瀬戸内海に浮かぶ三原城は、智将・小早川隆景が築いた毛利水軍の拠点。軍港と一体化した「浮城」として栄え、豊臣政権下でも重要視された。近代化で破壊されるも、その壮大な石垣は今も歴史を語る。
備後国、沼田川河口のデルタ地帯にその威容を誇った三原城。満潮時にはあたかも海に浮かぶが如き姿から「浮城」の異名を取ったこの城は、単なる一地方の拠点ではない。それは、戦国時代の地政学、築城技術の変遷、そして毛利家の興亡そのものを体現する、類稀なる「海城」である 1 。本報告書は、この三原城が持つ多層的な価値を、あらゆる角度から徹底的に解き明かすことを目的とする。
三原城の歴史は、毛利元就の三男にして、父の知略を最も色濃く受け継いだと言われる智将・小早川隆景の生涯と分かち難く結びついている 3 。彼がなぜこの地に、このような特異な城を築くに至ったのか、その戦略的構想は、当時の瀬戸内海を巡る覇権争いと密接に関わっている。本報告書では、築城の背景から、軍港と一体化した独創的な構造、時代と共に変遷した戦略的役割、そして近代化の波に翻弄された運命までを詳細に分析し、断片的に残された遺構から、隆景が描いた壮大な海上要塞都市の全体像を再構築する。
年代(西暦) |
主な出来事 |
天文2年 (1533) |
小早川隆景、毛利元就の三男として誕生。 |
天文13年 (1544) |
隆景、竹原小早川家の養子となる。 |
天文19年 (1550) |
隆景、沼田小早川家を統合し、両小早川家の当主となる。 |
天文21年 (1552) |
隆景、新高山城を築き本拠とする 1 。 |
弘治元年 (1555) |
厳島の戦い。隆景率いる小早川水軍が毛利方の勝利に大きく貢献 1 。 |
永禄10年 (1567) |
小早川隆景により三原城の築城が開始される(通説) 1 。 |
天正8-10年 (1580-82) |
隆景により三原城が大規模に整備され、本拠を新高山城から移す 1 。 |
天正15年 (1587) |
隆景、豊臣秀吉より筑前国を与えられ、名島城へ移る 1 。 |
文禄4年 (1595) |
隆景、養子・秀秋に家督を譲り、三原城に隠居。再度、大規模な修築に着手 1 。 |
慶長2年 (1597) |
小早川隆景、三原城にて死去 1 。 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦後、福島正則が芸備二国の領主となり、三原城はその支城となる 6 。 |
元和元年 (1615) |
一国一城令が発布されるも、三原城は広島城の支城として例外的に存続を許される 7 。 |
元和5年 (1619) |
福島氏が改易。浅野長晟が広島藩主となり、筆頭家老の浅野忠吉が三原城主となる 6 。 |
正保元年 (1644) |
幕府の命により「正保城絵図」が作成され、当時の三原城の姿が詳細に記録される 9 。 |
明治6年 (1873) |
廃城令により廃城となる。 |
明治27年 (1894) |
山陽鉄道(現・JR山陽本線)が本丸を貫通する形で敷設され、三原駅が開業。石垣の一部は港の建設資材に転用 2 。 |
昭和32年 (1957) |
「小早川氏城跡(三原城跡)」として国の史跡に指定される 5 。 |
昭和50年 (1975) |
山陽新幹線が開業。高架が本丸および天主台跡をさらに貫通する 1 。 |
平成16年 (2004) |
天主台周辺の公園化整備工事が開始される 1 。 |
三原城の築城を理解するためには、まずその築城主である小早川隆景の出自と、彼が率いた小早川氏の発展の軌跡を辿る必要がある。毛利元就の三男として生まれた隆景は、父の深謀遠慮のもと、天文13年(1544年)に安芸国の有力国人であった竹原小早川氏、次いで天文19年(1550年)にはその本家である沼田小早川氏を継承し、両小早川家を統合した 1 。これにより、兄・吉川元春と共に毛利本家を支える「毛利両川体制」の一翼を担い、山陽道方面の経略を担当する一大勢力としての基盤を固めたのである 4 。
