一説には次男・守隆を婿入りさせる)ことで、その勢力を平和裏に吸収したのである 1 。この婚姻政策により、嘉隆は鳥羽の地と、古くから続く橘氏の権威を手中に収めた。これは、彼が単なる荒々しい海の武人ではなく、武力と政略を巧みに使い分ける優れた戦略家であったことを物語っている。こうして、甥・澄隆の排除による一族内部の掌握と、橘氏の吸収による志摩半島の完全統一を成し遂げた嘉隆は、名実ともに志摩国の支配者となり、次なる拠点構築へと歩を進めることになる。
第三章:「海の城」鳥羽城の誕生と九鬼水軍の最盛期
築城の経緯と目的
天正十年(1582年)前後の混乱期を乗り切り、志摩国における絶対的な支配者としての地位を確立した九鬼嘉隆は、その権力の象徴として、また九鬼水軍の恒久的な拠点として、新たな城の築城に着手した。天正十三年(1585年)頃、彼は本拠地を鳥羽に定め、築城を開始したとされる 3 。
築城の地に選ばれたのは、鳥羽湾に突き出した樋の山と呼ばれる丘陵地であった。この場所は、かつて嘉隆が政略によってその支配権を得た橘氏の居館があった場所であり、三方を海に囲まれた天然の要害であった 3 。大規模な普請は数年に及び、城が完成したのは文禄三年(1594年)と記録されている 3 。こうして誕生した鳥羽城は、志摩三万五千石の大名の居城として、また日本最強と謳われた九鬼水軍の司令部として、伊勢湾口に威容を誇ったのである 10 。
海城としての構造的特徴
鳥羽城は、築城主である九鬼嘉隆の出自と経歴を色濃く反映した、典型的な「海城(うみじろ)」であった。その構造には、他の日本の城郭には見られない、水軍の将ならではの独創的な工夫が凝らされている。
最大の特徴は、城の正面玄関である大手門が、陸側ではなく海側に向かって設けられていた点である 1 。これは、城への主要な交通路が陸路ではなく海路であることを前提とした設計であり、軍船が直接城の中枢に乗り入れることを可能にしていた。城は三方を海に囲まれ、陸続きの一方にも堀を巡らせて海水を引き込み、文字通り海に浮かぶ要塞であった。その姿から、人々は鳥羽城を「鳥羽の浮城」と呼んだという 4 。
さらに、城内と外洋を結ぶため、船が出入りするための水門が4箇所も設けられていた 1 。廃藩置県時の記録によれば、最盛期の鳥羽城には、壮麗な三重の天守閣をはじめ、大きさの異なる13棟の櫓、複数の御殿が立ち並び、まさに「海上の城」と呼ぶにふさわしい規模を誇っていた 21 。
豊臣政権下での活躍
鳥羽城を拠点とした九鬼嘉隆と九鬼水軍は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の下でも、その水軍力の中核として重用され続けた。天正十五年(1587年)の九州平定、天正十八年(1590年)の小田原征伐など、秀吉の主要な統一戦争のほとんどに参陣し、海上からの兵站輸送や敵水軍の封じ込めといった重要な役割を果たした 8 。これらの戦役を通じて、九鬼水軍は日本の制海権を掌握する上で不可欠な存在となった。
秀吉が大陸への野心を見せ始めると、九鬼水軍はその先兵として朝鮮半島へと渡海する。文禄・慶長の役において、嘉隆は水軍の総大将の一人として艦隊を率いた。しかし、この戦役では李舜臣という朝鮮史に残る名将が率いる水軍と対峙することになり、日本水軍は海戦において苦戦を強いられる場面も少なくなかった 13 。
数々の戦功を重ねた嘉隆であったが、慶長二年(1597年)、家督を次男の九鬼守隆に譲り、隠居の身となった 3 。しかし、戦国の世を生きた老将の魂は、天下分け目の大戦を前にして、再び燃え上がることになる。
第四章:慶長五年(1600年)鳥羽城の戦い ― 父子相克のリアルタイム詳解
第一節:関ヶ原前夜、九鬼家の分裂
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康を中心に動き始める。慶長五年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、諸大名を率いて討伐の軍を起こした。この「会津征伐」が、天下分け目の関ヶ原の戦いの序章となる。
