陸奥の要衝、三春城は田村氏の居城として栄え、伊達・蘆名・佐竹の狭間で巧みな外交を展開。清顕の死後、伊達政宗の介入で独立を失い、豊臣秀吉の奥州仕置で改易。その歴史は今も城跡に息づく。
陸奥国南部に位置する三春城は、戦国時代の仙道(現在の福島県中通り)地域において、単なる一地方豪族の居城という枠を超えた、極めて重要な戦略的価値を有していた。阿武隈山地に連なる標高407.5メートルの大志多山に築かれ、麓からの比高は約100メートルに及ぶこの城は、天然の地形を巧みに利用した要害堅固な山城であった 1 。その地理的・地政学的な位置づけこそが、三春城と城主田村氏の運命を大きく左右する要因となった。
三春城が位置する田村郡は、北に出羽米沢の伊達氏、西に会津黒川の蘆名氏、南に常陸の佐竹氏、東に小高の相馬氏といった、東北地方を代表する有力大名の勢力圏が複雑に交錯する結節点であった 2 。このため、三春城は周辺大国のパワーバランスを左右する一種の「地政学的な楔」としての役割を担っていた。田村氏がどの勢力と手を結ぶかによって、仙道地域全体の勢力図は大きく変動する可能性を秘めていたのである。この城の戦略的価値を巡る周辺大国の思惑と、それを利用し、あるいはそれに翻弄され続けたのが、三春田村氏の歴史であった。
この城には「舞鶴城」という優雅な別名も伝わっている。永正元年(1504年)に田村義顕が初めて入城した朝、城の上空を鶴が舞いながら飛んでいたことから名付けられたという伝承である 5 。この逸話は、単なる美しい物語に留まらない。新拠点での統治開始を寿ぐ縁起の良い象徴として、田村氏の権威を高め、その支配の正当性を内外に示すための重要な意味を持っていたと考えられる。後世、宝暦5年(1755年)に成立した『諸街道絵図』にも城の近くを舞う鶴が描かれており、この呼称が長く人々に親しまれていたことがうかがえる 8 。急峻な岩山の上に築かれた難攻不落の山城という軍事的性格と、鶴が舞うという文化的象徴性。この二面性こそが、戦国の荒波の中を生き抜こうとした三春城の本質を物語っている。
三春城の創築については、永正元年(1504年)に田村義顕によって築かれたとする説が広く知られている 1 。しかし、この年代は同時代の確実な一次史料によって裏付けられたものではなく、後世の記録に基づく伝承の域を出ない点には留意が必要である 2 。三春町の公式見解においても、この説はあくまで現時点で判明している有力な年次であり、将来的な史料の発見によっては見直される可能性があるとされている 10 。
近年の文献研究や発掘調査の成果により、田村氏が「築城」したとされる16世紀初頭以前から、三春の地にはある程度の規模を持つ町が形成されていたことが明らかになっている 11 。南北朝時代の延元4年(1339年)頃の書状には、南朝方に与しない「御春輩(みはるのともがら)」と呼ばれる勢力が存在したことが記されている 11 。また、考古学的調査では、町内で最も古い寺院の一つである法蔵寺が正応2年(1289年)の開山と伝えられているほか、13世紀後半から15世紀にかけての建物群の跡も確認されている 11 。これらの事実は、田村氏の三春進出が、全くの未開地への築城ではなく、既存の集落や宗教施設を基盤とした上で行われたことを示唆している。
確かなことは、田村氏が16世紀初頭にそれまでの本拠地であった守山城(現在の郡山市田村町)から三春へ拠点を移したという事実である 2 。この拠点移転は、単なる城の引っ越し以上の、重大な政治的・戦略的意図に基づいていたと考えられる。守山を拠点としていた旧来の「田村庄司」と呼ばれる系統と、三春を拠点とする「三春田村氏」は区別して語られることが多く、この移転が田村氏の新たな時代の幕開けを意味していた 4 。