当初、隆景が本拠としたのは、沼田小早川氏の伝統的な居城であった山城・高山城であった 3 。しかし、勢力の拡大に伴い、より広範な領域支配と統治機能の強化が求められるようになると、天文21年(1552年)、沼田川を挟んだ対岸に新たな拠点として新高山城を築城し、本拠を移した 1 。この高山城から新高山城への拠点変遷は、小早川氏が在地領主から広域支配を行う戦国大名へと脱皮していく過程を象徴する動きであった。
毛利家の、そして小早川隆景の運命を決定づけたのが、弘治元年(1555年)の厳島の戦いであった。この戦いは、毛利家が西国における覇権を確立する上での一大転機となっただけでなく、瀬戸内海の制海権が戦いの勝敗を左右するという軍事的真理を天下に知らしめるものであった。当時、圧倒的な兵力で厳島に布陣した陶晴賢率いる大内軍に対し、元就は奇襲作戦を敢行。その成功の鍵を握ったのが、隆景の働きであった。隆景は、瀬戸内海の制海権を掌握していた村上水軍を巧みな交渉の末に味方に引き入れ、その強力な艦隊をもって陶軍の海上退路を完全に封鎖したのである 1 。これにより、陶軍は袋の鼠となり、毛利軍は歴史的な大勝利を収めることができた。
この鮮烈な成功体験は、隆景に「海を制する者が西国を制する」という揺るぎない確信を抱かせた。そして、この教訓は、散在する水軍衆をその都度味方につけるという不安定な体制ではなく、毛利家自身が強力な水軍を恒常的に保持し、その活動を支える大規模かつ機能的な拠点基地を確保する必要性を痛感させる決定的な契機となった。三原城築城の構想は、この厳島の戦いの硝煙の中に、既に萌芽していたと言っても過言ではない。
厳島の戦いを経て、小早川水軍の力は飛躍的に増大した。当時の本拠地であった新高山城の麓まで、沼田川の河口から瀬戸内海の深い湾が入り込んでいたものの、増え続ける艦船の管理や、大規模な兵員・物資の効率的な運用には、より海に直結した拠点が不可欠となっていた 1 。
この状況下で、隆景が下した決断は、堅固な山城である新高山城を背後に控えさせつつも、あえて沼田川河口の湿地帯に全く新しい思想に基づく城を築くことであった。これは単なる拠点の移転ではない。それは、毛利家の軍事ドクトリンそのものの戦略的転換を意味していた。従来の山城を中心とした「陸上からの防衛」思想に加え、「海上からの積極的な戦力投射」と「長大な海上補給線の維持」を重視する、より近代的で複合的な戦略思想への進化である。山城という「点」の防衛から、航路という「線」と海域という「面」の支配へ。三原城の築城は、毛利氏が西国における地域的覇権を確立し、やがて中央の織田・豊臣政権と対峙していくための、最終段階の布石であった。この決断こそ、隆景の先見性を示すものであり、三原城という類稀な海城を生み出す原動力となったのである。
三原城は、その構造において戦国時代の城郭の中でも極めて独創的な特徴を持つ。その最大の特徴は、三原湾に点在していた大島、小島といった複数の島や中州を、長大な石垣で連結し、その間を埋め立てるという、当時としては極めて先進的かつ大規模な土木技術を駆使して築かれた点にある 1 。この大胆な工法により、城郭は沼田川河口のデルタ地帯に、海に向かって大きく開かれた人工の地盤の上に建設された。
この立地と構造が、三原城に「浮城」という雅称をもたらした 1 。満潮時には海水が堀を満たし、城郭全体があたかも海上に浮かんでいるかのような壮麗な景観を呈したと伝えられる 2 。しかし、これは単なる景観の美しさを追求したものではない。海と城を一体化させる設計思想は、極めて高度な軍事的合理性に基づいていた。海からの敵の接近に対しては、広大な水面と堅固な石垣が天然の要害となり、容易な上陸を許さない。その一方で、城内からは軍船を直接海上へ出撃させることができ、水軍の迅速な展開を可能にする。このように、防御と攻撃の両面を高いレベルで両立させる、優れた設計思想の表れが「浮城」の実体であった。