この時、九鬼家の当主であった九鬼守隆は、徳川方(東軍)として家康に従い、主力を率いて会津へ向かった 5 。一方で、鳥羽で隠居していた父・嘉隆のもとへは、家康に対抗して挙兵した石田三成から、西軍への参加を要請する使者が送られた。老齢を理由に一度は固辞した嘉隆であったが、三成の度重なる懇願と、豊臣家への旧恩から、ついに西軍への加担を決意する 5 。一説には、これより以前に起こったある紛争の裁定を巡って、嘉隆が家康に対し個人的な不満を抱いていたことも、その決断に影響したとされる 20 。
年月日(慶長五年) |
中央(関ヶ原方面)の動向 |
志摩・伊勢(鳥羽周辺)の動向 |
7月下旬~8月上旬 |
徳川家康、会津征伐より西上を開始 |
九鬼守隆、会津征伐に従軍中。九鬼嘉隆、西軍への加担を決意。 |
8月中旬~下旬 |
石田三成、挙兵。諸大名が東西両軍に分かれる。 |
嘉隆、堀内氏善らと連携し、守隆不在の鳥羽城を奪取。 |
9月7日頃 |
- |
守隆軍、氏家行広の救援部隊を海上にて撃破。 |
9月11日 |
- |
守隆軍、加茂・船津にて嘉隆・堀内連合軍と交戦。 |
9月15日 |
関ヶ原の戦い。東軍が勝利。 |
- |
9月下旬 |
西軍諸将の敗走、戦後処理の開始 |
関ヶ原の敗報が伝達。嘉隆、鳥羽城を放棄し答志島へ逃亡。 |
10月12日 |
- |
九鬼嘉隆、答志島にて自刃。 |
この九鬼家の分裂は、単なる父子の意見の対立や感情的なものではなかった。それは、戦国の世を生き抜いてきた大名がしばしば用いた、家の存続を第一に考えた冷徹な生存戦略であった。関ヶ原の戦いの勝敗は、開戦前夜において誰にも確信できるものではなかった。父と子が敵味方に分かれることで、たとえどちらかの陣営が敗北したとしても、勝利した側の功績によって家名そのものは存続させることができる 1 。旧恩のある豊臣方(西軍)に父・嘉隆が、そして将来性のある徳川方(東軍)に現当主の守隆が付くという役割分担は、九鬼家の存続という観点からは、極めて合理的な選択だったのである。
第二節:合戦の勃発 ― 嘉隆による鳥羽城電撃奪取
慶長五年八月頃、守隆が九鬼家の主力部隊を率いて遠く関東へ出陣し、本拠地である鳥羽城の守りが手薄になった隙を、老将・嘉隆は見逃さなかった。嘉隆は、同じく西軍に与した紀伊国・新宮城主の堀内氏善らと連携して挙兵すると、電光石火の速さで鳥羽城を急襲し、これを占拠した 3 。これにより、伊勢湾の制海権を握る上で極めて重要な戦略拠点である鳥羽城は、西軍の手に落ちた。
第三節:攻防の時系列分析
父の謀反という衝撃的な知らせは、会津へ向かう途上の守隆のもとへ届いた。徳川家康は事態を重く見て、守隆に直ちに引き返し、伊勢路の防衛と鳥羽城の奪還を命じた 28 。東軍にとって、伊勢湾岸に西軍の拠点が確立されることは、兵站線を脅かす重大な脅威であった。
(時系列:九月初旬)
急遽軍を返した守隆は志摩国へ帰還する。彼はまず、父・嘉隆に対して再三にわたり使者を送り、城を明け渡すよう説得を試みた。しかし、西軍勝利を信じる嘉隆はこれを頑として拒否し、父子の直接対決は避けられない状況となった 28。
守隆は、父の守る鳥羽城を正面から力攻めにするという戦術を選ばなかった。彼は志摩半島の安乗(あのり)に上陸すると、国府城(こうじょう)に本陣を構え、鳥羽城を孤立させるための戦略的包囲網を敷いた 28 。これは、水軍の将である父の戦術を熟知した上での、極めて効果的な作戦であった。
(時系列:九月七日頃)
鳥羽城の嘉隆を救援すべく、西軍方であった伊勢国・桑名城主の氏家行広(うじいえ ゆきひろ)が船団を率いて伊勢湾を南下してきた。守隆はこの動きを事前に察知し、自ら水軍を率いて海上にてこれを迎撃。激しい海戦の末、氏家の救援部隊を壊滅させ、その兵船を撃沈した 28。この勝利は、鳥羽城を完全に孤立させるとともに、守隆が父譲りの優れた水軍指揮官であることを家康に示す大きな戦功となった。
陣営 |
総大将 |
主要な協力勢力 |
推定兵力・戦力 |
西軍 |
九鬼嘉隆 |
堀内氏善(新宮城主) |
嘉隆手勢、堀内軍を合わせて数千規模か。鳥羽城を拠点。 |
|
(支援) |
氏家行広(桑名城主) |
救援のための水軍部隊(守隆により撃退)。 |
東軍 |
九鬼守隆 |
(徳川家康) |
会津征伐から引き返した九鬼家主力部隊。九百のうち二百を鳥羽へ向かわせたとの記述あり 29 。国府城を拠点。 |
(時系列:九月十一日~十四日)
