丹波亀山城は明智光秀が丹波平定拠点として築城。本能寺の変の出陣地。豊臣一門が城主を務め、小早川秀秋が天守を五層に改築。関ヶ原後、徳川家康が天下普請を発令し藤堂高虎が近世城郭へ大改修。
丹波亀山城は、一般に「明智光秀の城」として知られるが、その歴史的価値は単一の側面に留まるものではない。この城は、織田信長の天下布武、豊臣秀吉による全国統一、そして徳川家康が確立した幕藩体制という、日本の歴史が大きく動いた各時代において、常に戦略上の要衝であり続けた 1 。京都の西の守り、そして山陰道への玄関口という地政学的重要性から、時の権力者たちはこの城を極めて重視し、その支配と改修に心血を注いだのである 2 。
本報告書は、丹波亀山城が歴史の舞台に登場する以前の黎明期から、明智光秀による創建、豊臣・徳川両政権下での構造的・政治的変容、さらには近代における廃城と破壊、そして現代における奇跡的な再生の軌跡までを、現存する史料、古写真、考古学的知見に基づき、多角的に解明することを目的とする。これにより、丹波亀山城が持つ、重層的かつ類い稀な歴史的価値を明らかにしていく。
明智光秀が築城地に選定した荒塚山は、亀岡盆地を一望し、北に保津川(桂川)と広大な沼沢地を天然の堀として利用できる、軍事拠点として絶好の地理的条件を備えた小高い丘であった 3 。この地は、京都と丹波、山陰地方を結ぶ交通の結節点に位置しており、古くから戦略的な価値を秘めていたと考えられる。光秀がこの地に着目したのは、単なる偶然ではなく、その地形が持つ本質的な防御能力と交通の利便性を見抜いた結果であった。
近年の研究では、光秀による築城以前に、この地に「亀山古城」と呼ばれる中世城郭が存在したことが指摘されている。調査報告によれば、この古城は近世亀山城の本丸から南東へ約220メートルの丘陵上に位置し、規模は一町(約109メートル)四方程度であったとされる 5 。その構造は、土塁で周囲を固め、巽(南東)と坤(南西)の方角に櫓を構え、その間に大手口となる虎口を設けていた。さらに、南側には深い谷(現在の亀山公園の池)を天然の外堀として活用しており、小規模ながらも堅固な防御施設であったことが窺える 5 。
この亀山古城の存在は、光秀の丹波亀山城築城に対する我々の理解を大きく変えるものである。彼の築城は、全く何もない土地に一から城を建設する「創造」ではなく、既存の城砦を基盤として大規模に拡張・改修する「再利用と拡張」であった可能性が極めて高い。この事実は、光秀の卓越した戦略眼と合理性を如実に示している。織田信長から丹波平定を命じられた光秀にとって、作戦遂行の迅速性は最優先課題であった 6 。新たな城をゼロから築くには膨大な時間と労力を要するが、既存の防御拠点を活用すれば、築城期間を大幅に短縮し、速やかに丹波攻略の前線基地を確保できる。荒塚山の地理的優位性と既存の城郭施設を最大限に活用するという光秀の選択は、時間的制約と軍事的要請を考慮した、極めて合理的な意思決定であったと言えよう。
天正3年(1575年)、織田信長から丹波攻略の命を受けた明智光秀は、長期にわたる困難な戦いを強いられた 6 。当時の丹波国は、波多野秀治の八上城や「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正の黒井城など、独立性の高い国人衆が割拠する難攻不落の地であった 7 。これらの勢力を制圧し、恒久的な統治体制を確立するため、光秀は天正5年(1577年)頃から、丹波における恒久的な拠点として亀山城の築城を開始した 8 。
光秀時代の亀山城の正確な構造を示す史料は乏しいものの 3 、三層三階の天守が築かれたと伝えられている 1 。石垣の構築には、光秀が近江坂本城の築城で深い関係を築いた石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」の技術が用いられた可能性が高い 8 。彼らの手による「野面積み」と呼ばれる、自然石を巧みに組み上げる堅固な石垣が、城の中核を成していたと考えられる。事実、後述する大本事件による破壊を免れた本丸石垣の最下段には、光秀時代のものと推定される石積みが残存しているとの指摘もある 8 。また、戦国期の築城では、近隣の寺社から石材を徴発することも一般的であり、周山城跡の発掘調査では宝篋印塔(ほうきょういんとう)などの石造物が石垣に転用されている例が確認されており 11 、亀山城においても同様の手法が用いられた可能性が考えられる。