江戸時代の正保元年(1644年)に幕府の命令で作成された「備後国之内三原城所絵図」などの古絵図は、最盛期の三原城の壮大な姿を今に伝えている 9 。これらの資料によれば、三原城の縄張(城郭の設計)は、本丸を最も奥まった北側(陸側)に置き、その東・西・南の三方を二の丸が取り囲み、さらにそれらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けた「梯郭式」と呼ばれる形式を採用していた 1 。
城域は東西約900メートル、南北約700メートルにも及び、その内部には二層または三層の隅櫓が32基、城門が14箇所も設けられていたと記録されており、備後国における最大級の巨大城郭であったことが窺える 7 。陸の防御線として、西には浮世川、東には和久原川を天然の外堀として活用し、城下町全体を防御網に組み込んでいた 6 。
三原城の構造における最大の謎の一つが、本丸の北側に突出して築かれた「天主台」の存在である。この天主台は、広島城の天守閣が6つも収まるほどの広さを持ち、日本でも最大級の規模を誇る壮大な石垣の基壇であった 2 。しかし、これほど巨大な基壇が築かれたにもかかわらず、その上に天守(三原城では「天主」と表記される)が建てられることはついになかった 14 。
この理由については、いくつかの説が考えられる。一つは、三原城の築城が開始された永禄10年(1567年)頃は、織田信長が安土城で壮麗な天守を築く以前であり、まだ天守を権威の象徴として高層化させる思想が一般的ではなかった、山城から平城への過渡期の城であったとする見方である 2 。一方で、天守はなくとも、天主台の隅には二層の櫓が建てられ、周囲は多聞櫓で連結されていたと推定されており 6 、天主台そのものが海上から見た際の圧倒的な威容を誇示し、毛利氏の権威を象徴する役割を十分に果たしていた可能性も指摘できる。
この事実は、三原城の本質が「見せるための権威」よりも「実用的な軍事機能」に重点を置いていたことを物語っているのかもしれない。築城者である隆景の現実主義的かつ合理的な精神性を反映し、莫大な資源を投じて天守を建てるよりも、後述する水軍の運用能力を高める施設群の充実に力を注いだ結果と解釈することも可能である。巨大な天主台は、海上からの威嚇という視覚的効果は狙いつつも、城郭全体の機能性を最優先した、智将・隆景らしい判断の産物であったと言えるだろう。
三原城に残る石垣は、その築城から改修に至る長い歴史を物語る貴重な物証である。特に天主台の石垣には、複数の時代の築城技術が重層的に見られ、「石垣技術の博物館」としての価値を持っている 17 。
天主台の石垣には、古い工法である「アブリ積み」と呼ばれる技法が見られる 2 。これは、自然石をあまり加工せずに積み上げる野面積みの一種で、特に隆景が晩年に新高山城から石材を運ばせて修築した際に築かれた部分と考えられている 6 。
さらに興味深いのは、天主台の隅石(角の部分)の積み方が、場所によって異なっている点である。北西部の隅石は、加工度の低い石を組み合わせた古式な積み方であるのに対し、北東部の隅石は、長方形に加工した石の長辺と短辺を交互に組み合わせる、より進んだ「算木積み」という技法が用いられている 7 。この違いは、小早川時代に築かれた部分と、関ヶ原の戦い以降に城主となった福島正則の時代に大規模な改修が行われた部分が混在していることを示す明確な証拠である 7 。このように、三原城の石垣を注意深く観察することで、時代の変遷と共に城がどのように強化・改修されていったかを読み解くことができる。
三原城が単なる平城ではなく、類稀なる海城であったことを最も象徴するのが、水軍の運用に特化した数々の施設群である。
城の南東部、かつて小島であった場所に築かれたのが「船入櫓」である 6 。これは、城郭内に直接船を引き入れるための軍港施設のまさに中核であり、城内と海が直結していたことを示す遺構である 1 。現在も残る石垣の基礎部分には、元々の島の岩礁が露出しており、自然地形を巧みに利用して堅固な構造物を築き上げた当時の高度な築城技術を窺い知ることができる 6 。ここから小早川水軍の軍船が瀬戸内海へと出撃していったのである。