海上からの救援の望みを絶たれた嘉隆軍に対し、守隆軍は陸から圧力を強めていく。九月十一日、守隆軍は加茂の船津において、嘉隆と堀内氏善の連合軍と交戦した 28。その後、守隆軍が鳥羽城下へと迫ると、嘉隆は市街地が戦火に焼かれることを避け、かつての九鬼家の本拠地であった田城(たじょう)へと陣を移した 29。そしてここで、戦国史上でも類を見ない、奇妙な父子の戦闘が繰り広げられた。
記録によれば、父・嘉隆は息子・守隆の軍勢に対して空砲を撃って応戦したとされる 29 。これは、本気で戦う意思がなく、息子への情から威嚇に留めたのか、あるいは関ヶ原の本戦の結果を待つための時間稼ぎであったのか、その真意は定かではない。
対する守隆は、父の空砲に対し、実弾射撃をもって猛然と攻め立てた 29。この一見非情にも見える行動の背景には、彼の軍に東軍の目付(監視役)が同行していたという事情があった。徳川家臣として、目付の監視下にある以上、父に対して手心を加えることは家康への裏切りと見なされかねず、彼は公務として非情に徹するしかなかったのである 29。
この「空砲」と「実弾」の応酬は、極めて象徴的な場面であった。それは、一族の存続と自らの裁量を重んじる戦国時代の価値観(嘉隆の空砲)と、主君への絶対的な忠誠と職務の遂行を第一とする新たな近世(江戸時代)の価値観(守隆の実弾)が、父と子の間で激しく衝突した瞬間だったのである。嘉隆は自らの実力で成り上がった「海賊大名」であり、その行動原理はあくまで九鬼家という「家」にあった。一方、守隆は徳川家という新たな中央権力に仕える「藩主」であり、彼の行動は主君の代理人として評価される。この一点に、時代が大きく転換する過渡期特有の緊張関係が凝縮されていた。
(時系列:九月十五日)
美濃国・関ヶ原において、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突。戦いはわずか一日で東軍の圧勝に終わる。
第四節:合戦の終結 ― 嘉隆の敗走
(時系列:九月下旬)
関ヶ原における西軍壊滅の報は、数日のうちに志摩にもたらされた。これにより、鳥羽城を巡る戦いの前提は根底から覆される。西軍の勝利を前提として籠城していた嘉隆にとって、もはや戦いを続ける意味はなくなった。彼は鳥羽城での抵抗を断念し、合戦は終結する。
嘉隆は、同盟者であった堀内氏善を頼り、紀州の新宮城へ脱出を図った。しかし、氏善もまた西軍敗北の報を受けて東軍に降っており、新宮城はすでに東軍の手に落ちていた 29 。万策尽きた嘉隆は、鳥羽城から目と鼻の先にある答志島(とうしじま)へと小舟で逃れ、潜伏生活に入った 1 。
第五章:戦後処理と九鬼水軍の終焉
嘉隆の最期
一方、東軍として戦った守隆は、関ヶ原での本戦には参加できなかったものの、西軍・氏家行広の救援部隊を撃退し、伊勢路の安定に貢献した功績を徳川家康に認められた。彼はその功を以て、父・嘉隆の助命を嘆願し、家康からこれを許されるという内諾を得ることに成功した 27 。
守隆は急使を立て、父が潜む答志島へ助命の知らせを送った。しかし、運命はあまりにも酷であった。守隆からの知らせが島に届くより一足先に、嘉隆は追い詰められた状況と、家臣であった豊田五郎右衛門の「潔く自刃すべき」との勧めにより、慶長五年十月十二日、答志島の和具(わぐ)にある洞仙庵にて自刃して果てた。享年五十九 29 。
父の助命が叶った矢先の自刃の報、特にそれが家臣の讒言に近い進言によるものと知った守隆は激怒し、豊田五郎右衛門を捕らえると、鋸挽きという最も残虐な方法で処刑したと伝えられる 10 。
嘉隆の首は実検のために伏見城へ送られた後、答志島に戻された。そして、「鳥羽城の見えるところに埋めてくれ」という彼の遺言通り、鳥羽城を一望できる築上(つかげ)山の山頂に葬られ、首塚が築かれた。胴体は自刃した洞仙庵の近くに葬られ、胴塚が建てられた 1 。
鳥羽藩の成立と九鬼家のその後
父の死という悲劇はあったものの、九鬼家は守隆の功績によって存続を許された。守隆は関ヶ原の戦功により二万石を加増され、父の隠居料なども合わせて五万五千石の大名となり、初代鳥羽藩主に就任した 1 。