光秀の才能は、軍事面に留まらなかった。彼は丹波亀山城を単なる軍事拠点としてではなく、丹波国統治の中心地とするべく、城郭の建設と並行して城下町の整備に精力的に取り組んだ。近隣の9つの村から人々を移住させて町を形成し、さらに商人を積極的に誘致することで、経済的な基盤を確立しようとした 12 。
光秀が設計した城下町は、彼の二面性、すなわち冷徹な軍事家としての一面と、優れた統治者としての一面を物理的に体現している。城下に至る道は、敵が容易に本丸へ到達できないよう、意図的に鍵型に折り曲げられた迷路のような構造になっていた 4 。この防御を重視した都市設計は、依然として不安定であった丹波の情勢を反映したものである。一方で、光秀は領民の生活安定にも心を砕いた。福知山周辺では由良川の治水工事を行い、「明智藪」と呼ばれる堤防を築いて水害から農地を守り 13 、また、地子銭(土地税)を免除するなど、領民の負担を軽減する善政を敷いた 2 。
このように、軍事的な防御機能と、経済発展や民政安定化を企図した都市機能を融合させた城郭都市の建設は、光秀の統治思想の核心を示すものであった。彼が目指したのは、力による支配だけでなく、領民の信頼を得ることによる恒久的な統治であり、丹波亀山城とその城下町は、その思想を具現化した一大事業だったのである。
天正10年(1582年)、丹波亀山城は日本の歴史を揺るがす大事件の起点となる。同年5月、光秀は安土城で徳川家康の饗応役を務めていたが、突如その任を解かれ、羽柴秀吉が展開する中国攻めへの援軍を命じられた。5月26日、光秀は出陣準備のため丹波亀山城に入城し、ここで主君・織田信長への謀反を決意し、最終準備を整えたとされる 14 。
そして6月1日夜、光秀は丹波衆を中心とする1万3千の大軍を率いて亀山城から出陣した 15 。当初、兵士たちには「備中(岡山)の羽柴秀吉の援軍に向かう」と告げられていた。軍勢は東へ進み、京都方面と西国方面への分岐点である沓掛(現在の京都市西京区)で休息を取った後、光秀は「敵は本能寺にあり」と号令を発し、全軍に信長の宿所である本能寺への進撃を命じたと伝えられている 16 。
この歴史的謀反において、丹波亀山城が果たした役割は、単なる「出陣地」という物理的な機能に留まらない。むしろ、光秀の丹波統治の成功こそが、この謀反を可能にしたという逆説的な因果関係が存在する。謀反軍の中核を成したのは、光秀が5年もの歳月をかけて平定し、その後の善政によって人心を掌握した丹波の兵たちであった 15 。もし光秀が丹波で圧政を敷き、領民から恨みを買っていたならば、主君信長への謀反という重大な命令に兵たちが従うことはなかったであろう。しかし、治水事業や減税といった善政により、光秀は領民から深く慕われる存在となっていた 14 。丹波衆にとって、光秀は信頼すべき「我らが殿」であり、その命令は絶対であった。したがって、丹波亀山城は、謀反を実行するための「物理的拠点」であると同時に、その謀反を支える「政治的・人的エネルギーの集積地」でもあった。統治者としての光秀の成功が、結果的に信長への反逆を成功させる最大の要因となったのである。
本能寺の変の後、山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れると、丹波国は秀吉の所領となった。清洲会議の結果、丹波亀山城には信長の四男であり秀吉の養子となっていた羽柴秀勝(於次)が入城した 14 。秀勝の死後は、秀吉の甥である豊臣秀勝(小吉)が城主となるなど、豊臣政権下では秀吉と極めて近しい一門の重要人物が相次いで城主を務めた 19 。
この城主の頻繁な交代は、単なる政情不安の表れではない。むしろ、京都に隣接し、山陰道を押さえるという戦略的要衝である丹波亀山城を、中央政権(豊臣家)が譜代の家臣に任せるのではなく、最も信頼できる一門の手によって直接管理下に置こうとした強い意志の表れと解釈すべきである。丹波亀山城が、単なる一地方の拠点ではなく、中央政権の安定に直結する最重要拠点の一つと認識されていたことを、この人事配置は雄弁に物語っている。この戦略的重要性は、後の徳川家康にも引き継がれ、大規模な天下普請へと繋がっていくことになる。
天正19年(1591年)頃、秀吉の養子(後に小早川家の養子)となった羽柴秀俊、すなわち後の小早川秀秋が丹波亀山城主となった 14 。彼の時代、文禄2年(1593年)に城は修築され、天守が光秀時代の三層から五層へと大規模に改築されたと記録されている 1 。これは、全国統一を成し遂げた豊臣政権の威光を天下に示すための、壮麗な改築であったと推測される。この城で、秀秋は後の正室となるお江(崇源院)を迎えたとも言われている 21 。