この一連の動きは、単なる「築城」という物理的な行為に留まらず、旧来の荘園領主的な支配体制から脱却し、戦国大名としての新たな権力構造を構築するための「首都移転」とでも言うべき政治的事業であった。既存の町を支配下に置き、より防御に適した大志多山に新たな本拠を構えることで、義顕は自身を頂点とする新たな支配体制の確立を内外に宣言したのである。永正元年という具体的な年次や「舞鶴城」の伝承は、この歴史的な転換点を象徴する物語として、後世に語り継がれていったのであろう。
三春に本拠を移した田村氏は、義顕、隆顕、清顕の三代約80年間にわたり、仙道地域に確固たる勢力を築いた。その治世は、周辺大国の圧力を巧みに利用し、それを自らの勢力拡大の原動力へと転換させていく、中小勢力ならではの巧緻な生存戦略の連続であった。
初代・義顕は、三春への移転後、比較的早い段階で隠居したとされ、その治世に関する具体的な事績は多く伝わっていない 4 。しかし、彼が田村地方全体の統治基盤を築いた重要な人物であることは間違いない。守山から領内総鎮守である大元帥明王や菩提寺となる福聚寺を三春城下に移すなど、軍事・政治の中心地であるだけでなく、宗教的権威をも新拠点に集中させることで、領国の一元支配の基礎を固めたのである 5 。
父の跡を継いだ二代・隆顕の時代、田村氏は仙道の一勢力として大きく飛躍する。隆顕は正室に伊達稙宗の娘(伊達政宗の大叔母にあたる)を迎え、当時、南奥羽で勢力を伸張していた伊達氏との強固な同盟関係を構築した 2 。この伊達氏との関係を外交上の最大の武器として、西から迫る蘆名盛氏の仙道侵攻に巧みに対抗した 2 。一方で、南の佐竹氏が侵攻してきた際には、一転して宿敵であったはずの蘆名氏と手を結びこれを撃退するなど、状況に応じて同盟相手を使い分ける柔軟かつ巧みな外交戦略を展開した 2 。こうした外交手腕を背景に、安積郡や岩瀬郡へも積極的に出兵し、田村氏の勢力範囲を大きく拡大させた 4 。
三代・清顕の時代に、田村氏の勢力は最大に達する。父・隆顕の路線を継承しつつも、より勇猛果敢な軍事行動によってその版図を広げた 4 。特に、南から新たに台頭してきた常陸の佐竹義重とは、寺山城や赤館などを巡って激しい抗争を繰り広げた 12 。しかし、佐竹氏が蘆名氏や白川氏と同盟を結び、反田村連合を形成するに至って、田村氏は四方を敵に囲まれる危機的状況に陥る 12 。この窮地を脱するための最終的な生存戦略として、清顕は一人娘であった愛姫を、伊達輝宗の嫡男・政宗に嫁がせるという決定的な同盟強化策を断行する 2 。この婚姻は、田村家の存亡そのものを賭けた、まさに乾坤一擲の策であった 18 。
田村氏三代の治世は、単なる軍事・外交活動に終始したわけではない。その領国経営の実態を雄弁に物語るのが、弘治3年(1557年)に隆顕が、そして天正10年(1582年)に清顕が、菩提寺である福聚寺に対して発布した「田村氏掟書」である 5 。この掟書は、寺院が有していた不入権などの特権を制限し、大名の統制下に置こうとするものであり、田村氏が単なる在地豪族から、領域全体を一元的に支配する戦国大名へと変質を遂げていく過程を示す一級史料である 20 。宗教権威をも支配下に組み込むことで、田村氏は名実ともに領国の最高権力者としての地位を確立していったのである。
田村氏三代の外交は、敵の敵は味方という原則に基づき、常に自らがキャスティングボートを握る状況を作り出そうとする高度な戦略であった。しかし、その戦略は常に綱渡りであり、一つの判断ミスが即座に滅亡に繋がるという、中小勢力固有の脆弱性を内包していた。清顕の代に佐竹氏を中心とする包囲網が形成されると、この多方面外交は限界に達し、最も強力な伊達氏との単一の強固な同盟へと戦略を転換せざるを得なかったのである。