城の東側を流れる和久原川の川岸には、「水刎」と呼ばれる三角形に突出した石垣の遺構が残る 6 。これは、川の急な流れを弱め、その勢いを削ぐことで、城の東側に造成された埋立地(東築出)を洪水から守るための治水施設であった。城郭の防衛と、城下を水害から守る土木技術が一体となったこの構造物は、隆景の総合的な都市計画思想を示すものとして非常に興味深い。
三原城は平地に築かれた城(平城)であるが、その防御体制は単独で完結していたわけではない。背後に聳える桜山には、有事の際の最終防衛拠点、すなわち「詰の城」として桜山城が整備されていた 1 。平時には交通の便の良い平地の三原城を政治・経済・軍事の中心とし、敵の攻撃を受けた際には、防御に優れた山城である桜山城に立て籠もる。この平城と山城が一体となった重層的な防衛体制は、戦国末期の城郭の典型的な姿であり、三原城がいかに周到な防衛計画のもとに築かれていたかを示している。
これらの構造的特徴から明らかなように、三原城は、単に海に面しているだけの城ではない。「島々を連結する」という大胆な発想、城内に船を直接引き入れる「軍港機能」、川の流れを制御する「治水技術」、そして背後の山城と連携する「重層防衛体制」という四つの要素が有機的に結合した、極めて高度な総合要塞システムであった。
三原城は、その築城当初から一貫して、毛利家の海洋戦略を支える中核拠点として構想されていた。瀬戸内海の制海権を掌握した小早川水軍にとって、この城は出撃、補給、修理、訓練の全てを担う一大根拠地であった。隆景の家臣であった乃美宗勝の視点から描かれたとされる記録によれば、城の大手口から直接船が出入りでき、兵員や物資の移動が極めて円滑に行われたとされ、まさに「城は陸から見れば要害であるが、海から見れば港でもある」という隆景の言葉を具現化した城であった 19 。
この機能が最大限に発揮されたのが、織田信長との間で繰り広げられた石山本願寺を巡る攻防戦、いわゆる木津川口の戦いである。天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは、毛利水軍が織田方の水軍を撃破し、本願寺への兵糧搬入に成功。この勝利は毛利水軍の絶頂期を示すものであり、その兵站を支えたのが三原城であった。
しかし、天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、織田方が投入した鉄甲船の前に毛利水軍は敗北を喫する。この敗戦は、隆景に大きな衝撃を与えた。記録によれば、敗戦後に三原城に戻った隆景は「戦いの形は常に変わる。我らも新たな船を用意せねば」と語り、早速、新型船の開発・建造を命じたという 19 。この逸話は、三原城が単なる出撃基地に留まらず、敗戦の教訓を次に活かすための技術開発拠点、すなわち軍船のドックとしての役割も担っていたことを示唆している 20 。戦況の変化に即応し、軍事技術の革新を図る、まさに毛利水軍の頭脳部としての機能がここにあったのである。
天正10年(1582年)の本能寺の変を経て、毛利氏が羽柴(豊臣)秀吉に臣従すると、三原城の戦略的役割は大きく変化する。毛利家が独立した勢力として織田信長と対峙していた時代には、三原城は対中央政権の最前線基地であった。しかし、豊臣政権下に組み込まれると、その機能は日本統一戦争を遂行するための国家的な兵站基地へと転換していく。
特に、天正15年(1587年)の九州平定や、その後の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において、三原城が果たした役割は大きかったと専門家は指摘している 20 。畿内から九州、さらには朝鮮半島へと至る長大な補給線を維持するためには、瀬戸内海航路の安全確保と、中継地点となる港湾施設の整備が不可欠であった 21 。山陽道と瀬戸内海航路の結節点に位置し、大規模な水軍の収容能力を持つ三原城は、この豊臣政権の壮大な遠征計画において、極めて重要な兵站拠点の一つとして機能したことは間違いない 23 。この時期、三原城は毛利家一門の城という性格に加え、豊臣政権の西国支配と対外政策を支える公儀の城という側面をも併せ持つようになったのである。