文禄4年(1595年)、小早川秀秋が筑前名島へ転封となると、豊臣政権の中枢を担う五奉行の一人、前田玄以が5万石で入城した 19 。玄以は、秀吉の死後、その政治的手腕を存分に発揮する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、彼は表向き西軍に属しながらも、密かに徳川家康に西軍の内部情報を流すという巧みな立ち回りを見せた 22 。その功績が家康に評価され、戦後も所領を安堵されるどころか、初代丹波亀山藩主としての地位を確立したのである 23 。丹波亀山城は、戦国末期の激動の中で、一人の武将が生き残りをかけて繰り広げた政治劇の舞台ともなった。
関ヶ原の戦いに勝利し、天下の覇権を掌握した徳川家康もまた、丹波亀山城の戦略的重要性を深く認識していた。前田玄以の子・茂勝が丹波八上へ移封された後、城は一時的に天領(幕府直轄地)とされた 14 。そして慶長14年(1609年)、家康は腹心である譜代大名の岡部長盛を3万2千石で入封させ、丹波亀山藩を再立藩させる 14 。
翌慶長15年(1610年)、家康は「天下普請」を発令し、西国諸大名を動員して丹波亀山城の大規模な改修工事を開始した 1 。これは、依然として大坂城に健在であった豊臣秀頼とその支持勢力に対する、明確な軍事的圧力であった 20 。同時に、西国大名に普請を命じることで、彼らの経済力を削ぎ、徳川幕府の絶大な権力を天下に誇示するという、高度な政治的意図も含まれていた。丹波亀山城は、徳川の世の到来を告げる、対大坂包囲網の最前線基地として生まれ変わることになったのである。
この国家的大事業において、縄張り(城郭の設計)を担当したのは、当代随一の築城の名手として知られる藤堂高虎であった 3 。高虎は、城の中核である本丸を上下二段に分け、高くそびえる石垣は、美しくも堅固な「扇の勾配」を持つ曲線で築かれた 28 。そして、その石垣の上には多聞櫓を巡らせ、鉄壁の防御網を構築した 10 。
この天下普請で建造された天守は、日本の城郭建築史において画期的なものであった。明治初期に撮影された古写真を見ると 3 、それは破風などの華美な装飾を一切排した、白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)の質実剛健な五重五階の「層塔型天守」であったことがわかる 29 。この天守の姿は、単なる建築様式の変化に留まらず、時代の価値観そのものの転換を象徴していた。織田・豊臣時代の天守(望楼型)が、複雑な破風で外観を飾り立て、城主個人の武威や権威を誇示する性格を持っていたのに対し、高虎が設計した層塔型天守は、規格化された部材を合理的に積み上げるような、無駄のない設計思想に基づいている。これは、個人のカリスマ性に依存した時代が終わり、幕府という巨大で恒久的な統治システムによる支配の時代へと移行したことを、建築様式によって表現したものであった。この天守は、まさに「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」を象徴する、新しい時代のモニュメントだったのである。
ここで、小早川秀秋が建てたとされる五層天守と、天下普請で藤堂高虎が建てた層塔型天守の関係性について、建築史の観点から考察する必要がある。破風を持たない純粋な層塔型天守は、慶長14年(1609年)以降に現れる新しい様式であり、それ以前の文禄2年(1593年)に小早川秀秋が建てた天守とは、建築様式的に別物である可能性が極めて高い 25 。
この矛盾する記録は、徳川家康の周到な政治的戦略を示唆している。すなわち、小早川秀秋が建てた天守は、当時の主流であった望楼型の五層天守であったと推測される。家康は天下普請に際し、この「豊臣の権威」を象徴する天守を意図的に解体し、全く新しい「徳川の合理主義」を象徴する層塔型天守に建て替えたのではないだろうか。これは、城の物理的な支配権を奪うだけでなく、その象徴性をも徳川の色に完全に塗り替えるという、家康の政治的パフォーマンスであったと考えられる。天守の建て替えは、時代の支配者が交代したことを天下に示す、最も効果的かつ視覚的な手段だったのである。