周辺大名 |
田村義顕 |
田村隆顕 |
田村清顕 |
伊達氏 |
婚姻同盟(正室が岩城氏出身であり、伊達氏とは間接的な姻戚関係) |
婚姻同盟(正室が伊達稙宗の娘) |
婚姻同盟(娘・愛姫が伊達政宗の正室)。人取橋の戦いで共闘。 |
蘆名氏 |
敵対 |
敵対と共闘(対佐竹氏で一時的に連合) |
敵対。佐竹氏と同盟し田村領へ侵攻。 |
佐竹氏 |
不明 |
敵対(仙道地域への侵攻を受ける) |
敵対(寺山城、赤館などで激戦)。蘆名氏等と反田村連合を形成。 |
相馬氏 |
不明 |
友好(清顕の正室が相馬氏出身) |
婚姻同盟(正室が相馬顕胤の娘)だが、伊達氏との対立により関係は複雑化。 |
岩城氏 |
婚姻同盟(正室が岩城常隆の娘) |
友好 |
敵対。佐竹氏側として田村領へ侵攻。 |
田村清顕が築き上げた栄華は、彼自身の死によって突如として終わりを告げる。嫡男不在という、戦国大名にとって最も致命的な状況が、田村家を内部分裂へと導き、虎視眈々と機会を窺っていた伊達政宗に介入の絶好の口実を与えることになった。
天正14年(1586年)、田村氏が周辺大名から孤立を深める中、清顕は後継者を指名することなく急死した 2 。清顕の狙いは、娘・愛姫と政宗の間に生まれた男子に田村家を継がせることであったが、その計画が実現する前の突然の死は、三春城に致命的な権力の空白を生み出した 4 。清顕の死後、相馬氏出身の正室・於北の方が一時的に城主となり、田村家中の重臣60数名は一致団結を誓う血判状を作成したものの、その結束は表面的なものに過ぎなかった 2 。
権力の空白は、即座に家中の分裂を招いた。家中は、清顕正室の実家である相馬氏を頼るべきとする大越顕光らを中心とした「相馬派」と、愛姫の嫁ぎ先である伊達氏との同盟関係を維持すべきとする田村月斎らを中心とした「伊達派」の二大派閥に分裂し、激しく対立した 2 。これは、田村家が生き残りをかけて築いてきた二つの主要な縁戚関係、すなわち相馬氏と伊達氏のどちらを選択するのかという、究極の選択を迫られたことを意味していた。
この内部対立は、天正16年(1588年)閏5月、ついに外部勢力の直接介入を招く。相馬派の手引きにより、清顕正室の甥にあたる相馬義胤が三春城への入城を強行しようとしたのである 5 。しかし、これを察知した伊達派は城門を固く閉ざして抵抗。城山の中腹まで兵を進めた義胤に対し、弓や鉄砲を浴びせて撃退した 21 。義胤は命からがら船引城へと敗走し、この事件は相馬派の失脚と伊達派の優位を決定づけることとなった。
この内紛を好機と捉えた伊達政宗は、同年8月、満を持して三春城へと入城する 2 。政宗は、後見人という立場を巧みに利用し、田村家の内政に深く干渉した。まず、清顕の甥にあたる田村宗顕に自らの一字「宗」を与えて新たな当主とし、事実上の傀儡政権を樹立 4 。そして、家中から相馬派の家臣を一掃し、田村領を完全に伊達氏の勢力下に置いた。この一連の措置は「田村仕置」と呼ばれ、田村氏が独立大名としての地位を失った瞬間であった 22 。
政宗は三春に42日間滞在したが、その間、三春城の東館に隠居していた大叔母(隆顕未亡人)の元へ実に15回も足を運んだ記録が残っている 1 。これは、血縁という繋がりを最大限に利用して人心を掌握し、自らの介入と支配を正当化しようとする、政宗の冷徹な計算高さを示す逸話である。愛姫との婚姻は、田村家にとっての存続のための「保険」であったが、後継者不在という最悪の事態において、その保険金受取人である政宗が、被保険者である田村家の資産そのものを差し押さえるという皮肉な結果となったのである。