文禄4年(1595年)、隆景は豊臣秀吉の甥(養子)である秀秋を自らの養子として迎え、家督と筑前の所領を譲ると、自身は隠居の地として三原城に戻った 1 。しかし、この時期に彼が着手した三原城の修築は、単なる一老将の隠居所の整備とは到底言えない、異様なまでの規模と執念が込められたものであった 1 。
記録によれば、隆景は既に廃城となっていた旧本拠・新高山城の石垣を、昼夜兼行で人夫に運ばせ、三原城の石垣を増強したという 1 。この大改修により、桜山から軍港までが一体化した一大要塞が完成したと考えられている。自身の隠居所にしてはあまりにも強固すぎるこの城普請の背後には、隆景の深謀遠慮があった。それは、秀吉亡き後の政情不安、ひいては豊臣政権と毛利家の間に万が一の事態が生じることを見越し、毛利本領(安芸・備後)の東の玄関口であるこの地を、毛利一門の最終防衛拠点として完成させようとする強い意志の表れであった 1 。
この隆景晩年の大改修は、豊臣政権への忠誠を誓うという表の顔を持ちながらも、その内実では毛利家の安泰と存続を第一に考える、彼の「二重の戦略」を物語っている。表向きは穏やかな隠居生活を送りながら、水面下では対中央政権をも想定した一大要塞を構築する。それは、父・元就から受け継いだ謀略の才と、毛利家を守り抜くという終生変わらぬ強い責任感が結実した、智将・小早川隆景の生涯最後のグランドデザインであった。
小早川隆景の先見性は、城郭そのものの設計に留まらず、城下町の整備計画にも遺憾なく発揮されている。彼は三原城の築城にあたり、当時から日本の大動脈であった西国街道(山陽道)を、意図的に城下町の中心に貫通させるという大胆な町割りを行った 24 。
これは、城下町を単なる城の付属施設としてではなく、交通の要衝として積極的に位置づける都市計画思想の現れである。街道を城下に取り込むことで、三原は単なる軍事拠点に留まらず、街道を往来する人、モノ、情報が自然と集積する経済・交通の結節点としての機能を持つことになった。この計画的な設計が、後の三原の商業的な発展の強固な基盤を築いたのである。街道沿いには本陣も置かれ、城下は常に賑わいを見せていたと伝えられている 24 。
築城と並行して、隆景はもう一つの巧みな都市計画を実行した。それは、旧本拠地である新高山城下から数多くの寺院を、三原城の周囲、特に背後の山麓や街道沿いに計画的に移転させることであった 24 。これは単に寺社の保護を目的としたものではない。城の背後や街道筋といった防衛上の要所に寺院群(寺町)を配置することで、有事の際にはそれらを外郭の防御拠点として機能させるという、城郭と一体化した防衛思想の現れであった 24 。広大な敷地と強固な塀を持つ寺院は、兵の駐屯地や防衛陣地として活用することができ、城下町全体を要塞化する上で重要な役割を果たしたのである。
三原城が持つ軍港としての機能は、平時においては商業港としても大いに活用され、三原は瀬戸内海航路の重要な寄港地として栄えた。城と港が直結しているという地理的優位性は、物資の集散を活発にし、多くの商人を引き寄せた 24 。沼田の本市・新市などからも商人が移住し、城下町の経済を担ったと考えられている 24 。
江戸時代に入り、三原城が広島藩の筆頭家老・浅野氏の居城となると、その政治的安定を背景に港町としての繁栄はさらに加速した。経済的に力をつけた町人を中心とした文化が花開き、俳諧などが盛んに行われたという 24 。当時の町の運営や経済活動の詳細は、西町の年寄役を代々務めた町人・川口家に残された古文書群「川口家文書」に詳細に記録されており、近世港町の社会経済史を研究する上で極めて貴重な史料となっている 24 。