しかし、戦国の海を制した九鬼水軍の栄光は、長くは続かなかった。守隆の死後、寛永十年(1633年)、彼の息子たちの間で後継者を巡る御家騒動が勃発する 1 。この騒動に介入した江戸幕府の裁定は、九鬼家にとって決定的なものであった。幕府は、九鬼家を志摩鳥羽の地から追い出し、摂津国三田(三万六千石)と丹波国綾部(二万石)に分割した上で転封(領地替え)を命じたのである 1 。
この裁定は、単なる御家騒動に対する懲罰ではなかった。それは、全国の有力な水軍(海賊大名)を無力化し、幕府による海上交通の完全な管理を目指す、徳川幕府の長期的な国家戦略の一環であったと見ることができる。江戸幕府は、大名の力を削ぎ、謀反の芽を摘むことを最優先課題としていた。特に、独自の海上戦力を持ち、海外との接触も可能な水軍大名は、潜在的な脅威と見なされていた。「大船建造の禁」などを通じて諸大名の海軍力を制限する政策を進めていた幕府にとって、九鬼家の御家騒動は、この政策を適用する絶好の口実となったのである 19 。
海から引き離され、内陸の所領を与えられたことで、九鬼家が代々培ってきた水軍としての能力と伝統は、事実上、その歴史に幕を閉じた 3 。戦国の海を支配した「海賊大名」の時代は、ここに完全に終焉を迎えたのである。
第六章:総括
本報告書は、「鳥羽城の戦い」という主題を巡る歴史的言説を再検討し、その史実を多角的に解明した。その結果、以下の結論に至った。
第一に、一般に流布している「1582年の鳥羽城の戦い」という概念は、史実とは異なる。天正十年(1582年)は、本能寺の変という激動の中で、九鬼嘉隆が甥・澄隆を排除し、一族内の権力を完全に掌握した年であり、志摩統一の総仕上げの時期であった。これは「戦い」というよりは、内部の「権力闘争」と位置づけるのがより正確である。
第二に、詳細な戦闘記録が残る「鳥羽城の戦い」は、慶長五年(1600年)に関ヶ原の戦いの東軍と西軍への分裂を背景に勃発した、九鬼嘉隆・守隆父子間の合戦である。この戦いは、家の存続を賭けた戦国的な戦略、父子の情、そして新たな時代における主君への忠誠といった、様々な要素が複雑に絡み合った悲劇であった。
結論として、「鳥羽城の戦い」は、単なる一地方における父子間の争いではない。それは、織田信長の死から関ヶ原の戦いを経て徳川幕藩体制が確立されるまでの、日本の歴史における大きな転換点を象徴する出来事であった。個人の武勇や一族の論理が支配した戦国時代から、中央集権的な秩序と組織への忠誠が求められる江戸時代への移行期に特有の価値観の変容が、この戦いには凝縮されている。そして、九鬼嘉隆という一人の「海賊大名」の栄光と悲劇的な最期、そしてその後の九鬼水軍の解体は、かつて日本の海を自由に駆け巡った海上勢力の時代の終わりを明確に告げるものであった。この戦いの詳細な分析は、日本の海上勢力史における重要な転換点を浮き彫りにするものである。
引用文献
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- 九鬼 嘉隆 について | 九鬼プロジェクトHP - 鳥羽市観光協会 https://toba.gr.jp/kuki-project/about/
- 九鬼 守 隆 https://www.city.toba.mie.jp/material/files/group/70/moritaka.pdf
- 鳥羽城の戦い ~九鬼嘉隆の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/toba.html
- 鳥羽市鳥羽:水軍(九鬼水軍)|検索詳細|地域観光資源の多言語解説文データベース https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R2-00758.html
- 県指定文化財 九鬼嘉隆墓(首塚) - 鳥羽市 https://www.city.toba.mie.jp/soshiki/k_shakaikyoiku/gyomu/rekishi_bunkazai/bunkazai/1/2707.html
- 九鬼嘉隆の首塚 - 伊勢志摩観光ナビ https://www.iseshima-kanko.jp/spot/1539
- 日本戰國時代的水軍演變(下) - 金澤城的月光 - Udn 部落格 https://blog.udn.com/KuenLong1213/3072989