伊達政宗による「田村仕置」によって事実上独立を失った田村氏であったが、その名跡を完全に断絶させる最後の一撃は、中央の天下人、豊臣秀吉によってもたらされた。それは、戦国末期の東北地方におけるローカルな実力主義と、中央集権的な新たな秩序との衝突が生んだ悲劇であった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼし、天下統一を成し遂げた。その勢いはすぐさま東北地方にも及び、秀吉は奥州の諸大名に対し、領地の安堵と引き換えに服従を求める「奥州仕置」を開始した 5 。これにより、東北地方は否応なく中央政権が定めた新たな秩序の中に組み込まれていくこととなる。
奥州仕置の根幹をなす原則は、小田原征伐への参陣の有無であった。秀吉は、参陣した大名の領地は基本的に安堵する一方、参陣しなかった大名は理由の如何を問わず改易するという厳しい方針を打ち出した。この時、田村氏当主の田村宗顕は小田原に参陣しなかった 2 。その結果、秀吉の裁定により、田村氏は改易、すなわち領地没収の処分を受けることとなった 5 。
この不参陣の背後には、伊達政宗の策謀があった。政宗は、自らが支配下に置いた田村氏を独立した大名として参陣させることを許さなかったのである 9 。これは、田村氏を自らの陪臣として秀吉に認識させ、その領地を伊達領の一部として公式に認めさせようとする狙いがあった。政宗の論理では、田村氏は既に伊達家の内にあるのだから、当主が個別に参陣する必要はない、というものであった。
しかし、秀吉は政宗のこうしたローカルな論理を全く認めなかった。秀吉の天下統一事業において、各大名家の当主が自らの意思で参陣することこそが服従の証であり、絶対的な基準であった。秀吉は田村氏を独立した大名とみなし、その当主の不参を「反逆」と判断して、改易という罰を機械的に適用した。
皮肉なことに、改易された田村氏の旧領は、結果としてその元凶を作った伊達政宗に与えられることになった 22 。政宗は目的であった田村領の併合を達成したものの、それは田村氏を犠牲にした上でのことであり、田村家臣団の深い恨みを買うことにもなった 24 。ここに、戦国大名としての三春田村氏は完全に滅亡した。当主であった宗顕は流浪の身となり、後年、伯母である愛姫のとりなしによって、伊達家重臣の片倉氏に仕えることでようやく安住の地を得たという 2 。
田村氏の改易後、三春城は伊達氏の城代・片倉景綱が一時的に管理した後、会津に封じられた蒲生氏郷の所領となった 2 。その後も、上杉氏、再び蒲生氏、加藤氏、松下氏と、城主は目まぐるしく交代する 1 。戦国時代の終焉と共に、三春城はもはや独立勢力の拠点ではなく、中央政権の都合によって配置される支城へと、その役割を大きく変えていったのである。
三春城の遺構は、戦国時代における東北地方の城郭技術の変遷を物語る、いわば「生きた地層」である。田村氏時代に築かれた中世山城の骨格に、その後の支配者たちが新たな技術を加えていった痕跡は、この城が経験した激動の歴史を物理的に示している。
三春城の縄張り(設計)は、大志多山の地形を最大限に活かした、典型的な連郭式の平山城であった 3 。山頂の最も高い位置に城の中枢である本丸を置き、そこから西に延びる尾根筋に二の丸、南東の尾根筋に三の丸を配置する構成となっている 1 。これらの主要な郭(曲輪)は、それぞれが深い堀切によって明確に分離されており、仮に一つの郭が突破されても、次の郭で敵を食い止められるような段階的な防御思想が色濃く反映されている 27 。これは、戦国時代の中世山城に共通する特徴である。特に三の丸は、伊達家から嫁いだ隆顕の未亡人(政宗の大叔母)が暮らしたことから「東館」とも呼ばれ、独立性の高い郭であったと推測されている 1 。