このように、三原の城下町は、自然発生的に生まれたものではなく、「軍事防衛」「陸上交通」「海上交通」「経済振興」という複数の目的を、築城の当初から意図して設計された、極めて計画的な人工都市であった。隆景は、城を「点」として孤立させるのではなく、城下町、街道、港、そして背後の寺社群まで含めた広域な「面」として一体的に整備する、近代的な都市計画にも通じる総合的なビジョンを持っていた。軍事と経済を両輪として町の発展を目指すその手法は、彼が単なる武人ではなく、優れた行政官であり、卓越した都市プランナーでもあったことを雄弁に物語っている。
関ヶ原の戦いを経て、徳川の世が訪れると、三原城の城主は目まぐるしく変わる。まず、芸備二国の領主となった福島正則の支城となり、重臣が入った 6 。その後、元和5年(1619年)に福島氏が改易されると、代わって紀州から浅野長晟が広島藩主として入封。三原城には、その筆頭家老である浅野忠吉が3万石を与えられて入り、以後、明治維新に至るまで代々浅野家の家老が城主を務めることとなった 6 。
この江戸時代において、三原城は特筆すべき歴史を持つ。元和元年(1615年)、徳川幕府によって「一国一城令」が発布され、原則として一つの国(藩)に居城以外の城を持つことは禁じられた。これにより全国の多くの城が破却されたにもかかわらず、三原城は広島城の支城として例外的に存続を許されたのである 7 。これは、徳川幕府が備後国の東端に位置する三原という土地の戦略的重要性を高く評価していたことの証左であり、極めて異例の措置であった 20 。封建体制下において、その軍事的価値が城の命脈を保ったのである。
明治維新を迎え、封建時代が終わりを告げると、三原城の運命は暗転する。廃城令により城は役割を終え、多くの建物が破却された。そして、その姿を決定的に変えたのが、日本の近代化を象徴するインフラ、鉄道の建設であった。
明治27年(1894年)、山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が三原まで延伸される際、その線路は城を迂回することなく、本丸の中心を貫通する形で敷設された 2 。この時、壮麗な城郭は無残にも分断され、多くの石垣が容赦なく取り壊された。さらに悲劇的なことに、取り壊された石垣の石は、近くの糸崎港を建設するための資材として転用されたと伝えられている 7 。かつて海からの脅威に備えた石垣が、海を埋め立てるために使われたという事実は、時代の価値観の大きな転換を物語っている。
さらに、昭和50年(1975年)には山陽新幹線が開業。その高架橋は、在来線に並行する形で、本丸跡と、わずかに残されていた天主台の敷地をさらに貫くように建設された 1 。これにより、城の遺構はさらに断片化され、往時の姿を想像することさえ困難な状況となった。
数々の破壊の危機を乗り越え、奇跡的にも天主台やそれを取り巻く堀、そして船入櫓跡などの石垣の一部は現代までその姿を留めている。これらの貴重な遺構は、昭和32年(1957年)に「小早川氏城跡」として国の史跡に指定され、法的な保護のもとに置かれることとなった 5 。
現在、JR三原駅のコンコースや新幹線のホームから、壮大な天主台の石垣を間近に望むことができるという、全国的にも他に類を見ない特異な景観が生まれている 16 。これは、歴史遺産と近代インフラが、相克の歴史の末に奇妙な形で共存している姿であり、日本の近代化がもたらした光と影を象徴する風景とも言えるだろう。
近年では、失われた歴史への反省と再評価の機運が高まっている。天主台周辺の民有地を買収し、歴史公園として整備する事業が進められ 16 、古絵図や発掘調査の成果に基づき、往時の城郭や城下町の姿をコンピュータ・グラフィックスで復元する試みも行われている 28 。これらの活動は、三原城の歴史的価値を再認識し、智将・小早川隆景が遺した壮大な構想を後世に伝えようとする、現代の我々の意志の表れである。一国一城令下でさえ存続を許された戦略的価値が、近代化の過程で経済的合理性の前に破壊されたという皮肉な歴史を経て、今、三原城は文化的資本という「第三の価値観」のもとで、新たな生命を吹き込まれようとしている。