天下普請の痕跡は、今も城跡の石垣に見て取ることができる。修復された石垣の中には、「卍」や「口」といった様々な刻印が刻まれた石が点在している 10 。これらは、石材の調達と運搬を命じられた西国諸大名が、自らの担当であることを示すために刻んだ家紋や符号である 10 。市内の行者山山麓にあったとされる採石場跡からは、25種類もの刻印が確認されており 10 、いかに多くの大名がこの普請に動員されたかを物語っている。これらの小さな刻印は、徳川幕府の権力が遠隔地の諸大名にまで及んでいたことを示す、動かぬ証拠なのである。
天下普請によって近世城郭として完成した丹波亀山城は、江戸時代を通じて丹波亀山藩の藩庁として機能した。その歴史は、頻繁に藩主が交代した前期と、形原松平氏による長期統治が続いた後期に大別できる。
岡部長盛の後、松平(大給)家、菅沼家、松平(藤井)家、久世家、井上家、青山家といった、幕府の要職を歴任する有力な譜代大名が次々と入封した 19 。このように藩主が頻繁に入れ替わったことは、丹波亀山藩が幕府にとって西国の抑えとして、また京都に近接する重要拠点として、常に信頼できる大名を配置する必要があったことを示している。
藩政が安定期に入るのは、寛延元年(1748年)に形原松平家の松平信岑(のぶみね)が5万石で入封してからのことである 18 。以降、明治維新に至るまで8代、約120年間にわたって形原松平氏が藩主を務めた 34 。この時代、藩校「邁訓堂」が整備されるなど文治が進んだ 35 。幕末には、12代藩主・松平信義が老中に就任し、生麦事件の処理にあたるなど、激動の幕政にも深く関与した 18 。
以下に、丹波亀山城の歴史を彩った主要な城主および藩主を一覧で示す。
時代区分 |
在任期間 |
城主/藩主名 |
石高(約) |
出自・家格 |
主要な出来事 |
安土桃山時代 |
天正5年~天正10年 (1577-1582) |
明智 光秀 |
29万石(丹波一国) |
織田家臣 |
丹波亀山城を築城。丹波平定の拠点とする。本能寺の変に出陣。 |
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天正11年~天正13年 (1583-1585) |
羽柴 秀勝(於次) |
- |
豊臣一門(信長四男) |
清洲会議後に入城。 |
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天正13年~天正18年 (1585-1590) |
豊臣 秀勝(小吉) |
10万石 |
豊臣一門(秀吉甥) |
- |
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天正19年~文禄4年 (1591-1595) |
羽柴 秀俊(小早川秀秋) |
10万石 |
豊臣一門(秀吉養子) |
天守を五層に改築したとされる。 |
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文禄4年~慶長7年 (1595-1602) |
前田 玄以 |
5万石 |
豊臣五奉行 |
関ヶ原の戦後、初代丹波亀山藩主となる。 |
江戸時代 |
慶長14年~元和7年 (1609-1621) |
岡部 長盛 |
3万2千石 |
譜代大名 |
天下普請による城の大改修が行われる。 |
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元和7年~寛永10年 (1621-1633) |
松平 成重 |
2万2千石 |
譜代(大給松平家) |
- |
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慶安元年~貞享2年 (1648-1685) |
松平 忠晴 |
3万8千石 |
譜代(藤井松平家) |
- |
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元禄15年~寛延元年 (1702-1748) |
青山 忠重 |
5万石 |
譜代大名 |
- |
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寛延元年~明治4年 (1748-1871) |
形原松平氏(8代) |
5万石 |
譜代大名 |
藩政が安定。幕末には老中を輩出。 |