急峻な山城である三春城は、平城に見られるような広大な水堀を持たない。その代わりに、斜面の傾斜に沿って縦方向に掘られた「竪堀」が複数確認されている 27 。この竪堀は、斜面を横移動しようとする敵兵の動きを効果的に妨害し、攻撃ルートを限定させるための、山城ならではの防御施設である。その他にも、土を盛り上げて障壁とした土塁や、尾根を断ち切る堀切といった、土木工事を中心とした防御施設の痕跡が随所に残されており、田村氏時代の城が「土の城」であったことを示している 26 。
田村氏が改易された後、三春城は新たな時代を迎える。豊臣秀吉によって会津に封じられた蒲生氏郷が三春を領有すると、城の姿は大きく変貌を遂げた。氏郷は、織田信長や秀吉に仕え、安土城の築城にも関わった経験から、当時の最先端の築城技術を東北に持ち込んだ。その象徴が、石垣の導入である 1 。
発掘調査の結果、三春城跡からは、戦国末期に在地勢力の技術で積まれた比較的小規模で素朴な石垣と、蒲生氏時代に近江の石工集団「穴太衆」などの先進技術を用いて築かれた大規模な石垣の両方が発見されている 28 。この「石の城」への移行は、単なる技術革新を意味するものではない。蒲生氏郷が会津若松城や守山城といった拠点に石垣を多用したように 29 、三春城への石垣導入もまた、豊臣政権の圧倒的な技術力と権威を在地の人々に見せつけるための、強力な政治的デモンストレーションであった。三春城に残る石垣は、田村氏という在地領主の時代の終わりと、中央集権体制の時代の始まりを刻んだ、歴史の転換点の記念碑と解釈することができるのである。
戦国大名田村氏の勢力を支えたのは、軍事力や外交手腕だけではなかった。その基盤には、三春の地が育んできた豊かな地域産業、特に馬産と養蚕が存在した。これらの産業は単なる経済活動に留まらず、地域の伝説や信仰と深く結びつき、三春のアイデンティティそのものを形成していた。
田村氏が三春に本拠を移して以降、城の麓には城下町が形成され、発展していった 31 。江戸時代には三春藩の藩庁が置かれ、四方に街道が延びる交通の要衝として、この地域の政治・経済・文化の中心地となった 32 。城下の中町には大店が軒を連ね、定期的に市が開かれて農産物や工芸品が取引されるなど、商人の町としても大いに繁栄した 34 。この城下町の原型は、田村氏の時代にその礎が築かれたものである。
三春は古くから良馬の産地として知られ、その馬は「三春駒」の名で全国に名を馳せていた 35 。この馬産は、地域の文化や信仰と深く結びついている。郷土玩具として有名な木彫りの「三春駒」は、平安時代の武将・坂上田村麻呂が東征の際に木馬に助けられたという伝説にその起源を持つとされている 36 。田村氏自身が坂上田村麻呂の子孫を称していたことを考えれば 2 、馬産は単なる経済活動以上に、自らの支配の正当性を補強する象徴的な意味合いを持っていた可能性が高い。城下には馬の守護尊である馬頭観音も祀られ、多くの信仰を集めた 39 。江戸時代には藩の重要な産業として保護・奨励され、藩お抱えの馬術師範や、馬の絵を得意とする絵師も輩出している 40 。