本報告で詳述してきたように、三原城は単なる一地方の城郭に留まらない、多層的かつ重要な歴史的価値を内包している。その価値は以下の三点に集約される。
第一に、 戦国時代の軍事思想の転換を体現する城 であること。厳島の戦いの戦訓に基づき、山城から海城へと拠点を移し、制海権の掌握を最重要課題とした隆景の戦略思想は、三原城の立地と構造の随所に見て取れる。これは、戦国末期の軍事ドクトリンが、陸上防衛から海陸一体の立体的な戦略へと進化していく過程を示す画期的な事例である。
第二に、 軍港機能と都市計画が融合した総合要塞 であること。島々を連結して築かれた「浮城」の構造、船入櫓に代表される高度な軍港施設、そして西国街道を取り込み、寺社群を防衛網に組み込んだ計画的な城下町の形成は、軍事、経済、交通、防衛の各機能を一つのグランドデザインのもとに統合しようとした隆景の卓越した構想力を示している。
第三に、 時代の要請に応じて役割を変化させた歴史の証人 であること。毛利水軍の根拠地から、豊臣政権下の兵站基地へ、そして毛利家の東方防衛線へと、その時々の政治情勢に応じて役割を変転させた歴史は、戦国末期から近世へと至る激動の時代そのものを映し出している。
三原城は、戦国末期から近世にかけての日本の城郭史、軍事史、さらには都市計画史において、きわめて重要な位置を占める歴史遺産であると結論付けられる。
三原城は、しばしば讃岐・高松城、伊予・今治城と共に「日本三大水城」と称される。しかし、それぞれの城を比較分析すると、三原城の持つ独自性がより一層明確になる。
比較項目 |
三原城 |
高松城 |
今治城 |
国 |
備後国 |
讃岐国 |
伊予国 |
築城者 |
小早川隆景 |
生駒親正(豊臣大名) |
藤堂高虎(築城の名手) |
主要築城年代 |
永禄10年 (1567)頃~ |
天正16年 (1588)頃~ |
慶長7年 (1602)~ |
城郭構造 |
梯郭式平城(海城) |
輪郭式平城(海城) |
輪郭式平城(海城) |
天守 |
なし(巨大な天主台のみ) |
あり(南蛮造、非現存) 30 |
あり(層塔型の祖、丹波亀山城へ移築) 31 |
水城としての特徴 |
・島々を連結して築城 ・城内に船を引き入れる「船入櫓」 |
・三重の海水堀 ・海からの出入り口「水手御門」30 |
・三重の海水堀 ・堀内に舟入(港)を設置 ・高石垣と犬走り 33 |
築城思想・目的 |
毛利水軍の根拠地として、実戦的・軍事的機能を最優先 |
豊臣政権の四国支配の拠点として、権威の象徴と軍事機能の両立 35 |
近世城郭の完成形として、機能性・効率性を追求した計画的都市建設 31 |
この比較から、三原城が持つ過渡期的な特徴が浮き彫りになる。高松城や今治城が、豊臣政権下から江戸時代初期にかけての、より完成された近世城郭の姿を示しているのに対し、三原城は天守を持たず、より実戦的な軍港としての性格を色濃く残している。これは、三原城が戦国乱世の只中で、純粋な軍事目的を最優先して構想されたことを物語っている。築城の名手・藤堂高虎による機能美の極致ともいえる今治城と比較することで、隆景の現実主義的で剛健な築城思想が一層際立つ。
近代化の過程で分断され、断片化された三原城の遺構。しかし、その残された石垣一つひとつは、智将・小早川隆景が描いた壮大な海上要塞都市の記憶を宿し、その後の時代の変遷を物語る雄弁な語り部である。我々に課せられた使命は、これらの断片から、かつての全体像を想像力によって再構築し、その歴史的意義を深く理解することにある。
三原城の保存と活用は、単に古い史跡を保護することに留まらない。それは、地域の歴史的アイデンティティの核を再確認し、それを未来へと継承していくための重要な文化的営為である。鉄道と城跡が共存する他に類を見ない景観を、負の遺産としてではなく、日本の近代化の歩みを体現するユニークな文化的景観として捉え直し、その価値を積極的に発信していくこと。それこそが、智将・隆景の遺産に対する、現代に生きる我々の責務であろう。