明治維新を迎え、丹波亀山城は新たな時代の荒波に飲み込まれる。明治6年(1873年)に発布された廃城令により、城はその軍事拠点としての役割を完全に終えた。翌年には入札にかけられ、京都の商人・森川喜兵衛に払い下げられた 36 。藤堂高虎の粋を集めた壮麗な五層の天守をはじめ、多聞櫓や城門といった建造物は次々と解体され、資材として売却されていった 37 。かつて西国大名の労苦の結晶であった巨大な石垣の石材までもが、近代化の象徴である山陰本線の路盤材(枕木下の砕石)として転用されるに至り、城は文字通りその姿を失っていった 31 。
時を同じくして、この地の名称にも大きな変化が訪れる。明治2年(1869年)、版籍奉還が行われた際、伊勢国(現在の三重県)にあった同名の亀山藩との混同を避けるため、丹波亀山藩は「亀岡藩」へと改称された 25 。これは単なる事務的な名称変更ではなく、明治新政府が中央集権的な地方行政制度を確立する過程で、全国に散在していた同名の藩を整理するという、明確な政治的意図に基づいた措置であった 40 。
荒れ果てた城跡に転機が訪れたのは、大正8年(1919年)のことである。新宗教である「大本」がこの土地を購入し、聖地「天恩郷」としての整備を開始した 25 。信徒たちは荒廃した城跡を整備し、神殿を建立した。
しかし、昭和10年(1935年)、国家神道体制を強化する当時の政府は、第二次大本事件を引き起こす。大本は「不敬罪」や治安維持法違反の容疑で弾圧され、教団は壊滅的な打撃を受けた 41 。この時、丹波亀山城跡もまた、イデオロギー対立の舞台となり、徹底的な破壊の対象となった。政府は軍の工兵隊を動員し、聖地として整備された神殿や、江戸時代から残る壮大な石垣をダイナマイトで爆破するという暴挙に出たのである 25 。城跡は再び無残な瓦礫の山と化した。
終戦後、信教の自由が回復されると、土地は大本に返還された。そして、ここからが丹波亀山城跡の歴史における、最も感動的な一章である。信徒たちは、瓦礫の中からかつての石垣の石を一つ一つ掘り出し、重機もない時代に、人力で再び石垣を積み直すという、想像を絶する労作業に着手した 28 。彼らの懸命な努力により、爆破された石垣は奇跡的に修復され、現在の美しい景観が形成されたのである 8 。
この一連の出来事は、現代の我々が見る丹波亀山城跡の石垣が、単なる戦国・江戸時代の遺構ではないことを示している。それは、明治政府による「廃城」、大本による「聖地化」、国家権力による「破壊」、そして信徒による「再生」という、日本の近現代史そのものが刻み込まれた「歴史の地層」とも言うべき、類い稀な文化的景観なのである。この城跡を訪れることは、光秀や高虎の時代を偲ぶだけでなく、近代日本が経験した国家と宗教、伝統と近代化の間の激しい相克の歴史を体感することに他ならない。
現在、丹波亀山城跡は宗教法人大本の敷地(神苑)として管理されており、往時の姿を偲ぶことができる 44 。見学には拝観券(高校生以上300円)が必要で、受付は本部のみろく会館で行っている 43 。見学可能時間は午前9時30分から午後4時までである 45 。
ただし、天守台の上部は「月宮宝座」と呼ばれる大本の聖域となっており、宗教上の理由から立ち入りおよび撮影が厳しく禁止されている点には注意が必要である 45 。
城郭の建造物で唯一現存するのは、亀岡市立千代川小学校に移築された「新御殿門」である 1 。これは長屋門形式の立派な門であり、往時の城の格式を今に伝えている。また、城の北側に広がる南郷公園の池は、かつての外堀の一部であり、その雄大な姿から城郭の規模を窺い知ることができる 28 。
丹波亀山城の歴史は、一人の英雄の物語に収斂されるものではない。それは、明智光秀による丹波統治の拠点として産声を上げ、本能寺の変という歴史の転換点の出発点となり、豊臣政権下では西国支配の要として、そして徳川幕府の下では対大坂包囲網の最前線基地として、その姿と役割を劇的に変え続けた「生きた城」の記録である。
各時代の権力者たちは、この城の地政学的重要性を見抜き、自らの戦略思想をその構造に刻み込んできた。光秀の軍事と民政の融合、豊臣一門による中央集権の象徴、そして藤堂高虎が具現化した徳川の合理主義。城の変遷は、そのまま日本の権力構造の変遷を映し出す鏡であった。
さらに特筆すべきは、近代における「廃城」「破壊」「再生」という数奇な運命である。特に、国家権力によって一度は徹底的に破壊されながらも、人々の手によって蘇ったその軌跡は、歴史遺産を保存し、未来へ継承していくことの困難さと、その行為の尊さを現代の我々に強く問いかけている。丹波亀山城は、戦国の記憶を留めるだけでなく、近代日本の光と影をもその身に刻み込んだ、他に類を見ない歴史の証人として、今も静かに亀岡の地から我々を見つめているのである。