馬産と並び、三春の経済を支えたもう一つの柱が養蚕業であった 42 。興味深いことに、東北地方に広く伝わる「おしら様」信仰のように、馬と人間の娘の婚姻譚が養蚕の起源を説明する説話として語られることがある 43 。これは、三春においても馬産と養蚕が文化的に深く結びついていたことを示唆している。戦国時代から続くこの産業は、特に近代以降に大きく発展し、明治期には生糸の貿易で財を成した吉田誠次郎のような豪商も現れた 46 。田村氏が周辺の強大な大名と渡り合うことができた背景には、軍馬として直接的な戦力となる馬や、交易品として富を生む生糸といった、これらの在地性の強い特産品がもたらす経済的な裏付けがあったことは想像に難くない。
三春城の歴史は、戦国時代という激動の時代における、中小勢力の栄光と悲劇を凝縮した物語である。伊達、蘆名、佐竹という巨大勢力の狭間で、巧みな外交と軍事力をもって約80年間にわたり独立を保とうとした田村氏の興亡の舞台として、この城は日本の戦国史に確かな足跡を残した。特に、田村氏の後継者問題を契機とした伊達政宗の介入は、政宗が南奥羽の覇者へと駆け上がる過程において、決定的な転換点の一つとなった。
田村氏の統治は、現在の三春町の原型となる城下町を形成し、地域の政治・経済・文化の礎を築いた 31 。その後の三春城は、戦国時代の実戦的な「詰めの城」から、豊臣政権下での「支配の拠点」、そして江戸時代の秋田氏の治世下における「藩庁」へと、時代の要請に応じてその役割と姿を変えていった。幕末の戊辰戦争では、新政府軍に降伏して無血開城を果たし、城下は戦火を免れた 1 。しかし、明治維新後の廃藩置県を経て発令された廃城令により、城内の御殿や三階櫓といった建造物、さらには石垣に至るまでその多くが民間に払い下げられ、失われてしまった 1 。
今日、往時の威容を伝えるものは、断片的に残る石垣や土塁の痕跡のみである。しかし、城跡は「城山公園」として整備され、桜の名所として、また伊達政宗の正室・愛姫生誕の地として、今なお三春町民のシンボルとして親しまれている 2 。戦国武将たちが駆け巡った山城は、時代を超えて、地域の歴史を静かに語り継いでいる。
年号(西暦) |
三春城・田村氏の動向 |
周辺大名・中央政権の動向 |
永正元年(1504) |
田村義顕が守山城から三春城へ本拠を移し、築城したと伝わる。 |
奥州では伊達氏、蘆名氏などが勢力を拡大。 |
弘治3年(1557) |
田村隆顕が福聚寺に「田村氏掟書」を発布。 |
伊達稙宗・晴宗父子の争い(天文の乱)が終結し、伊達氏の勢力が再編される。 |
永禄11年(1568) |
三春城にて愛姫(後の伊達政宗正室)が誕生。 |
織田信長が足利義昭を奉じて上洛。 |
天正7年(1579) |
田村清顕の娘・愛姫が伊達政宗に嫁ぐ。 |
伊達氏との同盟を強化し、佐竹・蘆名連合に対抗。 |
天正10年(1582) |
田村清顕が福聚寺に掟書を追加発布。 |
本能寺の変。織田信長が死去し、豊臣秀吉が台頭。 |
天正13年(1585) |
人取橋の戦い。田村氏は伊達軍として佐竹・蘆名連合軍と戦う。 |
伊達政宗が家督を相続し、南奥羽への勢力拡大を本格化。 |
天正14年(1586) |
田村清顕が嫡男不在のまま急死。後継者問題が勃発。 |
- |
天正16年(1588) |
相馬義胤の三春入城が失敗。伊達政宗が三春城に入り「田村仕置」を行う。田村宗顕が当主となる。 |
郡山合戦。伊達氏と蘆名・佐竹連合が激突。 |
天正17年(1589) |
- |
摺上原の戦い。伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし、南奥羽の覇権を握る。 |
天正18年(1590) |
田村宗顕が小田原征伐に参陣せず、豊臣秀吉の奥州仕置により改易。戦国大名田村氏が滅亡。 |
豊臣秀吉が天下を統一。奥州仕置により東北地方の大名配置を再編。 |